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2015年10月29日 (木)

きのう10月28日は「速記の日」、安保特別委員会議事録の「ねつ造」を糾弾する

 このブログの1020日の記事では、「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」賛同署名について紹介しましたが、1027日に締切りました。

20151020日の記事)

「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」賛同署名が始まりました。1027日まで。

1028日に、3200名弱の署名とメッセージは、参議院山崎議長、安保法制特別委員会鴻池委員長、参議院中村事務総長の三者に届けられました。私は、その報告会に記者たちともに参加しました。前回の「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」と署名は、以下の当ブログ記事にもあるように、5日間で集まった32100名余の署名と共に山崎議長と鴻池委員長に申入れをしました。鴻池委員長は、申入れは受理したものの署名簿は受け取らないという態度をとりました。

2015926 の記事)

925日「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」賛同署名提出!

しかし、今回は、鴻池委員長も、申入れと共に署名簿(メッセージつき)を受理したそうです。1011日の参議院のホームページに公表されたのは917日の安保法制特別委速記録にはなかった「右両案の質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した。なお、両案について付帯決議を行った。」という追記がなされ、「参照」として横浜での地方公聴会速記録も追加されたことが問題の核心なわけです。「議場騒然」「聴取不能」の中で、上記の追記がなされた経緯の検証において、申入れをした呼び掛け人の醍醐・藤田両氏の報告によれば、上記の追加について確認されたことは、一部報道の通り鴻池委員長の権限でなされたということが、参議院の議長・事務総長サイドの認識であるが、鴻池委員長の判断が国会法、参議院規則などに違反していないか、そのチェックはしないのかの質問には、明確な回答が得られていないままだったそうです。

なお、今回の報告会には、さきの32000名署名の報告会にも参加された弁護士会有志代表の武井由起子弁護士も参加しました。武井氏は、速記の日でもある1028日を期し、弁護士82名による<参議院「安保特別委員会」の議決の不存在を再度確認し、委員会会議録の虚偽記載を非難する弁護士有志声明>を発表しました。多くの国民は「通ったものはしょうがない」くらいの気持ちかも知れないが、憲法、法律、規則、先例のいずれにも反する、今回の「採決」は、立法府における重大な法令違反があり、「採決不存在」が明白であることをもっと強く認識し、抗議をしないと、今後の重大な悪しき先例になると、警鐘を鳴らしていました。

その詳細な分析のすべてを紹介できませんが、その一部を要約すると以下の通りです。

①参議院規則は本会議のみならず委員会にも準用されるが、1361項は、「議長は、評決を採ろうとするときは、評決に付する問題を宣告する」とし、参議院委員会先例録155条には「委員長は、問題を可とするものを挙手又は起立させ、挙手又は起立者の多数を認定」とある。「問題の宣告」も委員の意思表明の対象も特定できなかったことは速記録においても映像記録においても確認できていないのだから議決自体が「不存在」である。

②参議院規則156条では、「すべての議事は速記法によらなければならない」となっており、録音などによる方法はとらず、衆議院に比べてもきわめて厳格な逐語性を追求している。

③参議院規則157条は、会議録の訂正は、字句に限られ、発言の趣旨変更できないことを定める。

④参議院委員会先例録300条には、速記法による以外の掲載例として、極めて形式的な事項が列記された末尾に「(11)その他委員会又は委員長が必要と認めた事項」とある。本件追加部分は、議事の審議や票決という実質的な部分にかかるものであって、これには当たらない。

⑤憲法57条第1項両議院会議の公開、第2項会議の記録・保存・公開・頒布の原則が定められている。第2項は、会議録は起こった事実を記載するものであるから、存在しなかった事実を記載した場合は虚偽記載となる。代表民主制にあっては、すべての国民が参加したり、傍聴したりできないことを担保するために、会議録を残すのであって、国会に正当性を与える重要なものである。虚偽の会議録は公開原則に違反する。

 弁護士有志の声明では、「速記は言葉の写真」、速記者は「議院の耳」という言葉を引用し、「速記法による記録」は、高い専門性と倫理観が問われている速記者による記録でなければならない、とも述べています。

