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2015年5月26日 (火)

なつかしい人々~去年は見つからなかった阿部静枝の色紙

 昨秋、芝の友愛労働歴史館で、「同盟から50年、その今日的意義を探る」の企画展のなかで、「同盟ゆかりの人々・阿部静枝~その人と生涯」コーナーが設けられたことは、当ブログの以下の記事でもお伝えした。そのとき、企画を担当されたMさんからは、「もし、色紙などをお持ちなら展示用に貸してほしい」との依頼があった。色紙ではお役に立てなかったが、わずかながら、他の資料を提供することができた。ところが、ないと思っていた阿部静枝先生の色紙が私の昔の書作品や道具を納めた箱から出てきたのである。私の短歌の手ほどきは阿部静枝先生から受けたというのに、なんという生徒だったのだろう。

阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館へ(2014年7月4日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった(2014年9月11日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/09/post-501c.html  

  色紙には「生わかめ乾きつつこぼす砂光る小名浜の砂がわが庭土に 静枝」とある。雅印もないし、いつどこで頂戴したかも定かではないが、たしかに先生の筆ではある。1974年亡くなる5カ月前に刊行された『阿部静枝歌集』(短歌研究社)の「『地中』以後」中の164頁にある一首だった。初出はいまだ分からないが、『地中』が1968年5月なので、それ以降の作品となる。  

   あらためて「色紙」を眺めていると、とてもやさしい気持ちになれる一首に思えた。生わかめが運んできた、あの小名浜の砂が、庭土にこぼれて光っている・・・。スケールの大きい作品にも思えてくるのだった。私が持っているよりはと、友愛労働歴史館に収めていただこうと思っている。

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なつかしい人々~恩師の訃報に接して

 私にとって、高校時代は、あまりいい思い出がないのだが、なつかしい人々は決して少なくない。先日、100歳に近いご高齢で亡くなった担任のY先生である。化学の先生だったので選択科目でもお世話になった。級友からの連絡にもかかわらず、告別式に伺えなかったのが残念だった。お目にかかった最後は、先生の米寿か卒寿を祝うクラス会だったと思う。「なぜってぇ、おめぇ」が口ぐせで、卒業文集の表題にもなった。「その拠って来るところを考えろ」というメッセージだったのだと思う。高校からの入学者で何となくクラスになじめなかった私を気遣ってくださることもあった。付属小学校時代から進学してきた人も多く、高校からの入学者は45人中10人に満たず、女子は15人中3人だったこともある。人見知りの上、なにしろ成績も思わしくないものだから、なおさらだったのだろう。

 

 そんななかでも、Uさんとは、話が合って、仲よくしてもらった。卒業後、彼女は、女子大の被服科に進み、私は浪人の身となったが、励ましの手紙はうれしかった。当時は、進学先の大学祭などにクラスメイトを招くことも多く、受験生の身ながら五月祭や徽音祭にも出かけた。

 大学卒業後、Uさんはアメリカのテキスタイル・スクールへ留学することになった。船旅を選んだということで、横浜の大桟橋に見送りに行ったことを思い出す。留学中は、手紙のやりとりも頻繁になり、日本からの資料を送ったりもした。帰国後は、語学力を生かして平河町のIBMに就職、職場が近かったこともあって、何度かおしゃべりすることがあった。ほどなく結婚され、家族でのアメリカ生活が長く、帰国後は、なんと自宅で料理教室を開くほどの専門家になっていた。女性雑誌でその記事を読んだりすることもあった。「お料理って、化学実験みたいなところがあるのよ。かならず結果に表れるから面白いわ」と話していたこともある。私も転職や転居が重なり、なかなかお会いするチャンスがないまま、先のY先生のお祝いの会では久しぶりのことだった。とてもそんな風には見えなかったのだが、闘病中とのことだった。ふたたび、間遠ながら、手紙やメールのやりとりがあったりしたが、数年前に亡くなられた。途切れがちながら、細くて長いお付き合いだったなあと思うことしきりである。

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2015年5月17日 (日)

崖っぷちながら、「御用達文化人」に注意しよう!

「安倍政権の暴走を止めることができるのか?それともアメリカの戦争に巻き込まれたり、中国と戦争になってしまうのか?止められなければ戦争という危機感は杞憂なのか?  

