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2015年6月29日 (月)

沖縄とジャーナリズム(2)シンポジウムご案内

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シンポジウム

「沖縄戦後70年:基地問題とジャーナリズム」が開催されます。私も参加している「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が協賛団体になっています。近頃は、激励しようという気持ちもなえてしまうほど、報道の劣化が続いているNHKです。沖縄報道に携わるジャーナリストたちの生の声が聴けると思います。ぜひお立ち寄りください。
貴重なドキュメント映像も公開されます。

会場:7月12日(日)13時~16時半

場所:明治大学グローバルフロント棟グローバルホール(1F)

研究報告~自治接収・返還に揺れた共同体―読谷村の事例から 
   山内健治(明治大学)政経学部教授

パネル討論~辺野古から考える日本のジャーナリズム

   金平茂紀(TBSキャスター)
   影山あさ子(映画「圧殺の海」監督)
   宮城栄作(沖縄タイムス東京支社報道部長)
   司会:醍醐聰(東京大学名誉教授)

拡大チラシは下記をクリックしてください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/712sinpotirasi.pdf

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沖縄とジャーナリズム(1)短歌ジャーナリズムはどう向き合ったか

 以下は、届いたばかりの『ポトナム』に書きました時評です。あたらしい事態も生じ、ややタイムラグを感じさせますが・・・。

沖縄と短歌ジャーナリズム  

  戦後七〇年、とくに近年の沖縄と日・米両政府の動きを見ていると、いたたまれない気持ちになってくる。歌にかかわる私がいまできることは、沖縄の歌人たちが発信し続けてきたメッセージと沖縄の短歌をめぐる状況を整理しておくことではないかと思った。いやすでに、そうした仕事を続けている歌人がいることも知った。最近の状況は、主として、『短歌往来』の二〇一三年八月〈歌の力沖縄の声〉、二〇一四年八月〈沖縄の食と風物〉という特集で知った。
  さらに、沖縄と短歌ジャーナリズムとの関係をたどってみた。創刊まもない『短歌』は、中野菊夫の「祖国の声」(一九五五年四月)、「沖縄の歌」(一九五六年一二月)を載せた。それに先立つ一九五三年『沖縄タイムス』は「九年母短歌会」同人たちの作品を数か月にわたって紹介したことも知る。さらに、『短歌』では、一九六〇年九月〈オキナワと沖縄の短歌〉特集のもと、知念光男、中野菊夫らが現状と作品を論じた。以後は、風土としての「沖縄」、歌枕としての「沖縄」が登場する程度で、近年、二〇一二年からの平山良明「はじめてのおもろ」の連載、渡英子の時評「戦争詠と沖縄」(二〇一三年一〇月)にいたるまでの空白が長い。
  一九五七年八月『短歌研究』の〈日本の傷痕〉特集の「基地・沖縄の傷痕」では、知念光男が基地一二年の「これ以上耐え忍ぶことのできない、ぎりぎりの生活の底からのうめき声」としての短歌を伝えた。一九五八年三月〈沖縄の歌と現実〉特集は、吉田漱による沖縄の歴史・政治・経済の現状と歌壇についての丁寧な解説と作品集を収めた。編集の杉山正樹は「ジャーナルの上でやや置去りにされがちな沖縄の諸問題を島民の切実な“地の声”を中核として」企画したと記している。

・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日のかなしきいとなみ
 比屋根照夫(「琉球(新聞)歌壇」)
・ただ一日だけの国旗掲揚だのにこんなに嬉しいものか妻子らと仰ぐ
 照屋寛善(「アララギ」)
・伊佐浜の土地を守ると起重機の下に坐りし農民等悲し
 呉我春男

  などが並ぶ。一九五九年七月「今日の沖縄」を寄せた歌人井伊文子は、沖縄王室から井伊家に嫁ぎ、二三年ぶりに帰郷し、整然とした基地内外の施設が「大勢の死者を出し、農民より耕作地をとりあげて血の犠牲の上に作られた施設だと思うと、芝生のグリーンにいくら南国の太陽が輝こうと思いは冥い」と綴る。 一九七〇年から九〇年代にかけて『短歌研究』に登場するのは、全国縦断的な企画の一環としての「沖縄」であった。一九七七年創刊『短歌現代』も同様の傾向を示す。一九八七年創刊『歌壇』は、散発的な沖縄への関心のもと、二〇〇〇年四月〈沖縄歌人作品集〉、八月〈戦後55年を詠う―新たな出発点として〉の特集を組み、今年六月〈戦後七十年、沖縄の歌―六月の譜〉特集は一五年ぶりの企画となった。
  一九八九年六月創刊『短歌往来』の沖縄へのスタンスは、他誌とはいささか違っていた。一九九九年七月〈沖縄の歌〉、二〇〇六年七月〈沖縄のアイデンティティ〉の特集や平山良明による長期連載に多くの紙面を割き、分断と差別が続く沖縄政策に「短歌」という切り口で一矢を報い、冒頭の特集にもつながる、その編集者の気概は、注目すべき貴重な存在に思える。そして、若い書き手の屋良健一郎、名護市在住の佐藤モニカらのさらなる発信も期待される。石垣島に移住した俵万智や松村由利子は「沖縄」にどう向き合うのか。  