 以上は、採決の不存在、議事録の撤回を求める法的な論拠であるが、今回の賛同署名に寄せられたメッセージの数々を読んでいると、あの特別委員会の騒乱の様相を国会中継で見てしまった国民の多くは、「許せない」、と同時に「許したら民主主義がダメになる」との悲痛な声が聞こえるようでした。< 賛同者の住所(県・市町村)とメッセージがご覧になれます>

 https://bit.ly/1X82GIB

 

 なお、今回の申し入れと賛同署名の提出先である鴻池委員長は、「Will」という月刊雑誌の12月号で「参院委員長が初めて明かす 安保国会 大混乱の舞台裏」と題して、いわば得意げに、委員長の権限は絶大で、議事の進行も、議事録の追記も、すべて「委員長の議事整理権」の範囲内で行っていると主張しています。しかし、あの国会中継を見てしまった多くの国民を納得させるものではありません。

 

 

 

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2015年10月23日 (金)

「放送大学、政権批判の問題文削除」が問うもの

 「UP」という東京大学出版会の広報誌がある。出版会新刊書の著者によるエッセイであったり、植物や建築探索であったり、かなり幅が広い。 私が楽しみにしているのは、「すずしろ日記」という美術が専門の山口晃さんの連載マンガと、もう一つは、日本美術史専攻の佐藤康宏東大教授の「日本美術史不案内」という2頁ほどの連載である。マンガは、中年の共働き夫婦のペーソスあふれる日常が描かれていて面白い。「不案内」の方は、古今東西の美術作品・美術書・美術展や芸術家を対象に、最近のトピックスを交え、様々な切り口での「案内」は新鮮で、楽しい。ところが、10月のはじめに届いた10月号は違っていた。「日本美術史不案内78」は「政治的中立」と題され、津田清楓の「ブルジョア議会と民衆生活」(1931年)と題された議事堂の絵と山口逢春の「香港島最後の総攻撃図」(1942年)の写真が目を引いた。

 放送大学客員教授でもある佐藤教授の担当は放送大学「日本美術史」である。今回のエッセイでは、2015年度第1学期の自分の試験問題文(726日実施)の冒頭部分を、まず引用していた。

― 現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。一九三一年の満州事変に始まる戦争もそうだった。それ以前から政府が言論や報道に対する統制を強めていた事実も想起して、昨今の風潮には警戒しなければならない。表現の自由を抑圧して情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった。

 

この問題文に対して、試験の終了後、受験者のひとりから、「現政権への批判は審議の事案への意見は、教育者による思想誘導と取られかねない」とのメールを受けた放送大学は、大学生用のサイトから、この部分を「不適切であったため削除」した。放送大学が一方的に不適切として判断し、一部を削除したのは不当な措置だと考え、撤回を求めたが、容れられず、客員教授を辞した、という経緯が書かれていたのである。

  試験問題の冒頭部分は戦前戦中期の美術について、いまに生きる自身の問題として考えてほしいという受験生へのメッセージであったという。そして、放送大学が放送法に規制されるのはわかるが、として、最後に「政治的中立とは政権から距離を保つことであって、政権の意向を慮ることではない」と結ぶ。

私には、問題文の全容がわからない。どんな文脈の中での文章だったのかも覚束ないながら、1020日、『毎日新聞』が最初に報道した。手元の新聞とその後、調べた範囲でまとめてみる。

1020日『毎日新聞』「放送大 政権批判の問題文削除 単位認定〈試験に不適切〉」(日下部聡)

1020日 0955

― 放送大は単位認定試験の過去問題と解答を学生ら関係者だけがアクセスできるサイトに公開している。佐藤氏によると、7月28日に大学の事務担当者から「学生から疑義があった」として、学内サイト公開前に問題の削除や修正を求められた。

― 佐藤氏が大学側の求めを拒むと、該当部分の削除を通告する文書が8月上旬、宮本みち子副学長名で届いた。削除理由として「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」と記されていた。

