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2015年8月31日 (月)

8月30日、安保法案、今すぐ廃案、国会包囲集会に参加しました

国会議事堂前駅から地上に出てみると 
   家を出る12時前には、降っていたのだが、東京に向かう車窓からは、雨の気配は感じられなかった。きょうは、だれとも約束せずに、気ままに参加しようということで二人だけで動くことにした。霞が関か国会議事堂前か、下車駅に迷ったが、軽い気持ちで国会議事堂前と決めたのだが、甘かった。改札を出ようとしたところ大変なことになっていた。議員会館側の出口には規制がかかっていて、地下通路は想像以上の混雑、4番出口から地上に出るのに20分以上はかかっただろか。規制する警官に喰ってかかる参加者もいた。地上への階段が見えてきた頃には、すでに、シュプレヒコールが始まっていた。

Gedc4584                 車道にはみ出す人の列、茱萸坂

  もう、茱萸坂は、歩道も車道もなく、人の列は、外務省前の交差点に向かう。左折して国会正門前へと向かう辺りは、身動きできないほどだ。というのも、歩道・車道の人の波は、装甲車で国会前には行けずにストップ、通せんぼされた格好である。議事堂前の南庭園側も人でいっぱい、雨もぽつぽつ降ってきて、旗やプラスターに加えて、傘も増えてきた。歩きはじめの頃、岡田さん、志位さんの話は聞こえたが、正門近くなると、声が割れ、声が届かず、誰が話しているのかわからない時間が長かった。だが、コールだけはと声を上げる。映画監督の神山征二郎さん声も聞こえたが、内容が聞き取れない。袖井林二郎さんの"No More Abe"の声も聞こえてきた頃、南庭園の方にようやく渡ると、夫の職場のOB有志の会の旗が見つかり、何人かと旧交を温めているようだった。さらに進むと今度は、「佐倉平和を未来につなぐ会」の旗が見えてきて、ご無沙汰している知人たちとも会う。南庭園を突っ切っているころ、3時のコールが始まり、小山内美江子さんの話を聞きながら、帰路の霞が関駅へと向かった。

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                     装甲車で車道が遮断されて人が溢れる

Gedc4606                    雨合羽姿や傘の数が増した議事堂正門前

ところで、参加者数のカウントについて
  帰宅後、ニュースを見ていると、ステージからは、社民の吉田さん、生活の小沢さんのスピーチもあり、坂本龍一さん、森村誠一さん、池内了さんたちのスピーチもあったらしい。

  NHKの「ニュース7」のトップニュースは、バンコクのテロ事件であった。2番目がスズキとフォルクスワーゲン社との業務提携解消、3番目の「安保法案」関係ニュースで、国会包囲集会について伝え、各地での集会の一部も伝えたが、またもや、衆議院・参議院で審議にかけた時間数を持ち出して、あと一か月に迫る会期末までの与野党の駆け引きのマターに持ち込むのだ。

  ところで、きょうの参加者、主催者発表12万、警視庁発表3万余とのことだった。いつも思うのだが、この数字の開きはどうして?と思う。今日の集会は、主催者は、国会前には10万を目指していたというから、予想以上ということだったのだろう。それにしても、10万とは私には思えなかった。どうしても60年安保の時と比較をしてしまう。あのころは、主催者発表と言っても4倍などという開きはなかったと思う。最近、目にする二つの数字の隔たりの大きさは何なのだろう。近頃、しばしば、集会に参加するようになって思うのは、主催者発表の参加者数を聞いて、疑問に思うことがあるからだ。いわゆる「警視庁発表」の精度も信じがたい。だから、主催者側から、ある程度正確な数が出せないものだろうか、それが参加者の願いでもある。たとえば、主催者側がエリアを決めてカウントする人を配置するとか、ヘリコプターからの映像を分析するとか、プログラム配布の数とか、野鳥の会のベテランに頼むとか、できないものかなあ、と素人は考える。

  きっちり正確ということはありえないが、ある程度、根拠のある数の参加者のひとりでありたい、と思う。いわゆる、参加者数は、集会や活動のバロメーター、評価にもつながるだろうから、活動の在り方の反省や今後の行方と深くかかわる数字でもある。
 今回も、メディアは、カッコつきの“12万”か、多くは、12万と3万余の両者併記が通常である。受け手の私たちには、「12万、12万!」、「12万だって?」がひとり歩きする。とくに、参加した当事者は何となく落ち着かない、違和感を覚えるのは、私だけだろうか。運動主体というか、主催者は謙虚に向かい合うべき数字ではないかと思う。運動の盛り上がりに水を差す気はないが、事実を知ることの大切さを、あらためて思う一日であった。

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2015年8月27日 (木)

8・25 NHK 包囲行動に参加しました~視聴者の怒りは収まらない

私の怒りは爆発寸前だ

 多くの視聴者の怒りが形になったのが、8月25日、渋谷のNHK包囲行動による抗議集会だった。東京は、台風15号の影響で、いつ雨になってもおかしくない雲行きだった夕方6時半、西門、正門、代々木公園側のNHKホール前、3か所の抗議集会が始まり、NHKを包囲した。その数、掛け値なしで1000人はゆうに超えた。コール担当者は、6時過ぎから詰めかけている人たちと、「私たちは怒っているぞ」「籾井はやめろ」「アベチャンネルにするな」「政府広報はやめろ」「権力に屈するな」…12パターンのコールを”練習”した。

