<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―
池袋第五小学校同窓の伊藤一雄さん(『池袋の西口、戦後の匂い』の著者、当ブログの7月22日記事参照)からのメールで知った、下記「池袋学」のシンポジウムに出かけた。2日ぼど前に、立教大学の係からは、参加申込が多く会場を変えたという電話まで頂戴した。9月12日には、国会周辺で「止めよう!辺野古埋め立て」の集会もあり、迷いながらこちらに参加したというわけだ。数日前に熱を出して体調が万全ではないこともあった。この日のキャンパスは、長雨の後だけに、芝生や蔦の緑が鮮やかで、レンガの校舎に映えていて、見学に来ていた女子高生が感嘆の声を上げていた。
*******************
戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ
2015年9月12日(土)14:00~16:00
池袋キャンパス 11号館地下1階 AB01教室
川本 三郎 氏(評論家)
吉見 俊哉 氏(東京大学教授)
マイク・モラスキー氏(早稲田大学教授)
石川 巧(立教大学文学部教授)
主催:東京芸術劇場、立教大学
後援:豊島区
協力:NPOゼファー池袋まちづくり、立教大学ESD研究所
※戦後70年「池袋=自由文化都市プロジェクト」と共同企画
*********************
300席の会場はほぼ満席、若い人が多い集まりに出るのは久しぶりだった。これまで川本、吉見両氏の本や発言には、若干接しているつもりだが、モラスキー、石川両氏は初めて聞く名前だった。実行委員長の挨拶が終わると、吉見氏の「池袋・東京・戦後~貫戦期の狭間としての闇(ヤミ)市」と題しての報告が始まった。
吉見氏から、池袋のどんな話が聞けるかな、と思っていたが、その中心は、ご自身が、2020年の東京オリンピック招致が決まったころから、いろいろな場で盛んに発言し続けている「東京文化資源構想」であった。東京には、北東部の上野・本郷・谷中・秋葉原、神保町など江戸・明治・大正の趣を維持している盛り場があり、南西部の渋谷・原宿・六本木・青山というアメリカナイズされた盛り場も生まれた。1964年の東京オリンピックを境に、東京の中心は北東部から南西部のエリアへと移行した、というのだ。それらのエリアは、いずれも歩いて移動できる範囲でもあるという。そのどちらにも属さない池袋はどんな位置を占めているのか、については、若干触れるには触れた。従来の二つのエリアの核となったのは、「駅」ではなく、「墓地」と「大学」であり、池袋周辺にも、雑司ヶ谷墓地、護国寺があり、立教・学習院・日本女子大などの大学があるから、盛り場の要素を十分持ち合わせている、という。氏の報告のサブタイトルにある「貫戦期」とは聞き慣れない言葉だが、「ヤミ市」は敗戦後に成立したものではなく、口にこそ出さないが、戦時下には日本の「負け戦」を認識していた国民は多く、すでに「ヤミ市」の要素は、市民の間では容認されていたことであった、ということを意味しているらしい。また2回目の発言では、人間のスケールに合った「ストリートカルチャー」としての「ヤミ市」の中の自由に着目し、「ゆっくり、細く、楽しく」を目指し、路面電車も復活させたいとも。
モラスキー氏は、1970年代の日本への留学以来、日本の戦後文化史を研究、日本の居酒屋やジャズの受容史などにも及ぶ。池袋については、上野、新宿などと比べてとらえどころがない盛り場である。現在、文学作品に現れた「ヤミ市」について研究していて、その作品集を編集している由。「ヤミ市」には、流通システムとしての「市場」、イチバとしての「場所」、履歴書のいらない、素人も参加できる「解放区」としての役割があるという。「店」と「街」との境界線が曖昧なことが特徴の一つとも言える。2度目の発言で、「ヤミ市」には、無計画的な自由、管理されない自由があり、従来の価値体系への挑戦とみることができる、と。
