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2015年7月29日 (水)

田中綾著『書棚から歌を』(深夜叢書社 2015年6月)を読んで

 著者がまだ院生の頃、師の菱川善夫氏とご一緒で、札幌でお会いしたときの印象が色濃く、新進の学究と思っていたが、「親子ほど年の離れた学生と接し・・・」と「あとがき」にあり、愕然としたのは私の方だった。また、「〈明治〉〈大正〉〈昭和〉〈GHQ占領期〉をまとめて〈昔〉の一語で片付ける彼/彼女らに、近代と、私たちの〈今〉とは地続きであることを伝えなければ・・・」ともあり、切迫した想いが執筆の動機とある。しかし、『北海道新聞』に連載中のコラム(今回の収録は、200911月~20151月)でもあるので、講義のような堅苦しさはなく、読みやすく、何よりも対象の書物の幅が広い。歌人ではない著名人のあるいは無名の人たちの短歌も拾い上げられ、その作品と作者の物語性や意外性が、なんとも興味深い。

 初回が、斎藤慎爾『ひばり伝』(講談社 2009年)から、美空ひばりが小林旭との祝宴の折に発表された「我が胸に人の知らざる泉あり つぶてをなげて乱したる君」の1首が表題となり、その背景が語られる。2回目が、太宰治『斜陽』のために自らの日記を提供した太田静子(19131982)が、結婚前の若いころ、口語による、定型にこだわらない「新短歌」にのめり込んだ時代の1首「樹液の流れに 上衣が失はれはじめた いま動けば 美しい攪乱がくる」を引く。これは、著者の「新短歌」史・逗子八郎研究の余滴でもあったのではないか。

 土岐善麿「十五単位司書の資格をとりしこともわが生涯の何の契機か」は、犬伏春美・犬伏節子『土岐善麿と図書館』(新典社 2011年)から引いた1首。東京都立日比谷図書館長(19511955)を務めた善麿の社会的活動の一部を伝える。図書館法によれば、1968年までは、司書資格取得に15単位が必要であった。私が、名古屋の愛知学院大学司書講習会で参考業務演習を担当していた時代(19771988年)は19単位だった。1単位のために、1週間余を通しての演習はきつかったが、それが1か月以上続く受講生はその比ではなかったはずだ。それでも、その資格を活かして、正規の図書館館員として就職する人はかぞえるほどだった。その後、資格取得には、1998年からは生涯学習論や児童サービス論が加わり、2011年からは大幅に再編され、情報サービス演習、情報資料組織論演習が加わり、24単位になったそうだ。IT時代に入ったのだから、図書館サービスの様変わりは当然のことだろう。ただ、大学図書館での非正規職員、公共図書館での外部委託・指定管理者制度の問題は、今後の図書館サービスの質的な向上に深刻な問題を投げかけているのはたしかである。そんな思いをも立ちあがらせる1首であった。

 林うた「教ふるに故なく笑ふこと多き此の少女等とはへだたりとほき」の「林うた」は、東京の女子高等師範学校を出て、郷里の高等女学校で教鞭をとっていた頃の歌人、阿部静枝のペンネームである。無産婦人運動の活動家であって、後、評論家、政治家としても活動した。50数年前に、私が短歌の手ほどきを受けた師でもある。同郷の菅原千代による『林うた歌集さいはひ』(左右社 2012年)から引いている。

 朝日歌壇に入選が続いたホームレス歌人公田耕人、獄中歌人郷隼人も登場し、小林多喜二や山本周五郎、出口王仁三郎の短歌も登場する。

短歌を詠む人、短歌を語る人はもちろん、これまで短歌に縁がなかった人でも、どの頁から読み始めても、十分楽しめる一冊ではないか。

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装画は池澤賢「熔鉱爐」(1949年)

 

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2015年7月27日 (月)

7・26国会包囲行動に参加、熱気と猛暑と  

    無理はしないようにと、自分に言い聞かせ、つば広帽子と飲み物と、今回は首にでも巻こうかと保冷剤も保冷袋で持参した。連れ合いの旧職場の有志の会の旗のもとに入れてもらい、やはり日蔭ということになって、国会前の南庭園の植え込みに陣取った。私は、金子兜太さんの向こうを張って「安倍を倒す」と書いたゼッケンをつけた。「倒せ」出なくて「倒す」とした。議事堂正門に向かって左側になる。幅広い植え込みにあがって、庭園のフェンスに寄りかかったり、座り込んだりする。確かにときどき庭園からの風にホッとすることもあったが、何しろ地面も熱い。同じ植え込みには、緑の党の旗があった。もしやと思ったらやはり、松戸の「関さんの森」の支援活動をなさり、原発事故の折は、放射線量を計る佐倉市の市民グループの指導に来てくださったMさんの姿もあった。思わず駆け寄ってご挨拶した次第であった。

    私が気に入ったコールは「戦争反対」「9条守れ」「9条壊すな」「戦争法案今すぐ廃案」「今すぐ廃案」とシンプルなものだ。「国際戦争支援法反対」「戦争法制整備法反対」などとなると力が入りづらい。スピーチも、街頭なのだから、いやそれに、この猛暑の中なのだから、短いに越したことはない。だが、どなたも総じて長かったように思う。政党からは民主/蓮舫、共産/山下、社民/吉田の各議員、ゲストは、香山リカ、鎌田慧、佐高信、山口二郎、福山陽子さんたちだった。かなりおなじみの方もいる。

     わたしたち二人は、仲間より一足早く、桜田門に向かい、右に折れて、庭園沿いにしばらく歩いた。向かいには国交省、外務省を見ながら茱萸坂に至り、国会議事堂前から地下鉄に乗った。 この日の参加者数は2万5000人とのことだった。皆さま、お疲れ様でした。  

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木陰に陣取る、きょうの行動日程

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かなりお疲れの様子・・・

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2015年7月25日 (土)

鶴見俊輔さん、ご無沙汰しておりましたが~

 724日の朝日新聞朝刊の鶴見さんの訃報に驚いた。その記事では「死去したことが23日わかった」とされているだけだったが、続報で20日、京都市内の病院で肺炎ため亡くなったとあった。「やすらかに」とは言えないいまの政情である。色々な方たちが各紙誌で追悼のことばを述べているし、これからも発信されることだろう。私も、一時期ご縁があって、励まされていたことを思い出さずにはいられない。ここに、当時の一文を後掲、再録しながら、ささやかながら、哀悼の意を表したいと思う。

 19881010日、私は、はじめての評論集『短歌と天皇制』をまとめ、名古屋の風媒社から出版した。準備を進めているときは、まだ名古屋に住まい、仕事もしていた。その年の春、急きょ連れ合いの転任に伴い、私も千葉に転居、転職したばかりだった。そして、世の中は、夏に昭和天皇が倒れ、闘病中で、いわゆる「自粛ムード」が蔓延し、にぎやかな歌舞音曲やイベントが街から消えた。関係報道も自粛が迫られ、関連出版物も書店の店頭から引き上げられた。その一方で、天皇の「下血量」報道が日常化していた。いま考えると、「どうかしていた」世情ではなかったか。メディアや出版界は、あんなにもヤワだったのか、それを許していた国民は?の思いにいたる。それでは、27年後の現在は?どれほど変わっているのかいないのか、しっかり立ち止まって考えねばとも思う。