 「新党憲法9条」の天木直人に期待し、「世に倦む日々」に学ばせていただいています。政党、マスコミ、学者、すべてに不信感をもっています。」  

コメント欄にも公表いたしましたが、ジャン・ユンーカーマン『日本国憲法』の記事に、上のようなコメントをお寄せくださった「きしずえ」さん、ありがとうございます。私も常々、与党はもちろん、自分の党の得票数が伸びれば良しとする野党、ジャーナリストにして論者を自認する人たち、専門家や研究者、気の利いたタレントとしてマス・メディアに登場する「文化人」たちのほとんどが信じられない思いでいっぱいです。少々格好よく反体制的なことを言って見せる人たちも、過去の言動や、現在、私的にも公的にも、現実にどんな「ふるまい」をしているかを見極めないとオイソレとは信じられないでいます。「きしずえ」さんのコメントに勢いづいて、書き渋っていたことを書いてしまいます。

右傾化が著しい論壇やジャーナリズムに重用されるのは、穏健なリベラル派か、「どちらとも簡単には言えない」式のソフトな語り口のコメンテイターが多いように見受けられます。政治家や官僚、ジャーナリストにしても、現役を退いてから、あるいは大学教授などへの転職を果たしてから、「いまだから言う」式の、リベラルな発言や緩やかな方向転換をし始める論者たちに、ハイライトを当てて、その意外性と著名度に着目してか、”民主的”を標榜する政党やメディアが好んで起用する現象も目の当たりにします。しかし、過去の言動や現在もそれを引きずる立ち位置の検証や整合性の確認などをあえてしないことが多く、”ある一点”での表面的な言動に飛びついてはいないのかしら、と思えることが度々です。

 政府審議会文化人、岩波文化人、NHK文化人、潮文化人、赤旗文化人・・・いわば「御用達文化人」、あるいはそこを渡り歩くことを「勲章」のように得意がる「識者」もいるらしいです。そんなことって「アリ」かな、と思い悩み、一市民としてできることってなんだろうと、わずかかも知れないけれど、「共闘」ってなんだろうと日夜?探っています。

 

 

 

 

 

 

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2015年5月13日 (水)

「歌人の『居場所』」への論評が出ました

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  当ブログ4月9日の記事に再録した「歌人の『居場所』」(『短歌往来』2015年4月)という短い時評を、『短歌往来』の「評論月評」で若い岩内敏行氏が取り上げてくださった。それだけでも、前号を読み直してくださる読者もいるかもしれず、感謝なのだが、その部分をスキャンしてみたので、ぜひお読みいただければと思う。どうも、私の言いたかった<心地よい「居場所」>の意味するところが、私の言葉足らずで通じなかったような~~~~。

(補記)上記コピーでは読みづらいので、その部分を以下に再録しましなす。

短歌往来』四月号「今月の視点」は内野光子「歌人の『居場所』」。短歌のコンクールなどの選者や選考委員の実態をフォーカスし、実名で重複して選考委員をひきうけている歌人を挙げる。「歌人の顕示欲と主催者側の集客への思惑が相まってのことか、『選者』という場所がよほど居心地がいいとしたらそれも問題なのではないか」とむすぶ。挙げられた名前のみでを見ると、一度は選をうけたい、一度はその批評がききたいと思える歌人ばかりで、当の本人たちは選考委員が「居心地がいい」からやっているという訳ではないように思いたい。短歌形式に真摯に向き合う自分自身の心(あるいは姿勢)こそ、居心地がよいものだろう。(岩内敏行「評論月評」『短歌往来』2015年5月号、140頁)

 念のため「歌人の『居場所』」もスキャンしました。(4月9日に再録してあります)

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2015年5月 8日 (金)