 四月二八日「屈辱の日」は過ぎ、六月二三日「慰霊の日」は近い。

(「歌壇時評」『ポトナム』2015年7月号所載)

2015年7月29日補記

阿木津英さんが、新聞『赤旗」の時評で紹介してくださいました。

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2015年6月23日 (火)

久しぶりの名古屋でした

3年ぶりのポトナム全国大会

 6月21・22日、ポトナム短歌会の全国大会が名古屋(名鉄グランドホテル)で開催され、参加した。名古屋は、結婚当初12年間暮らし、子育てと仕事に励んだ地でもあった。 『ポトナム』の全国大会は毎年開かれているが、近年では、2012年(神戸)大会に20年の空白を経ての参加以降3年ぶりとなる。自身の記録を遡ってみれば、1960年入会以来、1967(神戸)、1968(東京)、1969(飯田)、1970(高野山)、1971(天理)1974(篠山)、1981(東京)1983(姫路)、1990(箱根)、1992(神戸)の大会に参加していたことになる。どんな一首で参加していたかの記憶はないが、開催地でのさまざまな思い出とその前後のことなどがよみがえるから不思議だ。「あんなこと、こんなことありましたァー・・・」とまさに「思い出のアルバム」の歌詞のように。  

   今年はといえば、21日夜の懇親会でなつかしい人々にお会いしたことである。やはり、3年ぶりの安森敏隆代表には、いま連載中の〈歌壇時評〉の原稿の件でお世話になっているので、挨拶に伺うと、励まされもし、恐縮した。懇親会には、翌日の講演の小島ゆかりさんと、同じコスモスの鈴木竹志さんもいらしていて、お二人と少しばかりお話できたのも何よりだった。小島さんには「大所帯のコスモスの全国大会は大変でしょうね」と尋ねれば、「そう大規模なものにはならず、なにしろとても真面目なのかもしれない」といった趣旨の話もされ、名古屋出身でもある小島さんは、いつもにこやかで、気さくな方のように思われた。

平針原の変貌~あのころの娘たち  

  そして、翌日は、別のホテルで泊まっていた連れ合いと待ち合わせ、センチメンタル・ジャーニーとなった。連れ合いは、前日、私が大会に出ている間、むかしの職場の方と話ができた由。つぎのこの日は、かつての天白区の住まい、長女の通った保育園・小学校・学童保育所、そして私の職場をめぐることになっていた。それに、できれば、よく家族で出かけた近くの食事処にも寄りたかった。また、家族で参加していた、月一の天白川マラソン記録会の島田橋辺りも散策したいものと、欲張っていた。

  一昨年だったか、一度、この辺りを訪ねている娘からも聞いていたが、最寄りの地下鉄「原」駅前はすっかり変貌していた。まず彼女が5年間通った「ガクドウ」は、天白橋に近い広い空地の隅のプレハブ様のものだったが、いまは、マンションや雑居ビルが建ち競う。天白橋をはさんで島田橋~大正橋の河畔が小学生たちの遊びのテリトリーだったか。夕方、自転車で迎えに行くと、ドロドロになって荷台に乗れば、放課後の学童でのおやつ作りや遊び、友だち・指導員たちのことを息せき切ってしゃべり始めるのだ。学校の話がほとんど出てこない。そして帰宅後、日刊の学童通信「原っぱ」をまず開くと、きのう・今日の動きが指導員の目から報じられ、娘の話の全貌がわかり始める、そんな毎日だったなあ。それから、夕飯の支度に掛かるのだった。

  原駅周辺の道路は、すっかり整備され、飯田街道は車線が分離帯で仕切られ、おいそれと横断できなくなっていた。下原の交差点から東をみると、突き当りに、高架の名古屋第2環状線の車の往来が見える。かつてはなかった光景だ。原の方に向って歩くと、なんとなく記憶に残る街並みが続き、バス通りの交差点に出ると、すぐに「原中学校」らしかった。ここは、大規模なモデルハウスの展示場のあったハウジングセンターで、50棟以上の贅を尽くした?住宅メーカーのモデルハウスが並んでいた。週末は何かのイベントがあって、子どもたちの格好の遊び場にもなった。もともと中学校予定地だったので、私たちが名古屋を離れる1988年のころは、モデルハウスはすべて撤去され、土埃舞い上がる空地になっていた。いまは、夜間照明を備える広いグランドを持つ中学校(1990年創立)になっていたのだ。そして、その南側、娘が5年間通った原小学校(1980年創立)とゼロ歳児から通った「平針原保育園」だった。ゼロ歳児の時は、毎日のおむつの持ち帰りと補充は欠かせず、10組の布おむつの常備が決められていた。おむつがとれた時はほっとしたが、週末の昼寝用の布団運びはしばらく続いた。

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下原交差点、正面が原駅ビル

  その保育園の砂場で園児を見守る二人の保母さんに思わず声をかけてしまう。娘がお世話になったと話し始めると、2歳児くらいの園児たちが寄ってきて、金網越しながら、しきりに話し掛けてきたり、砂を盛ったお皿を差し出してくれたりする、そのキラキラした瞳で見つめられると、いっきに子育て時代がよみがえるのだった。

