鶴見俊輔さん、ご無沙汰しておりましたが~
7月24日の朝日新聞朝刊の鶴見さんの訃報に驚いた。その記事では「死去したことが23日わかった」とされているだけだったが、続報で20日、京都市内の病院で肺炎ため亡くなったとあった。「やすらかに」とは言えないいまの政情である。色々な方たちが各紙誌で追悼のことばを述べているし、これからも発信されることだろう。私も、一時期ご縁があって、励まされていたことを思い出さずにはいられない。ここに、当時の一文を後掲、再録しながら、ささやかながら、哀悼の意を表したいと思う。
1988年10月10日、私は、はじめての評論集『短歌と天皇制』をまとめ、名古屋の風媒社から出版した。準備を進めているときは、まだ名古屋に住まい、仕事もしていた。その年の春、急きょ連れ合いの転任に伴い、私も千葉に転居、転職したばかりだった。そして、世の中は、夏に昭和天皇が倒れ、闘病中で、いわゆる「自粛ムード」が蔓延し、にぎやかな歌舞音曲やイベントが街から消えた。関係報道も自粛が迫られ、関連出版物も書店の店頭から引き上げられた。その一方で、天皇の「下血量」報道が日常化していた。いま考えると、「どうかしていた」世情ではなかったか。メディアや出版界は、あんなにもヤワだったのか、それを許していた国民は?の思いにいたる。それでは、27年後の現在は?どれほど変わっているのかいないのか、しっかり立ち止まって考えねばとも思う。
そんな中での、くだんの出版だったのである。それでも、朝日新聞の文芸欄(富岡多恵子)での紹介を皮切りに、朝日ジャーナル(坂本孝治郎)、図書新聞(道浦母都子)、北海道新聞・西日本新聞(山田宗睦)海燕(佐佐木幸綱)の書評のほか、共同配信による書評が多くの地方紙に掲載された。そして、翌年早々、天皇死去直前、鶴見俊輔さんが「文芸誌散策・韻文」(朝日新聞・大阪版)で、紹介してくださったことを知った。みなさん、まったく面識のない方々ばかりだったので、身の引き締まる思いもしたのだった。鶴見さんは、それだけではなく、その後、いくつかの執筆の機会を提供してくださったようだった。その一つが、鶴見さんが編集のひとりだった、後掲『戦後史事典』(三省堂 1991年3月)の大項目「短歌」だった。戦後の短歌史を概観するという、これまでにもない大仕事に思えた。緊張の余り?ご覧のように、斎藤茂吉の作品に脱字があって、取り返しのつかないことをしているのだが、その後、自著への再録もしていないので、歌人の読者は、きっと少なかったと思う。ところが、この事典が出た数年後に、私よりは若い男性歌人から一通の手紙が届いた。ご本人は忘れているかもしれないが、熱い共感と励ましのことばだった。これも忘れがたく、いま、歌壇で活躍中なので、その名前は控えておきたい。私は執筆当時と全く変わっていないスタンスなのだが、鶴見さんやその歌人は、その後の私の著作についてどう思われたか、知りたい気持ちもある。鶴見さんからはすでに聞く機会を失ってしまったのだが。
『思想の科学』の数々の特集や分冊の『転向』などは、いまでもよく利用させてもらっている書物である。
鶴見さんには、一度、東京で開催された大熊信行関連の会でお目にかかったが、その後は、紙誌上でお遭いするばかりだった。
ご冥福を祈ります。
『戦後史事典』(三省堂 1991年3月)より
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