 そんな中での、くだんの出版だったのである。それでも、朝日新聞の文芸欄(富岡多恵子)での紹介を皮切りに、朝日ジャーナル(坂本孝治郎)、図書新聞(道浦母都子)、北海道新聞・西日本新聞(山田宗睦)海燕(佐佐木幸綱)の書評のほか、共同配信による書評が多くの地方紙に掲載された。そして、翌年早々、天皇死去直前、鶴見俊輔さんが「文芸誌散策・韻文」(朝日新聞・大阪版)で、紹介してくださったことを知った。みなさん、まったく面識のない方々ばかりだったので、身の引き締まる思いもしたのだった。鶴見さんは、それだけではなく、その後、いくつかの執筆の機会を提供してくださったようだった。その一つが、鶴見さんが編集のひとりだった、後掲『戦後史事典』(三省堂 19913月)の大項目「短歌」だった。戦後の短歌史を概観するという、これまでにもない大仕事に思えた。緊張の余り?ご覧のように、斎藤茂吉の作品に脱字があって、取り返しのつかないことをしているのだが、その後、自著への再録もしていないので、歌人の読者は、きっと少なかったと思う。ところが、この事典が出た数年後に、私よりは若い男性歌人から一通の手紙が届いた。ご本人は忘れているかもしれないが、熱い共感と励ましのことばだった。これも忘れがたく、いま、歌壇で活躍中なので、その名前は控えておきたい。私は執筆当時と全く変わっていないスタンスなのだが、鶴見さんやその歌人は、その後の私の著作についてどう思われたか、知りたい気持ちもある。鶴見さんからはすでに聞く機会を失ってしまったのだが。

  『思想の科学』の数々の特集や分冊の『転向』などは、いまでもよく利用させてもらっている書物である。

 鶴見さんには、一度、東京で開催された大熊信行関連の会でお目にかかったが、その後は、紙誌上でお遭いするばかりだった。

 ご冥福を祈ります。 

『戦後史事典』(三省堂 19913月)より

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「赤松常子~婦人運動、社会運動に生きた生涯」展(友愛労働歴史館)に出かけました

  720日の当ブログ記事でもお知らせした「赤松常子展」(友愛労働歴史館 2015712日~1130日)に出かけた。1965721日に亡くなっているので、没後50年を期しての展示会である。昨年は、生家の山口県徳山の徳応寺で50回忌が執り行われている。今回の展示も友愛労働歴史館事務局長のMさんの奮闘の賜物であろう。

展示は、以下の4部からなる。 
 
①赤松常子・そのひとと生涯
 ②婦人解放運動に取り組んだ赤松常子
 ③政治家、婦人活動家として生きた赤松常子
 ④赤松常子の短歌、ゆかりの歌人たち
 

 

  第4部には「―与謝野鉄幹・晶子、阿部静枝、宮崎白蓮―」の副題がついている。阿部静枝について調べている者としては見逃せないと思った。静枝とは短歌の縁ばかりではなく、無産婦人運動の盟友でもあった。常子は、実家の寺でも、父母の乳児保育などを手伝っていたが、1918年、京都女子専門学校時代から賀川豊彦の貧民救援事業、水谷長三郎の労働学校の活動に始まり、1921年頃から労働運動を志し、上京、1925年総同盟婦人部には入る。後、社会民衆党、社会民衆婦人同盟に参加、夫、阿部温知ともに社会民衆党の活動に参加した阿部静枝と出会うことになる。以降、社会大衆党、社会大衆婦人同盟の解散に至るまで、常子の委員長のもと、静枝が助けることになる。戦後は、社会党、民社党において、常子は国政、静枝は地元の東京都豊島区の議員として活動することになる。短歌は、常子の父が与謝野鉄幹の兄ということもあって、歌集こそ持たないが、作歌を続けていた。宮崎白蓮とは、夫の宮崎竜介が社会民衆党であったこともあり、さらに、戦後は、白蓮らと世界連邦建設運動に参加したゆかりもあったのだ。

 

常子の遺詠抄より

・一樹には一樹の生命凛として朝霧の中につつましくたつ

・他党候補にもわが押す候補にもいちように落花吹雪き手車上に白し

常子への追悼歌より

・なつかしき面影ばかり胸にしてのこるいのちのさびしや今宵 (宮崎白蓮)

・草中の野花に敏く目をとめて愛しみし人高く生きつつ(阿部静枝)

 

 なお、追悼歌「忽忙の政治家の日々を縫ふごとく歌作りたり赤松常子」と詠んだ尾崎孝子について、事務局長のMさんは、顔写真と情報を求めていた。なつかしい歌人の名を久しぶりに聞いた。尾崎は、古くからの『ポトナム』同人でもあったし、のち『橄欖』の同人で、何よりも歌壇新報社のオーナーでもあり、ジャーナリストでもあった。戦前は台湾歌壇でも活動した歌人であったが、短歌史にはなかなか登場してこない歌人になってしまった。1970年に亡くなっているが、その晩年に、どこかの出版記念会のような所で、私はお見かけした記憶がある。写真は、手元の『戦後歌人名鑑』(十月会編 短歌新聞社 1993年)でしか見いだせなかったが、神奈川県立図書館に「尾崎文庫」があるそうなので、そこへ行けば、写真の件は解決しそうである。

戦後70年、赤松常子没後50年、阿部静枝静枝没後40年を超え、宮崎白蓮(1885~1967)没後50年になろうとしている。彼女たちが、今の政権のやり方を見ていたら、自らの体験を踏まえて、どんな声を上げるだろうか。白蓮は、朝ドラ「花子とアン」で思わぬブームになって驚いているだろう。

 友愛労働歴史館を去る間際、きょうも、埼玉の方から、縁者の遺品だといって届いた資料がありますと、Mさんは開いて見せてくださった。どれも、紙の不自由な時代のパンフレットや冊子が多かった。その中で、思いがけないコラボの小さな冊子があった。

 金森徳次郎序、木村篤太郎序・田中伊三次著『新憲法の解明』(扶桑閣 1945年10月)、とあり、付録として、カイロ宣言、ポツダム宣言やアメリカ憲法、ソビエト憲法までが収録されているのだった。解説は読みそこなったが、新憲法への戸惑いと意欲が見えるようだった。

ソーリ、ソーリ、隣家の火事という 赤いワタ菓子で模型など作っている場合ではないでしょう!少しは憲法の勉強をしてくださいヨ!

 

 

 

 

 

 

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2015年7月22日 (水)

なつかしの池袋の本屋さん

 おとといの720日、池袋西武の書店リブロが閉店した。前身の西武ブックセーターが開業したのが1975年というから、私は、すでに池袋の生家を離れていたし、リブロになったころは名古屋に住んでいた。生家に帰省や出張で上京した折、リブロと併設の「ぽえむ・ぱろうる」、セゾン美術館(1975年西武美術館スタート1989年セゾン美術館と改称、1999年閉館)などに立ち寄ったことはあったが、近しい本屋さんという訳ではなかった。しかし、閉店となるとやはりさびしい。もっとも、リブロの居ぬきの形で三省堂池袋本店8月からすでに一部開業の準備を進めているそうだ。これまであったロフト内の三省堂書店とは併存するらしい。西武デパートの向かいに1997年(2001年に売り場倍増で約2000坪)、ジュンク堂池袋店の開業と近年のアマゾンなどによる書籍のネット販売の影響が大きかったのではないかと思う。出版自体、書籍、書店の行方というのは、将来どうなるのだろうか。図書館勤めが長い割には、蔵書家でもないし読書人でもない私だが、前の記事で紹介した伊藤一雄さんの『池袋西口 戦後の匂い』にあやかって、本屋さん体験を、いま、記しておこうと思った。

 

 戦後の池袋平和通りに、本屋さんはなかった。ただ、戦前の西原通り(西山町会と原町会の間)には、小さな本屋があったらしい。1933年生まれの次兄が、幼いとき、いっとき、家からいなくなって、近所を探しても見つからず、両親はあわてて警察に届けようと思った矢先、ひょこっと家に帰ってきたことがあったらしい。あとから、近所の本屋さんの話で、ずっと座り込んで絵本を読んでいた、というエピソードを聞かされていた。その次兄も弟を探しまわっただろう長兄も故人となって、確かめようがない。戦後は、私の知っている限り、母などが月極めの雑誌を買ったり、私の小学館の学年雑誌などを買ったのは、西口バス通りの芳林堂書店(創業は19483月とHPにある)。当時は、要町に向かうバス通りの右側にあったのが、後、向かいビルに移転したはず。もともとの位置にあるのが、現在の芳林堂コミックプラザだろうか。1990年代の後半、退職後、立教大学に通うことになった折、芳林堂にはよく立ち寄った。最上階に「栞」というカフェがあり、昔は、バス通りにあった古書専門の「高野書店」が入っていた。2004年、実家の長兄が板橋日大病院に入院、見舞いの折、バスの車窓から閉店直後のビルを見て驚き、バスに乗るたび、寂しく思ったものだった。閉店したのが20031231日だったという。現在、高田馬場ほか12店舗を持つ会社だが、HR のロゴマークをあしらったブックカバーは健在なのだろうか。なお、東武デパートの旭屋書店、開業は1971年というが、約500坪でリニューアルしたのが1992年、池袋で、少し時間にゆとりができると立ち寄ったのが、この本屋さんと東武美術館(19922001年)であった。美術館は20013月に撤退してしまったが、旭屋書店は健闘しているらしい。