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平針原保育園、この門扉での朝がつらかった

お隣だったAさんとは転居以来、親しく

  近くの平池下公園の樹木は育ち、大きな木陰をつくっていた。ボール遊びはイケナイと言われながらも、よくソフトボールの投げ合いやノックをやっていた子どもたち、それを見守る父母たちがいたことを思い出す。そして、思い切って、かつてのお隣さんのお宅のベルを押す。ほんとうに、1988年以来、お目にもかかっていないし、おたよりすることもなかったのだが、とても懐かしく迎えてくださった。不意の訪問にもかかわらず、勧められるままに、お部屋に通される。いまはご夫婦だけとなったが、二人の娘さんもご家族で海外や横浜に住まわれ、お孫さんも大きくなって、よく行き来をされている由。大方のことは、やはりご近所だった娘の同級生のおばあちゃんのBさんのおたよりで知らされていたものの、Aさんの数々の旅行の話や最近はデイケアに通われているBさんの話、お互いの体調などにも及び、話題は尽きなかった。もちろん少しおたよりが途絶えがちだったBさんのお宅にも寄ってみたのだが、お留守だったらしいのが残念だった。  

  そういえば、お隣同士で住まっているときだって、この日のように親しくおしゃべりはしなかったなあ、と感慨深いものがあった。 スイカまでごちそうになって、おいとまし、いよいよお目当ての食事処C亭に行ってみると、なんと調理人の事故のため月曜のみお休みするという張り紙がしてあるではないか。事前に定休はないと聞いていたので、当てが外れてしまった。残念ながら、隣のスパゲティ屋さんで昼食となった。

むかしの職場は、いま  

  結婚後1年近くの就活の後、縁あっての転職先が、偶然のことながら、住まいのすぐ近くの短大図書館だった。建設当時は、かなりモダンだったという円形の校舎の2・3階が図書館になっていた。1階や上層階は付属高校の体育館などになっていたが、扇型の閲覧室や書庫というのはかなり使い勝手が悪く、手狭にもなっていた。家政学科・国文学科・英文学科学生数約1800名、図書購入費が2000万円を超える規模の図書館で、各学科研究室予算が3分の2を占め、受入れ・整理は図書館が行い、管理・利用が研究室で、図書館で自由に利用できる図書や雑誌が限られていた。女性職員3人とアルバイトで何とかしのいでいる時代だった。それでも地元大学図書館館員の研修会や全国規模の研修会、図書館大会などにも出張できるようにして、業務の効率化や機械化も始めていた。そして、短大の経営陣は4年制大学を目指すとして、私たちもハッパを掛けられていた。名古屋市郊外に新キャンパスを求め、4年制に移行し始めたのが1995年以降と聞いている。そして現在は、平針・三好の2キャンパスで、経営・人文・教育・スポーツ健康科学・健康栄養学の5学部になり、合わせて4000名規模の大学になったそうだ。  

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正門左、図書館完成パース

  昨年、平針の円形校舎を解体し、新図書館建設を始めるというお知らせが旧職員にも届いた。その懐かしの円形の跡地や新図書館、だいぶ変わったキャンパスを見ておきたいと思って、今回の訪問となった。事務室で、昔の同僚はもう退職しているのが確かめられたが、若かった職員の名をあげると、三好のキャンパスで管理職になっているらしい。ともかく、新図書館にと思い、横切るキャンパスは男女共学となって賑わい、「女の園」とは趣を異にしていた。新しい長方形の図書館の向うに、まだ、円形校舎が解体寸前の姿で残っていた。工事中で、近くには寄れなかったが、12年間過ごした職場だった。

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正面に円形校舎の一部が見える。左が新図書館

 新図書館の受付で名乗ると、旧同僚から私の話は聞いてますといってくれる職員が現れ、「どうぞ、どうぞ」との言葉に、連れ合いと共に館内を見学した。まだ、蔵書の移転が全部されてないようで、明るく、ゆったりした書庫と閲覧室が広がっていた。小学校・幼稚園教諭養成のコースもあるので、たくさんの絵本や紙芝居が並んでいるのが公共図書館のようだった。

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ジョギングコースでもあった大根池は  

  Aさんが、かつての大根池のあたりが整備され、立派な「天白公園」になっていますよ、とのお勧めもあったので、寄ってみた。鬱蒼たる雑木林に囲まれて、決してきれいとは言えない大根池が整備されていた。その存在すら知らなかった「中山神社」の参道も整備されていて、緩い坂の上り下りは程よい散策路となっていた。スズメバチに注意などの看板も真新しい。

  散策と言えば、さらに、娘の七五三でお参りした針名神社や四季折々訪ねていた平針の農業センターまで足を延ばしたかったが、ともども少々足が疲れて、帰りの時間もあるので、今度はいつとは言えないがと、名残惜しんで、この地を離れることにした。  

  連れ合いは、かつて楽しんだ草野球の仲間たちがどうしているかも気がかりで、Aさんに消息を尋ねていたが、亡くなったり、転居したりで、寂しいようだった。また、連れ合いは、子ども会のソフトボールのコーチもしていたので、チームのメンバーだった、食事処C亭の兄弟の二人はいまどうしているか、誰が店を継いでいるのかも楽しみだったんだがな、と言っていたが、ちょうど定休にあたっていたわけで、これも残念そうだった。  もう一度、この辺りを再訪できるか、心もとないが、短いセンチメンタル・ジャーニーは終わった。

