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2015年11月25日 (水)

「マイナンバー制度」は、日本だけ!? 先進国の失敗からなぜ学ばないのか

日本のマイナンバー制度は、国民の利便性や行政の効率化を考えてのことなのか

「マイナンバーのお知らせ」、 皆さんのお手元に届いただろうか。私の家には11 22日に届いた。全国から簡易書留の配達ミスや自治体の窓口での交付ミスが連日続いていて、関係者があちこちで頭を下げている映像を目にする。とくに千葉県内の件数が多いとか。情報漏えいについては万全を期しているという法律ながら、スタートの時点でなんとも基本的なミスが続くではないか。他人のマイナンバーがいとも簡単に知られてしまうリスク、その無防備さが露呈した。

マイナンバー制度について、内閣官房は「マイナンバー 社会保障・税番号制度 国民生活を支える社会的基盤として、社会保障・税番号制度を導入します。」、総務省は「マイナンバー制度は行政の効率化、国民の利便性の向上、公平・公正な社会の実現のための社会基盤です。」と、そのホームページのトップで説明する。果たして、ほんとうなのだろうか。

マイナンバー法とは「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」の略称で200頁以上にも及ぶ。関連法合わせて四法を指すこともあり、すでに2013531日に公布され、来年20161月から運用が開始される。さらに、今年、201593日には、マイナンバーの利用範囲を預金口座や特定健康診査(メタボ健診)、予防接種にも拡大する改正法が成立した。日本年金機構の個人情報流出問題を受け、マイナンバーと基礎年金番号の連結は延期した。預金口座へのマイナンバー登録は、いまは、預金者の任意としているが、義務化が検討されている。義務化により、税務当局や自治体は、脱税や生活保護の不正受給を減らせると見込んでいるがほんとうにそうなのか。それより先にやることがあるのではないか。

どの先進国も、進めている「マイナンバー制度」というが、その実態は

10月の終わりに、テレビ朝日の玉川さんの「そもそも総研」で、一部外国での「マイナーバー」実施状況を知った。私も、ネット検索などで調べていくと、いろいろなことがわかってきた。いわゆる「先進国」で、日本のような、「マイナンバー制度」(国民共通番号制度)を採用している国は、見当たらないのだ。国民共通番号制を採用したが撤廃したイギリス、社会保障番号の民間利用を拡大したため「なりすまし被害対策」に必死のアメリカ、納税者IDカードとして税務以外の利用は一切禁止するドイツ、税と健康保険に留まるフランス・・・。いったいどうなっているのか。資料もいろいろ出てきたが、以下のようにまとめてみた。とくに、経過と課題の欄に注目してほしい。日本における、やがて連結される年金情報、健康保険情報などが民間にも開放されたとすると、保険会社や製薬会社などにとっては、格別の情報になってしまうのではないか。

 

諸外国の個人識別番号の現況           

 国名 

人口

 導入状況 

導入時期・対象 

 経緯と課題 
 アメリカ 

3億人

 

社会保障番号 

1936 

任意・民間へ拡大

 

大不況後の対策として社会保障番号制度(年金など)を導入、本人の申請による 

公的医療保険制度はなく、識別番号制度は保険提供者・保険者・雇用主に導入、患者にはない 

民間への利用を拡大したため、なりすまし被害が激増中 

ドイツ 

8000万人

 

納税者ID番号 

2009 

民間禁止

ナチスの体験から、番号を付することが人権侵害で憲法違反とし、情報管理の一元化・データ保護に非常に敏感 

2003~課税の公平性のため税識別番号導入へ(自治体ごと)

フランス 

6500万人

 

健康保険番号 

1998 

任意

1973~紙媒体から電子化、1978~税徴収のみに利用 

1998~健康保険IDカード、医療情報の制限 

日常生活カード、国家身分証明カードは未実施 

イタリア 

6000万人

 
 納税者番号 

民間一部利用

 
 2000~納税はすべて電子申告、現在は社会保障番号としても利用 

本人確認番号として利用拡大 

イギリス 

6300万人

 

国民保険番号 

1948~

 

