村岡花子、ドラマの出来事があたかも史実のようにひとり歩きして(2)あやかる記事の氾濫!
前回の記事「まず、展示会の多さにびっくり!その中身は?」の続きである。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/01/post-ccc7.html(2014年1月7日)
展示会に続いて、朝ドラ「花子とアン」の放送が進むにしたがって、その視聴率が高いとして、あやかる記事が氾濫した。前の記事に掲載した文献は、ほんのわずかでしかなかった。もちろん網羅的とは言えないが、その後、補って一覧とした。一般的に言えることは、親族が執筆した評伝や発言というものは、どう頑張ってみても、その客観性に限界があると思っている。それにしても、この大量発信にはどういうメッセージが込められているのだろうか。週刊誌は、好んで、本来脇役であった蓮子というよりそのモデル「柳原白蓮」に焦点を当てるものが多くなり、とくにスキャンダル性の高い「白蓮事件」周辺をテーマにした記事が続いた。7~8月に集中し記事が多いのは、雑誌・週刊誌の夏季休暇の時期と放送が終盤に差し掛かった時期とが重なってのことだろうか。ドラマに出演のタレントにまつわる記事も多かった。
今回は、新聞・雑誌記事に加え、ネット上での散見した、いくつかの記事も対象とした。その中には、中島岳志(南アジア地域研究、政治思想史)のツイッターでは、ドラマの進行に従って、村岡花子や宮崎龍介の残した具体的な言説とその出典を示しながら、ドラマの内容と現実とのギャップを提示し続けていた。村岡花子は、戦時下になって体制に迎合したというのではなく、児童文学も翻訳も社会的活動も、当初から、全体主義的な思想が根底にあったとする。また、古澤有峰(医療・文化人類学、哲学・宗教・政治学・・・)は、村岡を全体主義的思想の持ち主と断定できず、戦前・戦後の反戦的言説にも等しく触れなければアンフェアになるというのだから、両者の論争の展開を期待したいとも思った。私自身といえば、村岡花子に限らず、表現者が体制や輿論におもねる言説があったというなら、それも自らの足跡として忠実に残すことが、表現者の責任だと思っている。振り返って、自分にとって不都合な業績や発言を無視したり、隠蔽したりすれば、もうそれだけで、トータルな、正常な評価を拒んでいるのではないかと思ってしまう。正当な評価は、全面的な情報開示、作品開示が前提となって、初めて可能になるのではないか。
そういう意味で、中島岳志の研究者としての文献発掘の仕事や一つのデータベースとして「憲法とたたかいのblog」上の「花子とアン白蓮の生涯」は、貴重なものに思えた。私自身、文献目録作成には現物に当たるのを原則としているので、全国紙4紙は眼を通し、短歌雑誌、二、三の週刊誌の一部は確認に努めた。また、ネット検索により、原文再録や現物映像があれば確認した。番組案内・視聴率報告出演出演タレント情報などは原則として省略した。あとは、補正を待たねばならないが、とりあえず利用していただいて、ご教示をいただければありがたいと思っている。
なお、この記事一覧作成中、とくに感じたことを二つほど書きとどめておきたい。
一つは、「赤旗」(日曜版も含む)の記事が、異様に多かったこと。しかも、村岡花子と柳原白蓮を、戦前・戦後を通じて抵抗の文学者として高く評価していることだった。9月7日の松尾は、花子は「(白蓮)のような反戦思想の持ち主ではありません。せめて時代への沈黙の代わりに『赤毛のアン』翻訳に夢を託します」、1941年12月8日の「コドモニュース」の担当から外された花子は、辞表を提出する「一方で、花子は文学報国会に参加し、時代に妥協していきます」と述べるにとどまり、花子が、文学報国会の活動のみならず、大政翼賛礼賛への発言が増幅していく事実には目を向けない。白蓮を「反戦思想の持ち主」との前提にも問題のあるところである。7月15日の永野は、戦時下の白蓮の活動や作品には触れずに、息子の戦死で打ち砕かれた幸せが平和を願う世界連邦運動へと導いた、としている。12月25日のテレビ欄での口山は、「真実を求める想像の翼は戦火をかいくぐってなお健在だった」と言い切る。以上は署名記事だが、コラム「潮流」の論調や日曜版のインタビュー記事になると、朝ドラ「花子とアン」へのエールと村岡花子と柳原白蓮という実在人物への礼賛に終始する。さらに、出演のタレントに役柄を語らせる記事まで登場する。もはや戦時下の活動や発言などまるでなかったような、番組へエールは高まるのである。
ちなみに、白蓮の先の私のブログ記事に掲げたつぎのような作品をみても、「反戦思想」の持ち主だったのか。
・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ
(輝く 1940年4月)
・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ
(婦人倶楽部 1940年10月)
・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや
(日本短歌 1944年2月)
花子と白蓮のとくに日中戦争期・戦後の言動については、当ブログ2014年9月26日から連載した「これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後」(1)~(4)を参照いただきたい。
朝ドラ「花子とアン」の放送中にも、この一覧にあるように、花子や白蓮の描き方が史実と大きく乖離していることが指摘されても、反論もなく、無視が続いている。各地の議員などのブログによれば、赤旗読者勧誘の一助にもしているらしい様相が伺われるのであった。商業メディアならいざ知らず、革新政党の政党機関紙が、視聴者に人気があるからと言って、ドラマと史実をないまぜに、歴史的な検証もなしに、迎合してしまっていいのだろうか。たかが朝ドラ、されど朝ドラ、NHKが公共放送であることも忘れてはならないだろう。
二つは、歌人の発言が意外に少なかったこと。結社誌や同人誌などはわずかしか目にしていないので、何とも言えないが、いわゆる短歌関係雑誌や新聞の関係記事は少なく、つぎの3件であった。『歌壇』8月号に執筆の三枝昂之は、山梨県出身で、「村岡花子展~ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ」(2014年4月12日~6月29日)を開催した山梨県立文学館の館長であり、『短歌』9月号の「村岡花子と短歌」では、花子と白蓮が入会していた竹柏会「心の花」の主宰佐佐木信綱の孫で歌人の佐佐木幸綱と花子の孫の村岡恵理との「孫・孫」対談という企画であった。この対談では、ドラマでは、花子と短歌や白蓮以外の歌人との関係がすっぽりと省略されているのが残念だったこと、信綱の竹柏会からは多くの個性的な女性歌人が輩出し、影響しあったことなどが語られていた。また、『短歌研究』12月号の『年鑑』の一年回顧の座談会には、佐佐木と三枝が参加しており、その冒頭の話題が「村岡花子と柳原白蓮に見る短歌の底力」であった。ドラマ「花子とアン」によって短歌自体に光りが当てられたこと、花子の仕事には短歌の素養が生きていたこと、山梨県立文学館の展示は、実生活の花子にスポットライトをあて、入館者動員が記録的だったことが語られていた。いずれの記事にも、ドラマの花子・白蓮人気にあやかっての発言が多く、両人の全体像を踏まえた上で言及がなかったのが残念であった。
「花子とアン」関係記事一覧抄(発表年月順)
(内野光子作成、2015年1月6日現在 未完)
注 ①村岡花子・柳原白蓮の親族の執筆ないしインタビュー:●印
②短歌雑誌記事:網掛け ③赤旗及び日曜版:太字)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/hanakotoankijiitiran.pdf
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