Gedc4558            西門前に、参加者も増えてゆく
                     
Gedc4562            西門前集会、6時30分開会

  主催者挨拶に続いて、西門のトークの一番手、NHKの元プロデューサー永田浩三さんは開口一番、「元職員としてこうして叫ばなければならないのは不幸でもあり、恥ずかしい」と。永田さんのツイッターによれば、「もう、死ぬような思いで臨む集会」だったらしい。駆けつけたJAL乗務員の方々のコールも素晴らしかった。NHK問題を考えるとして、各地で立ち上がった会からの報告も身につまされ、元民放プロデユーサーの仲築間卓三さん、元NHK経営委員の小林緑さんたち放送人の体験に基づく話には説得力があった。「NHKよ、恥を知れ」というのがリレートークの共通した呼び掛けだったように思う。私は聴き損なったのだが、「憲法9条を世界遺産に」発起人の方もホール前の集会で話されたそうだ。

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                              リレートークのラストは小林緑さんでした

    佐倉からも10人近くの方が参加されたらしいが、私は、2人にしかお目に掛かれなかった。ほかにも、多くの知り合いの方々に会うことができた。それから、噂の火炎瓶テツさんのコールもトークもなかなか迫力のあるものだった。 途中、西門では、ご近所の住民から騒音についてのクレームもあった。その気持ちも十分理解できるけれど、今日集まった人々のNHKへのさまざまな思いと抗議、マイクはNHKに向けているなどへの理解もいただきたい旨、主催者の一人が伝えると、その方は、プラスターの籾井会長の似顔絵を指して「この人には、私もやめてもらいたい」と去って行ったのを、たまたま私は見ていた。

   「戦争法案に加担するな」「事実を隠すな」「皆様のNHKを忘れたか」「公共放送をわすれたか」「国民の声を伝えよ」「自主自立を取り戻せ」とコールは続いた。 西門は、職員やタレントが出入りする門でもある。職員、そして下請けや非正規の方も多いのだろう、皆さん一様に表情も硬い。タレントは、車での出入りが多いのかもしれない。それでも、楽器を抱えた人や顔を知っているタレントもそそくさと通り過ぎて行った。籾井会長は、いまだに自分のタクシー代について、外部に漏らしたのは誰かを探っているという。内部告発や上司に逆らえない風土からの脱却がなければ、東芝のようになるかもしれない。コンプライアンスで守られることを実践してほしい。

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             正門前集会、解散後の火炎瓶テツさんたちのグループ

   私の、この日の自前のプラカードには、「NHK、ふたたび国民をダマしてはイケない」と書いた。 この包囲行動の夕方にも、参加者の中には、その日の国会中継で、山本太郎議員の質問が時間だからと途中でぷっつり切られたと怒っている人がいた。

  8月の猛暑のさなか、回を重ねた実行委員会、チラシの作成、プラスターの作成、そのチラシを、手分けして、国会周辺の集会、各地のさまざまな集会・イベントで連日配りに配って、その反応の良さに機運が高まったのも確かであった。その合間に、NHK会長はじめ役職者への申入れはもちろん、NHK周辺の下見、警察や代々木公園事務所との 話し合いも必要となった。団体や個人での参加、その人の輪がさらに広がり、準備に勤しんだ実行委員の皆様、お疲れ様でした。私も、体調との相談で、わずかな手伝いしかできなかったが。短い準備期間にもかかわらず、同日同時刻に広島、大阪、京都、名古屋、札幌などなどでもNHKへの抗議行動をしようという広がりを見せたことも、大きな成果だったのではなかったか。

 全国の視聴者は怒っているぞ!

(追記) 以下の記事・ 動画でも、当日の模様がわかります。

① アベチャンネルにするな!~NHK包囲行動に1000人集まる
 
Labornet
 
http://www.labornetjp.org/news/2015/0825shasin

② 2015/08/25 「政府の声でなく、国民の声を報道しろ!」国会中継をしないNHKに市民が怒り――NHK包囲抗議行動 

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/259507

 

NHKのニュース番組を見るたびに、ふれあいセンターに電話するたびに

  安保法案審議の国会中継は、国民の関心をよそに、したりしなかったり、災害や殺人事件については全国どこで発生しても詳しく伝え、スポーツ・オリンピック関連では、話題の選手を追い、オリンピックの進捗状況を必要以上に報じ、ムリムリに盛り上げるかのようだ。さらに、いつ放映してもいいような、金星だ、こうのとりだ、という宇宙開発や科学・医療・自然ネタが幅を利かす。中国・韓国・北朝鮮の政情不安や反政府運動は必ず伝えるが、国内の政権批判の動向は極力伝えないのが、NHKのニュースなのだ。  NHKテレビの「ニュース7」を真面目に見ている視聴者の疑問や要望について、NHKの対応は、実に不誠実だし、不可解なのだ。視聴者をなめきっているか、開き直っていると言ってもいい。NHKのニュースを見ているだけでは、世界や時代の動きから必ず取り残され、時の政府に従順な国民にしかなりえない。いやそれを目的にしているとしか思えない。まさに、政府の世論操作の道具にしかなっていないと断言してもいい。  

  8月26日の「ニュース7」にも驚いた。昨年7月1日の閣議決定の際、安倍首相は、集団的自衛権の行使の具体例として、米艦船に乗っている日本人母子を救助するために艦船を防護できるとして、子を抱いた母親のイラスト入りのパネルを掲げ、憲法は、この邦人の命を守る責任を放棄せよというのかとヒステリックに訴えたことは記憶に新しい。26日の参院特別委員会で、民主党の大野元裕議員が、日本人が米艦船で朝鮮半島から退避するだけでは存立危機事態には当たらないのでないか、中谷防衛相に質した。防衛相は、臆面もなく「邦人米艦船に乗っているか否かは判断要素の一つであって絶対的なものではない」として、「総合的な判断」の答弁を繰り返した。それでは、安倍首相の具体例の説明との整合性はなくなる。まさに法的安定性が大きく崩れた局面であったが、これらの質疑はもちろん、この日の他の大事な質疑を一切報じなかったのだ。それに引き替え、オリンピック関連では競技場総工費抑制、選手の強化費用増額に5分30秒、アフリカ象の密猟、象牙の違法取引に3分27秒を費やしているのだ。  

