「赤松常子の思想の時期的変容―戦前からGHQ占領期を中心に―」の報告を聞きに行きました
西日本からは、台風の被害が届いていた週末、大雨にはならないだろうと、東京での研究会に出かけた。ネットで見つけたのが、この総合女性史研究会例会で、私は、初めての参加だった。
表題の「赤松常子」といっても知らない人の方が多いのでは。戦前の無産婦人運動の活動家で、戦後は、社会党、後は民社党の国会議員として活躍した人だ。その政治的活動軌跡は、私が短歌を作る最初のきっかけというか、いわば入門した阿部静枝とほぼ同じくするところから、関心があった。常子は、与謝野鉄幹を叔父とし、京都の寺の娘として生まれ、兄弟は、赤松克麿・明子夫妻ほか、錚々たる地位に就いた人が多いなか、女性労働者の権利保護のための労働運動に入るが、無産婦人運動が終息した戦時下は、産業報国会の一員として活動することになる。静枝は、1938年、夫、阿部温知の死後辺りから、歌人・評論家としての活動が主となった、という違いはある。戦後は、歌人・評論家に加えて、住まいのあった東京都豊島区の区議会議員という肩書を持ち、社会党、後は民社党として活動した。両者のそんな共通点と相違点に関心があったので、若い人のレポートを聞きたいと思ったのだ。
総合女性史研究会のホームページには、つぎのような予告がなされていた。
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修士論文発表会開催のお知らせ
日 時:2015年7月18日(土)14:00~
会 場:文京区男女平等センター D研修室
報告者:堀川祐里氏
テーマ:赤松常子の思想の時期的変容―戦前からGHQ占領期を中心に―
<概 要>
赤松常子は、1897年(明治30年)に生まれ、大正・昭和を生きた女性運動家である。1965年(昭和40年)に没してから、その労働運動や政治活動については現在までに数多くの研究や文学作品において断片的に知ることができるが、赤松常子自体について、その研究はごくわずかでこれまで進展することがなかった。本報告は、赤松が執筆した雑誌、新聞記事、論文、加えて座談会や国会における発言等から、赤松常子の思想の時期的変容を実証的に明らかにするものである。本報告では、赤松の生い立ちから、参議院議員第1期目の1953年までを対象時期とする。赤松というひとりの女性運動家を軸にしてみた労働組合運動の一面は、男性運動家のそれとは様相が異なる。今回の報告では特に、戦前における労働運動において赤松が「婦人問題」をいかに捉えていたかについて報告する。また戦前は封建主義批判を行っていた赤松が、戦局が深まる中で「家族の美風」を賛美したところから、戦後再度「封建性」を批判するようになるという、戦争を基点とする思想の時期的変容を明らかにする。
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会の参加者は、総勢17人。報告者の堀川さんは、中央大学経済学部修士課程を終え、いまは博士課程に在籍の院生だった。修士論文の一部を要約しての報告とのこと、約一時間ちょっとでは、やはり時間的に窮屈そうであった。司会は、名古屋の桜花大学石月静恵教授であった。『戦間期の女性運動』(東方出版 1996年)の著者で、阿部静枝の調査では、私もずいぶんお世話になった著書である。この会で、お目に掛かれるとは思わなかった。
報告は、赤松常子の労働組合運動についての発言を、赤松常子没後の評伝、『労働』(日本労働総同盟)『労働婦人』(日本労働総同盟婦人部)『民衆婦人』(社会民衆婦人同盟)『婦選』(婦選獲得同盟、後『女性展望』に改題)など機関誌から、丹念に掬い上げていた。そこでは、女性労働者にとっての労働組合の重要性とその活動への会社側からの数々の妨害の実態がたどられ、農民組合や消費組合との共闘への言及も捉えられていた。また、実兄、赤松克麿の妻赤松明子との運動論の違い、とくに「満州事変」をめぐって、克麿の国家社会主義への転向に従った明子との確執などを経て、戦中は、総同盟解散後、産業報国会本部に拠りながら「勤労女性の家族制度における役割の重要性」を説くようになる。さらに、戦後はGHQ指導下の婦人組織の結成などにかかわり、女性自身の「内なる封建制」の打破と資本主義との戦いを強調するようになるという、参議院議員当選までの思想的な変容をたどる報告であった。
たしかに、赤松常子や阿部静枝にかぎらず、平塚らいてうや市川房枝ら多くの女性の権利獲得のための活動家たちがたどる道の共通点は多々ある。曲折の軌跡の実態を捉え、その分析をすることが、後世の歴史研究者の使命と思う。振り返って、納得のできる運動ができる状況を維持・確保することの難しさとそれへの挑戦がどうなされたか否かがカギではないかと思う。
レポートは、戦中・戦後への言及や資料の検索が、まだ、十分でないことを自覚されてのことではあったが、若い方だけに今後も頑張ってほしいと思った。
なお、私からは、戦中における赤松常子の生活の基盤、とくに経済的な基盤はどうだったのか、それが思想的な変容に影響はなかったのか、また、思想統制や言論弾圧とは、どのような形で対峙したのかの2点について、質問した。前者については、やはり、兄弟、とくに末弟の家に同居し、暮らしに困ることはなかったであろう、とのことであった。
文京区男女平等センター:1986年文京区婦人センターとして開設され、1991年女性センターと改称、2002年男女平等センターとなった。マンションの1階で、この建物の後ろに真砂図書館があるが、現在改築中とのこと
本妙寺坂:文京区男女病だおセンター前から本妙寺坂を望む。突き当りを横切る道路が菊坂、正面の坂を上ると、本妙寺跡へ。右手手前に本郷小学校がある。1998年にここにあった真砂小と元町小が統合、本郷小学校となって、新校舎ができたのが2002年だったとのこと
真砂遺跡:文京区男女平等センタ―前の案内板。江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。 現在の建物を建築するにあたり、昭和59年(1984)に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物が出土、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料となった
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<お知らせ>友愛労働歴史館からつぎのようなお知らせが届きました。赤松常子没後50年を記念しての企画展です。
友愛労働歴史館企画展
「婦人運動、労働運動に生きた生涯 赤松常子」
「労働運動のナイチンゲール」と慕われた赤松常子(1897.8.11~1965.7.21)は、戦前の総同盟・社会民衆党系の活動家で、戦後は全繊同盟(現UAゼンセン)を母体に社会党・民社党の参議院議員として、また社会運動家として、その生涯を労働運動・婦人解放運動・社会運動に捧げました。
2015年は赤松常子没後50年に当ります。これを記念し友愛労働歴史館は、企画展「赤松常子ー婦人運動・社会運動に生きた生涯」(2015.07.21~11.30)を開催いたします。
「赤松常子」展では第1部~第3部で赤松常子の労働運動・婦人解放運動・社会運動について紹介・解説するとともに、第4部で赤松常子の短歌やゆかりの歌人たち(与謝野鉄幹、与謝野晶子、阿部静枝、宮崎白蓮)についても紹介いたします。
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