 

 二又交番を経て立教通りに入ったすぐ左にあったのが大地屋書店1990年代後半には、すでに文庫専門店になっていた。子供のころは、ここまで足を運ぶことは少なかった。

 池袋駅東口のパンとレストランのタカセ、その向かいの新栄堂書店には、だいぶお世話になった。中学校は、新栄堂の前が始発の都電17番で通学、高校・大学は、地下鉄丸ノ内線で通学していた。丸の内線は、その頃は、確か東口からしか入れなかったので、毎日、池袋駅北口手前のガードをくぐっていかねばならなかった。受験参考書と学生時代のテキストなどは、まだ、大学生協などというものもなく、ほとんど新栄堂で、粘りに粘って、迷いに迷って購入したことを思い出す。ブックカバーが恩地孝四郎の幾何学的ながら、今思えば地味なデサインであった。細長い店舗は、立ち読みしている人がいると、声を掛けないと後ろが通れないような狭さだった。その新栄堂も2006年には閉店、ビックカメラになっているという。

 

 1972年に、池袋の実家を離れ、小田急線の向が丘遊園近くに転居したので、立ち寄る本屋は、通勤経路の新宿の紀伊国屋書店か、職場から土曜の午後の帰り、神田神保町の三省堂書店か書泉、古書店に寄ることが多くなった。さらに1976年、結婚・転職で、名古屋に転居してからは、東京の本屋さんとは縁が切れた。名古屋では短大の図書館勤めだったので、店頭選書と称して、栄の丸善と開店したばかりの三省堂書店にはよく「出張」した。1988年千葉県に転居後も、私大図書館勤めだったが、本はもっぱら、出入りの書店から一割引きで購入することが多くなった。

 1976年、私が東京の職場を離れ、1990年代後半、再び池袋と縁ができるまでの間に、池袋の書店事情は、大きく変わり、さらに、今世紀に入ってからは、ネット販売が浸透し、また大きく変貌したのが分かる。

 2003年、西口の芳林堂の閉店、2006年東口の新栄堂の閉店、1997年超大型のジュンク堂池袋店がオープンした影響が大きかっただろうと思う。たしかに、ジュンク堂池袋店に足を踏み入れた時のことが思い出される。そここに、椅子とテーブルが置かれているのは、最近の公共図書館のようでもあるし、書庫の端に、申訳のように机やいすが置いてある、私の知っている大学図書館とは趣を異にしていて、めっぽう明るかった。時間さえあれば、居心地のいい空間だろうと思った。ネット購入と違って、手に取って読めるのが何よりも強みだろう。 ジュンク堂と言えば、昨年、沖縄の那覇で、一つのビルにジュンク堂と丸善が入っているのを見て、老舗の丸善が?と思っていたら、とっくに両者の連携は進んでいたらしい。それだけ書店経営も大きな曲がり角に来ているのだろう。

 そして、現在の本の調達はと言えば、最寄の駅ビルに残った1軒の書店があるが、よほど運が良ければ欲しい新刊本に出会うことができる。しかし、まず、この店では入手できない。私にとってはどうでもよい?本ばかりが並び、とくに、目立つのが、保守的、右翼的論者の本が山積みされていたりすることだ。私の住んでいる、ここって、どんな町なんだろうと気がめいることがある。新刊は少し我慢して、「日本の古本屋」で探したり、東京に出た折、お茶の水や日本橋の丸善だったり、定期検診の通院で利用する地下鉄の早稲田駅の近くの本屋さんだったりしたが、その本屋さんが最近、大型のコンビニになって、学生でにぎわっていた。

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伊藤一雄さん、『池袋西口 戦後の匂い』(合同フォレスト 2015年7月)出版おめでとう

   あのころの池袋を知っている人も、知らなかった人も、きっとなつかしさで胸がいっぱいになるような本だ。

   私は、空襲の焼け跡が生々しい池袋に、疎開先から家族で戻ったのが、敗戦の翌年、小学校1年の夏だった。借地に建てたバラックは、店と6畳と台所だけで、5人が暮らしはじめた。  

   このブログで、池袋第五小学校の恩師乙黒久先生のことは何度か触れた。その同じ乙黒先生のもと、私より10年あとの池五の卒業生が著者の伊藤さんだ。乙黒先生からの紹介ということで冊子「池五の界隈」が私にも贈られてくるようになった。小学校、中学校時代を池袋の、なんと私の暮らした平和通りの家のすぐ近く、同じ地主さんの敷地に住んでいたという。池五っ子の遊びのテリトリーは、ほとんど同じだが、時代が少し違っていた。伊藤さんは、当時のことを思い出しながら、克明に記録した。文学青年そのままに、そして、新宿区を拠点に自治体行政に長く携わった専門知識を忍ばせながら、池袋の「いま・昔」を辿りにたどったのが、この本である。記憶だけではなく、資料探索も怠りなく、綴られた冊子「池五の界隈」は7冊にも及んだ。そのたびに、私も、決して嫌いではなかった「まち歩き」を伊藤さんと共にするような気持ちで、私の記憶や感想をメールでお届けした。それが、つぎの冊子で登場して来たりするから少し緊張もするのだったが、まだ、お目にかかったことがない。

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   池袋西口にひしめいていたヤミ市、なかなか進まない西口の区画整理、駅界隈や平和通りの商店の数々、当時はやっていた遊びや娯楽の王者でもあった映画やこれもひしめいていた数々の映画館、都電やトロリーバスが走っていた街、デパートが進出し、地下鉄ができて、ターミナルとなっていく池袋がいきいきと語られる。”私の池袋の戦後史”が綴られる中で「文学のまち」「映画のまち」 「美術のまち」という章もある。

  巣鴨プリズンがサンシャインビルとなる頃、私は池袋の生家を出ているが、帰省するとサンシャインとゴミ焼却場の高い煙突が窓から見える部屋で眠る。路地を入れば、ラブホテルが軒を並べ、長汐病院が大きくなり、商店主も多国籍になってゆく平和通り界隈だが、見覚えのある看板を掲げている店も残り、Sさんの屋敷跡は「池袋の森」となったりしている。 まだまだ、池袋は変わるだろう。しかし、こんな時代もあったと池袋を思い返すことは、たんなるセンチメンタリズムだけには終わらないにちがいない。大人の自転車で三角乗りにに挑んで何度でも転んだり、社会科では、新憲法の基本を熱心に教えた先生たち、憲法「前文」を必死になって暗記しようとしたり、買ってもらった少年朝日年鑑を毎日風呂敷に包んで登校したり、ローマ字の時間がとても新鮮に思えたりした頃の自分を思い返すのも悪くはない。 

   伊藤さん、続編が読みたいです。

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2015年7月20日 (月)

「赤松常子の思想の時期的変容―戦前からGHQ占領期を中心に―」の報告を聞きに行きました

西日本からは、台風の被害が届いていた週末、大雨にはならないだろうと、東京での研究会に出かけた。ネットで見つけたのが、この総合女性史研究会例会で、私は、初めての参加だった。