140515panel              2014年7月1日首相記者会見の、このパネルを思い出してほしい

   8月27日の「ニュース7」では、維新の党の内紛、自民党の総裁選、暴力団山口組の内紛がそれぞれ、5分20秒、2分35秒、3分03秒という、念の入れようである。さらに、寝屋川の殺人事件報道がないと思ったら、突如、膝痛に新しい手術の試みというニュースに3分22秒が割かれた。  視聴率に関係なく、知らせるべきは知らせる中立・公正な報道番組のはずが、これでいいのだろうか。民放の報道番組の方がよほど視聴者の関心に沿うている場合が多いとは情けない。安保法な審議の陰で、この日も見切り発車のマイナンバー法改正案が参院内閣委員会を通過している。このニュースとて、一切報じられなかったが、テレ朝の報道ステーションでは、報じられていたのだ。ニュース項目、順序、時間配分には、視聴者の関心や要望を真摯に受け止めた上で、メデイアとしての役割を果たさなければならないはずである。「皆さまの声」を聴くふれあいセンターが、サービス向上のため?として電話の録音はするけれども、NHKから返ってくる答えは、いつも一緒で、「総合的な判断」での編成であり、視聴者の声の反映は番組で答えている?という、まさにテープレコーダーのように係員は繰り返すのみ。視聴者の声は聴かずに、政府の声には、忖度してまで応えるというのが、いまのNHKの姿勢なのである。

NHKは、「誤報」もそっとなかったことに!

   この8月、ノルウェーから、「平和学の父」とも呼ばれているヨハン・ガルトゥング氏が、来日して、いくつかの講演をした。氏が提唱してきたのは、貧困や差別のない「消極的平和」を前提とする軍事同盟を必要としない「積極的平和」(Positive Peace)であった。安倍政権のいう「積極的平和主義」(Proactive Contribution to Peace)とは、およそかけ離れた内容であったにもかかわらず、「”平和学の父“<本当の積極的平和主義を>」の見出しのニュース(NHK web news 2015年8月19日20時34分)を流した。そこで、ヨハン・ガルトゥング氏をつぎのように紹介したのである。その間違いにいつ気づいたのか、「まずい」と思ったのか、上書き修正されたものの、明らかな誤報を訂正した文言はどこにも見当たらない。

戦後70年にあたっての総理大臣談話にも盛り込まれた『積極的平和主義』を提唱したことで知られています」

⇒「『積極的平和』を提唱したことで知られています」  

  NHKは、事実を伝えないばかりか、ねつ造も誤報も人権侵害も、訴えられなければ頬かぶりなのだろうか。

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2015年8月21日 (金)

安倍首相の政治資金管理団体「晋和会」の怪~ 政治資金収支報告書の虚偽記載の告発、その後

 ちょうど一年前の2014年8月18日、安倍首相の政治資金管理団体「晋和会」の記載の中に、寄付者の職業欄などに16か所の虚偽記載があったとして、会代表の安倍晋三と会計責任者を東京地検に告発した。私は、告発者4人と代理人の弁護士8人の各代表4人に、一般人としてついて行った。その時の模様は、以下の当ブログで報告している。

◇2014年8月19日 (火)
安倍首相の政治資金管理団体(晋和会)でも、こんなことが?「告発」制度に接して
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/08/post-405d.html

  音沙汰がないまま11カ月、先月、東京地検から代表の代理人の弁護士のもとに、「2名の不起訴処分」の通知が届いた。通知書には不起訴処分の理由まないままだったので、受理するときに問いただしたときに、会計責任者は嫌疑不十分、安倍晋三は嫌疑なしという理由だったとのことであった。 そこで2015年8月19日、告発者と代理人弁護士は、収支報告書の職業欄の虚偽記載には、政治資金規正法の趣旨に照らして、会計責任者とその選任に故意または重過失があるとして、検察審査会に申立てを行ったものだ。集合場所の弁護士会館からどこをどう通っていったのか、近くのビルの4階、「検察審査会」の受付に来るのは初めてである。告発人と代理人の弁護士によって「申立書」が提出されると、書類審査」をするが、これにかなりの時間を要するのだった。

  申立ての足で、参議院議員会館での記者会見、今年は、告発者側は4人、集まった記者14人で始まった。 会見で、やはり問題になったのは、寄付者KがNHKのプロデューサーであったにもかかわらず会社役員とされ、著名な作曲家も会社役員とされ、指摘によって急きょ訂正されていたことが明らかになっている。さらに、弁護士や医師であることを秘して、後にあわてて訂正したという虚偽記載もあった。厳密を理念としている政治資金規正法にもかかわらずその解釈や運用がきわめて歪められているのが、今回の不起訴処分ではなかったか。

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下は、左、澤藤弁護士、右、醍醐東大名誉教授(弁護士ドットコムより)

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詳しくは、以下の代理人弁護士のブログをご覧ください。

◇ 澤藤統一郎の憲法日記(2015年8月19日)
http://article9.jp/wordpress/?p=5450

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最寄り駅で、「戦争法案廃案」のビラを配る  

 猛暑もやや収まった、8月20日、午後4時30分~6時30分、佐倉・平和を未来につなぐ会「戦争法案廃案」のビラをユーカリが丘駅頭での配布に参加した。私は前半の1時間しか参加できなかったけれど、30枚弱だった、なかには、同じ一時間に50枚近くを手渡し、いつになく手ごたえはあったという方もいた。世話人の報告によれば、延べ18人参加、600枚近くが手渡せた勘定らしい。