ジャン・ユンカーマンの「日本国憲法」を見る

連休明けに、ご近所の友人から、ジャン・ユンカーマンの「日本国憲法」が、今日までタダで見られますよ、とのファックスをいただいた。知らせてくれたURLで検索してみると、憲法記念日の3日から7日まで、無料で公開中というのだ。この620日からは、岩波ホールで公開されるという。そんな新しい作品ではないはずなのに・・・。ともかく、公開当時は見ていないので見ておかなくてはと、パソコンを開いてみる。「日本国憲法」の成立過程を内外の識者や活動家、市民たちの証言と種々のフィルムで綴られた映画だった。2005年の作品だから、登場の識者たちは十年ほどみな若い。監督のユンカーマン(1952生)高校時代日本への留学を経て、日米を根拠地として活動する映画作家で、画家の丸木位里・俊夫妻を取材した『劫火-ヒロシマからの旅』(1988生)、ノーム・チョムスキーにインタヴューした『チョムスキー9.11』(2002年)などがある。映画に登場する日本近代史専攻のジョン・ダワー(1938)は、日本はアメリカと決別すべきであったが、少なくとも主権を取り戻し、アメリカのような軍国主義国家の道を歩んではならないとし、政治学専攻のダグラス・ラミス(1936生)は、沖縄での兵役後、日本で学び、津田塾大学教授を経て、2000年から沖縄に移住し、憲法は本来国民が政府の権力拡大を抑制するためのものであることを強調する。日本人では、日高六郎が登場、1917年生まれというから、かなりの年齢と思うが、言語明晰で、日本国憲法の制定過程と国際的な意義を語っていた。さらに、アジア政治史専攻のチャールズマン・ジョンソンは「武力行使の放棄を誓った第9条こそが、日本のアジア諸国に対する戦後謝罪だった」とし、中国や韓国、イスラム諸国の識者や市民たちは日本の平和憲法の貴重さを語るものだった。また、日本国憲法草案に、男女平等の条項を盛り込むよう努力した、GHQ職員だったベアテ・シロタ・ゴートン(1923~2012)も登場した。彼女については「ベアテの贈りもの」(藤原智子監督、2004)というドキュメンタリー映画で知ったことも多かった。

 今回の「日本国憲法」公開後には、下記の当ブログ記事でも紹介したことがある、NHKETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」の放映や劇映画「日本の青空」の上映がつづき、ユンカーマンの趣旨が生かされた作品になっていたと思う。 

マイリスト「野の記憶―日記から」に「ETV特集<焼け跡から生まれた憲法草案>を見た!―”押し付け”ではなかった日本国憲法」を登載しました

http://dmituko.cocolog-nifty.com/eyvtokusyuyakaatokara.pdf2007220日)

映画『日本の青空』を見て(2007323)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2007/03/post_80f7.html

  なお、折しも、58日朝刊の報道によれば、55日、米英豪日などの日本研究者たち187人が安倍晋三首相あての「戦後70年間の日本と近隣諸国との平和を称賛し、第2次世界大戦以前の<過ち>について全体的で偏見のない清算」を呼びかける声明を発表した。エズラ・ボーゲル、ノーマ・フィールド、アンドレ・ゴードン、入江昭らとジョン・ダワー教授の署名がなされているという。国内では衆議院憲法審査会が57日から実質審議が始まり、最初はハードルの低い災害時などの緊急事態感れ条項から改正に持ち込み、とりあえずは9条改正を回避する意向をあらわにしているというのだ。。

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2015年5月 7日 (木)

戦争立法ストップ!!連休明けの駅頭、ビラを配る

57日、佐倉市の市民グループによるビラ配布に参加した。ビラの見出しには「海外で武力行使を可能にする《戦争のできる国づくり》ストップ!」の大きな文字がある。しかし、配る私は《戦争のできる国づくり》の個所が、あまり気に入らず、第一、ビラを手渡すときに、ひと口では言いにくい。私は、もっぱら、「戦争立法に反対しています」とか「集団的自衛権に反対しています」「読んでみていただけますか」などと言って手渡していた。「○○できる国づくり」の「できる」にも「国づくり」にも、ポジティブなひびきがあるように思えるのだ。げんに、ビラを受け取った年配の女性は、「<戦争ができる国づくり>が目に入って、びっくりしたわ、何のビラかと思ったくらい、<ストップ>があったので、よかったと思ったの」と話してくれた。夕方、6時過ぎのユーカリが丘駅頭は、下校時の高校生、早い目の勤め帰りか、遅い目の買い物帰りの人たちが多い。気持ちよく受け取ってくださるのは、子ども連れの若いお母さん、高校生、高齢者の方たちのなかに多い。男女を問わず、働き盛りの青・壮年層と初老の男性たちは、「自分はアンタたちとは別の世界にいる人間だ」みたいな表情をして通り過ぎてゆく。こんな感じはいつも一緒なのである。もっとも、私が参加している地元の「9条の会」で続けている佐倉市内の高校前のビラ配りでは、学校によって生徒の受け取り方はまるで違うことは、現実でもある。

 自己満足と言われるかもしれないが、駅頭のビラ配りは、見知らぬ人とそのテーマについて少しでも話ができたり、通りすがりの知人に声を掛けられたり、そして、何より、配り手のなかには久しぶりに会う人もいて、立ち話ながら、意見交換や情報交換ができることが一つの励みにもなる。

今日は、都合で一時間弱しか配れなかったが、後戻りをしてビラを受け取ってくれた高校生にも出会った。

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2015年5月6日、垣根の鉄線です。お世話もしないのに、毎年楽しませてくれる花です。


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