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中山神社参道

 

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2015年6月16日 (火)

6・14国会包囲集会に参加しました(2)60年安保は「思い出」なのか、砂川判決再読

 

60年安保を、ただの「思い出」にしてはならない

 そう、60年安保の時は、「請願デモ」と銘打っていて、議事堂裏側、議員会館向かいの衆参の「面会所」前で、議員たちの「迎え」を受けるのが恒例のデモコースだった。車道にまでにあふれる隊列はすぐさま機動隊に押し返されるが、すぐにはみ出すという繰り返しだった。それに、いわゆる「全学連主流派」の隊列が車道をくねって行進するので、そちらの警備の方が厳しくなっていた。19606月といえば、610日、この日は、自分の大学自治会の指示で、羽田まで出かけた。来日のハガチー大統領広報担当秘書官の車がデモ隊に阻まれ、ヘリコプターで脱出する事態となった。私たちはどの辺に待機していたのかが定かではないのだが、着いた車のフロントに覆いかぶさる学生もいた。ハガチーが乗り込んだヘリコプターが飛び立つときの爆風で私たち一同が横倒しになったのである。615日は、当時、夜間の映画関係の講座に通っていたものだから南通用門での樺さんの事件は、青山1丁目の遅い夕食のお蕎麦屋さんで知った。

あのころは、10万単位の集会・デモが連日続いていた。とくに519日、自民党は新安保条約を警官隊まで導入してまで強行採決してからは、私のような、ごく普通の学生や市民が参加した国民運動となったのが特徴だった。樺さんの事件直後の617日、「暴力を排し、議会主義を守れ」とする新聞一面コラムの在京七新聞社による「七社共同声明」(産経・毎日・東京・読売・東京タイムズ・朝日・日経)が出たときの衝撃は忘れがたい。さらに、新安保条約が自然承認される619日の夜、議事堂を遠巻きにしながら、身動きができないまま地べたに座り込んでいた悔しさをも思い出す。618日のデモと並んで、その動員数は30万を越え、35万に達したともいわれた。岸内閣は倒れたが、池田勇人内閣に代わった以後の高度経済成長期になされたことは何だったのかを思う。

請願デモを提唱した清水幾太郎は?全学連主流派・反主流派の活動家だった友人たちは?前衛歌人と称された岡井隆は?そして、70年安保のとき「戦士」だったという歌人たちは、いま!を思うと、人間不信にも陥るのだが・・。 

  

砂川判決を再読してみると

 

いまの「時代の空気」が太平洋戦争直前に似ている、という歴史家や年配の方々が多い。昭和史や様々な年表などを読んでいて思うのもそのことだった。 

安倍政権は、いまになって、集団的自衛権行使容認の合憲は、砂川裁判最高裁判決が根拠だと言い出した。「憲法の番人」が言っていることなのだから、少々の学者が違憲だと言ったところで政治に素人の言にすぎないとの勢いが、またまた、少し風向きを変えた。どう変えたところで合憲には無理があり破たんがあるのに、突き進むのをなんとしてもとめなければならない。 

19593月の駐留軍を違憲とした伊達(秋雄)判決も、その前年の警職法廃案も、岸信介内閣にとっては、痛手であった。しかも、伊達判決に対しては、日本政府より先に反応したアメリカが、ただちに、藤山愛一郎外務大臣と田中耕太郎最高裁判所長官に圧力をかけて来た。この事実は、2010年以降、すでにアメリカの公文書や外務省の情報公開文書によっても明らかになっている。 二審を抜きにした跳躍上告の195912月に出された最高裁判決のポイントの一つは「92項は、固有の自衛権を否定するものではないが、アメリカの軍隊は日本の戦力には当たらない」と理解され、他の一つが、「高度な政治性を持つ安保条約のような案件は、明白な違憲無効と言えない限り法的判断はできない」としている点である。

 

きのう15日の報道ステーションで、木村草太准教授が砂川判決は「個別的自衛権が合憲であるか否かは別として」という留保があるくらいだから、「集団的自衛権行使容認を合憲とする」根拠にはなりえない、と解説していた。え?そんなくだりがあったのかしら、と思って、ネットで判決集を検索、52頁にも及ぶ判決文、通覧したかぎりでは、また補足意見や少数意見が長かったりで、手間取ってしまった。何しろ52頁のうち、理由の主文は6頁だったのである。補足意見や少数意見には、とんでもないものから、なるほどと思うものまでいろいろあって、それはそれで興味深かったのだが、肝心の部分が「ちゃんとありました!」2頁の末尾では、つぎのように記されている。

「そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止し戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

 判決理由の冒頭から、憲法9条の趣旨を説き起こしているが、前文も引用した後、つぎのように記している個所がある。

  「しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持してその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」

9条の趣旨を上記のように解釈することを前提としながらも、あえて、本事例では「自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」という留保を付していたのである。少なくとも、この限りでも、集団的自衛権行使合憲の理由にはならないことは明らかなのである。

ところが、最近は、「あの判決では、集団的自衛権行使については言及がないので、違憲とは言えない」との答弁までするようになった。自公与党の議員には、ポツダム宣言、日本国憲法、砂川判決をじっくり読む特別の勉強会を開いてほしい。