― これに対し佐藤氏は納得せず、昨年度から2019年度まで6年間の契約だった客員教授を今年度限りで辞めると大学側に伝えた。佐藤氏は「学生に美術史を自分のこととしてリアルに考えてほしかったので、この文を入れた」と説明した。その上で「大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い」と話す。

②『日本経済新聞電子版』(1020 13:00配信)(共同配信)「放送大、政権批判の試験問題文削除 「学問の自由侵害」の声も 

― 佐藤教授は「自分自身の問題としてとらえてほしいと思って書いた。試験問題まで制約を受ける

のは大変遺憾だ」と話している。

― 一方、来生新・副学長は「放送大学は放送法を順守する義務があり、放送法4条には『政治的に公平である』と定められている。意見が分かれている問題を、一方的に取り上げており不適切」としている

③『朝日新聞』(102113版)「政権批判の問題文削除 放送大〈中立性に配慮〉」(伊藤あずさ)

*デジタル「放送大学、政権批判の問題文削除 作問者〈過剰な規制〉」

10210723 

― 単位認定試験の問題に安倍政権を批判した文章が含まれたのは不適切だったとして、放送大学が学内サイトに掲載する際に該当部分を削除していた。大学側は「放送法により、政治的に公平でなければならない」と説明する。だが、総務省放送政策課の担当者は「今回のケースは法に触れず、試験まで規制対象としたのは無理がある」と指摘。

― 作問した放送大客員教授の佐藤康宏・東大教授(60)は「戦前・戦中期の美術史について、学生に自分たちの身近な問題に引きつけて考えてもらうために必要」と説明した。(中略)「学問の自由が認められず残念だ」と話した。

― 来生(きすぎ)新・副学長は「放送法の規制を受け、一般大学より政治的中立性を配慮しなければならない。試験問題も放送授業と一体。問題文は公平さを欠くと判断した」と削除理由を説明した。 

④『産経ニュース』(1021 15:30 「放送大学、単位認定試験で“偏向”問題を出題 〈現政権は再び戦争を始めるための体制…〉指摘受けサイトから削除 

― (放送大学側は)佐藤氏に対し、文書で「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」として削除を通告した。佐藤氏は「試験問題は放送法の適用を受けないのではないか」「同意なく削除されたのは著作権の侵害」などと反論し、今年度限りで辞任する意向を大学側に伝えたという。 放送大は一般大学と異なり、放送法を順守する義務を負う。

― 放送大の来生(きすぎ)新(しん)副学長は削除理由について「政治的に公平で、意見が対立している問題は、できるだけ多くの角度から論点を明らかにしなければならない。 

⑤『NHKWebニュース』(10202211)客員教授の問題文「公平性欠く」 放送大学が一部削除

― 佐藤客員教授は、ことし7月に行われた日本美術史の単位認定試験で、戦前・戦時中に国に弾圧されたり軍に協力したりした画家に関する問題文の冒頭に、「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある」などと記しました。

― これについて放送大学は、放送法に照らして「公平性を欠き不適切だ」などとして、その後、学内のオンライン上に試験問題を公開する際に文章の一部を削除しました。

佐藤客員教授は「学生には戦前・戦中の美術について自分自身のことに引き付けて考えてほしくて文章を入れた。大学側の対応は、批判が来ることをおそれた過剰防衛ではないか」と話しています。

一方、放送大学は「意見が対立する問題について一方的な見解を伝えるのは、放送法上不適切だと判断しただけで、政権批判をしたから削除したわけではない」としています。

大学側の措置に対して佐藤客員教授は「みずからの著作物である試験問題の一部を同意を得ずに削除されたことは遺憾だ」として今年度限りで辞任すると申し出て、大学側も了承しました。その結果、平成31年度まで担当することになっていた日本美術史の講義も今年度かぎりで終了することになりました。 