表題の「赤松常子」といっても知らない人の方が多いのでは。戦前の無産婦人運動の活動家で、戦後は、社会党、後は民社党の国会議員として活躍した人だ。その政治的活動軌跡は、私が短歌を作る最初のきっかけというか、いわば入門した阿部静枝とほぼ同じくするところから、関心があった。常子は、与謝野鉄幹を叔父とし、京都の寺の娘として生まれ、兄弟は、赤松克麿・明子夫妻ほか、錚々たる地位に就いた人が多いなか、女性労働者の権利保護のための労働運動に入るが、無産婦人運動が終息した戦時下は、産業報国会の一員として活動することになる。静枝は、1938年、夫、阿部温知の死後辺りから、歌人・評論家としての活動が主となった、という違いはある。戦後は、歌人・評論家に加えて、住まいのあった東京都豊島区の区議会議員という肩書を持ち、社会党、後は民社党として活動した。両者のそんな共通点と相違点に関心があったので、若い人のレポートを聞きたいと思ったのだ。

総合女性史研究会のホームページには、つぎのような予告がなされていた。

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修士論文発表会開催のお知らせ

 日 時:2015718日(土)14:00

 会 場:文京区男女平等センター D研修室

 報告者:堀川祐里氏

 テーマ:赤松常子の思想の時期的変容―戦前からGHQ占領期を中心に―

<概 要>

赤松常子は、1897年(明治30年)に生まれ、大正・昭和を生きた女性運動家である。1965年(昭和40年)に没してから、その労働運動や政治活動については現在までに数多くの研究や文学作品において断片的に知ることができるが、赤松常子自体について、その研究はごくわずかでこれまで進展することがなかった。本報告は、赤松が執筆した雑誌、新聞記事、論文、加えて座談会や国会における発言等から、赤松常子の思想の時期的変容を実証的に明らかにするものである。本報告では、赤松の生い立ちから、参議院議員第1期目の1953年までを対象時期とする。赤松というひとりの女性運動家を軸にしてみた労働組合運動の一面は、男性運動家のそれとは様相が異なる。今回の報告では特に、戦前における労働運動において赤松が「婦人問題」をいかに捉えていたかについて報告する。また戦前は封建主義批判を行っていた赤松が、戦局が深まる中で「家族の美風」を賛美したところから、戦後再度「封建性」を批判するようになるという、戦争を基点とする思想の時期的変容を明らかにする。

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 会の参加者は、総勢17人。報告者の堀川さんは、中央大学経済学部修士課程を終え、いまは博士課程に在籍の院生だった。修士論文の一部を要約しての報告とのこと、約一時間ちょっとでは、やはり時間的に窮屈そうであった。司会は、名古屋の桜花大学石月静恵教授であった。『戦間期の女性運動』(東方出版 1996年)の著者で、阿部静枝の調査では、私もずいぶんお世話になった著書である。この会で、お目に掛かれるとは思わなかった。

 報告は、赤松常子の労働組合運動についての発言を、赤松常子没後の評伝、『労働』(日本労働総同盟)『労働婦人』(日本労働総同盟婦人部)『民衆婦人』(社会民衆婦人同盟)『婦選』(婦選獲得同盟、後『女性展望』に改題)など機関誌から、丹念に掬い上げていた。そこでは、女性労働者にとっての労働組合の重要性とその活動への会社側からの数々の妨害の実態がたどられ、農民組合や消費組合との共闘への言及も捉えられていた。また、実兄、赤松克麿の妻赤松明子との運動論の違い、とくに「満州事変」をめぐって、克麿の国家社会主義への転向に従った明子との確執などを経て、戦中は、総同盟解散後、産業報国会本部に拠りながら「勤労女性の家族制度における役割の重要性」を説くようになる。さらに、戦後はGHQ指導下の婦人組織の結成などにかかわり、女性自身の「内なる封建制」の打破と資本主義との戦いを強調するようになるという、参議院議員当選までの思想的な変容をたどる報告であった。

 たしかに、赤松常子や阿部静枝にかぎらず、平塚らいてうや市川房枝ら多くの女性の権利獲得のための活動家たちがたどる道の共通点は多々ある。曲折の軌跡の実態を捉え、その分析をすることが、後世の歴史研究者の使命と思う。振り返って、納得のできる運動ができる状況を維持・確保することの難しさとそれへの挑戦がどうなされたか否かがカギではないかと思う。

 レポートは、戦中・戦後への言及や資料の検索が、まだ、十分でないことを自覚されてのことではあったが、若い方だけに今後も頑張ってほしいと思った。

 なお、私からは、戦中における赤松常子の生活の基盤、とくに経済的な基盤はどうだったのか、それが思想的な変容に影響はなかったのか、また、思想統制や言論弾圧とは、どのような形で対峙したのかの2点について、質問した。前者については、やはり、兄弟、とくに末弟の家に同居し、暮らしに困ることはなかったであろう、とのことであった。

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文京区男女平等センター:1986年文京区婦人センターとして開設され、1991年女性センターと改称、2002年男女平等センターとなった。マンションの1階で、この建物の後ろに真砂図書館があるが、現在改築中とのこと
 

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本妙寺坂:文京区男女病だおセンター前から本妙寺坂を望む。突き当りを横切る道路が菊坂、正面の坂を上ると、本妙寺跡へ。右手手前に本郷小学校がある。1998年にここにあった真砂小と元町小が統合、本郷小学校となって、新校舎ができたのが2002年だったとのこと

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真砂遺跡:文京区男女平等センタ―前の案内板。江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。  現在の建物を建築するにあたり、昭和59年(1984)に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物が出土、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料となった

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<お知らせ>友愛労働歴史館からつぎのようなお知らせが届きました。赤松常子没後50年を記念しての企画展です。

友愛労働歴史館企画展
「婦人運動、労働運動に生きた生涯 赤松常子」

「労働運動のナイチンゲール」と慕われた赤松常子(1897.8.11~1965.7.21)は、戦前の総同盟・社会民衆党系の活動家で、戦後は全繊同盟(現UAゼンセン)を母体に社会党・民社党の参議院議員として、また社会運動家として、その生涯を労働運動・婦人解放運動・社会運動に捧げました。
 2015年は赤松常子没後50年に当ります。これを記念し友愛労働歴史館は、企画展「赤松常子ー婦人運動・社会運動に生きた生涯」(2015.07.21~11.30)を開催いたします。

 「赤松常子」展では第1部~第3部で赤松常子の労働運動・婦人解放運動・社会運動について紹介・解説するとともに、第4部で赤松常子の短歌やゆかりの歌人たち(与謝野鉄幹、与謝野晶子、阿部静枝、宮崎白蓮)についても紹介いたします。

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2015年7月15日 (水)

国会中継をしないという「総合的判断」!~7月15日、NHKはやはり死んでいた!

 けさのテレビ番組表をみて驚いた。きょうの安保法制特別委員会は集中審議を経て、午後にも強行採決に入るというのに、中継がない。ふれあいセンターに問い合わせると、

NHK:中継の予定はございません

私:きょうのような大事な時に、なぜ中継をしないのか

NHK:番組担当者にそのように伝えます

私:なぜ中継しないのか、それに答えていないではないか。“ふれあい”というからには、「伝える」ではなく、中継しない理由を説明してほしい

(上司とやらに代わる)

私:同じ趣旨の質問がたくさん来ているはず、NHKは、説明すべきだ

NHK 番組の編成は、総合的な判断で決めています。ニュースで適宜放送します

私:中継とニュースではちがう。ニュースは編集されてしまう。「総合的に判断」?安倍首相みたいなことを言わないでください。受信料を払っている国民に伝えるべきを伝えず、政府に都合のわるいことを、放送しないというのは、納得できない。受信料をとっておきながら、NHKは、大きな間違い、罪悪をおかしていることになりますよ。

「キタァー」というのか「デタァー」というのか、「総合的な判断」!!ほど、恣意的なものはない。715(水)、総合テレビでは、相変わらずの、あさイチ、趣味どきっ現代テニス(再)、ひるブラ世界遺産知床原生林、スタパ、認知症・これが防ぐチョイスだ、午後3時からは大相撲中継、である。