   私は、手渡しながら、何人かの人とお話しできたのがよかったと思う。マイクの呼び掛けのそばでは、シール投票というのをやっていたらしいが、私には、どうも、あの「シール投票」の意味合いが今一つなので、少し離れた場所にいた。いっしょにビラを配っている、真向いの青年が、見かけない人だったので、「どちらにお住まいですか、若いのにえらいですね」と尋ねると、「足立区から来ました、ネットで見て」ということだった。国会周辺の集会には、よく参加しているが、「今日は、手伝いができればと思って・・・」とのこと、ありがたいことだと思った。「私はこの駅でしか参加していませんけど、この沿線の佐倉・臼井・志津などで、ビラを配っていますよ」といえば、「常磐線沿線ですか・・・」「いえ、京成とJR佐倉駅」と答えたくらいだから、やはり東京の人だなあ、と思った。

  近所のAさんは、遠い病院の眼科からの帰りだといい、帰ったらお孫さんたち夕食作りだという。自分では活動が出来ないから「よろしくお願いしますね」と念を押された。同じ丁目に住んでいたBさんは、駅前のマンションに転居、きょうは、これから塾講師の仕事とのことで急いでいた。久しぶりだったので、きょうのビラと私の方からの他のビラやミニコミ誌などを手渡す。 私のブログを読んでくださっていているので、メールで感想をいただいたり、参加された集会の話を聞いたり、お茶しながら、もろもろおしゃべりしたりすることもある。

  通りがかりの年配女性にビラを渡して、「いまの法案が通ってしまうといろいろ心配なんですよ」といえば、「そうねえ、どうなってしまうのかしら」「ご一緒に何とかしましょう、読んでみてください」と、私は彼女のキャリーに自然に手が伸びて、ペデストリアン・デッキに上がるわずか数段、その荷物を運んでいた。「ありがとう。あなたが赤いリュックを背負っているので、これをあなたにあげるわ」と手首につけていた、ミサンガ?腕輪の?の一つをくださるというのだ。「いえ大事なものを結構です」と遠慮するが、「はめてみてよ」と私の手首に通したのは、太いゴム紐の輪に、サンゴ色の石があしらわれていた。「この石は、静電気予防になるから」とも。その強引さに少し戸惑ったが、「頑張ってね」とキャリーを引いて去って行かれた。

   また、これも女性だったのだが、ビラを渡そうとすると「あなたたち共産党でしょ!」との言葉に、「いえ、このビラは・・・・」と、ビラをひっくり返して、会の名前を指さし、由来を説明し、「いろんな考えの市民が、この法案だけは通してはいけないと、生まれた会です」「そうなの?」と、まだ納得してないようだったがビラは受け取ってくださった。これまでも、こんなやりとりはあった。だから、私は、いつも思うのだけど、市民運動では、政党や会派の人たちが、とくに市議会議員などが前面に立つより、市民たち自身が積極的に前面に立つことが大切なのではないかなあ、と思うことしきりなのである。 党派を超えた市民の力の見せどころでもある。

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2015年8月 7日 (金)

8・6戦争法案反対国会前集会で「NHKを包囲しよう!」のチラシをまく

 今日が暑さのピークかといわれた6日、印刷所から届いたばかりの「8月25日、政権べったりの報道をやめろ、怒りの声でNHKを包囲しよう!」(主催:NHK包囲行動実行委員会)のチラシを、集会で撒きましょう、ということで2000枚近く持って出た。半端でない重さ。連れ合いは旅行用のキャリーバッグにした。私は、「安倍を倒す」のゼッケンと飲料、保冷剤、帽子と、きょうは梨のむいたのをタッパーに入れた。乗換や下車駅では、エレベーターを初めて利用して、その位置を知ることにもなり、集合場所の国立国会図書館前には、集会開始の1時間前に到着。国会周辺は、いたって静かで、目立つのは警備の警官や衛視ばかりだ。きょうは定例の集会だが、どのくらい集まるものだろうかと、やや不安にもなる。それでも、集まった関係者とチラシを分けて、配る場所を打ち合わせた。私は、しばらくの間、国会図書館前で、図書館から出てくる人たちに、チラシを渡していたが、反応はイヤに冷たい。 こんなものかなあ、図書館に調べものに来る人たちは、。の思いだった。 

   衆議院第2議員会館辺りには、人が集まり始めていた。最初、衆議院第1議員会館近くで、議事堂前の駅から渡って来る人、官邸方面からやって来る人に、「NHK包囲しましょう」「NHKおかしくないですか」などと手渡していたが、なかなか反応はよく、手を伸ばしてくる人、一人に渡すとお連れの人も、私にも、と手渡すのもせわしくなった。「NHKがおかしい!」「NHKがおかしいです!」と言って渡すと、皆さんチラシに目を落とし、「まったく、おかしいよ」「受信料止めたわよ」「この前も包囲したっていうじゃない?」などの声が返ってくる。「NHKを包囲しましょう」「今度はもっと大がかりに包囲しましょう」と答えるのも忙しい。歩道の人もどん増えて来ると、警官は、山王坂を渡った方に移動せよと言う。  そして渡ったところに、なんと昔の職場の友人、この間の婦選会館でもお会いした友人を見つけて、ここでの再会を喜んだ。毎週木曜日に参加しているもう一人の友人が来ているはずだとも。配っているチラシをお見せすると、「少し分けて、心当たりがあるので」とのこと、ありがたいことだった。

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 いよいよ、マイクの声が開会を告げると、政党関係者らのスピーチが始まる。その内の社民の吉田党首には、先ほど、チラシを直接手渡したけれど、読んでくれたかしら。吉田党首は、先ほど広島から帰ってきたばかりとの紹介があった。彼のスピーチは、一本調子であまり魅力的ではないなあ、などと聞いていたが、すでに、配るチラシはなくなっていた。  参加者はどれほどか、自分を含め、やはり圧倒的に多い高齢者たち。少し風が出てきて助かったが、混雑しないうちにと、早めに失礼して、地下鉄の駅に急いだ。今度来るときはもう少し涼しくなっているとありがたいが。

