代々木の婦選会館を訪ねて(1)さまざまな戦争体験を聞く
こう暑くなると、東京に出るのも一仕事である。日比谷野外音楽堂の集会や国会包囲行動も、体調との相談である。やはり、代々木の市川房枝記念会女性と政治センター(婦選会館)での「女性展望カフェ」には出掛けたいと思った。婦選会館の図書室で調べものもしたかったのだが、下記のイベントが開催されるのだ。関さんは、被爆者としてのさまざまな活動をなさっているジャーナリストとして有名でもある。山口さんは、私の元の職場の大先輩で、女性史の研究家で市川房枝記念会の運営や資料整備にもかかわっている方で、私も資料の件ではいろいろお世話になっている。
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女性展望カフェ いま語る―戦争の時代を生きて
場所:婦選会館
日時:2015年7月30日(木)13:30〜16:15
講師:木﨑和子さん(繊維製造業)…3・10東京大空襲を逃れて
関 千枝子さん(ジャーナリスト)…広島で被ばくして
鳥海哲子さん(元編集者)…勤労動員で風船爆弾づくり
山口美代子さん(元国立国会図書館職員)…北朝鮮からの引揚げ
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新宿南口の喧騒を離れて・・・。都営新宿線6番出口からは2・3分のところです。
関さんや山口さんの体験については、これまでも一部は書物で読んだ記憶があるが、あとのお二人の体験談は初めてであった。4人の戦争体験は、それぞれ場所も状況も異なってはいたが、学童や思春期の、多感な時期に遭遇した、太平洋戦争末期から敗戦直後の悲痛な体験であった。
木崎さんは、強制疎開によって、300mほど離れた、墨田区横網町の関東大震災の犠牲者を祀る東京都慰霊堂近くに暮らしはじめてまもなく、3月10日の大空襲に遇い、親戚をたより山形県に逃れたが、肺結核であった長兄はで22歳、母親は49歳で、敗戦を知らずに病死した。残された父親は、棟梁の仕事で足を悪くしていたので、疎開先では、製材所の木端で鍋・釜のフタを売ったり、強制疎開の立ち退き料だった3万円を取り崩し、疎開してあったわずかなものを売り食いしたりして、木崎さんと姉との3人暮らしで、1950年に東京に戻れたということであった。横網町公園にある東京都慰霊堂の現在の資料をたくさん用意してくださっていた。
関さんは、広島第二県女学校2年生の時、級友たちは建物疎開のために動員された出先で被爆、病気欠席をしていた関さんを除き、全員が亡くなったと語った。毎年、8月6日には、広島の少年少女の死を悼むフィールドワークを開催、案内役を務めている。広島平和記念資料館のまとめによれば、動員学徒8222人中5846人が犠牲になったとされているが、実数はもっと多いだろうとのことであった。
関さんは、写真と共に、平和大通りに建てられた、犠牲となった少年少女たちの慰霊碑をめぐる
鳥海さんは、旧千葉県立市原高等女学校3年生のとき、それまでは援農という動員であったが、1945年2月に、五井(現市原市)にできた風船爆弾工場に動員された。和紙をこんにゃく糊で何枚も何枚も重ね合わせた紙をひたすらつくらされた。秘密兵器作成の一端を担う作業だから家族にも漏らしてはならない、洩らしたらスパイとして罰せられると緘口令がしかれていたが、2カ月もすると、市原高女の校舎は司令部が入り、生徒たちは軍属として、8月15日まで務めた。風船爆弾については、後になって、直径10mにも及ぶ大きな風船に水素ガスを詰め、爆弾をぶら下げて、工場近くの一宮海岸からジェット気流に乗せて太平洋を越え、アメリカ本土に至らせ、爆発させようというものだったと知る。
この風船爆弾の研究・作成していたのが、川崎市生田の旧陸軍登戸研究所であって、昨年12月開催の明治大学内「登戸研究所」跡の博物館見学と研究会には、私も参加、その時のレポートを本ブログ記事としているので、ご覧ください。
・2014年12月23日:明治大学生田キャンパス「登戸研究所」を訪ねて(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-1fea.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-242d.html
人影と比べるとその大きさがわかる。風船爆弾作成に動員されたのは、主に高等女学校生徒を中心に、群馬県以西、宮崎県までの18都府県と満州にまで及び、100校ちかくを数える。女子の方が指先が器用だったからと言われている。都内だけでも、国公私立をふくめ、35校に及び、千葉では、鳥海さんが在学されていた市原高女だけだったらしい。完成品をチェックするには天井の高いスペースが必要で、東京では日劇、宝塚劇場、国技館などがしようされたという
上総一宮海岸の風船爆弾打ち上げ基地跡。打ち上げ基地は、茨城県大津と福島県勿来の海岸の三か所だった
これだけの風船爆弾がアメリカに着地していた。戦後、オレゴン州でピクニック中の一家が
風船爆弾に触れて6人が犠牲となっっている
山口さんは、横浜の小学校を卒業後、父親の判事の転任に伴い、一家で任地の朝鮮の京城、さらに元山に転居した。ご自身は、4年で元山高等女学校を卒業後は元山女子師範学校に進学して、8・15をむかえている。その直後、父親がソ連軍によって拘束、元山郊外の抑留所に収容されて、1945年12月31日に解放されたが、それからが一家の苦難の引揚げ行になったという。敗戦当初の朝鮮の人たちの反応や38度線までたどり着いたときの喜び、乗り継いで釜山に着き、博多からの船に乗った時の思いなどがなまなましく語られた。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」という市川房枝のことばで締めくくられた。
いずれの体験も、軍国少女であり、十分な教育を受けられなかった時代を振り返り、戦争は戦場での犠牲ばかりでなく、生き残った多くの人々にも苦難をもたらすものであることを際立たせた。2度と繰り返してはならない、繰り返さないためにも、いまの政治のありようには、さまざまな方法で抗議する重要性を訴えているようだった。コーヒーブレイクをはさんで、多くの方の質疑によって、体験や覚悟が交わされるのだった。
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