これらの報道を、時系列でみると、NHKは、毎日や日経(共同配信)の報道を受ける形で、報道した形跡がある。他の報道と比べ、事実関係で気になるのは、670人のうちの1人の受験生からメールで抗議を受けたことから始まった件であったことが伝えられていないことだろうか。それに、もう一つ。1020日の夜10時過ぎにNHKオンライン上で配信されたウェブ・ニュースが上記⑤なのだが、この前後のテレビのニュース番組「ニュース7」「ニュースウォッチ9」「News Web」で放映されていないことはNHKにも確認した。明言できないが、おそらくテレビでは報じられていないだろうとのことだった(NHKには、チェックの手立てがないそうだ?!)。

ということは、ネット上の配信だけで、テレビには登場しないニュースであった。テレビやラジオには登場しない、ウェブ上だけの“お蔵入り”の「その他のニュース」が存在する。何を放送・放映するかは、編成次第なのである。

一方、「表現の自由」「学問の自由」「大学の自治」が、さまざまな形で、徐々に侵されてゆくなかで、研究者や大学人たちが、研究室に閉じこもるのではなく、社会に向かって発言したり、社会的活動をしたりする積極性は、大いに評価されるべきだろう。しかし、そこにはおのずから、専門性と倫理性が問われるべき時代にもかかわらず、いたずらに衒学的だったり、簡単に時流に乗ったりして、自己顕示や欲望に抑制を欠く研究者が目立つことも確かで、生活者たる市民の感覚を忘れないでほしい、と思う。

<参考>

放送法

(放送番組編集の自由)

第三条  放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

(国内放送等の放送番組の編集等)

第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

  公安及び善良な風俗を害しないこと。

  政治的に公平であること。

  報道は事実をまげないですること。

  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

<追記>10月25日

上記記事執筆後、以下の記事を見出しました。弁護士の金原氏とお笑いの「おしどりマコとケン」さんの3人は、いずれも放送大学大学生の現役生で、私たちのアクセスできない情報にも接し、マコとケンさんは、渦中の佐藤教授に「突撃取材」をしています。関心のある方は是非お読みください。

 

①弁護士・金原徹雄のブログ

http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/45780419.html

20151024

放送大学長「単位認定試験問題に関する件について」を批判的に読む ※追記あり

20151022

放送大学「日本美術史('14)」単位認定試験にかかわる見ごせない大学の措置について ※追記あり

 

 

OSHIDORI Mako&Ken Portal / おしどりポータルサイト 

L.C.M.PRESS Oshidori Mako&Ken mako oshidori

2015-10-24 取材最新記事

 

放送大学:政権批判を自主規制① 「政治的中立とは、政権から距離を保つこと」

 

放送大学:政権批判を自主規制筆者が学長に出した速達

 

放送大学:政権批判を自主規制 学長の説明に疑問 岡部洋一放送大学学長さま 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年10月20日 (火)

「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」賛同署名が始まりました。10月27日まで。

1011日に参議院のホームページに、917日に開催された安保特別委委員会の議事録が公表され、安保関連法案等をいずれも可決すべきものと決定した、との文言が速記録に追加されました。また、〔参照〕として、横浜地方公聴会速記録が追加されました。

  925日に32千余の賛同署名を添えて、山崎参議院議長と鴻池特別委委員長宛に「安保関連法案の採決不存在と法案審議の続行を求める申し入れ」を提出しましたことは、このブログの記事でもお伝えしましたが、そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは許せない気持ちです。

そんな気持ちの一端でも、意思表示することも大事かなと思っています。

申入れの(骨子)
 
 1.今回、公表された議事録の追記が作成された経緯(誰の、いかなる指示・判 断で作成されたも のか)を厳密に検証し、その結果を公表すること。
 
 2.事実に背き、参議院規則にも反する議事進行を正当化しようとするまやかしの議事録を撤回す ること。
 
 3.安保関連法案の採決・可決の不存在を直ちに認め、法案の取り扱いを至急、協議するよう、各党会派に諮ること。私たちは法案の段階に立ち返って言えば、違憲の法案を廃案とするよう、求めます。

 

「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
 http://netsy.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-8d84.html

公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」(全文)
 
 http://netsy.cocolog-nifty.com/Tekkai.pdf 
 
 
 