  NHKのニュース番組は、いまあまりにもひどい。伝えるべきことを伝えない。当日の国会での論議や沖縄で起こっていることを伝えない。少しでも政権に不利な情報は、なるべく圧縮して、地域的な気象異常や災害、事件・事故が発生したりすると、そちらにニュースの大半を割く。そして、スポーツやオリンピックネタで時間を取る。そうでないときは、緊急性や速報性が必要でない、ロボットや宇宙、医学などの科学技術ネタを長々と伝える。さらに、たちが悪いことに、自国の政権の在り様よりは、中国や韓国、北朝鮮の政権の不都合や不安、あるいは日本への脅威を、丁寧に詳細に報じるというのは、常套手段である。この露骨さはあきれるばかりである。

 公共放送の役目を放棄し、恣意的な報道内容は、目に余るものがある。視聴者の意見や意向を聞くシステムがない。コールセンターにしても一方通行だし、経営委員と語る会の形骸化、第一にNHKの情報開示は、実に中途半端で、閉鎖性が強い。受信料は、何に使われているのか。番組の子会社への丸投げや外注で、取材費や出演料、放映権料などが曖昧である。 NHKの内部告発は、久しく聞いたことがない。

きょう8月7日の「ニュース7」もひどかった!
 87日の7時のニュースについて。
 
私は、参議院予算委員会のNHKのテレビ中継を一部見ていた。民主党の質問にもはがゆいところがあったのだけれど、いろいろわかったことがあった。

① 6日広島平和祈念式典での安倍首相の挨拶で、非核三原則について触れなかったことについての質疑で、首相は「非核三原則は、<国是>であるから当然のことで、触れるまでもない」「広島の被爆者代表との面談では言及した」の一点張り、歴代首相や安倍首相自身も過去3回の挨拶でも原則堅持を表明していたのに今年はなぜ表明しなかったのか、については「長崎の挨拶では表明することになっていると承知している」との答弁は他人事ながら、明言した。

② 5日の特別委員会は一切中継しなかったのだが、今回の法改正で自衛隊は核兵器や毒ガスの運搬も可能になるのではないかの質問に、中谷防衛相や法制局長官が法律上は禁止していないと明言したことについてのやり取りについて、7日の首相は「純法理上は可能であっても、毒ガスも核兵器も持つことは政策上は、運搬はあり得ない」と答え、「法律上、核兵器や毒ガスの運搬は除外すべきと、なぜハッキリと条文化しないのか」については、「違法な仮定について、言い立てることが間違っている」とまで言い出した。

 ③ また、新国立競技場計画を白紙撤回への過程で、撤回直前に数十億の契約を結んでいるのはなぜか、については「御党の野田首相時代に、あの建築計画が決定され、IOCに報告しているのを引き継いだ」とは、首相や文科相が口を揃え、引き継いだ後の責任逃れをする場面もあった。

④ 維新の党からは、受信料で成り立つNHKが新放送センターの建て替え計画に3400億円、548億積立金計上について触れ、これほどの余裕があるのなら、受信料値下げがなぜできないのか、について質問があった。NHKは、視聴者の十分な理解が必要と総務相が答えていた。

 

お昼のニュースでは、上記の件の中で、「長崎の挨拶では非核三原則堅持を盛り込む」という首相の答弁のみ放映した。7時のニュースでは、予算委員会の質疑は、一切なかった。長々放送したのは、オリンピック追加種目関連事項であり、70年談話についての自公与党の動向であった。相変わらずなのは、猛暑・熱中症・台風関連ニュースは、気象情報とは別に6分以上の放送であった。

まさに、不都合な真実は、報道しないというのだろうか。 

抗議の意味でも、こんなNHKに受信料は払いたくないのだけど。

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2015年8月 4日 (火)

NHKスペシャル「密室の戦争~発掘・日本人捕虜の肉声」をみました

  録画も取らず、メモもしっかり取っていないのだが、オーストラリア、ブリスベンの捕虜収容所で行われた捕虜尋問の模様を伝えた、13時間、120枚の録音盤をアメリカ公文書博物館でNHKが見つけ出したらしい。その全容は、視聴者にはわからないが、伝えられた限りで、進めることにする。
  日本の事情にくわしく、日本語に堪能な尋問官が、捕虜1000人以上に面接、尋問して、軍隊内での命令系統や本人がなした行為や心境などを尋問している。番組で聞いた限り、事務的ではあるが、かなり「紳士的に」に質問しているのがわかる。そして、捕虜自身にとっては苦渋が伴うのは当然で、なかなかすんなりと進まない中で、いわば心理的な配慮をなされながら、徐々に心を開いていく様子が見てとれる構成になっている。ナレーションにもあった通り、日本人兵士は、捕虜になることを「辱め」とする教育をして、いわば自決を強要はしたが、捕虜になった後の教育はしていなかった、という側面はあったろう。相手国が、諜報機関からの情報とともに、捕虜から引き出す情報をデータベースとして、日本国、日本軍の状況は手に取るように、把握していたと思われる。   
  私が、最も関心を持ったのが海軍主計大尉・稲垣利一のたどった道だった。海軍経理学校では、中曽根康弘と同期だったが、1942年8月、ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指す作戦に参加、武器も食料も断たれた悲惨な中で、マラリアで倒れた。敵兵が近づいたときに、拳銃を2度こめかみに当てて自殺を図ったが、泥水に濡れた拳銃は機能せず、捕虜となっている。英語力はじめその能力をかわれ、尋問官からは、諜報活動への協力を依頼される。半年間の苦悩のすえ、極東連絡局(Far Eastern Liaison Office)FELOの一員となって、ジョージ・イナガキとして、投降を呼びかけるビラの制作などにかかわったという。
    番組の中では、組織的な関係がわかりにくかったので、番組を聞いた後、かつて読んだことのある『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』(土屋礼子著 吉川弘文館 2011年12月)を思い出し、関係個所を再読してみた。それによれば、極東連絡局は、1942年6月19日オーストラリア地上軍総司令部の命令により設立されたが、後マッカーサー総司令官の指示により、連合国軍情報局のセクションから独立、ブリスベンに本拠を置き、前線や連合国軍翻訳通訳部(Allied Translator and Interpreters Section)ATISと連絡を取り野戦隊支援のための兵站、作戦にかかわるビラの制作を担当した。対日宣伝ビラの目的は西南太平洋地域の日本軍の士気の低下と日本軍占領地域の現地住民の連合軍支援にあった。ビラ制作のスタッフは、かつて日本に住んでいたとか、領事であったとか、日本とは何らかの縁がった人たちで、その上に、5名の日本人捕虜が仮釈放の身でビラ制作に加わった、とある(前掲書49頁)。その一人がイナガキであったのだろうか。