そして私たちも、政治家や研究者のことばを鵜呑みにするのではなく、自分の目で確かめることが必要なのではないか。砂川最高裁判決が、自明のように憲法9条は、「固有の自衛権」「自衛権による措置」を容認しているが、果たしてそうなのだろうか。過去の侵略は、そして戦争は「自衛のため」という名のもとに始められたことを思うと、私には、この前提となる解釈にも疑問が消えないのである。

 砂川最高裁判決全文 

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf

 

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6・14国会包囲集会に参加しました(1)

ともかく、国会へ

 午前中、地元の9条の会のニュースの編集会議を終え、連れ合いとは駅で待ち合わせ、「とめよう!戦争法案 集まろう!国会へ」集会へ向かった。

 下のようなチラシや67日『東京新聞』[朝日新聞』 の1頁全面の意見広告を見ていたので、できれば参加したいと思っていた。連れ合いは、元の職場の方たちと待ち合わせているというので、仲間に入れてもらうことに。議事堂からは少し離れた霞が関駅改札から10人ほどで歩きはじめ、歩道は赤いコーンで分けられるので細い列になる。外務省の横を経て議事堂の正門前までくると、身動きができないくらいの人でいっぱい。横断歩道では警官が信号規制をする。憲政資料館辺りから、すでに居場所を決めて座り込んでいる人たちが続く。国会図書館あたりがすいているというので、さらに移動、シュプレヒコールをしながら歩く。最近では、反TPPのデモに参加したり、議員会館での集会や国立国会図書館での調べものに通ったりすることはあっても、議事堂に向かってのシュプレヒコールは久しぶりだ。「戦争反対」「9条を守れ」「戦争法案今すぐ廃案」「戦争する国絶対反対」「安倍政権の暴走を止めよう」「一括法案絶対反対」・・・。

参加者の多くは、「戦争させない」「9条壊すな」のプラカードとは別の、お手製のさまざまなプラカードを持っているのが目立つ。私たちも何か作って持参すべきだったと悔まれる。壇上からのマイクの声は、議事堂周辺50か所以上にスピーカーが設置されているからどこにでも届く。車道には相変わらず装甲車の列が続く。それに、議事堂と接する歩道は、すべて通行規制されて、警官だけが立つ。

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白熱のリレートーク

結局私たちは、国立国会図書館横に陣取ると、各界の代表のリレートークが始まった。佐高信さん、各党からは長妻、吉田、志位さんに続いて、沖縄の女子大生玉城さん、鳥越俊太郎、山口二郎、石坂啓、古今亭菊千代さんに続き、弁護士の杉浦ひとみ、福山洋子さん、最後が鎌田慧さんだった。皆さん熱弁ではあったけど、講演会ではないのだから、もう少し、簡潔にしてほしかったなと思う。街頭では、集中力がないし、やはり聞きづらい。概して、女性の方がメリハリがあってわかりやすかった。玉城さんは、東京には、戦闘機の音がない、街に米兵が歩いていないと語り始めた。安倍さんは戦争にはいかないですよね。若者の命を奪うな、若者に命を奪わせるな、基地を作らせない、9条を守るという決意が明快だった。漫画家の石坂さんの作品を読んだことはないのだが、いま、放映中の「アイムホーム」の原作者と初めて知った次第。平和憲法が憎くて憎くて、「わが軍」と「壊憲」で頭がいっぱいの安倍首相、戦場で自衛隊員の死者が出たときをすでに想定、メディア対策まで考えている安倍首相、国民を愚弄する安倍政権を許さない戦争法案を許さない、と訴える。菊千代さんも初めて聞く名前、芸人9条の会を立ち上げた由、悪いのは安倍晋三ひとりではない、その取り巻き、そして日和見、国会での野党も情けないと手厳しい。620日には、女性によるヒューマン・チェーンで議事堂を包囲しようと訴える杉浦さん。鎌田さんのトークが終わったのは4時近かった。きょうの参加者は、25000人との報告があった。

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国立国会図書館横、国会見学者用バスプール前

帰りは、議事堂裏の議員会館をへて、国会議事堂前から地下鉄に乗ることにした。いちょう並木の新緑が美しい季節だ。思いがけずお遇いした方々もいて、思い切って参加してよかったと思う一方、持参したおにぎりを食すチャンスを失っての空腹に悩まされもした。

当日のNHKニュース7では、案の定、きょうの集会はスルー。安保法制関連では、申訳のように岡田民主党代表の講演会の模様を伝えただけだった。香港の学生デモ、MERSの流行で、中国と韓国への不安をあおるかのようなニュースは、毎日確実に届くのだが・・・。スポーツは、なでしこジャパンは、スポーツ番組へ移行して「届けよ、もっと大事なこと」と宇田川町に向かって叫びたい。

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2015年6月11日 (木)

「歌壇時評」なんて得意ではないが~次代に手渡す/過去と向き合う

「歌壇時評」なんて、得意ではない。書いたとしても、無視されるか、妬まれるばかりなのだが、それでも、ときどきチャンスを与えてくれる『ポトナム』に感謝したい。今年は5月から8月までの4回、すでに刊行された2か月分をここに再録したい。誌上での表題は「歌壇時評」のみなので、ここでは、便宜的に筆者が表題を付した。

