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2015年11月 3日 (火)

「ヒトラーの暗殺、13分間の誤算」(2015年)を見て

藤田嗣治の展覧会の後、夫と日比谷で待ち合わせ、映画を見てきた。今回の映画の主人公、ゲオルク・エルザーは、昨年のドイツ旅行の折、ベルリンの抵抗運動記念館で、初めて知った名前だった。下記の当ブログにも、つぎのように記していた。

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.2028(7)20141115日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/2014102028-d8b1.html

「第7室は、たった一人での暗殺計画で1939118日に逮捕されたミュンヘンの家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、アウシュヴィッツ強制収容所を経て、19454月ダッハウ強制収容所で殺害されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。」

(一部訂正済み)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室のエルザーのパネル(リーフレットより)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室入口(2014年10月撮影)

 この映画の主人公がエルザーと知ったとき、見逃してはならないと思った。実話に基づいた映画を見、その後調べてみると、上記の私の記事には、間違いがあることがわかった。抵抗運動記念館の展示の解説の肝心のところが読み取れていなかった。エルザーが生まれたのは、ミュンヘンの北西ケーニヒスブロンという町であり、ミュンヘンは、ヒトラーの演説中の暗殺計画が未遂に終わった事件の現場、ビヤホールがあった都市である。なお、アウシュヴィッツに送られたかは、今回確かめられなかった。映画でも、「5年後」のダッハウ収容所で解放直前の194549日に銃殺されたことはわかったが、途中が定かではない。ただ、調べてみると、やはり昨年訪ねたベルリン北部のオラニエンブルク市のザクセンハウゼン強制収容所に、かなりの期間収容されていることもわかってきた。収容所の資料館でもエルザーに関する展示があったのを思い出す。こうなるともう語学の問題で、情けないながら、資料の前を素通りしていたのだ。それはさておき、映画に移ろう。

 ミュンヘンのビヤホールの柱に、暗がりの中、時限爆弾を仕掛けている男がいた。ミュンヘン一揆を記念して、毎年開かれるヒトラーの演説会の壇上の柱にである。1939年11月8日、ヒトラーは、演説中に、天候の不順で飛行機が飛ばなくなったことが知らされる。ちょうどその頃、爆弾を仕掛けていた男エルザーは、仕掛けた時刻が迫るのを気にしながら、スイスとの国境を超えようとしていたところを不審者として捕えられた。ヒトラーが会場を後にした直後、ビヤホールは爆破し、8人の犠牲者を出し、ヒトラー暗殺は未遂に終わった。13分早く、演説を切り上げたためだった。エルザーが所持していた設計図などから実行犯と目されるのだが、名前や生年月日さえ明かさない。さまざまな拷問の末、元婚約者まで動員して、ついに自供させる。その取調べの過酷さの合間に、田舎の、気のいい家具職人の青年エルザーが、なぜ、暗殺を計画するまでに至ったのかが、丁寧に描かれる。取調べにあたったのは、親衛隊組織の両翼をなす保安警察(ジポ)と秩序警察(オルポ)の保安警察、その保安警察の中の、いわゆるゲシュタポ(秘密警察局)の局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベという超大物で、ヒトラー自身の指示であったという。ヒトラーは、エルザーの単独犯行が信じられず、必ず共犯者や黒幕がいるとの見立てで、拷問に続く拷問で自供を迫れとの指示を出す。飲んだくれの父や貧困との葛藤、夫からの暴力被害にさらされている女性との恋、特定の政党に属するわけでもなかったが、地域の有力者や子どもたちまでが、ナチスのプロパガンダにはまってゆくことに危機を感じていた。共産党員の友人やユダヤ人と付き合っていただけの幼馴染の女性が捕えられ、自らの自由も日毎に狭められていく息苦しさと正義感から思い詰めたエルザーは、綿密な計画により決行に到る。

 ミュラーとネーベの取調べの手法は対照的で、ミュラーが強権的で、ネーベはやや温情的な側面を見せる。事務的で冷やかな女性書記も、ときには、ひそかに頼みごとを聞いてくれることもある。しかし、エルザーの信念と単独決行は揺るぎないままであったようだ。映画では、その後、彼は収容所に送られ、処刑されないまま5年を経、ダッハウ強制収容所の特別囚として過ごしていたことが伝えられる。19452月半ばのドレスデン爆撃、ナチスの崩壊が確実となった194549日、突然、処刑ではなく、テロによる殺人ということにして、銃殺される。それに先立つ、3月には、かつて取調べにあたったネーベは、その後、ヒトラー暗殺計画に関与したとして絞首刑に処されるのである。 映画は、このネーベとエルザーの死で終る。エルザーの婚約者だった女性は、1994年に亡くなるが、波乱の人生だったようである。

 戦後70年、ドイツでの、いまだこうしたレジスタンス映画を通じて、ナチスの歴史の真相に迫ろうとする姿勢や動向を、つい、いまの日本と比べてしまう。ナチス時代のドイツは決してヒトラー一色ではなかった証として、ヒトラー暗殺事件は、40件にも及んでいた、という指摘もうなずける。いまの日本は、歴史の不都合を消し去ろう、消し去ろうとする勢力が、暗雲のように頭上を覆う時代、この現実をしかと記憶に留め、異議を唱え、過去とは真摯に向き合いたいと思う。

 もっとも、戦後の東ドイツと西ドイツにおいても、エルザーにまつわる史実は、長い間封印されていた。なぜかと言えば、映画のプログラムでは、つぎのように語られている。「西ドイツでは、共産主義者の偏屈なドイツ人とみなされ」、「東ドイツでは、ドイツを解放したのはソ連赤軍だとして」、エルザーのような存在は無視され続けた(鳥飼行博「ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺計画」)と。エルザーの復権署名運動は1993年に始まり、ミュンヘンには、「ゲオルク・エルザー広場」があり、爆弾が仕掛けられたビヤホールには、記念碑がつくられ、切手まで発売されるようになった。

 なお、ゲオルク・エルザーが、未遂とはいえ暗殺事件の実行犯であったのにもかかわらず、すぐに処刑されなかったことには、諸説があるらしい。イギリスの謀略による暗殺事件だと内外に公表しているので、将来、エルザーはその証人となる大事な要員であったからとか、ヒトラーがエルザーの暗殺を免れたのは「神の摂理」であるということが喧伝されたので、暗殺未遂は、ヒトラーサイドによる自作自演の要員として利用したからとか・・・。エルザーが収容されていたダッハウは、他と比べて、政治家や聖職者、文化人などが多い収容所であり、処遇の定まらない要人も多かったらしい。

 また、エルザーの取調べにあたった、ネーベは、意外な展開で処刑されるに至るのだが、過去にはさまざまな大量処刑の指揮を執った軍人であった。ミュラーは、ヒトラーの最期に立ち会った人物ながら、その後、行方不明となり、海外に逃亡して生き延びているという噂も飛び交った。しかし最近になって、ドイツ抵抗運動記念館の調査により、すでに19458月、ベルリンで遺体となって発見された後、ユダヤ人墓地に埋葬されていたことが確認されたという。

 できるなら、ドイツ再訪の折は、一度、ミュンヘンには立ち寄りたいと思っている。かつて、このブログの記事にもした映画「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(2005年) の舞台もミュンヘンだったのだ。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html2013715日)

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映画のスタッフについて(プログラムより)

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エルザーが一時収容されていたザクセンハウゼン強制収容所跡(2014年10月撮影)



 

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