 稲垣は、尋問官に応えて、「多くの日本人は政府と国民の区別ができない」という趣旨のことを述べ、「真の愛国心があるのならば、あなた自身の命を大切にすることだ」というメッセージを残しているという。「そしていつか、政治や戦争ではなく、人間として分かり合えることを願っている」とも。
    番組において、稲垣利一は、1945年11月に帰国、翻訳などの仕事に携わっていたが、11年前に87才で亡くなったと報じる。遺族の姪・甥の方は、一切戦時中のことは語らなかったということであった。翻訳ということだったので、国立国会図書館の蔵書検索をしてみると、以下数点の文献が見出された。1952年から58年にかけて、「中央公論」や「改造」に執筆していたことがわかる。その後はどうされていたのだろうか。

・英国学生代表団の訪ソ報告書  稲垣 利一 訳「中央公論」 67(11) 1952-10
・マッカーサー元帥罷免の真相  稲垣 利一 「改造」 33(6) 1952
・アメリカに欠けているもの  オッペンハイマー R著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 73(3) 1958-03
・マーク・ゲイン西班牙へ行く ゲイン マーク著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 67(4) 1952-04 
・レバノン進駐後に来るもの ボールドウィン ハンソン W著、稲垣 利一 訳 「中央公論」 73(9) 1958-09

    番組では、ルソン島でゲリラの処刑をしたということを問われた20歳の兵士の「話したくない、思い出したくない」「今から考えるとばかばかしいことばかりだ」との声も残されていた。さらに、尋問官に問われて、「あしたは話す」と約束したその日に命を絶った26歳の兵士もいた、とも報じられた。

  集合写真で並んでいた中曽根の歩んだ道を、稲垣も見ていただろう。その思いは如何ばかりであったろうか。また、それを知った私たちは、中曽根の罪悪を、そして今日の日本に至らせた私たちの責めを思わずにいられない。家族にも語れず、ひそかに亡くなっていった人々を思うと、決して繰り返してはならない戦争の過酷さに思いはいたる。
 

 

 

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2015年8月 2日 (日)

見回せば、「岡井隆」はどこにでもいる~2015年8月に

象徴天皇制の憲法下で、天皇・皇后が、老いと病を抱えながら、慰霊の旅や被災地訪問を続けている映像を見るに忍びなく、静養に専念してほしいと思ってしまう。夫妻の個人としての心情や姿勢に理解は及ぶとしても、天皇・皇后としては、そうした公務から退いてもいいのではないかと思う。わずかなチャンネルながら、自らの思いを発信しようとしている天皇・皇后と自分の不甲斐なさを、吉川宏志はつぎのような一首となした。

・天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ

(吉川宏志『燕麦』二〇一二年)

民主主義と天皇制という矛盾に満ちた法制を抱え込んだ日本国憲法下で、ある一部の歌人たちが果たしている役割をしっかりと見つめ直さなければならない時期が来ている。これは、喜々として宮廷にはせ参じている歌人たちの検証と同時に、彼らを取り巻き、さらに控えている歌人たちが、無関心を標榜し、あるいは忌避したまま、通り過ぎようとしている歌人たちにも及ぼう。一方、わずかな接点を見出しては、ウィングの広さと仲の良さを旨とし、すり寄り、利用しながら親密性を誇示する歌人、集団、政党さえ現れはじめた。対立や頑迷がいいというのではない。柔軟性を発揮すべきところと筋を通すべきところをはき違えないでほしいのだ。

そんなことを考えているとき、「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(岡井隆)なる記事に出会った(『文藝春秋』二〇一五年六月)。「佳子さまブーム」はここにまでと読み進めると、執筆者の「老い」と「権威主義」の翳は拭いきれないものであった。「ただ、多少自信があるとすれば、歌を作る能力とか、歌について人に意見を申し上げる能力に関しては誰にも負けないとは思っています。」とか、最近体調を崩した折に後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とか臆面もなく記す。さらに、「佳子さま」にも、親しく「助言」し、他の皇族方の「和歌」がいかに素晴らしいかの報告が続く。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。しがみついて守るものは短歌と無縁と言えよう。

岡井は、今年の歌会始の「御製」に呼応して「術後八日、両陛下にご進講申し上げた、仕事始。」の詞書のもとにつぎの一首がある。

・水稲と陸稲で鎌の刃の切れが違ふとぞ陛下説きたまひたる

(『短歌』二〇一五年一月)

また、詞書に代えて「身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ(芳美)」という近藤芳美の作品をあげての一首。 

・さういへば「身をかはす」術を知つてゐた師だつたと今ごろ気付く(『短歌研究』二〇一三年九月)

近藤芳美だって「身をかわし」たではないかと言わんばかりの自己正当化が透けて見えてくる。つぎの一首で、「師弟関係」にある加藤治郎に釘をさすところが、近年の弱気の現れでもあるのか。

・芳美対わたしのやうな棘はなくしかしはつきりとぼくとは異質(『短歌現代』二〇一三年九月)