次代に手渡す

歌壇のリーダーや短歌ジャーナリズムは、やや焦りにも似て、短歌に関心を寄せる小中学生や若者を引き入れ、育てようと必死な様相を呈している。それは、たとえば、「朝日歌壇」の選者たちがこぞって、小・中学生作品を入選させるという、一種のアイドル化を目論むような現象にも表れている。私は、今年たまたま、歌会始の中継とNHK全国短歌大会の模様をテレビで見ていたが、歌会始の最年少入選者とNHK短歌大会ジュニア部門大賞受賞者が一五歳の同じ少女だと知った。しかも、昨年の現代歌人協会全国大会選者賞も受賞しているそうだ。この結果を「三冠王を獲得」と評した歌人もいる(古谷智子「歌壇時評」『現代短歌新聞』二〇一五年三月)。

短歌に関心を示した若年層を手厚く遇し、各地の大学短歌会への熱いまなざしも、その流れをくむ現象に思える。少年少女が指を折り、三十一文字でことばを紡ぎ、大学生や二十代の若者たちが新しい短歌を論じ、実作に励むのを見ているのは、楽しいし、ときには頼もしくもうつる。短歌の次代を担う若者たちに、にこやかに「頑張れよ」と、バトンを渡す光景は、「新聞歌壇」はじめ各種の短歌コンクールの授・受賞者の間や短歌雑誌の企画、短歌結社内など、さまざまな場面で繰り広げられている。

しかし、本来、若者たちの意欲や挑戦を受けて立つべき世代は、後進に成すべきことを果たしてきたのだろうか、という疑問が頭をよぎる。次代を担うべき彼らの素朴な文学的発信欲や世俗的名声欲を、手放しで受け入れてしまってはいないか。

かつて私たちが短歌を始めた時代、一九六〇年前後には、目の前にいくつかの壁があった。第二芸術論という形で問われた歌人の戦争責任論がくすぶっていた。戦時体験を共有する「新歌人集団」世代の動向や前衛短歌、社会詠・機会詠、私性、古典回帰などをめぐる論議に目を向けなければならなかった。誰もが論争に参加したわけではないが、迷いながらも、曖昧ながらも、自分なりの方向性は見出し、クリアしていたはずである。作歌を続ける以上、定型か否か、口語か文語か、結社・指導者の選択などせっぱつまった選択が迫られていたので、何らかの決着を付けなければならなかった。ところが、現在は、「新聞歌壇」や「ネット歌壇」への投稿から短歌の世界に入り、結社やグループに属することもなく独学で、種々の論議に立ち止まることもなく、人間関係にも煩わされずに、気ままに作歌を続けている短歌愛好者は多い。宗匠主義や師弟関係に縛られることのない作歌の自立性自体は最も大切なことではある。しかし、上記のような論争や課題に直面するチャンスがないままに、「歌人」としてもてはやされてしまっていないか。

昨年の『短歌研究』新人賞の受賞作では「亡くなっているはずの父親が授賞式に同席していた」という事実を前に、私性・虚構論議が活発になった経緯もある。松坂弘は、若い歌人たちの「近年の短歌の散文化は目にあまる」と苦言を呈し(「今、なぜ〈歌論〉か」『短歌現代』二〇一五年一月)、松村正直は、若手の同人誌、学生短歌誌の動向に触れて「時評などでも非常に好意的に取り上げられている。けれども、実際の中身は玉石混淆だ」とし、「峻別」する批評眼の必要性を説いていた(「短歌月評・玉成混交の中から」『毎日新聞』二〇一五年一月二六日)。(『ポトナム』20155月号所収)

過去と向き合う

 筆者は学生時代にその門に入りながら、畏敬の念が先に立ち、近づきがたいまま、一九七四年、阿部静枝は亡くなった。一九七五年の追悼号以来、いくつかの文章を書いて来た。その内の一篇「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」を書き直し、『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)に収めた。もっと知っておかなければならない歌人の一人となった。その後、「林うた」の時代からの歌人としての歩みと結婚後の無産女性運動における活動、夫との死別後は、評論家としての活動が加わり、無産政党の終息とともに、翼賛へと傾く軌跡をたどっていた。二〇一四年六月、友愛労働歴史館が企画展「同盟結成から五〇年・第四部同盟ゆかりの人々」のために阿部静枝の資料を探しているという記事を、ネット上で目にした。歴史館のM氏との何度かのやり取りで、私が持っていた関連資料を提供するとともに、「ポトナム」の藤井治、舟木澄子の両氏を紹介させていただいた。その後の経過は、M氏の熱意もあって、本誌の報告のように、上記企画展の「阿部静枝コーナー」として実を結んだ。折しも静枝没後四〇年の秋であった。これを機に、無産女性運動と無産政党の消長について知ることも多く、収穫は大きかった。しかしまだ知らないことが多く、慎重に調べを続けねばならないと思っている。

 すでに、全集や全歌集が刊行され、研究がし尽くされているような歌人でも、年譜に記載されていない事実や新たな著作・作品が見つかり、驚くことがある。著者や編集者が知らなかったか、失念したものか、あるいは意図的に省略したかが定かではない場合も多い。往々にして、いまとなっては知られたくない作品や不都合な事実が含まれるため、できればそれらに触れずに通し続けたい遺族や関係者、研究者もいる。後の人が検証もなく彼らの言を引用し、ひとり歩きをする例もある。

