久しぶりの名古屋でした
3年ぶりのポトナム全国大会
6月21・22日、ポトナム短歌会の全国大会が名古屋(名鉄グランドホテル)で開催され、参加した。名古屋は、結婚当初12年間暮らし、子育てと仕事に励んだ地でもあった。 『ポトナム』の全国大会は毎年開かれているが、近年では、2012年(神戸)大会に20年の空白を経ての参加以降3年ぶりとなる。自身の記録を遡ってみれば、1960年入会以来、1967(神戸)、1968(東京)、1969(飯田)、1970(高野山)、1971(天理)1974(篠山)、1981(東京)1983(姫路)、1990(箱根)、1992(神戸)の大会に参加していたことになる。どんな一首で参加していたかの記憶はないが、開催地でのさまざまな思い出とその前後のことなどがよみがえるから不思議だ。「あんなこと、こんなことありましたァー・・・」とまさに「思い出のアルバム」の歌詞のように。
今年はといえば、21日夜の懇親会でなつかしい人々にお会いしたことである。やはり、3年ぶりの安森敏隆代表には、いま連載中の〈歌壇時評〉の原稿の件でお世話になっているので、挨拶に伺うと、励まされもし、恐縮した。懇親会には、翌日の講演の小島ゆかりさんと、同じコスモスの鈴木竹志さんもいらしていて、お二人と少しばかりお話できたのも何よりだった。小島さんには「大所帯のコスモスの全国大会は大変でしょうね」と尋ねれば、「そう大規模なものにはならず、なにしろとても真面目なのかもしれない」といった趣旨の話もされ、名古屋出身でもある小島さんは、いつもにこやかで、気さくな方のように思われた。
平針原の変貌~あのころの娘たち
そして、翌日は、別のホテルで泊まっていた連れ合いと待ち合わせ、センチメンタル・ジャーニーとなった。連れ合いは、前日、私が大会に出ている間、むかしの職場の方と話ができた由。つぎのこの日は、かつての天白区の住まい、長女の通った保育園・小学校・学童保育所、そして私の職場をめぐることになっていた。それに、できれば、よく家族で出かけた近くの食事処にも寄りたかった。また、家族で参加していた、月一の天白川マラソン記録会の島田橋辺りも散策したいものと、欲張っていた。
一昨年だったか、一度、この辺りを訪ねている娘からも聞いていたが、最寄りの地下鉄「原」駅前はすっかり変貌していた。まず彼女が5年間通った「ガクドウ」は、天白橋に近い広い空地の隅のプレハブ様のものだったが、いまは、マンションや雑居ビルが建ち競う。天白橋をはさんで島田橋~大正橋の河畔が小学生たちの遊びのテリトリーだったか。夕方、自転車で迎えに行くと、ドロドロになって荷台に乗れば、放課後の学童でのおやつ作りや遊び、友だち・指導員たちのことを息せき切ってしゃべり始めるのだ。学校の話がほとんど出てこない。そして帰宅後、日刊の学童通信「原っぱ」をまず開くと、きのう・今日の動きが指導員の目から報じられ、娘の話の全貌がわかり始める、そんな毎日だったなあ。それから、夕飯の支度に掛かるのだった。
原駅周辺の道路は、すっかり整備され、飯田街道は車線が分離帯で仕切られ、おいそれと横断できなくなっていた。下原の交差点から東をみると、突き当りに、高架の名古屋第2環状線の車の往来が見える。かつてはなかった光景だ。原の方に向って歩くと、なんとなく記憶に残る街並みが続き、バス通りの交差点に出ると、すぐに「原中学校」らしかった。ここは、大規模なモデルハウスの展示場のあったハウジングセンターで、50棟以上の贅を尽くした?住宅メーカーのモデルハウスが並んでいた。週末は何かのイベントがあって、子どもたちの格好の遊び場にもなった。もともと中学校予定地だったので、私たちが名古屋を離れる1988年のころは、モデルハウスはすべて撤去され、土埃舞い上がる空地になっていた。いまは、夜間照明を備える広いグランドを持つ中学校(1990年創立)になっていたのだ。そして、その南側、娘が5年間通った原小学校(1980年創立)とゼロ歳児から通った「平針原保育園」だった。ゼロ歳児の時は、毎日のおむつの持ち帰りと補充は欠かせず、10組の布おむつの常備が決められていた。おむつがとれた時はほっとしたが、週末の昼寝用の布団運びはしばらく続いた。
下原交差点、正面が原駅ビル
その保育園の砂場で園児を見守る二人の保母さんに思わず声をかけてしまう。娘がお世話になったと話し始めると、2歳児くらいの園児たちが寄ってきて、金網越しながら、しきりに話し掛けてきたり、砂を盛ったお皿を差し出してくれたりする、そのキラキラした瞳で見つめられると、いっきに子育て時代がよみがえるのだった。
平針原保育園、この門扉での朝がつらかった
お隣だったAさんとは転居以来、親しく