見回せば、「岡井隆」はどこにでもいる。

(『ポトナム』20158月号 所収)

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代々木の婦選会館を訪ねて(3)『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が出版されました

 今回の報告者のお二人、鳥海哲子さんと山口美代子さんの体験記録も収録されている、表題の『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が、日本婦人有権者同盟から出版されたばかりと、紹介された。発行日は2015年8月15日となっている。46人の女性による戦争体験記録集である。その内容は、以下の通りであるが、体験者も、体験のない方も、是非一読をされたらと思う。全国各地から寄せられた、執筆の方々の苦難と悲痛の連続であった体験に及ぶことはできないが、私も、戦後体験を共有するものとして、自らの家族史や地域史と重ね合わせながら読み進めるのであった。

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(目次)

・国家総動員―勤労奉仕・学徒動員・挺身隊

・戦中・戦後の生活・教育

・疎開――集団学童疎開・縁故疎開

・思想統制と疑心暗鬼の社会――特高・治安維持法

・東京大空襲

・沖縄地上戦――ひめゆり隊

・地方都市の空襲――岡山・水戸・仙台・郡山・岐阜・宮崎・熊本・鹿児島

・原爆の投下――ヒロシマ・ナガサキ

・出征・強制連行

・外地からの引き揚げ――満州・朝鮮・樺太

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2015年8月 1日 (土)

代々木の婦選会館を訪ねて(2)市川房枝の資料・記録への執念に触れる

 前述の「女性展望カフェ」に先だって、市川房枝記念図書室で調べものをすることにしていた。市川房枝(18931981)については、当ブログでも、以下の二つの記事でも書いているので、ここでは詳しくは触れない。市川は、教師・新聞記者を経て、平塚らいてうと新婦人協会を設立、アメリカの女性・労働運動を学び、婦選獲得同盟創立に参加、婦人参政権運動のリーダーとなったが、戦時下の大日本婦人会、大日本言論報国会などの活動により、戦後公職追放を受けた。解除後は、日本婦人有権者同盟、売春禁止、再軍備反対の運動にかかわり、1953年以降無所属の参議院議員として、清潔な選挙を実践した。市川の資料や記録を丹念に保存整理し、戦時下には資料の疎開までして、後世に残している。会議資料、種々活動の宣伝用パンフやチラシ、催事のプログラムや参加者名簿や領収書などを含む、その膨大な資料・記録群をデータベース化しているのが、図書室である。市川の執念にも似て、収集・保存していた資料や記録を、後付けをし、照合しながら整理、データベースを構築するという地道な作業を続けているスタッフにも敬意を表したい思いでいっぱいになった。

入江たか子や村岡花子の回答ハガキから~~~
 いま、私が調べている阿部静枝についての資料も何点かあるのを、かつて教示していただいたので、今回、その一部を閲覧しようと思った。検索結果では、かつてよりは増えて23点ほどヒットした。数点を出してもらい、最初に開いた封筒には、はがきの束が入っていた。1939年、市川房枝が設立した婦人問題研究所が19434月に実施した女性執筆者の履歴事項調査の返信ハガキが180枚ほどが束ねてあった。記載事項は、下記の写真のように、氏名・ペンネーム、現住所・電話番号、勤務先、出身学校、関係団体・関係官庁、主なる著述の欄がある。まさに個人情報が満載である。当時の八大婦人雑誌が対象の「最近に於ける婦人執筆者に関する調査(19405月~19414月)」(情報局第一部発行の部外秘資料 19417月 75頁)より対象人物は格段に広く、履歴事項は、ほぼ同様でながら、「自筆」というところに意味があるだろう。婦人問題研究所の手元資料であって、活字となったものは、いまのところ見当たらないらしい。

 一枚、一枚ハガキを繰って、まず「阿部静枝」の記入をみると、とくに新しい情報はなかったが、本籍地が岩手県一関町になっているのが気になるところだった。おそらく夫、阿部温知の本籍地なのだろうか。「山本千代(山本安英)」の勤務先が「日本放送協会芸能嘱託」とあり、一時、実年齢が違っていたという記事を読んだことがあるが、ここでは1906年となっていた。「田村英子(入江たか子)」の勤務先は「東宝東京撮影所」となっており、長い間秘密にしていたという田村道美という俳優との結婚を明らかにしていたのが分かる。どうもこんな寄り道も楽しいのだが、「村岡花子」のハガキには、いささか驚かされた。出身学校の東洋英和が「東洋永和」となっている点と「関係団体・関係官庁」の欄の末梢の仕方が異様だった。このハガキヘの記入が本人の筆跡なのか否かは、にわかには判断できないのだが、本人か身近な人が記入し、考え直して抹消したのだと思うがその本意は何なのか。また、一方、アナーキストの時代を経て、『母の世紀の序』(1940年)など国家主義的な母性像を提言し、母たちを戦争に駆り立てた書物を多数刊行していた「伊福部敬子」の空欄には、別の意図を感じてしまうほどである。一枚のハガキながら、その記入内容ばかりでなく、生の記録から見えてくるさまざまな情報が興味深い。今回は時間がなく、わずかな資料しか閲覧できなかったので、しばらくは通わなければならないだろう。  

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ひさしぶりにラジオ深夜便を聴く~明日へのことば「市川房枝が残したもの」①②
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-2877.html

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「平塚らいてうと市川房枝~女たちは会報をめざす」(NHKETV2013127日放送)を見て

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/01/127-6f56.html

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阿部静枝のの回答ハガキ

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右上、奥むめおから時計回りに、伊福部敬子、市川房枝、村岡花子の回答ハガキ

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女性展望カフェ終了後の展示室
上3枚は、カメラの具合が悪くなって、ケータイで撮った