 <賛同の方へ>
 
 1. ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、送信して下さい。
 
  http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2
 
 2. 賛同者のご住所とメッセージを次の専用サイト(google spreadsheets)に公開しています。
 
   https://bit.ly/1X82GIB 
 
 3. 第一次集約日 1027日(火)22とします。

<ご参考までに>

2015/09/25 安保法案「採決不存在」に賛同署名が3万筆超え! ~呼びかけ人の学者ら、署名受け取り拒絶の「自民・鴻池事務所」を厳しく批判 | IWJ

 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/266904

9.17を忘れない⑩ - Mootan's Blog ①-⑩

http://mootan.jimdo.com/%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E5%AE%89%E4%BF%9D%E6%B3%95%E5%88%B6/9-17%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E2%91%A0/

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2015年10月15日 (木)

雨の霞ヶ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)

予科練平和記念館へ

 

 高塚夫妻は、美術館に残られたので、私たち3台を連ねて355号線を戻り、今度は、霞ケ浦の西岸に沿って、美浦(「みほ」と読むらしい)を経て、一時間ほどで、高い鉄塔が見えてきた。陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校である。広い駐車場の向うの予科練平和記念館は、白い大きな四角い窓が特徴的で、銀色の積み木を重ねたような建物だった。館内は、天井が高く、明るくホールを中心に、予科練の七つボタンにちなんで、リーフレットにあるように「入隊」「訓練」・・・「窮迫」「特攻」の七つの展示室に分かれている。「入隊」では、各地から難関だった選抜を経て入隊する少年たちの意気込みが、「訓練」では、軍事や教養を含め、飛行訓練へと励んだ様子が伺われる。「窮迫」の部屋は、映写室で、1945610日の阿見町空襲が7分間の映像で伝えられ、当時の練習生や隊員、職員の方の証言映像で凄惨な様子が語られる。米軍の計画的な阿見町の軍施設爆撃だったが、町全体が壊滅的な被害を受け、374名の犠牲者が出たという。ただ、映画の監修者に遊就館(靖国神社)と海原会の名があったのには少し気になったところであるが、どの部屋の展示も、いろいろ工夫がされていた。

 

 予科練平和記念館は、阿見町の運営で、今年で開館5年となり、つい最近、記念行事が終わったばかりのようだった。私たちが見学した1011日の日付で、記念館のホームページの「館長日記」には「予科練平和記念館5年間の歩み」が記されていた。http://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?cat=3"

  それによれば、長い準備期間を経て、201022日にオープンし、歴史調査委員を擁し、さまざまな取り組みによって、資料や証言の収集、その展示、継承に力を注ぎ、現在に至っている。アーカイブも整いはじめ、検索もできるようになっているのを知った。

 

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予科練平和記念館全景

 

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入館チケットとリーフレットの一部

 

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展示室「入隊」、パンフレットより

 

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七つの展示室のテーマ、リーフレットより

 

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展示室「訓練」、教室が再現されている。手前に見えるのはハンモック

 

予科練と特攻 

 そもそも、「予科練」とは、「特攻」とは何だったのか。私の世代すら、むかし見た映画の影響からだろうか、七つボタン、白いマフラーを連想し、「予科練くずれ」「特攻くずれ」の言葉が頭をよぎる。

 予科練とは、海軍飛行予科練習生の略で、旧海軍が、若いうちから優秀な搭乗員を養成しようということで、1930年、横須賀の海軍航空隊に設置された飛行予科練習生制度である。1939年には、霞ケ浦海軍航空隊に移設され、全国の予科練教育の中心的な役割を担うことになった。当初は、全国の14歳から17歳の少年たちを対象に、選抜試験により人材を集め、軍事・教養の基礎から飛行訓練を行った。しかし、戦局が悪化するにつれ、とくに、太平洋戦争下、その末期には、教育期間も短縮されていった。さらに、壊滅的な戦力を補うべく、海軍は「特別攻撃隊」という作戦を考案し、人間魚雷回天、水上特攻艇震洋、特殊潜水艇海龍、人間爆弾桜花など人間自体を兵器とし、目標に突撃するものだった。しかし、目標に届く前に撃墜されたり、自爆したりして、その戦果は、微々たるものに過ぎなかった。しかしその要員を補ったのが、多く予科練からで、その戦死者は2800名に及んでいる。その中には、194412月「特別丙種飛行予科」コースが新設され、本名と日本名と二つの名前を持つ朝鮮人、台湾人の若者たちが含まれていた。展示室「特攻」の映像のラストシーンは、出撃直後、モールス信号が途絶えたときが、彼らの死の瞬間であったとことを強調するものだった。そして、記念館のパンフレットでは、「当時の緊迫した情勢のなかで、志願しなければならないような状況があったことは想像に難くない」との解説がなされていた。「特攻」を考案したとされる軍部の幹部たちは責任を取ることもなかったのである