2006~テロ対策として国民IDカード法成立 

2007 2500万人分のデータROMを紛失 

2010~に保守党に政権交代、国民IDカード法、すべてのカード情報を廃棄 

カナダ 

3000万人

 
 社会保険番号 

1964 

任意 

民間一部利用 

 社会保険料の徴収・受給者管理・給付。身分証明番号として利用 

データ保護意識高い 

オースト 

ラリア 

2150万人

 

納税者番号 

1989~ 

任意

 

1984~税方式による公的医療保障制度、1989~納税者番号取得は任意、カードの発行はない 

2010~保健医療識別番号導入、2012~患者・医療提供者の自主的参加、患者の情報選択が可 

デンマーク 

560万人

 

住民登録番号 

1964 

民間有料で可 

住所・氏名限定

 1968~住民登録制度による税・社会福祉など全行政サービスに利用される個人識別番号制度へ 

1990年代~家庭医登録制度、医療機関相互による効率化へ 

日常的な利用拡大 

日本 

12000万人

 

マイナンバー 

2016 

住民票への番号自動的付与 

民間へ随時拡大 

 基礎年金番号、健康保険被保険者番号、パスポートの番号、納税者の整理番号(旧、法源番号)、運転免許証番号、住民票コード、雇用保険被保険者番号などの一元化へ 

住民票に、氏名・住所・生年月日・性別・個人番号付与。カード配布申請任意  

  (末尾資料により、内野光子作成。201511月現在、未完)

 上記の表は、以下のPDFでもご覧になれます。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/syogaikokunokojinsikibetu.pdf

 なぜ「マイナンバー制度」の導入を急いだのか
20161月から運用開始といい、当初は、法律をところどころ、また解説などを読んでいくと、マイナンバーが「行政の効率化、国民の利便性、公平公正な社会」のためにというけれど、今までの役所の縦割り、役所の杓子定規による市民の不便さ、生活保護費の不正受給、富裕層や法人への税優遇が、一挙に解決するとも思われない。相変わらずの役所仕事は続くだろう。ともかく番号一つで国民の個人情報をたばねて、何にでも運用し、国民のひとりひとりの人権に踏み入ろうという狙いは明らかだ。情報漏れに関しては、だれが責任をとることもなく、第三者機関による調査と再発防止をうたって、管理職が頭を下げれば、一件落着である。さらにいえば、役所や法人からのマイナンバー事業の委託や管理事業という、巨大な利権が動く。いわば「コンクリート」公共事業の頭打ちのあおりをIT産業に振り向けるための政策であったのである。 

生活保護費の不正受給や医療費の不正請求を取り締まることは、今のシステムだってできるはずで、やらなかっただけではないのか?軽減税率をどの範囲に決めるか?などはいわば、財政上から見ればむしろ些末的な案件であって、それよりも、法人税率を1%でも下げないこと、所得の分離課税から総合課税へ、 逆進性の税制を改めること、内部留保税の新設・・・など、「決める政治」ですぐにでもできる財源確保ではないか。それらを財源に、福祉予算の大幅増額によって、貧困、病苦、非正規雇用、少子などの悪循環を止めることができるのではないか。政府雇いの有識者からは、そんな意見がさっぱり聞こえてこない。

安保法制によって得をするのは誰なのか、危険にさらされるのは誰なのか。防衛予算や基地の増強は誰のためなのか。原発再稼働によって得をするのは誰なのか。安心安全な暮らしを奪われるのは誰なのか。同じような構図が見えてくる。

この1週間、一日2・3回、マイナンバーの問い合わせ番号0120950178に電話しているが、通じない。もうそれだけでも、私などは、先行きの不安を覚える。たださえ、高齢者をターゲットにさまざまなサギが横行する昨今、民間への利用を推進しようとする「マイナンバー」が、まるで、怪獣のように私たちに襲いかかってくるような恐怖を感じてしまうのだ。

<参考文献>
・「マイナンバー制度」が利権の温床に「IT公共事業」に群がる白アリども『選択』20133
・巨額血税「浪費」のマイナンバー大手IT企業が「談合」でぼろ儲け『選択』20155
・近藤倫子「医療情報の利活用をめぐる現状と課題」『情報通信をめぐる諸課題』国立国会図書館 2014

