なつかしい人々~恩師の訃報に接して
私にとって、高校時代は、あまりいい思い出がないのだが、なつかしい人々は決して少なくない。先日、100歳に近いご高齢で亡くなった担任のY先生である。化学の先生だったので選択科目でもお世話になった。級友からの連絡にもかかわらず、告別式に伺えなかったのが残念だった。お目にかかった最後は、先生の米寿か卒寿を祝うクラス会だったと思う。「なぜってぇ、おめぇ」が口ぐせで、卒業文集の表題にもなった。「その拠って来るところを考えろ」というメッセージだったのだと思う。高校からの入学者で何となくクラスになじめなかった私を気遣ってくださることもあった。付属小学校時代から進学してきた人も多く、高校からの入学者は45人中10人に満たず、女子は15人中3人だったこともある。人見知りの上、なにしろ成績も思わしくないものだから、なおさらだったのだろう。
そんななかでも、Uさんとは、話が合って、仲よくしてもらった。卒業後、彼女は、女子大の被服科に進み、私は浪人の身となったが、励ましの手紙はうれしかった。当時は、進学先の大学祭などにクラスメイトを招くことも多く、受験生の身ながら五月祭や徽音祭にも出かけた。
大学卒業後、Uさんはアメリカのテキスタイル・スクールへ留学することになった。船旅を選んだということで、横浜の大桟橋に見送りに行ったことを思い出す。留学中は、手紙のやりとりも頻繁になり、日本からの資料を送ったりもした。帰国後は、語学力を生かして平河町のIBMに就職、職場が近かったこともあって、何度かおしゃべりすることがあった。ほどなく結婚され、家族でのアメリカ生活が長く、帰国後は、なんと自宅で料理教室を開くほどの専門家になっていた。女性雑誌でその記事を読んだりすることもあった。「お料理って、化学実験みたいなところがあるのよ。かならず結果に表れるから面白いわ」と話していたこともある。私も転職や転居が重なり、なかなかお会いするチャンスがないまま、先のY先生のお祝いの会では久しぶりのことだった。とてもそんな風には見えなかったのだが、闘病中とのことだった。ふたたび、間遠ながら、手紙やメールのやりとりがあったりしたが、数年前に亡くなられた。途切れがちながら、細くて長いお付き合いだったなあと思うことしきりである。
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