これが今のNHKの現状なのだ。きのう、おおとといの「ニュース7」で、NHK世論調査でも、今回の安保法制では説明が尽くされていないという回答が圧倒的多数だったことを報じた矢先のことである。特別委員会では、政府にとって不測の事態が起こるかもしれない、どんなボロが出るかもしれない、その中継だけはスルーしてほしいという圧力があったか、いや忖度の結果に違いない。

さっそく抗議、何度でも抗議、みんなで抗議するしかない。ともかく抗議と受信料ストップで闘うしかない。

(7月15日10時55分)

NHK視聴者センター:0570-066-066

ニコニコ動画国会中継中:http://twitcasting.tv/moi_kokkai0

ほか、

リアルタイムで、国会中継 NHK で検索してみてください。 

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2015年7月14日 (火)

7月12日、シンポ「沖縄戦後70年:基地問題とジャーナリズム」に参加しました  

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山内ゼミの学生の応援がたのもしい受付

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夏らしい集会の受付、左端の山内先生も忙しそうです

「沖縄戦後70年:基地問題とジャーナリズム」

日時:
7月12日(日) 13時~16時30分

会場 明治大学(御茶ノ水)駿河台キャンパス

    グローバルフロント棟 グローバルホール(1階)

●研究報告 山内健治(明治大学政経学部教授)
    “基地接収・返還に揺れた共同体――読谷村の事例から”

●パネル討論 “辺野古から考える日本のジャーナリズム”  

金平茂紀(TBSキャスター)

影山あさ子(映画「圧殺の海」監督)
 
宮城栄作(沖縄タイムス東京支社報道部長)

司会 醍醐 聰(東京大学名誉教授)
 
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右から、宮城、影山、金平、醍醐の各氏

新しいグローバルホールは、階段状のホールで、折り畳みの机も備えられている、居心地の良い会場だった。ほぼ満席の約180人の参加、ユープラン、IWJなど4つのカメラが入ったという。
 文化人類学、東アジアの民俗学に詳しい山内先生の報告は、あっという間の30分だった。数十年間にわたる沖縄でのフィールドワークのうちの読谷村の事例を話されたが、村の集落「シマ」が戦争で破壊され、再建のさなか、米軍の接収によりさらにズタズタに分断される様子が数字や映像で明確に語られていた。仮設住宅から基地内の公認耕作地に通う人々、「祈り」の場を次々失ってゆく人々が移設しても必死に守ろうとする姿が痛切であった。
 パネル討論の詳しい内容については、下記のユープランの配信映像で見ていただきたい。ここでは私がとくに印象に残った発言を恣意的ながらとりあえず発言者ごとにまとめておきたいと思う。壇上では、期せずして宮城さんから若い順に並んだ格好だった。
    

             *****
・20150712 UPLAN【研究報告】山内健治“基地接収・返還に揺れた共同体――読谷村の
事例から        https://www.youtube.com/watch?v=UKs5Ux6C7Vc

 

・20150712 UPLAN【パネル討論】金平茂紀 影山あさ子 宮城栄作 “辺野古から考える
日本のジャーナリズム” https://www.youtube.com/watch?v=ApXZzfPOfBA 

 

             ***** 

◇宮城さん:
・沖縄と本土との関係を「温度差」「溝」そして「対立」「平行線」とのことばで語られたくはない。今回の沖縄の二紙を「つぶせ」の発言は、毎度のことという印象があるほど繰り返されてきた。昨年の石垣市長選直前の石垣への自衛隊配備計画報道への露骨な規制から遡ると限りない。今回も発言者の品位や資質の問題ではない。メディアとしては直ちに反応してゆきたい。
・本土では、戦後、憲法やメディアが天から降ってきたものかもしれないが、沖縄では、憲法も自分たちのメディアも自らの力で獲得してきたという感覚があり、メディアは、住民にきたえられてきたので、住民サイドに立つ必然性がそこにある。全国紙は、基地問題が法的手続きの問題であり、負担軽減の問題としてとらえているところが問題なのだ。
・ことばとしても、本土では、辺野古への基地移設、移設反対派ととらえるが、沖縄では新基地建設、建設に抵抗する市民 としてとらえている違いは大きい。

・報道の公平・公正というが、軸足をどこの置くかにより変わってくる。弱者に寄り添う公正さに立った報道を実践してゆきたい。
◇影山さん:
・辺野古の基地建設については、2014年7月の着工から撮影を開始し、12月までを『圧殺の海』としてまとめた。影山さんのプロダクションでは、以降もカメラマンが常駐して撮影している。10年前の取材陣と比べると激減し、海上保安庁の、かつてのとにもかくにも“中立的”だった姿勢が一変したのは、第一次安倍内閣からだという。5分ほど流された、4月以降の最新の映像からも、海上保安庁による“警備”の暴力的なすさまじさに息をのむほどだ。人命救助のため、と屈強な海保の隊員が怒号を浴びせながらフロートの外にいるカヌーの市民を襲い、放り出した海で何度でも頭を沈めるという、まさに暴力団まがいのことを繰り返す。影山さん自身もカヌー上に乗り移ってきた隊員に羽交い絞めにされた経験を持つ。
・そのカヌー転覆事件のときは、NHKも撮影していて、沖縄の放送では流れたが、本土では流さなかった。NHKは、展望台から撮影しているが、NHKの撮影隊が来ると、工事の進展の節目で、必ず何かがあると言われているそうだ。何らかの情報を得ているのだろう。
・影山さん制作の海兵隊のブートインキャンプ(新兵訓練所)に密着したドキュメンタリ映画「One Shot One Kill (一撃一殺)」の一部が流され、その撮影経緯について話される。12週間の訓練で「人間が人間でなくなって、人を殺す道具になっていく」様子が克明に描かれている。上官の命令にすべて「yes sir!」と叫ばされ、個性と思考を放棄させられ、銃剣やライフル、素手でも人を殺す訓練が繰り返されるリアルな映像に打ちのめされた。たった5分ほどながら、その迫力は十分すぎた。アメリカから沖縄に送り込まれ、沖縄からイラクやアフガニスタン、ファルージャにも出撃した海兵隊とは何者と、国防省の許可を得てのノースカロライナ州での撮影であったという。
◇金平さん:
  当日の夜にはドイツへ発つという忙しいさなかでの参加だったという。
・摩文仁の丘の平和公園の一番奥の岬のてっぺんに「黎明の塔」というのがあり、私も昨年11月に行ってきたところだが、そこは最後の軍司令官牛島満中将が6月23日自決したと場所とされている。6月23日「慰霊の日」の早朝には、毎年、自衛隊員が参拝しているというので取材に出かけると、今年も、制服自衛官30人ほどの隊員が、右翼らしい人たちと県警に守られて、そそくさと参拝している光景を目にしたという。沖縄の人にとっての牛島中将は、沖縄戦を引き伸ばし、島民や兵士の犠牲を激増させたとして、その評価は高くない。
・今年の「慰霊の日」の式典は例年にない雰囲気の中で始まり、翁長知事の平和宣言への拍手は、何回も力強いものがあり、高校生の詩の朗読も素晴らしかった。安倍首相の挨拶の段になると、「帰れ」コールは、あちこちで起こり、例年いないことだった。さらに、席から「何しに来た」「戦争はイヤだ」「帰れ」・・・と叫び続けていた高齢男性は、警備陣に退去させられていた。TBSでは、さらにその男性(82才)を追い、その発言を捉えたニュース映像を会場でも流した。ところが、6月23日のNHK「ニュース7」では、安倍首相への野次があったことすら伝えなかった。私も、このニュースは見ていたが、金平さんも、ホテルに帰って見て、びっくりしたという。野次のあったことが「ニュース」であるはずなのに、なかったことのように報道していることが恐ろしいと。
・とくに、NHKの報道番組が、政府広報になるのは、「政治部」の記者たちが、実に「エラそうな」振る舞いになるのは、まさに「自発的隷属」に陥っていることに起因するのではないか。

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「報道特集」の一場面、後ろ向きの男性が退去を迫られている