 

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人間魚雷「回天」
 

土門拳と予科練

 エントランスやホールでは、予科練の少年たちの訓練や暮らしを伝える壁いっぱいの写真やパネルが目をひく。その写真はすべて土門拳によるものだった。「筑豊の子どもたち」や「古寺巡礼」などで、その名を知るが、予科練とはどんな関係だったのだろうか。写真は、どれも少年たちの躍動的な身体、真剣なまなざし、やさしい笑顔が活写されていて、魅力的な作品が多かった。

 土門拳(19091990)のカメラマンとしてのスタートは、上野池の端の写真館であったが、1935年、名取洋之助の日本工房には入り、海外向けの日本紹介雑誌「NIPPON」の仕事をしていたが、1939年には外務省の外郭団体、国際文化振興会の嘱託となった。それに先立ち、1938年には、田村茂、藤木四八、浜谷浩らと青年報道写真研究会を立ち上げている。近頃、私は、太平洋戦争下の婦人雑誌を調べることが多いが、なかでも『婦人画報』などのグラビアで、土門拳は、先の田村、藤木、浜谷らと一緒に頻繁に見かける写真家の名前だった。土門の人物写真や報道写真は、その人間くささとしたたかさが、他と少し違うように思ったものだ。記念館のリーフレットによれば、展示されている土門の作品は、たまたま入院していた練習生が身近に持って出ていた42枚が処分を免れたものだったという。

記念館が開館して間もないころ、産経新聞の茨城版で連載していた記事が『土門拳が封印した写真―鬼才と予科練の知られざる交流』(倉田耕一 新人物往来社 20107月)として出版されている(未見)。この本の紹介によると、土門は、海軍省の依頼により、19446月から数週間、甲種13期生の31(入野)分隊第4班の一員となり、練習生と起居を共にして撮影し、ときには少年たちにはきびしい注文も付けたという。それほどまでにして撮影した労作を、戦後、みずから封印し、焼却されたとも言われている。

 

予科練平和記念館の初代糸賀富士夫館長が、酒田市の土門拳記念館を訪ねたとき、予科練の写真が一枚もなかったと記している(「土門拳を訪ねて」2010年9月8日http://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=1298 )。たしかに、土門拳記念館のホームページの「年譜」では、予科練での撮影の事実はどこにも記されていない。その年譜をあらためて見てみると、1943年の個所には、『日本評論』9月号における「対外宣伝雑誌論」のなかで宣伝グラフ誌を批判し、客観的真実に立脚した報道を提唱して、発禁になった旨の記述はあるが、1944年は空白のまま敗戦後に続くのである。

 

いったい、どうしてなのか。戦時下の大政翼賛的な作品や活動を、不都合なこととして隠蔽する芸術家や論者は多い。しかし、「土門拳まで、お前もか」の思いは去らない。戦前・戦後を通して残した作品は、すべて公開し、自らの評価、第三者の評価にゆだねることも、表現者としての責任ではないかと思っている。「客観的真実に立脚」しなかった、「後ろめたい」というならば、なおさら、そうしないことには、歴史に向き合い、過去から学ぶことを放棄することと同じになりはしないか、と。いつの日か、どこかの土蔵の隅から、あるいは手つかずの段ボール箱から、封印したという作品群が見つかりはしないかと祈るような気持ちもある。