 筆者は、いま、太平洋戦争下及び占領期における既存の斎藤史の著作・作品目録を補充しつつ、作成している。その作業の過程で、歌集に収録されなかった作品、『斎藤史全歌集』刊行の際に、歌集から削除した作品などをあらためて照合し始めている。また、一九四〇年以降の短歌雑誌をはじめ、新聞、総合雑誌、文芸雑誌、婦人雑誌などに発表された夥しい数の短歌作品やエッセイを読み進めると、彼女が世間や時代、何よりも権力への即応力に抜きんでていたかが見て取れる。これは、父斎藤瀏との二人三脚の様相も呈していることもわかってくる。しかし、現代の歌人たちの斎藤史への評価は、こぞって高い。父瀏が連座し、史自身と近しい将校の処刑をもたらした二・二六事件と絡めて、時代に翻弄された悲劇のヒロインとしての物語性が先行する作品鑑賞が主流を占めているからである。

 その時代の作品・発言自体を素直に読み解くという基本的な姿勢を歪め、後の世の人間が、自らの世過ぎの正当化にも似て、「都合よく」読んで見せ、手品のような「深読み」を展開するのは、見苦しくもある。正面から過去と向き合うことを避けるかのような風潮も見逃せない。たとえば、人気のテレビドラマにおける村岡花子や柳原白蓮は、戦時下の作品に目を通せば翼賛への加担は自明ながら、あたかも時流に抵抗したかのように描かれていた。その波に乗る歌人はいても、異議を申し立てる歌人は現れず、歌壇は無風である。(『ポトナム』20156月号所収)

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2015年6月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」70号(2015年6月8日)をマイリストに掲載しました

目次
川崎簡易宿泊所火災に思う~ある記憶に重ねて~
嵐のような、あの佐倉市長選は、何だったのか
          ~これからが大事、見抜く力の大切さ*
編集後記~70号までたどり着きました
菅沼正子の映画招待席 42 「アリスのままで」
          ~明日はわが身かもしれない

*6月5日の前記事と重なる内容ですが、年表も付してコンパクトにまとめましたので
 あわせてお読みいただければと思います。下をクリックしていただくか、左のマイリスト欄の70号をクリックしていただいても読むことができます。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe70.pdf

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2015年6月 5日 (金)

佐倉市の市長選での順天堂大学誘致問題とはなんだったのか~また新しい情報に接して

順大誘致問題の勉強会へ 

まるで嵐のような様相で、通りすぎていった市長選・市議選におけるユーカリが丘駅前の順天堂大学誘致問題とはなんだったのか。結果的に敗れたN候補サイドが余りにも虚偽に満ちた情報によって世論操作まがいのことをやっているのを目の当たりにして、いても立ってもいられず、当ブログにも何本かの記事を書いた。投票日からは、あっという間に過ぎた一か月たったのだが、そんな折、順大誘致問題についての勉強会があると声を掛けられた。 

井野東開発での体験~山万の手法

 順大誘致問題に関して、私は、ブログに書いた以上の情報は持ち合わせてはいなかった。でも、開発業者山万を業務代行とする「井野東」土地区画整理組合による開発事業については、近隣住民としてつぶさに眺めてきた。同時に、隣接の自治会の住民として、自治会に設けられた開発対策協議会の委員として、さまざまな活動をしてきた。このブログにも、その後半部分の一端をいくつかの記事にもしてきたので、キーワード「都市計画」「土地区画整理事業」「佐倉市」などで検索を掛けていただければと思う。この井野東開発は、本格的には2002年から始まるが、その準備はその数年前にさかのぼる。その過程で、いやというほど山万の手法を思い知らされたのである。少しでも今ある緑を残してほしい、危ない道路はやめてほしい、安全な造成・建設工事と日照確保・騒音防止などを願う住民による署名、意見・要望をその都度、市役所や山万に届け、説明や協議を求めた。区画整理、都市計画の決定に必要な法的な手続きの過程でも、縦覧・情報公開・意見書提出、公聴会での意見公述などにも多くの住民が参加した。だが、当時は、佐倉市としても、この開発を都市計画の一端として積極的にバックアップしていたため、結果的に私たち、周辺住民の意見などは、ほとんど聞いてもらえなかった。重要な交渉や協議には、行政の担当者も複数・多数で参加していたことは、当たり前と思う一方、最近の行政の姿勢からは、ちょっと想像ができないでいる。そうした中で、私たち自治会と市長との面談、市長の現地視察などを実現させながら、自治会と区画整理組合・山万との「覚書」は行政立ち合いで手交した。連日連夜と言ってもいい協議で締結した、ある工区の「工事協定書」は、住民が決して満足するものではなかったが、「覚書」も「工事協定書」も、その後の建築物建設にも生かされ、せめてもと、それらの趣旨や文言が順守されているかを見守っているのが現状である。

 しかし、現実には、周辺住民の要請や期待が、ことごとく「粛々と」覆されていくのを見ながら暮らすのは、じつに口惜しく、息苦しいものがあった。今回の順大誘致にかかわる地域の地権者や周辺住民の方々も、同じような思いをされないよう、切に願うのだった。