・客観報道、中立性について思い起こすのは、昭和天皇死去直後、皇居前で一人の高齢女性がひれ伏して泣き崩れる様子が各局から流れたが、あるカメラマンは、その女性一人を取り囲んで、大勢のカメラマンがレンズを向けている光景を俯瞰したという。

・TBS報道特集のような調査報道番組は、日本にはほとんどなくなった。放映の時間帯に変遷はあるが、圧力をかけられたことはない。CBSの「60ミニッツ」を手本に頑張りたい。

・今回の安保法案については、当初のもくろみの憲法改正が難しくなって、解釈改憲をして集団的自衛権を容認した経緯と11本の法案をまとめて強行することが問題で、そこの説明が大事で、政局報道に堕していることが危険である。
・辺野古の漁業組合の漁船は、すべて防衛施設庁に1日5万+ガソリン代以上で借り上げられ、沖合に並ぶ。メデイア関係者が借りる手立てはほぼなくて、独自に調達しているという事実も看過できない。

山内先生、3人のパネリストと、総合司会、討論の司会はじめ多くのスタッフの皆さん、ほんとうにお疲れ様でした。 会場では、佐倉市から参加された5人ほどの方とはお会いすることができた。
宮城さん、影山さんは二次会にも参加されたので、身近にお話を聞くこともできた。いまの日本を変えるにはどうしたらいいだろうという話なると、影山さんは「少なくとも辺野古を守り通せば、安倍内閣は倒せる」、それには、ともかく一歩を踏み出さねばといい、「辺野古基金」に拠出したからと、そこにとどまってもらっては困るとも。 現場に密着している影山さんならではの発言に、思わすはっとさせられたのであった。

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2015年7月10日 (金)

駅頭で「私たちは、だまされません」のビラを配る

なかなか降り止まない雨だったが、駅頭のベデストリアンデッキだったら、濡れずに配れるだろう。安保法制法案の審議中、国会の内外で、安倍首相や閣僚、与党議員たちの、日替わりでの暴言や失言が続くなか、「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」のニュースが30号になった。何の記念も「自祝」もないものだから、ニュースを少し増刷して、ユーカリが丘駅で配ることにした。私は、1回目は参加できなかったが、きょうは2回目、78日(水)午後4時から。1回目は日曜だったので、受取りは上々とのことだった。この日は、会の世話人と支援者たち10人ほどが集まる。

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今回のニュースは、編集も発行も手際がよかった。最後は編集長のMさんに任せきりの部分もあったが、世話人一同の怒りがおさまらない中での編集だった。似顔絵は、Mさんからすぐ届き、私の作成した2頁目の年表は、どこからかコピーしてこようと思ったが、なかなかピッタリのものがなく、結局自分で作成した。が、いまから思うと、いろいろ不備がある。たとえば195912月砂川最高裁決定、1972年の集団的自衛権についての政府見解などが抜けていることがわかった。いまの政府は、集団的自衛権行使を合憲とする根拠が皆無の中で、もがき、苦し紛れに何を持ちだすかわからず、一瞬の油断も許されないので、私たちこそ、“切れ目のない”法案阻止の行動が必要になってきた。

 たった4頁のニュースだけれども、私は、「集団的自衛権に反対です」「9条を守りたいんです」「私たちも勉強中です」などと言って「読んでみてください」と手渡そうとするのだが、むずかしい。とくに、男性の青年・中高年層はまるで無視するかのように、わかりもしないで何をやってるんだ、の勢いで払いのけるような人もいる。やはり、男女とも年配の方々が、声をかけてくれたり、手を出し受け取ってくださったりする人が多い。一方、下校時の高校生には、「もうすぐ選挙権だよね」「あなたちにも大事なことだから」・・・、「読んでみて」と渡すと、わりと素直に受け取ってくれることが多いのだ。 

 私は、1時間弱で、20枚ほどしか渡せなかったけれど、56人の方とおしゃべりできたのがよかった。北口のコンコース近くで、待ち合わせ風の年配の女性二人連れ、おしゃべりに夢中で相手にされないかな、と思って近づき、ニュースを手渡すと「イヤだね、戦争は」「若い人が気の毒だね」と端的な答えが返ってきて、しばらく話し込む。また、、ホテルの入り口付近でホテルのパンを販売しているコーナーがあるのだが、その店番をしていた、コック帽をかぶった男性が、近づいて来た。ホテルの人間?山万の人?なんか文句でも言われるのかしら。「いやここは道路だから問題はない」と構えると「こんなところで、ビラまいてもなあ、国会に行った方がいいんじゃない?」というではないか。真意はわからないものの、「おっしゃる通りですね、だから、私たちも、なるべく国会へは行っているんですよ」「みんな都合をつけて、国会周辺の行動には参加してますけど、佐倉でもということで・・・」・・・。お客が来た!と売り場に飛んで行った人もいた。川柳をやっているという年配男性、さっきは他の世話人にも話しかけていた人だ。 やはり、いまの政府のやり方に怒っていた。そろそろ手元のニュースもなくなったいう頃、手渡そうとしたとき、名前を呼ばれ「頑張ってますね、大変ですね」と声を掛けてくださったのはご近所の男性だった。ふだんお話をすることもなかったのに。

 先日は、このブログでも紹介している、宮ノ台女性井戸端会議が発行している「すてきなあなたへ」の読者という同じ丁目の男性から、70号の「嵐のような、あの<佐倉市長選>は何だったのか?」の記事はよかった、共感しました、のお電話をいただいた。配布直後にも、この町内に転居して間もないという女性からは、「書いてあることはほんとなんですか」とも問い合わせが来たことがある。「あの年表で、よく事情が呑み込めた」という方もいらした。読者の声を直接聞くことができたのは、やはりうれしかった。

 この日のニュース配りも、対話が生まれる街になる願いを込めて終えたのだっ

た。

2頁以下は、下のPDFでご覧ください。

http://sakurasizu9jo.cocolog-nifty.com/blog/files/image00.PDF

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2015年7月 9日 (木)

採択を控えての教科書展示会に出かけた~「国語」のなかの<近代・現代短歌>

   「ハンパナイ」などといって、カタログハウスのダニとりシートのコマーシャルに親子で出演の俵万智をみた。今世紀に入ってからの中学生の誰もが、「国語」の時間に出会っている現代歌人である。
  近くのコミセンで教科書展示会が開催されていたので、最終日の午後、雨のなかを出かけた。展示会と言ってもロビーに長机を出してのそっけないもので、隣のホールは、ドア開放でダンスパーティーまっさかりのすごい音響である。ゾロリとした夜会服を着た女性たちがにぎやかに行き来するなかでの閲覧であった。メモをとっていると、よほどご機嫌がよろしいのか、背後から「オベンキョウですか」なんて覗いてきたりする雰囲気だった。展示の閲覧は、他に女性二人連れだけだった。

  今回も時間がなく、大急ぎではあったが、「国語」の近・現代短歌の扱い、「歴史」における敗戦前後の扱い、「公民」における憲法、なかでも天皇についての記述に着目したかった。やっぱり、初日から通うほどの時間が欲しかったと悔やまれるが、時間ぎりぎりの5時近くまでねばった。コピーがとれないというので、もっぱらデジカメで撮るのが精いっぱいで、大事なところが抜けたりしていた。

  教科書は、ほぼ10年に一度の学習指導要領の見直しがされる中で、4年に一度、検定・採択が行われる。まず、民間で著作・編集された教科書は、2年目に文科省の審議会で検定を受け、合格したものの中から各自治体の教育委員会や国立・私立学校の校長が使用する教科書を選び、その採択を前に、市民には展示される仕組みになっている。その際、採択に関しての意見や要望を投函できることになっている。今回は、2016年度4月から使用される教科書の検定結果が4月6日付で公表された。 とりあえず、国語教科書の状況を記しておきたい。