 

少年たちの死

「明日は外出です。金を一円もって、饅頭食って汁粉を食って、大福食って芋食って、アンミツ食ってあべかわ食って、倶楽部へ行って火鉢にでもあたっている予定です」と手紙に書いた福山資さんは、佐賀県出身、甲種第5期練習生で、1939年入隊、1942131日卒業、台南航空隊から蘭印に飛び194232日に戦死、18歳だった。この手紙を読んで、思い出したのが、陸上自衛官でマラソン選手だった円谷幸吉の「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ…」で始まる遺書だった。

 

予科練平和記念館の隣に広がる陸上自衛隊土浦駐屯地の一画にある雄飛館は、予科練戦没者の遺書・遺品約1500点を収蔵、展示し、予科練出身者、遺族で構成される「海原会」が管理している。壁いっぱい、展示ケースいっぱいに肖像写真と遺書をひたすらに並べた光景は不気味でさえある。むしろ解説などは不要なのかもしれない。その記録から、彼らの死の実態を知り、遺された私たちが今できることを考えなければと思う。


 武器学校敷地内にある雄飛館に向かう

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予定よりやや早めに、雨もすっかりあがり、茜色の落日に向かって帰路についた。

 

 

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2015年10月13日 (火)

雨の霞ヶ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(1)

水郷大橋を渡る

 地元の「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」の代表である高塚一成さんの油彩展(2015102日~113日)が茨城県行方(なめがた)市の吉崎美術館で開催中である。今月の第2日曜の「まもりたい会」例会は、その美術館で開こう?ということで、久しぶりの遠出となった。高塚夫妻の先頭車両に続き、3台に分乗した11人、私たちの車は運転のMさんと3人、女性ばかりのおしゃべりで盛り上がる道中だった。あいにくの雨ながら、佐倉、成田を抜け51号線に入り、北上するが、渋滞もなく、水郷大橋を渡れば茨城県潮来。小降りになったところで、北利根橋を渡って永山交差点で左に折れて355号線に入った。

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北利根橋を渡ると

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355号線に入った

 私の知っている水郷大橋は、佐原での2年以上の疎開生活で、毎日遠くから眺めていた長い頑強そうな鉄橋であった。母の生家が佐原の岩﨑で、まずは小学生だった次兄が縁故疎開で、つぎに母と私が身を寄せ、池袋の家が1945413日夜の空襲で焼け出されてからは、薬局を営んでいた父と薬学校に通っていた長兄も加わり、一家5人の疎開生活が始まっている。当時、幼い私が眺めていた鉄橋とポプラが群れ立つ風景は、衣食住がままならず、街の和菓子屋さんの芋羊羹がのどから手が出る程欲しかった、そんな過酷な暮らしのなかで、どこか憧憬にも似た、やさしさを漂わせていた。あの橋は、1936年に完成したもので、1977年に300mほど上流に架けられた現在の水郷大橋ができて、その役目を終えたという。その後、佐原には何度か来ているが、新しい水郷大橋を渡るのは、この日が初めてだった。
 355号線を進むと右側に、小さな吉崎美術館の案内板が見えてきて、曲がるとすぐに一乗寺という寺の山門だけがまるで道端に転がるように建っていた。さらに、山道を進むと、とんがり屋根の赤い壁の瀟洒な建物が見えてきた。車を下りれば雨も上がり、あたりの緑に、庭の柿の赤い実が際立っていた。

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吉崎美術館に向かう

具象画を前に、麻生高校美術部の伝説の人!