新しい情報~3回にわたる住民説明会で、何が起こっていたか

今回の勉強会では、そうした私の思いの一端も伝えた。順大誘致問題は、山万の開発利権が露骨に浮上した一件ではなかったか。大学誘致を絡めた開発計画を、強引に推し進めたいばかりに、「順天堂大学誘致の会」をリードして、いわば慎重派だった現職市長の引きおろしを目論んだ市長選挙だったように思う。その執念と物量作戦は目に余るものがあった。選管や警察からの再三の撤去要請にもかかわらず、大量の違反ポスターや中傷ビラが市内に溢れた。ネット上の虚偽情報を含むサイトや動画広告に至っては、そのえげつなさに眼を覆うものがあった。投票日の翌日、それらのすべてが撤去、削除されていた。もっとも、違反ポスターについては、いまだ、残っているところもある、と参加者の一人が語っていた。

 そして、勉強会では、あらたな情報を得ることができた。201376日に開催された「駅北区画整理組合設立準備会 第1回近隣説明会」(ユーカリが丘3丁目自治会、4丁目自治会、上座第2町会、第7町会、第3町会ほかより計57名参加)の模様は一部、すでにお伝えしたが、説明会は、長い空白の後、市長選直前の329日の「(仮称)佐倉市ユーカリが丘駅北土地区画整理事業 概要説明会」(ユーカリが丘3丁目自治会、4丁目自治会、上座1~7町会自治会から70名参加)、4月30日「(仮称)佐倉市ユーカリが丘駅北土地区画整理事業 第3回事業概要説明会」(ユーカリが丘3丁目自治会、4丁目自治会、上座1~7町会自治会より25名参加)の議事録を見ることができた。3回の説明会の表題が異なるのも?なのだが、議事録を読んでいくと、私の懸念はますます募るのだった。

   説明会の案内の回覧期間が短く住民に徹底しなかったり、説明資料がパワーポイントだけだったり、掲示のみの用意で済ませたりなどの情報開示の不備があったことにも住民は納得しがたいようであった。

 ユーカリが丘3丁目の地区計画を条例化する際に、今回の再開発対象区域にある山万所有の戸建て用宅地を用途変更する場合には自治会との協議を前提とする「覚書」を無視して、近隣商業地域へと用途変更計画を発表したのも住民を怒らせた。

 対象区域に接する6mの生活道路を3mの歩道を付して9mにする道路計画も、周辺の施設によって交通量の激増が予想されるだけに不安が広がっている。さらに、1年半以上の空白の後、市長選直前の説明会では、とりあえず、近隣商業区域の建蔽率80、容積率300%は、大学予定地だけに限定して、他を80200%とすること、同時に、順大の学生規模が将来的に870人から2000人になるときは、容積率300%が広がることもありうると発表している。とりあえずの容積率を抑えたのは、市との協議の結果だったのだろう。山万による順大誘致の決意表明は繰り返されるが、誘致自体が不確定の中で、こうした計画が進むこと自体が、私たち市民には納得がいかない。

 今年開催の2回の説明会では、さすがに、例の「大学誘致等に関する懇話会」の報告にある「経済波及効果」に言及することはなかった。しかし、山万の幹部が、誘致が佐倉市の人口減少や民生費激増の歯止めとなり、税収増などをもたらすという文脈の中の発言に「大学生は食事を多く取りますし、地域のなかにどんどん入っていくそうした要素がありますのでそれを街づくりに活用したいなと思います」なんていうクダリもあって笑えるのだが、こんな認識だったのかと、少々がっかりもした。

 勉強会の参加者にはユーカリが丘以外の方も多くいらしたのだが、「ユーカリが丘だけに、税金を投入してほしくない、市の予算には、何かと地域格差を感じる」との発言もあった。

もう、メディア戦略?は、いい加減にして

 きのうのポストには「必見!65日、<NHKニューウォッチ9>でユーカリが丘の街づくりが放送されます!」の山万のチラシが入っていた。今年になって、これで何回目?11日の「NHKスペシャル」、41日NHK「あさイチ」、NHKもNHKで、ヤラセはかなりまずくなったので、“明るい話題”をと必死になって探していて、行き着くところが「ユーカリが丘」? 被災地復興にしても、地域再生にしても、民間活用にしても、よくウラも取らず、検証もしないまま、話を盛り上げる番組が多くなってきた。

宮ノ台では、また、先月、花屋さんがひっそりと店をたたんだ。この数年で、並んでいた美容院が閉り、レストランが店じまいし、パン屋さんも撤退してしまった。まさにシャッター街である。近くのイオン系のスーパーでは、「プライベート・ブランド」ばかりが並び、これまで買っていた商品がどんどん消えていく。

ユーカリが丘駅に近い新しいマンション1階のベーカリーチェーン店が、なかなかオープンできないでいるらしい。また、ユーカリが丘駅につながるホテルのパン屋さん、職人さんは見つかったのかしら。あまり品数が少ないので、びっくりしていると、職人さんがしばらくお休みなのでと、店員さんは申し訳なそうに口ごもる。

暮らしやすい、足を地につけた「まちづくり」を目指してほしい。

 

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