  ちなみに、筆者の住む佐倉市では、『伝え合う言葉 中学国語』(教育出版)が採択されている。

   現在、検定を受けた中学校「国語」教科書は、東京書籍、学校図書、教育出版、三省堂、光村図書 の5社から発行されている。 (以下の文部科学省「中学校用教科書目録(平成28年度使用)」では、全科目確認できる)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/h27tyuugakuitibakenkyukasysaitakuitiran.pdf

  拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年)の「中学校国語教科書の中の近・現代歌人~しきりに回る〈観覧車〉」の章でも、五社発行の2006年度、2012年度から使用している教科書の比較を試みている。今回の展示で、2016年度から使用の教科書に収録された近代・現代歌人の作品を調べてみた。
  以下その一覧と各社教科書がどう変わったか、変わらなかったかを概観してみようと思う。過去の分については、上記拙著か過去のブログ記事をご覧いただくとありがたい。

・2011年11月30日
中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

  まず以下の収録の歌人と作品を一覧して、どんな感想を持たれただろうか。自分たちが出会った歌人と作品を思い出してみよう。私は短歌と近代の歴史事項に限って追跡してはいるが、たとえば、美術の教科書、音楽の教科書にも地殻変動は起きている。一度、お子さんやお孫さんの教科書をのぞいてみては。

(1)「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
~中学校では、“ハンパナイ”俵万智である~

 中学校で、歌人と言えば、「俵万智」であり、短歌と言えば、『「寒いね」と・・・』ではないだろうか。教科書に登場する歌人の短歌を作者の生年順に並べた。掲載の教科書の出版社の略称をカッコ内に示した。

  <中学校国語教科書(2016年より使用)収録の近代・現代歌人の作品>

正岡子規(1867~1902) 4社(教育除く)
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(学図・東書・三省堂・光村)
窪田空穂(1877~1967)
麦のくき口にふくみて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ(光村)
与謝野晶子(1878~1942) 4社(学図除く)
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな(光村・教育)
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(三省堂)
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に(東書)
小百合さく小草がなかに君まてば野末にてほひ虹あらはれぬ(教育)
斎藤茂吉(1882~1953) 5社
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆ(学図・三省堂・教育)
ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり(光村)
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片(東書)
みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞたたにいそげる(教育)
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(教育 )
北原白秋(1885~1942) 3社(光村・学図除く)
帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます(教育)
草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり(東書・三省堂)
土岐善麿(1885~1980 )
遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし(学図)
若山牧水(1885~1928) 4社
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(東書・三省堂・教育・光村)
石川啄木(1886~1912) 5社
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心(東書・学図・三省堂・光村)
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(教育)
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく(教育)
釈迢空(1887~1953) 2社
たたかひに果てにし子ゆゑ 身に沁みて ことしの桜 あはれ 散りゆく(学図)
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり(三省堂)
岡本かの子(1889~1939)
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり(東書)
植田多喜子(1896~1988 )
顔よせてめぐしき額撫でにけりこの世の名前今つきし児を(学図)
正田篠枝(1910~1965)
大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり(教育)
竹山広(1920~2010)
死屍いくつうち越こし見て瓦礫より立つ陽炎に入りてゆきたり(教育)
岡野弘彦(1924~)
砂あらし 地を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母(学図)
馬場あき子(1928~) 2社
つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染まりて(光村)
あやまたず来る冬のこと黄や赤の落葉はほほとほほゑみて散る(学図)
岡井隆(1928 ~)
眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す(学図)
寺山修司(1935~1983)4社(教育除く)
わがシャツを干さん高さに向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん(学図)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(東書・光村)
列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(三省堂)
平井弘(1936~)
困らせる側に目立たずいることを好みき誰の味方でもなく(学図)
佐佐木幸綱(1938~)
のぼり坂のペタル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ(学図)
河野裕子(1946~2010)
振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめん菜の花(学図)
道浦母都子(1947~)
秋草の直立つ中にひとり立ち悲しすぎれば笑いたくなる(学図)
栗木京子(1954~) 4社(教育除く)
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(東書・学図・三省堂・教育・光村)
早坂類(1959~)
虹よ立て夏の終わりをも生きてゆくぼくのいのちの頭上はるかに(東書)
俵万智(1962 ~)
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(東書・三省堂・教育)
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ(光村)
穂村弘(1962~) 3社(学図・教育除く) 校庭の地ならし用のローラーに座れば世界が夕焼け(光村)
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちくる涙は(東書)
シャボンまみれの猫が逃げ出す午下り永遠なんてどこにもないさ(三省堂)
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち(教育)
荻原裕幸(1962~) 夏木立ひかりちらしてかがやける青葉のなかにわが青葉あり(東書)
千葉聡(1968~) 卒業生の最後の一人が門を出て二歩バックしてまた出ていった(東書)
永田紅(1975~) 細胞のなかに奇妙な構造のあらわれにけり夜の顕微鏡(三省堂)

(2)観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
~見回せば、回る、まわる観覧車~

  2012年版に続き、今回も、栗木京子「観覧車・・・」の一首は、中学校「国語」教科書を”制覇”した。今回の検定に際して、教科書の「近代・現代短歌」の内容がどう変わったかを概観してみたい。

<中学校国語教科書における「近代・現代短歌」の概要(2016年度版)>
(2015年7月6日作成 内野光子)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/tyuugakkkokokugoitiran.pdf

注:朱の歌人名及び短歌の初句は、新しく収録されたもので、作品初句のみが朱のものは、 作品が変更されたことを示す。

「中学校国語」(学校図書)
 俵万智の短歌鑑賞のエッセイは変わらないが、「十五首」中身は、若干入れ替わった。もともと、中学校の教科書に岡井隆や平井弘が登場するのも珍しいが、前回の永井陽子と荻原裕幸が消えて、馬場あき子と岡野弘彦が入り、やや歌人の年齢層が高くなった感じである。もともと、植松寿樹に師事した『沃野』同人の植田多喜子の一首は、ややマイナーながら、作者のかつてのベストセラー『うづみ火』などが、選歌に影響しているのかもしれない。近代・現代短歌において、与謝野晶子を排除している選択にも、他との違いが見られよう。現在の傾向は知らないが、かつて、全国の公立高校の国語の入試問題文に馬場あき子のエッセイが盛んに使用されていた時期があったので、登場は、むしろ遅かったようにも思った。

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「短歌十五首」は『中学校国語2」に収録

『新編新しい国語』(東京書籍)  
 道浦の鑑賞文は変わらないが、登場の歌人と作品が大幅に変更され、「扉」に「短歌七首」が別枠で登場した。なぜここに一首だけ「猿丸太夫」が、という違和感はあるのだが、6人6首が新たに加わった。ここでの、荻原・早坂・穂村・千葉の起用は、歌人の「若返り」とともに、その作品の青春性、「親しみやすさ」に着目したのかもしれない。また「短歌五首」の与謝野晶子と寺山修司が道浦の引用と重なっているためか、正岡子規と若山牧水に変更されている。多くの歌人や作品に触れさせよういう点に配慮した編集と言えようか。早川については名前だけは知っていたが、やや意外という感は免れなかった。

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「扉の短歌七首」[

『現代の国語』(三省堂)  
  俵万智の自作一首と栗木京子の一首を交えての、短歌入門的なエッセイが新しくなった。歌人では馬場あき子と在日コリアン2世の李正子(「<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙に苦しみ閉じ行く絵本」)が去って、永田紅が新入りとなった。2006年版、2012年版からの変遷をたどると、その人選がかなりめまぐるしいことが分かる。 

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『伝え合う言葉 中学国語』(教育出版)

2年次の「近代の短歌」(九首)では、前回の<ふるさとの歌>の若山牧水「幾山河」が北原白秋「帰りなむ」に代わった。3年次の「ことばの自習室」に、穂村弘のエッセイ「それはトンボの頭だった」と佐佐木幸綱の鑑賞「古典の歌、現代の歌」の二つが収められた。後者にあっては、竹山広と正田篠枝というそれぞれ長崎と広島の被爆者歌人の作品をとりあげたのが特色といえよう。

