代々木の婦選会館を訪ねて(2)市川房枝の資料・記録への執念に触れる
前述の「女性展望カフェ」に先だって、市川房枝記念図書室で調べものをすることにしていた。市川房枝(1893~1981)については、当ブログでも、以下の二つの記事でも書いているので、ここでは詳しくは触れない。市川は、教師・新聞記者を経て、平塚らいてうと新婦人協会を設立、アメリカの女性・労働運動を学び、婦選獲得同盟創立に参加、婦人参政権運動のリーダーとなったが、戦時下の大日本婦人会、大日本言論報国会などの活動により、戦後公職追放を受けた。解除後は、日本婦人有権者同盟、売春禁止、再軍備反対の運動にかかわり、1953年以降無所属の参議院議員として、清潔な選挙を実践した。市川の資料や記録を丹念に保存整理し、戦時下には資料の疎開までして、後世に残している。会議資料、種々活動の宣伝用パンフやチラシ、催事のプログラムや参加者名簿や領収書などを含む、その膨大な資料・記録群をデータベース化しているのが、図書室である。市川の執念にも似て、収集・保存していた資料や記録を、後付けをし、照合しながら整理、データベースを構築するという地道な作業を続けているスタッフにも敬意を表したい思いでいっぱいになった。
入江たか子や村岡花子の回答ハガキから~~~
いま、私が調べている阿部静枝についての資料も何点かあるのを、かつて教示していただいたので、今回、その一部を閲覧しようと思った。検索結果では、かつてよりは増えて23点ほどヒットした。数点を出してもらい、最初に開いた封筒には、はがきの束が入っていた。1939年、市川房枝が設立した婦人問題研究所が1943年4月に実施した女性執筆者の履歴事項調査の返信ハガキが180枚ほどが束ねてあった。記載事項は、下記の写真のように、氏名・ペンネーム、現住所・電話番号、勤務先、出身学校、関係団体・関係官庁、主なる著述の欄がある。まさに個人情報が満載である。当時の八大婦人雑誌が対象の「最近に於ける婦人執筆者に関する調査(1940年5月~1941年4月)」(情報局第一部発行の部外秘資料 1941年7月 75頁)より対象人物は格段に広く、履歴事項は、ほぼ同様でながら、「自筆」というところに意味があるだろう。婦人問題研究所の手元資料であって、活字となったものは、いまのところ見当たらないらしい。
一枚、一枚ハガキを繰って、まず「阿部静枝」の記入をみると、とくに新しい情報はなかったが、本籍地が岩手県一関町になっているのが気になるところだった。おそらく夫、阿部温知の本籍地なのだろうか。「山本千代(山本安英)」の勤務先が「日本放送協会芸能嘱託」とあり、一時、実年齢が違っていたという記事を読んだことがあるが、ここでは1906年となっていた。「田村英子(入江たか子)」の勤務先は「東宝東京撮影所」となっており、長い間秘密にしていたという田村道美という俳優との結婚を明らかにしていたのが分かる。どうもこんな寄り道も楽しいのだが、「村岡花子」のハガキには、いささか驚かされた。出身学校の東洋英和が「東洋永和」となっている点と「関係団体・関係官庁」の欄の末梢の仕方が異様だった。このハガキヘの記入が本人の筆跡なのか否かは、にわかには判断できないのだが、本人か身近な人が記入し、考え直して抹消したのだと思うがその本意は何なのか。また、一方、アナーキストの時代を経て、『母の世紀の序』(1940年)など国家主義的な母性像を提言し、母たちを戦争に駆り立てた書物を多数刊行していた「伊福部敬子」の空欄には、別の意図を感じてしまうほどである。一枚のハガキながら、その記入内容ばかりでなく、生の記録から見えてくるさまざまな情報が興味深い。今回は時間がなく、わずかな資料しか閲覧できなかったので、しばらくは通わなければならないだろう。
・2013年9月4日
ひさしぶりにラジオ深夜便を聴く~明日へのことば「市川房枝が残したもの」①②
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-2877.html
・2013年1月28日
「平塚らいてうと市川房枝~女たちは会報をめざす」(NHKETV2013年1月27日放送)を見て
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/01/127-6f56.html
阿部静枝のの回答ハガキ
右上、奥むめおから時計回りに、伊福部敬子、市川房枝、村岡花子の回答ハガキ
女性展望カフェ終了後の展示室
上3枚は、カメラの具合が悪くなって、ケータイで撮った
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