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代々木の婦選会館を訪ねて(1)さまざまな戦争体験を聞く

こう暑くなると、東京に出るのも一仕事である。日比谷野外音楽堂の集会や国会包囲行動も、体調との相談である。やはり、代々木の市川房枝記念会女性と政治センター(婦選会館)での「女性展望カフェ」には出掛けたいと思った。婦選会館の図書室で調べものもしたかったのだが、下記のイベントが開催されるのだ。関さんは、被爆者としてのさまざまな活動をなさっているジャーナリストとして有名でもある。山口さんは、私の元の職場の大先輩で、女性史の研究家で市川房枝記念会の運営や資料整備にもかかわっている方で、私も資料の件ではいろいろお世話になっている。

***  ***

女性展望カフェ いま語る―戦争の時代を生きて

場所:婦選会館

日時:2015730日(木)13:3016:15

講師:木﨑和子さん(繊維製造業)…310東京大空襲を逃れて

関 千枝子さん(ジャーナリスト)…広島で被ばくして

鳥海哲子さん(元編集者)…勤労動員で風船爆弾づくり

山口美代子さん(元国立国会図書館職員)…北朝鮮からの引揚げ

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新宿南口の喧騒を離れて・・・。都営新宿線6番出口からは2・3分のところです

 関さんや山口さんの体験については、これまでも一部は書物で読んだ記憶があるが、あとのお二人の体験談は初めてであった。4人の戦争体験は、それぞれ場所も状況も異なってはいたが、学童や思春期の、多感な時期に遭遇した、太平洋戦争末期から敗戦直後の悲痛な体験であった。

 木崎さんは、強制疎開によって、300mほど離れた、墨田区横網町の関東大震災の犠牲者を祀る東京都慰霊堂近くに暮らしはじめてまもなく、310日の大空襲に遇い、親戚をたより山形県に逃れたが、肺結核であった長兄はで22歳、母親は49歳で、敗戦を知らずに病死した。残された父親は、棟梁の仕事で足を悪くしていたので、疎開先では、製材所の木端で鍋・釜のフタを売ったり、強制疎開の立ち退き料だった3万円を取り崩し、疎開してあったわずかなものを売り食いしたりして、木崎さんと姉との3人暮らしで、1950年に東京に戻れたということであった。横網町公園にある東京都慰霊堂の現在の資料をたくさん用意してくださっていた。

 関さんは、広島第二県女学校2年生の時、級友たちは建物疎開のために動員された出先で被爆、病気欠席をしていた関さんを除き、全員が亡くなったと語った。毎年、86日には、広島の少年少女の死を悼むフィールドワークを開催、案内役を務めている。広島平和記念資料館のまとめによれば、動員学徒8222人中5846人が犠牲になったとされているが、実数はもっと多いだろうとのことであった。

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関さんは、写真と共に、平和大通りに建てられた、犠牲となった少年少女たちの慰霊碑をめぐる

 鳥海さんは、旧千葉県立市原高等女学校3年生のとき、それまでは援農という動員であったが、19452月に、五井(現市原市)にできた風船爆弾工場に動員された。和紙をこんにゃく糊で何枚も何枚も重ね合わせた紙をひたすらつくらされた。秘密兵器作成の一端を担う作業だから家族にも漏らしてはならない、洩らしたらスパイとして罰せられると緘口令がしかれていたが、2カ月もすると、市原高女の校舎は司令部が入り、生徒たちは軍属として、815日まで務めた。風船爆弾については、後になって、直径10mにも及ぶ大きな風船に水素ガスを詰め、爆弾をぶら下げて、工場近くの一宮海岸からジェット気流に乗せて太平洋を越え、アメリカ本土に至らせ、爆発させようというものだったと知る。

 この風船爆弾の研究・作成していたのが、川崎市生田の旧陸軍登戸研究所であって、昨年12月開催の明治大学内「登戸研究所」跡の博物館見学と研究会には、私も参加、その時のレポートを本ブログ記事としているので、ご覧ください。

20141223日:明治大学生田キャンパス「登戸研究所」を訪ねて(1)(2)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-1fea.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-242d.html

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人影と比べるとその大きさがわかる。風船爆弾作成に動員されたのは、主に高等女学校生徒を中心に、群馬県以西、宮崎県までの18都府県と満州にまで及び、100校ちかくを数える。女子の方が指先が器用だったからと言われている。都内だけでも、国公私立をふくめ、35校に及び、千葉では、鳥海さんが在学されていた市原高女だけだったらしい。完成品をチェックするには天井の高いスペースが必要で、東京では日劇、宝塚劇場、国技館などがしようされたという

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上総一宮海岸の風船爆弾打ち上げ基地跡。打ち上げ基地は、茨城県大津と福島県勿来の海岸の三か所だった

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これだけの風船爆弾がアメリカに着地していた。戦後、オレゴン州でピクニック中の一家が
風船爆弾に触れて6人が犠牲となっっている

 山口さんは、横浜の小学校を卒業後、父親の判事の転任に伴い、一家で任地の朝鮮の京城、さらに元山に転居した。ご自身は、4年で元山高等女学校を卒業後は元山女子師範学校に進学して、815をむかえている。その直後、父親がソ連軍によって拘束、元山郊外の抑留所に収容されて、19451231日に解放されたが、それからが一家の苦難の引揚げ行になったという。敗戦当初の朝鮮の人たちの反応や38度線までたどり着いたときの喜び、乗り継いで釜山に着き、博多からの船に乗った時の思いなどがなまなましく語られた。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」という市川房枝のことばで締めくくられた。

 いずれの体験も、軍国少女であり、十分な教育を受けられなかった時代を振り返り、戦争は戦場での犠牲ばかりでなく、生き残った多くの人々にも苦難をもたらすものであることを際立たせた。2度と繰り返してはならない、繰り返さないためにも、いまの政治のありようには、さまざまな方法で抗議する重要性を訴えているようだった。コーヒーブレイクをはさんで、多くの方の質疑によって、体験や覚悟が交わされるのだった。

 

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