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熊谷守一の絵が表紙を飾る

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「近代の短歌(九首)」は第2巻収録

『国語』(光村図書)  
  2006年、2012年、そして今回と、検定ごとに取り上げる歌人と作品がかなり入れ代わっている。収録歌人について、2006年には、伊藤左千夫、島木赤彦、長塚節、前田夕暮、佐藤佐太郎、宮柊二、塚本邦雄の作品があり、2012年には、前川佐美雄、木下利玄、岡本かの子、斎藤史、高野公彦も登場したが、今回は、数を絞って6名となり、新しく馬場あき子と穂村弘が加わった。今世紀に入っても、1950年代に中学生だった筆者には、伊藤、島木、長塚、前田、木下、岡本などの名前はなつかしい。

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3年次の「古今和歌集 仮名序」、大判で絵本のようだ

  以上、各社の収録作品を一覧してみると、近代・現代の短歌から選ぶとしたら、世代的に見て、いわゆる戦中派の歌人の登用が少ないのではと思った。たとえば、佐藤佐太郎(1909年生)、宮柊二(1912年生)近藤芳美(1913年生)らの名は、今回の新版からは完全に消え、戦前生まれの佐佐木幸綱世代から一挙に戦後生まれの河野裕子らに飛ぶ。もっとも、教科書は、作品で短歌史をたどるわけではないが、今どきの中学生の愛唱する短歌が、これらの中から生まれるのだろうか。正岡子規「くれなゐの」、斎藤茂吉「死に近き・・・」、若山「白鳥は・・・」、石川啄木「不来方の・・・」などほぼ定番に加えて、栗木京子「観覧車・・・」、俵万智「「寒いね」と・・・」などを一読、知識としての短歌ではなく、短歌への関心が芽生えて来るものだろうか。収録作品が集中していない与謝野晶子や寺山修司、穂村弘らの一首が、思春期の中学生、スマホ愛用の中学生の琴線に触れるものだろうか。 新聞はもちろんのこと、テレビの接触時間も下降線をたどる若者たち、大学の国文学科の行方も取りざたされる中、短歌の行方も気になるところである。

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2015年7月 2日 (木)

NHKの報道の劣化をとめるには!

欠陥商品を受け取るしかないの ? 視聴者は
   7月1日は、昨年のこの日に、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した日である。午前中には、衆議院の特別委員会で、安保法制法案の参考人質疑が行われたはずである。関連の報道を見ようと、NHKの12時、夜7時、9時のニュースを見た。そして驚いた。ああ、こんなことなら 放送項目と内容、時間をメモしておくのだったと思う。

お昼のNHKニュース
   12時のニュースでは、たしかに、国会の特別委の参考人の意見陳述の一部がコンパクトに流された。伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授、国連PKO活動の経験)鳥越俊太郎(ジャーナリスト) 柳澤協二(国際地政学研究室理事長、防衛省OB)の3人が野党推薦、 小川和久(静岡県立大学特任教授、軍事評論家) 折木良一(元第三代統合幕僚長)の2人が与党推薦。伊勢崎氏はPKO活動における現実なリスク、柳沢氏は集団的自衛権と個別的自衛権の切り分けが困難さ、鳥越氏は政府のマスコミへ圧力の強化を強調、折木・小川氏は、法案の意義を強調し、小川氏は米国との軍事同盟に頼らず、独自で防衛するには、いまの5兆円が23兆円にものぼる、などと述べた。

NHKニュース7では
  
しかし、もう少し詳しくは、7時のニュースでと思ったら、なんと関連法案報道は皆無であった。新幹線の事件や箱根の小噴火に続いて、路線価と日銀短観の発表報道では、いかに景気が上向いているかの声を、それも外国資本頼みの実態を伝えていた。 オープニングに使われた「なでしこジャパン」は、さすがに、後半に回されたが、イングランド戦を控えたなでしこジャパンの練習風景や監督や選手の決意、元選手の解説まで流す熱心さである。それに、なにやら大きな階段の模型?が登場し(何度目?)、アナウンサーは、語調を強め興奮気味に試合の行方を語るのだ。これって、実に聞き苦しいし、感情をあらわにせず、淡々と伝えるというアナウンサーの基本中の基本に反するのでは?北朝鮮の女性アナを笑えない状況に、NHKは立ち至っている。 安保法制関連のニュースは、完全に無視し、封じ込めたのである。

NHKニュースウォッチ9では  
   新聞のテレビ欄の予告では、トップに「安保法制関連をめぐる参考人質疑」とあったのに、まず「今入ったニュース」として、ウィンブルドンの錦織選手が足のけがで2回戦棄権が伝えられた後、待てど暮らせど、安保法制関連のニュースは現れず、9時35分過ぎた頃、ようやく、自衛隊の国旗掲揚の ”おごそか“な風の映像が流れたと思ったら、画面の右肩に「安保法案 衆院採決時期 与野党駆け引き活発化」というタイトルが現れた。「与野党駆け引き活発化」!これまた、いつもの法案成立最終段階でのNHKの常とう手段たる「与党内駆け引き」「与野党駆け引き」報道である。日常的にも、たださえ、法案の中身についての報道が希薄で、「駆け引き」視点で集約する意図が露骨で、報道の原点ともいえる「論点提示」がなく、政府の解説のリピートに過ぎないのである。  
   この日の安保法制関連報道 も、その典型的なもので、最初に、衆議院での安保法制特別委員会の参考人陳述では、折木氏と柳沢氏の陳述を紹介したのみであった。そして次が、安倍首相が公明党の山口代表との会談で、首相が自民党の議員が勉強会発言で迷惑をかけたことに陳謝、両党「心を合わせて」いまの国会での成立を確認・合意したというのである。陳謝するなら、国民やメディアに対してでしょ、相手が違うのでは。しかも、NHKは、自民党の勉強会での議員の発言内容に具体的に触れる報道はほとんどしてこなかったし、まして、NHK経営委員を3月まで務めていた百田発言については、触れずに避けていた。どんな発言だったのかは「民放で聴け」とでも言うのだろうか。与党同士の仲良しぶりだけが浮き彫りにされた内容であった。
  そして次が、党内の7月半ばの衆院採決を目指す動き、民主党の反論、特別委理事会のやり取り、維新の党の対案最終案協議・・・、「採決時期をめぐる駆け引き活発化」を強調するが、国会や国民の間で、いま何が問題になっているのかを伝えようとしない、いわば、NHKは、政局報道、政府広報に力を入れているとしか見えない。

視聴者ふれあいセンターは、担当者に伝えるだけ? 
  
7月1日の3回のニュースを見た感想を伝えようと、まだ、「ニュース9」放映中の9時40分過ぎに電話を掛けること数回、「ただいま込み合っています」のテープを聞かされること数分、電話代を取られていることにも腹を立てつつ・・・。ようやく繋がった電話で、7時のニュースでの安保法制関連ゼロ、9時での「駆け引き活発化」でまとめ、国会での議論の内容をほとんど伝えないことへの抗議をした。さらに、視聴者がいくら意見を言っても「担当者に伝える」というだけで、「担当者がどんな方針で、こうした編成になるのか、視聴者は知る機会はありませんよね、受信料を払っているのに、なぜその説明が聞けないのか」と問う。上司が出てきていうことには「放送を見ていただくしかない」という。その放送がますます劣化しているからこそ、何度も伝えているのだが、お客に欠陥商品を届けて受信料を取るという「商売」がそもそも成り立つのか、疑問は晴れない。
  「お客様の言っていることは、<感じ>じゃないですか、いろいろなご意見が来ています、もう視聴者センターの業務時間の10時ですから」と役人よろしく電話を切ろうとする。「感じ」ではなく「事実」でしょ!混んでいて待たされた時間は!ああ、今夜も寝つきが悪くなりそう!  
  この夜のテレ朝「報道ステーション」でも、TBS「ニュース23」でも、参考人質疑についてと一連の勉強会発言について、私としては、解説などを含め若干疑問は残るものの、報道機関としての姿勢をきちんと示す報道になっていたことを申し添えたいと思う。

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