「赤松常子~婦人運動、社会運動に生きた生涯」展(友愛労働歴史館)に出かけました
7月20日の当ブログ記事でもお知らせした「赤松常子展」(友愛労働歴史館 2015年7月12日~11月30日)に出かけた。1965年7月21日に亡くなっているので、没後50年を期しての展示会である。昨年は、生家の山口県徳山の徳応寺で50回忌が執り行われている。今回の展示も友愛労働歴史館事務局長のMさんの奮闘の賜物であろう。
展示は、以下の4部からなる。
①赤松常子・そのひとと生涯
②婦人解放運動に取り組んだ赤松常子
③政治家、婦人活動家として生きた赤松常子
④赤松常子の短歌、ゆかりの歌人たち
第4部には「―与謝野鉄幹・晶子、阿部静枝、宮崎白蓮―」の副題がついている。阿部静枝について調べている者としては見逃せないと思った。静枝とは短歌の縁ばかりではなく、無産婦人運動の盟友でもあった。常子は、実家の寺でも、父母の乳児保育などを手伝っていたが、1918年、京都女子専門学校時代から賀川豊彦の貧民救援事業、水谷長三郎の労働学校の活動に始まり、1921年頃から労働運動を志し、上京、1925年総同盟婦人部には入る。後、社会民衆党、社会民衆婦人同盟に参加、夫、阿部温知ともに社会民衆党の活動に参加した阿部静枝と出会うことになる。以降、社会大衆党、社会大衆婦人同盟の解散に至るまで、常子の委員長のもと、静枝が助けることになる。戦後は、社会党、民社党において、常子は国政、静枝は地元の東京都豊島区の議員として活動することになる。短歌は、常子の父が与謝野鉄幹の兄ということもあって、歌集こそ持たないが、作歌を続けていた。宮崎白蓮とは、夫の宮崎竜介が社会民衆党であったこともあり、さらに、戦後は、白蓮らと世界連邦建設運動に参加したゆかりもあったのだ。
常子の遺詠抄より
・一樹には一樹の生命凛として朝霧の中につつましくたつ
・他党候補にもわが押す候補にもいちように落花吹雪き手車上に白し
常子への追悼歌より
・なつかしき面影ばかり胸にしてのこるいのちのさびしや今宵 (宮崎白蓮)
・草中の野花に敏く目をとめて愛しみし人高く生きつつ(阿部静枝)
なお、追悼歌「忽忙の政治家の日々を縫ふごとく歌作りたり赤松常子」と詠んだ尾崎孝子について、事務局長のMさんは、顔写真と情報を求めていた。なつかしい歌人の名を久しぶりに聞いた。尾崎は、古くからの『ポトナム』同人でもあったし、のち『橄欖』の同人で、何よりも歌壇新報社のオーナーでもあり、ジャーナリストでもあった。戦前は台湾歌壇でも活動した歌人であったが、短歌史にはなかなか登場してこない歌人になってしまった。1970年に亡くなっているが、その晩年に、どこかの出版記念会のような所で、私はお見かけした記憶がある。写真は、手元の『戦後歌人名鑑』(十月会編 短歌新聞社 1993年)でしか見いだせなかったが、神奈川県立図書館に「尾崎文庫」があるそうなので、そこへ行けば、写真の件は解決しそうである。
戦後70年、赤松常子没後50年、阿部静枝静枝没後40年を超え、宮崎白蓮(1885~1967)没後50年になろうとしている。彼女たちが、今の政権のやり方を見ていたら、自らの体験を踏まえて、どんな声を上げるだろうか。白蓮は、朝ドラ「花子とアン」で思わぬブームになって驚いているだろう。
友愛労働歴史館を去る間際、きょうも、埼玉の方から、縁者の遺品だといって届いた資料がありますと、Mさんは開いて見せてくださった。どれも、紙の不自由な時代のパンフレットや冊子が多かった。その中で、思いがけないコラボの小さな冊子があった。
金森徳次郎序、木村篤太郎序・田中伊三次著『新憲法の解明』(扶桑閣 1945年10月)、とあり、付録として、カイロ宣言、ポツダム宣言やアメリカ憲法、ソビエト憲法までが収録されているのだった。解説は読みそこなったが、新憲法への戸惑いと意欲が見えるようだった。
ソーリ、ソーリ、隣家の火事という 赤いワタ菓子で模型など作っている場合ではないでしょう!少しは憲法の勉強をしてくださいヨ!
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