川本氏は、大正末期の永井荷風の日記に登場する「池袋」を紹介する。荷風が港区の自宅から雑司ヶ谷墓地の父の墓参りのついでに池袋に立ち寄り、予想していた以上に、市内の商店街に劣らず賑わっていたと記していたことに着目、関東大震災後の東京市内の人口移動の様相を反映していると見る。また、池袋の三業地生まれの種村季彦のエッセイからも、各地からの流入者や大泉撮影所が近いこともあって映画関係者も多く、移住者を拒まない独特の文化圏を形成していたのではないか。現在でも中央線沿線には「ヤミ市」が現存するということは、自然に出来上がった、居心地のよい空間を人が求めている証ではないか。日本の住宅は狭いので、サラリーマンは街に出て、居酒屋を求めるのではないかとも。
3人の話は、興味深かく、私の知らないこともあって、楽しかった。しかし、どうもしっくりとこないのはどうしてなのかな、の印象なのだ。吉見氏は、「東京文化資源構想」に、池袋をややムリをして当てはめようとした感じがしないでもなかった。それに、東京の中心を種々の文化資源が潜在する北東部に取戻すことが、新しい都市としての方向性を示すかのような話しぶりであったが、高度成長期にこれほどまでに変貌してしまった東京を、文化資源を核にして改造することは、並大抵のことではないだろう。都市として、人口減少、インフラの老朽化、自然災害などをどう克服していくのかという不安も伴うのだった。
モラスキー、川本両氏の話では、居酒屋、墓地、寺、大学などにしても、都市の中の点景や文化・風俗として捉えているように思えて、やや違和感を覚えた。たしかに、池袋におけるヤミ市、人世坐、池袋演芸場、沖縄料理おもろ、祥雲寺、鬼子母神、トキワ荘、サクマ式ドロップなどなど・・・について語られるのだが、それは、やはり、池袋を訪れる人々の感覚や感性によるものであって、必要以上に美化されたり、昭和への郷愁に駆られたりした結果ではなかったかと危惧するのだった。
パネリストの3人は、池袋に住んだことがなく、それだけに客観的ではあるが、生活者としての視点に欠けているように、私には思われたのである。いわば、「男のロマン」ではなかったのかとも。だから、今回の「戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ」で、戦後70年を池袋に暮らし、見つめてきた人をパネリストに迎えたら、もっと立体的に、池袋を活写・検証することができたのではないか、と。
そういう意味で、私が着目したのは、東京芸術劇場のギャラリー・トークで、日替わりで、池袋に暮らし働いた方々のの話が聞けそうな企画である。一日でもいいから聴きに出かけてみたいと思っている。ぜひ記録に残し公開してほしい。さらに、豊島区制施行80周年記念事業「記憶の遺産80」(豊島区地域区民ひろば課作成・NPOとしまの記憶をつなぐ会協力)というインタビュー動画アーカイブであった。これら動画の作成と公開は、貴重な企画だったと思う。立教大学放送研究会と大正大学の放送・映像表現コースの学生が、戦前・戦後の豊島区を知る高齢者33人にインタビューしたものを、話題ごとに80タイトルにまとめたものだ。「池袋」に限っても、「池袋三業町会とともに生きる」「戦後池袋の焼け跡」「坂下通り商店街の遊び」「思い出の人世坐」「池袋西口戦中戦後の娯楽」などなど・・・、各編3・4分程度に編集されている。ここに、登場する方々は、居住歴が70~80年が平均だろうか。私が、池袋の実家を離れたのは30歳過ぎ、記憶にあるのは戦後のことだから、知らないことも多いはずである。父母や兄たちから聞いたことのある話もよみがえってくるのだった。いま、長兄も亡くなり、義姉と姪たち家族が住む実家には、体調のこともあって、立ち寄ることもなく、家路につくのだった。
「記憶の遺産80」の詳細は以下参照。
http://www.toshima-kioku.jp/toshima80/80toha.html
池袋に限らず、生活者・企業による記録や記憶の積み重ねによる、足が地に着いた都市(計画)論の展開に期待したいと思った。
| 固定リンク
コメント