近くの平池下公園の樹木は育ち、大きな木陰をつくっていた。ボール遊びはイケナイと言われながらも、よくソフトボールの投げ合いやノックをやっていた子どもたち、それを見守る父母たちがいたことを思い出す。そして、思い切って、かつてのお隣さんのお宅のベルを押す。ほんとうに、1988年以来、お目にもかかっていないし、おたよりすることもなかったのだが、とても懐かしく迎えてくださった。不意の訪問にもかかわらず、勧められるままに、お部屋に通される。いまはご夫婦だけとなったが、二人の娘さんもご家族で海外や横浜に住まわれ、お孫さんも大きくなって、よく行き来をされている由。大方のことは、やはりご近所だった娘の同級生のおばあちゃんのBさんのおたよりで知らされていたものの、Aさんの数々の旅行の話や最近はデイケアに通われているBさんの話、お互いの体調などにも及び、話題は尽きなかった。もちろん少しおたよりが途絶えがちだったBさんのお宅にも寄ってみたのだが、お留守だったらしいのが残念だった。
そういえば、お隣同士で住まっているときだって、この日のように親しくおしゃべりはしなかったなあ、と感慨深いものがあった。 スイカまでごちそうになって、おいとまし、いよいよお目当ての食事処C亭に行ってみると、なんと調理人の事故のため月曜のみお休みするという張り紙がしてあるではないか。事前に定休はないと聞いていたので、当てが外れてしまった。残念ながら、隣のスパゲティ屋さんで昼食となった。
むかしの職場は、いま
結婚後1年近くの就活の後、縁あっての転職先が、偶然のことながら、住まいのすぐ近くの短大図書館だった。建設当時は、かなりモダンだったという円形の校舎の2・3階が図書館になっていた。1階や上層階は付属高校の体育館などになっていたが、扇型の閲覧室や書庫というのはかなり使い勝手が悪く、手狭にもなっていた。家政学科・国文学科・英文学科学生数約1800名、図書購入費が2000万円を超える規模の図書館で、各学科研究室予算が3分の2を占め、受入れ・整理は図書館が行い、管理・利用が研究室で、図書館で自由に利用できる図書や雑誌が限られていた。女性職員3人とアルバイトで何とかしのいでいる時代だった。それでも地元大学図書館館員の研修会や全国規模の研修会、図書館大会などにも出張できるようにして、業務の効率化や機械化も始めていた。そして、短大の経営陣は4年制大学を目指すとして、私たちもハッパを掛けられていた。名古屋市郊外に新キャンパスを求め、4年制に移行し始めたのが1995年以降と聞いている。そして現在は、平針・三好の2キャンパスで、経営・人文・教育・スポーツ健康科学・健康栄養学の5学部になり、合わせて4000名規模の大学になったそうだ。
正門左、図書館完成パース
昨年、平針の円形校舎を解体し、新図書館建設を始めるというお知らせが旧職員にも届いた。その懐かしの円形の跡地や新図書館、だいぶ変わったキャンパスを見ておきたいと思って、今回の訪問となった。事務室で、昔の同僚はもう退職しているのが確かめられたが、若かった職員の名をあげると、三好のキャンパスで管理職になっているらしい。ともかく、新図書館にと思い、横切るキャンパスは男女共学となって賑わい、「女の園」とは趣を異にしていた。新しい長方形の図書館の向うに、まだ、円形校舎が解体寸前の姿で残っていた。工事中で、近くには寄れなかったが、12年間過ごした職場だった。
正面に円形校舎の一部が見える。左が新図書館
新図書館の受付で名乗ると、旧同僚から私の話は聞いてますといってくれる職員が現れ、「どうぞ、どうぞ」との言葉に、連れ合いと共に館内を見学した。まだ、蔵書の移転が全部されてないようで、明るく、ゆったりした書庫と閲覧室が広がっていた。小学校・幼稚園教諭養成のコースもあるので、たくさんの絵本や紙芝居が並んでいるのが公共図書館のようだった。
ジョギングコースでもあった大根池は
Aさんが、かつての大根池のあたりが整備され、立派な「天白公園」になっていますよ、とのお勧めもあったので、寄ってみた。鬱蒼たる雑木林に囲まれて、決してきれいとは言えない大根池が整備されていた。その存在すら知らなかった「中山神社」の参道も整備されていて、緩い坂の上り下りは程よい散策路となっていた。スズメバチに注意などの看板も真新しい。
散策と言えば、さらに、娘の七五三でお参りした針名神社や四季折々訪ねていた平針の農業センターまで足を延ばしたかったが、ともども少々足が疲れて、帰りの時間もあるので、今度はいつとは言えないがと、名残惜しんで、この地を離れることにした。
連れ合いは、かつて楽しんだ草野球の仲間たちがどうしているかも気がかりで、Aさんに消息を尋ねていたが、亡くなったり、転居したりで、寂しいようだった。また、連れ合いは、子ども会のソフトボールのコーチもしていたので、チームのメンバーだった、食事処C亭の兄弟の二人はいまどうしているか、誰が店を継いでいるのかも楽しみだったんだがな、と言っていたが、ちょうど定休にあたっていたわけで、これも残念そうだった。 もう一度、この辺りを再訪できるか、心もとないが、短いセンチメンタル・ジャーニーは終わった。
中山神社参道
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