沖縄とジャーナリズム(1)短歌ジャーナリズムはどう向き合ったか
以下は、届いたばかりの『ポトナム』に書きました時評です。あたらしい事態も生じ、ややタイムラグを感じさせますが・・・。
沖縄と短歌ジャーナリズム
戦後七〇年、とくに近年の沖縄と日・米両政府の動きを見ていると、いたたまれない気持ちになってくる。歌にかかわる私がいまできることは、沖縄の歌人たちが発信し続けてきたメッセージと沖縄の短歌をめぐる状況を整理しておくことではないかと思った。いやすでに、そうした仕事を続けている歌人がいることも知った。最近の状況は、主として、『短歌往来』の二〇一三年八月〈歌の力沖縄の声〉、二〇一四年八月〈沖縄の食と風物〉という特集で知った。
さらに、沖縄と短歌ジャーナリズムとの関係をたどってみた。創刊まもない『短歌』は、中野菊夫の「祖国の声」(一九五五年四月)、「沖縄の歌」(一九五六年一二月)を載せた。それに先立つ一九五三年『沖縄タイムス』は「九年母短歌会」同人たちの作品を数か月にわたって紹介したことも知る。さらに、『短歌』では、一九六〇年九月〈オキナワと沖縄の短歌〉特集のもと、知念光男、中野菊夫らが現状と作品を論じた。以後は、風土としての「沖縄」、歌枕としての「沖縄」が登場する程度で、近年、二〇一二年からの平山良明「はじめてのおもろ」の連載、渡英子の時評「戦争詠と沖縄」(二〇一三年一〇月)にいたるまでの空白が長い。
一九五七年八月『短歌研究』の〈日本の傷痕〉特集の「基地・沖縄の傷痕」では、知念光男が基地一二年の「これ以上耐え忍ぶことのできない、ぎりぎりの生活の底からのうめき声」としての短歌を伝えた。一九五八年三月〈沖縄の歌と現実〉特集は、吉田漱による沖縄の歴史・政治・経済の現状と歌壇についての丁寧な解説と作品集を収めた。編集の杉山正樹は「ジャーナルの上でやや置去りにされがちな沖縄の諸問題を島民の切実な“地の声”を中核として」企画したと記している。
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日のかなしきいとなみ
比屋根照夫(「琉球(新聞)歌壇」)
・ただ一日だけの国旗掲揚だのにこんなに嬉しいものか妻子らと仰ぐ
照屋寛善(「アララギ」)
・伊佐浜の土地を守ると起重機の下に坐りし農民等悲し
呉我春男
などが並ぶ。一九五九年七月「今日の沖縄」を寄せた歌人井伊文子は、沖縄王室から井伊家に嫁ぎ、二三年ぶりに帰郷し、整然とした基地内外の施設が「大勢の死者を出し、農民より耕作地をとりあげて血の犠牲の上に作られた施設だと思うと、芝生のグリーンにいくら南国の太陽が輝こうと思いは冥い」と綴る。
一九七〇年から九〇年代にかけて『短歌研究』に登場するのは、全国縦断的な企画の一環としての「沖縄」であった。一九七七年創刊『短歌現代』も同様の傾向を示す。一九八七年創刊『歌壇』は、散発的な沖縄への関心のもと、二〇〇〇年四月〈沖縄歌人作品集〉、八月〈戦後55年を詠う―新たな出発点として〉の特集を組み、今年六月〈戦後七十年、沖縄の歌―六月の譜〉特集は一五年ぶりの企画となった。
一九八九年六月創刊『短歌往来』の沖縄へのスタンスは、他誌とはいささか違っていた。一九九九年七月〈沖縄の歌〉、二〇〇六年七月〈沖縄のアイデンティティ〉の特集や平山良明による長期連載に多くの紙面を割き、分断と差別が続く沖縄政策に「短歌」という切り口で一矢を報い、冒頭の特集にもつながる、その編集者の気概は、注目すべき貴重な存在に思える。そして、若い書き手の屋良健一郎、名護市在住の佐藤モニカらのさらなる発信も期待される。石垣島に移住した俵万智や松村由利子は「沖縄」にどう向き合うのか。
四月二八日「屈辱の日」は過ぎ、六月二三日「慰霊の日」は近い。
(「歌壇時評」『ポトナム』2015年7月号所載)
2015年7月29日補記
阿木津英さんが、新聞『赤旗」の時評で紹介してくださいました。
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