・黒田充(自治体情報政策研究所のブログ)
「先進国は全てマイナンバーのような制度を入れている」のウソ (1)http://blog.jjseisakuken.jp/blog/2015/04/post-d673.html
「先進国は全てマイナンバーのような制度を入れている」のウソ (2)
http://blog.jjseisakuken.jp/blog/2015/04/post-5cda.html
・玉川徹ほか「そもそもマイナンバー制度は海外ではうまくいっているの?」(約
17分)『そもそも総研』(テレビ朝日、20151029日)
http://www.at-douga.com/?p=14841
・猪狩典子(
GLOCOM国際大学グローバルコミュニケーションセンターのHM)「ICT利用先進国デンマーク」
http://www.glocom.ac.jp/column/denmark/igari_1_1.html
・高山憲之「フランスの社会保障番号制度について」(
200711月)http://cis.ier.hit-u.ac.jp/Common/pdf/dp/2007/dp344.pdf#search='%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%95%AA%E5%8F%B7'
・「国家情報システム(国民ID)に関する調査研究報告書―英国、フランス、イタリアなどにおける番号制度の現状」(国際社会経済研究所 20113月)http://www.i-ise.com/jp/report/pdf/rep_it_201010.pdf#search='%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2+%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%95%AA%E5%8F%B7'
・「諸外国における国民ID制度の現状等に関する調査研究報告書」(国際大学グローバルコミュニケーションセンター 20124月)http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/h24_04_houkoku.pdf#search='%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%AB%B8%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%9B%BD%E6%B0%91%EF%BC%A9%EF%BC%A4%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%80%8D%EF%BC%88%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC+2012%E5%B9%B44%E6%9C%88%EF%BC%89'

 

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2015年11月16日 (月)

「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」へ

 池袋の実家に出かけるついでに、西武別館ギャラリーで開催中(~1116日まで)の表記「白蓮展」に出かけた。まさに、予想通り、高齢の女性たちが人垣を作っていた。歌人白蓮に関心がある人たちというよりテレビ「花子とアン」のファン層が多かったのではないか。

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 展示会への違和感はどこから

カタログや出品資料目録もないので、メモを取ろうとペンと手帳を取り出すと、係員が飛んできて「ペンはいけません」と制止する。「すみません、鉛筆を貸してもらえますか」とお願いすると「ご用意はいたしておりません。メモすることがいけないことになっています」「なぜですか、少しメモを取りたいのですが」「申し訳ありません、そういうことになっております」とのこと。仕方がないので、ロッカーまで戻って、バッグのポケットから鉛筆を探して持ち出した。あとは、係員の目を気にしながら、最小限度のメモを走り書きするしかなかった。なぜ? 写真がイケないというのは、理解できないことではない。しかし、メモ自体がイケないとは!

 戦時下の白蓮は

会場は、チラシにあるように、十四の章に分かれていた。やはり私が気になるのは、戦時下の白蓮の活動をどう伝えるかであった。これも予想にたがわず、空白なのであった。つまり、「第十章 歌人柳原白蓮」「第十一章 平和運動へ」「第十二章 中国との交流」「十三章 晩年 安らかな暮らし」という流れだったので、戦時中にあたる章を設けていなかった。第十一章に、「香織の戦死、平和運動へ」との解説があり、学徒出陣で出征中の長男が、敗戦の4日前、鹿児島空襲で亡くなった衝撃から立ち直って翌年1946年には「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に参加していく経過がたどられる。そして「十二章」は、戦前からの宮崎龍介とその父との関係から、戦前・戦後を通した、蒋介石や孫文、毛沢東らとの交流が多くの写真と共に語られていたが、「十二章」の冒頭の解説には「戦局悪化に伴い、宮崎家は、中国との懸け橋になるべくギリギリの活動を行ったが・・・」といった趣旨のことが書かれているのみだった。宮崎龍介の無産政党運動の中での位置づけも不明確なままだった。龍介が、近衛文麿の蒋介石への「密使」として送られようとした「密使事件」として言及し、白蓮ともども「反戦」思想の持ち主のような捉え方が強調されていた。