 美術館のオーナーの吉崎才兵衛さんは行方(なめがた)の出身の画家、高塚さんは、潮来(いたこ)出身で東京芸術大学に進んで、活躍する画家だ。このたび、昨年4月にオープンしたばかりの吉崎美術館で個展の運びとなったという。館内は、木の香がただよう明るい雰囲気で、吉崎さんご自身の作品とコレクションの一部が展示されている部屋と企画展の部屋に分かれ、それに大きなテーブルがデンと控えた、おしゃべりをしたりお茶の接待まで受けたりしたスペースがあった。連休初日のこの日は、高塚さんの地元のお知り合いが何人も訪れていて、その対応にも忙しそうだった。「私の絵は、具象なので、ともかく自由に見てください」と言いながらも、忙しい合い間を縫って、私たちにはみずからの作品の解説をしてくださった。

 たしかに写実ではないので、鑑賞する人の想像力、いや創造力が掻き立てられるのだが、話を聞いていても、狭まることなく、その世界が広がるから不思議である。「鎮魂―四つの最後の歌より」と題する大作は、題とはかけ離れ、実に明るい色調のなかに捕えられた鳩が自ら解き放たれようとしているようなメッセージが伺われたが、その作品の意図を聞きもらしてしまった。また正反対の「沼―凍てつくような寒い朝」と題された作品は、完成までに4年を要したという大作だった。私の貧しい経験からは、佐倉が、福島原発事故の放射線量がかなり高いホットスポットと言われていた時期、一度ならず放射線量を調べ、測定に従いて回ったときの、印旛沼を思い出していた。今回の、16点のなかで、私がもっとも心ひかれたのは、「夕暮れ」と題する小品だった。どこの水辺とも分からない、河なのか沼なのか静かな水面の対岸とその空が描かれているが、ほとんどモノクロに近い、淡い色調に奥行きが思われ、茜や朱はどこにもあらわれない意外性にも納得するのだった。

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中央が「沼」

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「夕暮れ」

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 展示室を出たところの掲示版に、今回の個展のポスターがあるのに気が付いた。「麻生高校美術部 伝説の人」との添え書きがしてあった。吉崎さんが問わず語りに、話されたのは、美術部の部室には高塚さんのデッサンが掲げられ、後輩たちの憧れでもあり、目標にもなっていたという。今回の個展にも多くの後輩たちが駆けつけているとのこと。高塚さんの人柄を彷彿とさせるエピソードであった。
 吉崎さんご自身の作品や同郷の村山密の作品にも初めて接しすることができ、ホッコリする気分にもなったのである。そして、潮来の牛堀は、早世したので、私は会うことがなかったのだが、私の父の父、祖父の出身地でもあり、私も、幼いころ、父に連れられて、一度だけ同姓の遠縁のお米屋さんを訪ねたことがある。ダットサン?に乗ってお墓参りをした記憶もよみがえる。お米屋さんはいまでもあるのだろうかと、吉崎さんにたずねてみたところ「そうそう、そのあたりに詳しいのが来ているよ」と、お客さんの一人を手招きしてくださった。町役場に永く勤めていたという方だった。「同姓の家は結構あるが、40町歩の〇さん?それとも、米屋となると、あそこかも知れない。もう米屋はやめて、新しい事業をしているが・・」とのことで、「もっと早くに来れば、年寄りに遇えたかもしれん・・」と残念がってくださった。

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美術館オーナーの吉崎才兵衛さんの作品

北利根、川辺のレストラン「蔵」にて
 今回の霞ヶ浦行きの、もう一つの楽しみは、地元の牛堀で高塚さんの親せきの方がなさっているイタリアン・レストランでのランチだった。北利根の船着き場のお米の倉庫だった蔵を改造しての作りで、なかなかの風情があるものだった。目の前には釣り人がちらほら、ときどきすごい音と水しぶきを上げて駆け抜けるモーターボート、天気さえよければ右手には筑波山が見えるという。葛飾北斎の富嶽三十六景に「常州牛堀」があって、富士山も見えるとのことだった。店内は、意外と広く、一枚ものの分厚い木のテーブルがあって、詰めれば156人は座れそうで、他にテーブル席もあり、カラオケもライブもできるらしい。私は、茄子のミートソースのパスタとサラダ、それにケーキをおいしくいただいた。おしゃべりに夢中で、「9条まもりたい会」の例会はどこへやら・・・。でも、午後からは、「まもりたい会」の恒例でもある戦跡めぐりで、阿見町の予科練平和記念館に向かうことになっている。

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