心なごむ絵とのひとときも束の間 ~「夢見るフランス絵画」展へ
新聞の販売所から抽選でもらった招待券があったので、ぜひと思っている間に、12月に入ってしまった。出かけるなら晴れた日にと思い切って家を出た。 Bunkamuraへは渋谷の地下通路3aの出口からだと近いことが分かった。すっかり“おのぼりさん”である。渋谷も遠くなりにけり、というところだ。
「知られざる日本人のコレクション」との宣伝文句であるが、どれもなじみのある、ポピュラーな画家の作品ばかりなのがうれしい。しかし、業界のルールは不案内ながら、同一コレクターからの出品展でも、その所蔵者の名前を明かさないこともあるのだろうか。各作品のキャプションや章ごとの解説も読まず、出品数も71点ほどだったので、焦ることもなく、ゆったりと気ままに回ることができた。まったくの好みながら、いまの私には、人物・静物画より風景画に引き寄せられる。2回ほどのフランス旅行ながら、目にした光景を思い起こさせ、親しみやすかったということもある。
セザンヌ(1839~1906)「大きな松と赤い大地」(1885年):アヴィニヨンに泊まっていた折、エクサン・プロヴァンス発の「セザンヌの旅」に参加し、サント・ヴィクトワールの周辺をバスで巡ったりしていたからかもしれない。英語コースだったので、聞き取れないことも多かったが、セザンヌが好んで描いた風景を目の当たりした昂奮は忘れがたかった。
「大きな松と赤い大地」
モネ(1840~1926年)「小さな積わら」(1894年):モネは積わらをテーマに多数描いていて、私も何度か異なるものを見ていると思うのだが、たいていは、もっとどっしりとしていた積わらだった。これは、まだ積み重ねる前の幾つものわらの束を描いているのだろう、空模様や時刻もあまりはっきりせず、陰影が明確ではない。私には、農作業が一区切りついてホッとした人々のおだやかな姿を彷彿とさせる光景に思えた。
チケットと「小さな積わら」
ユトリロ(1883~1955年)の描くモンマルトルは、いまでいうストリートビューによる街歩きの感があるほど網羅的にも思える。モンマルトルを訪ねたのは、10年も前のことだが、私が、いま思い起こすのは、坂道の先に急に展けたブドウ畑、家並みの間の細い空間に現れる白亜のサクレ・クール寺院の屋根、テアトル広場のにぎわい、モン・スニ通りの階段、、一休みするにはやや落ち着かない高い椅子のカフェ・・・。今回のユトリロは、合わせて11点、すべてがモンマルトルではなかったが、その街並みを構成する壁面の表情が豊かで、とくに「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」(1926)は、ユトリロの印象が一変するほどの明確さがあるのに驚いた。
「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」
ブラマンク(1876~1958年)は、もちろん没後だけれど、気になる存在だったらしく、私は、1966年銀座日動画廊での「フランス野獣派の巨匠ブラマンク展」に出かけている。1989年、名古屋から佐倉市に転居してまもなく、日本橋三越での「没後30年フランス野獣派の旗手ブラマンク展」では、何枚かの絵葉書きを買っていた。今回の11点の作品でも言えることだったが、私は、筆致の力強さとその描く雲に魅せられていたらしい。生誕120年(BUNKAMURA、1997年)、没後50年(損保ジャパン美術館、2008年)というのもあったのだが、見逃していることがわかった。
ルノワール、ゴッホ、マリー・ローランサン、モディリアニ、シャガールなどは軽く通り過ぎ、そして、立ち止まったのは、藤田嗣治(1886~1968年)の沖縄の家並みと海を描いた「北那覇」(1938年)であった。先月、沖縄に行ってきたこともあったからだろうか。藤田は1938年4月から5月にかけて沖縄に滞在するのだが、この後、戦争画の大作を書き続けることになる。現在、日仏合作で藤田の伝記映画が製作中であるという(小栗康平監督 オダギリジョー主演)。いったいどんな風に描かれるのだろう。日仏の架け橋的存在が強調され、戦争画を描いた「純粋な動機」などが忖度され、「芸術家の苦悩」が描かれるのだろうか。
*当ブログの以下の記事もお読みいただければと思います。
・藤田嗣治、ふたたび、戦争画について(2014年2月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html
・上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表の>の不思議(2008年12月13日)
http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=55522523&blog_id=190233
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