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2015年6月11日 (木)

「歌壇時評」なんて得意ではないが~次代に手渡す/過去と向き合う

「歌壇時評」なんて、得意ではない。書いたとしても、無視されるか、妬まれるばかりなのだが、それでも、ときどきチャンスを与えてくれる『ポトナム』に感謝したい。今年は5月から8月までの4回、すでに刊行された2か月分をここに再録したい。誌上での表題は「歌壇時評」のみなので、ここでは、便宜的に筆者が表題を付した。

次代に手渡す

歌壇のリーダーや短歌ジャーナリズムは、やや焦りにも似て、短歌に関心を寄せる小中学生や若者を引き入れ、育てようと必死な様相を呈している。それは、たとえば、「朝日歌壇」の選者たちがこぞって、小・中学生作品を入選させるという、一種のアイドル化を目論むような現象にも表れている。私は、今年たまたま、歌会始の中継とNHK全国短歌大会の模様をテレビで見ていたが、歌会始の最年少入選者とNHK短歌大会ジュニア部門大賞受賞者が一五歳の同じ少女だと知った。しかも、昨年の現代歌人協会全国大会選者賞も受賞しているそうだ。この結果を「三冠王を獲得」と評した歌人もいる(古谷智子「歌壇時評」『現代短歌新聞』二〇一五年三月)。

短歌に関心を示した若年層を手厚く遇し、各地の大学短歌会への熱いまなざしも、その流れをくむ現象に思える。少年少女が指を折り、三十一文字でことばを紡ぎ、大学生や二十代の若者たちが新しい短歌を論じ、実作に励むのを見ているのは、楽しいし、ときには頼もしくもうつる。短歌の次代を担う若者たちに、にこやかに「頑張れよ」と、バトンを渡す光景は、「新聞歌壇」はじめ各種の短歌コンクールの授・受賞者の間や短歌雑誌の企画、短歌結社内など、さまざまな場面で繰り広げられている。

しかし、本来、若者たちの意欲や挑戦を受けて立つべき世代は、後進に成すべきことを果たしてきたのだろうか、という疑問が頭をよぎる。次代を担うべき彼らの素朴な文学的発信欲や世俗的名声欲を、手放しで受け入れてしまってはいないか。

かつて私たちが短歌を始めた時代、一九六〇年前後には、目の前にいくつかの壁があった。第二芸術論という形で問われた歌人の戦争責任論がくすぶっていた。戦時体験を共有する「新歌人集団」世代の動向や前衛短歌、社会詠・機会詠、私性、古典回帰などをめぐる論議に目を向けなければならなかった。誰もが論争に参加したわけではないが、迷いながらも、曖昧ながらも、自分なりの方向性は見出し、クリアしていたはずである。作歌を続ける以上、定型か否か、口語か文語か、結社・指導者の選択などせっぱつまった選択が迫られていたので、何らかの決着を付けなければならなかった。ところが、現在は、「新聞歌壇」や「ネット歌壇」への投稿から短歌の世界に入り、結社やグループに属することもなく独学で、種々の論議に立ち止まることもなく、人間関係にも煩わされずに、気ままに作歌を続けている短歌愛好者は多い。宗匠主義や師弟関係に縛られることのない作歌の自立性自体は最も大切なことではある。しかし、上記のような論争や課題に直面するチャンスがないままに、「歌人」としてもてはやされてしまっていないか。

昨年の『短歌研究』新人賞の受賞作では「亡くなっているはずの父親が授賞式に同席していた」という事実を前に、私性・虚構論議が活発になった経緯もある。松坂弘は、若い歌人たちの「近年の短歌の散文化は目にあまる」と苦言を呈し(「今、なぜ〈歌論〉か」『短歌現代』二〇一五年一月)、松村正直は、若手の同人誌、学生短歌誌の動向に触れて「時評などでも非常に好意的に取り上げられている。けれども、実際の中身は玉石混淆だ」とし、「峻別」する批評眼の必要性を説いていた(「短歌月評・玉成混交の中から」『毎日新聞』二〇一五年一月二六日)。(『ポトナム』20155月号所収)

過去と向き合う

 筆者は学生時代にその門に入りながら、畏敬の念が先に立ち、近づきがたいまま、一九七四年、阿部静枝は亡くなった。一九七五年の追悼号以来、いくつかの文章を書いて来た。その内の一篇「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」を書き直し、『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)に収めた。もっと知っておかなければならない歌人の一人となった。その後、「林うた」の時代からの歌人としての歩みと結婚後の無産女性運動における活動、夫との死別後は、評論家としての活動が加わり、無産政党の終息とともに、翼賛へと傾く軌跡をたどっていた。二〇一四年六月、友愛労働歴史館が企画展「同盟結成から五〇年・第四部同盟ゆかりの人々」のために阿部静枝の資料を探しているという記事を、ネット上で目にした。歴史館のM氏との何度かのやり取りで、私が持っていた関連資料を提供するとともに、「ポトナム」の藤井治、舟木澄子の両氏を紹介させていただいた。その後の経過は、M氏の熱意もあって、本誌の報告のように、上記企画展の「阿部静枝コーナー」として実を結んだ。折しも静枝没後四〇年の秋であった。これを機に、無産女性運動と無産政党の消長について知ることも多く、収穫は大きかった。しかしまだ知らないことが多く、慎重に調べを続けねばならないと思っている。

 すでに、全集や全歌集が刊行され、研究がし尽くされているような歌人でも、年譜に記載されていない事実や新たな著作・作品が見つかり、驚くことがある。著者や編集者が知らなかったか、失念したものか、あるいは意図的に省略したかが定かではない場合も多い。往々にして、いまとなっては知られたくない作品や不都合な事実が含まれるため、できればそれらに触れずに通し続けたい遺族や関係者、研究者もいる。後の人が検証もなく彼らの言を引用し、ひとり歩きをする例もある。

 筆者は、いま、太平洋戦争下及び占領期における既存の斎藤史の著作・作品目録を補充しつつ、作成している。その作業の過程で、歌集に収録されなかった作品、『斎藤史全歌集』刊行の際に、歌集から削除した作品などをあらためて照合し始めている。また、一九四〇年以降の短歌雑誌をはじめ、新聞、総合雑誌、文芸雑誌、婦人雑誌などに発表された夥しい数の短歌作品やエッセイを読み進めると、彼女が世間や時代、何よりも権力への即応力に抜きんでていたかが見て取れる。これは、父斎藤瀏との二人三脚の様相も呈していることもわかってくる。しかし、現代の歌人たちの斎藤史への評価は、こぞって高い。父瀏が連座し、史自身と近しい将校の処刑をもたらした二・二六事件と絡めて、時代に翻弄された悲劇のヒロインとしての物語性が先行する作品鑑賞が主流を占めているからである。

 その時代の作品・発言自体を素直に読み解くという基本的な姿勢を歪め、後の世の人間が、自らの世過ぎの正当化にも似て、「都合よく」読んで見せ、手品のような「深読み」を展開するのは、見苦しくもある。正面から過去と向き合うことを避けるかのような風潮も見逃せない。たとえば、人気のテレビドラマにおける村岡花子や柳原白蓮は、戦時下の作品に目を通せば翼賛への加担は自明ながら、あたかも時流に抵抗したかのように描かれていた。その波に乗る歌人はいても、異議を申し立てる歌人は現れず、歌壇は無風である。(『ポトナム』20156月号所収)

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