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2015年7月22日 (水)

伊藤一雄さん、『池袋西口 戦後の匂い』(合同フォレスト 2015年7月)出版おめでとう

   あのころの池袋を知っている人も、知らなかった人も、きっとなつかしさで胸がいっぱいになるような本だ。

   私は、空襲の焼け跡が生々しい池袋に、疎開先から家族で戻ったのが、敗戦の翌年、小学校1年の夏だった。借地に建てたバラックは、店と6畳と台所だけで、5人が暮らしはじめた。  

   このブログで、池袋第五小学校の恩師乙黒久先生のことは何度か触れた。その同じ乙黒先生のもと、私より10年あとの池五の卒業生が著者の伊藤さんだ。乙黒先生からの紹介ということで冊子「池五の界隈」が私にも贈られてくるようになった。小学校、中学校時代を池袋の、なんと私の暮らした平和通りの家のすぐ近く、同じ地主さんの敷地に住んでいたという。池五っ子の遊びのテリトリーは、ほとんど同じだが、時代が少し違っていた。伊藤さんは、当時のことを思い出しながら、克明に記録した。文学青年そのままに、そして、新宿区を拠点に自治体行政に長く携わった専門知識を忍ばせながら、池袋の「いま・昔」を辿りにたどったのが、この本である。記憶だけではなく、資料探索も怠りなく、綴られた冊子「池五の界隈」は7冊にも及んだ。そのたびに、私も、決して嫌いではなかった「まち歩き」を伊藤さんと共にするような気持ちで、私の記憶や感想をメールでお届けした。それが、つぎの冊子で登場して来たりするから少し緊張もするのだったが、まだ、お目にかかったことがない。

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   池袋西口にひしめいていたヤミ市、なかなか進まない西口の区画整理、駅界隈や平和通りの商店の数々、当時はやっていた遊びや娯楽の王者でもあった映画やこれもひしめいていた数々の映画館、都電やトロリーバスが走っていた街、デパートが進出し、地下鉄ができて、ターミナルとなっていく池袋がいきいきと語られる。”私の池袋の戦後史”が綴られる中で「文学のまち」「映画のまち」 「美術のまち」という章もある。

  巣鴨プリズンがサンシャインビルとなる頃、私は池袋の生家を出ているが、帰省するとサンシャインとゴミ焼却場の高い煙突が窓から見える部屋で眠る。路地を入れば、ラブホテルが軒を並べ、長汐病院が大きくなり、商店主も多国籍になってゆく平和通り界隈だが、見覚えのある看板を掲げている店も残り、Sさんの屋敷跡は「池袋の森」となったりしている。 まだまだ、池袋は変わるだろう。しかし、こんな時代もあったと池袋を思い返すことは、たんなるセンチメンタリズムだけには終わらないにちがいない。大人の自転車で三角乗りにに挑んで何度でも転んだり、社会科では、新憲法の基本を熱心に教えた先生たち、憲法「前文」を必死になって暗記しようとしたり、買ってもらった少年朝日年鑑を毎日風呂敷に包んで登校したり、ローマ字の時間がとても新鮮に思えたりした頃の自分を思い返すのも悪くはない。 

   伊藤さん、続編が読みたいです。

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