戦時下の白蓮の活動については、当ブログの以下を参照されたい。

◇ これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって白蓮の戦前戦後を振り返る(2014年10月)

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-2de4.html  

 私には、一つの宿題があった。「花子とアン」放送中、上記ブログを書いている折、櫻本富雄さんから柳原白蓮選によるアンソロジー『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 19389月)を送りいただいていた。自筆と思われる贈呈先の名前と白蓮の署名と日付が書かれているものだった。その献本先の氏名に心当たりがないかとのことでもあったので、とりあえず、女性史や女性文学史、歌人関係の辞典や書物を調べてみたが、不明だった。もしかしたらとも思ったが、展示にかかるものからは分からなかった。あらためて、再び家でネット検索していると、「生長の家」の幹部であるらしいことが分かった。

そのアンソロジーは、白蓮の「あとがき」によれば「前線にあられる方々と、銃後の留守を預かる私共と、双方を結びつける魂と魂との親交を願って、せめてお互ひに励ましあひ」とあり、白蓮身辺の歌集とともに、新聞歌壇などの作品にも対象を広げたとある。白蓮自身も巻末に、つぎのような10首を寄せている。

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売店で、展示会カタログの代わりという「ガイドブック」を購入したところ、章立てと構成が異なるものの、今回の展示の概要がわかる形にはなっていた(『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌人』宮崎蕗苳監修 河出書房新社 201511)。その売店のところで、私が参加している研究会での大先輩でいらっしゃる近代文学専攻の渡辺澄子さんにお遭いした。このガイドブック巻頭の論考を書かれているとのことだった。帰路の車内で早速読み始めると、その論考でも、このアンソロジーに触れていることが分かった。

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やはり、ここでも「年譜の空白」

さらにこの「ガイドブック」を読み進めると、巻末に1頁の「白蓮略年譜」が付されていた。やっぱりというか「昭和12年(1937)盧溝橋事件、龍介の密使事件のため憲兵隊に召喚」とあり、次の行が「昭和20(1945)811日学徒出陣中の香織、鹿児島県の串木野(現・いちき串木野市)にて空爆により戦死」とあり、上記アンソロジーの出版の記述もない。

当ブログでも触れた「土門拳記念館」の「年譜」でも、1944年、海軍省の依頼による霞ケ浦の予科練での密着取材の件に触れられることなく、空白であった。ここに、共通する姿勢は何なのか。一人の人間、とくに文芸の表現者の生涯をたどるとき、ある時期の表現活動を封じるということが、なにを意味するのか。さまざまな表現者たちが、そうした「操作」を繰り返すことは、史実を歪め、歴史を歪めることになるのではないか。

そう考えると、私が必要上よく利用する、歌人の年譜や短歌史年表の類の一行は、編者や作成者の思想がまともに反映する、大切な一行であることを痛感するのだった。

絢爛たる「恋文」

今回の展示会の圧巻は、なんといっても白蓮が伊藤伝衛門邸のもとから宮崎龍介へと送った恋文の公開だろうか。2年間にわたる約700通の手紙が残されているという。実に華やかな大阪の柳屋製の竹久夢二が描く絵封筒、巻紙、便箋はじめ、白蓮自作の歌が刷り込まれた歌封筒などが用いられている。その一部が展示されていた。さらに、白蓮が伊藤家を出奔した「白蓮事件」後、いわば幽閉されていた時期に龍介とかわされた書簡などの展示も初公開だという。パソコンや携帯電話、スマホなどのない時代の、その書状の量に圧倒されたことは確かである。現代の恋人たちは、いったいどんなふうに、ことばをかわすのだろうか。

なお、会場には、白蓮の肉声を聞かせるコーナーがあって1957310日、NHKラジオ放送番組の一部を流していた。シャキシャキした、気さくな物言いで、華族女学校在学中の様子を語る部分だったのだろうか、先生の下田歌子について「ほんとうにおきれいな方でしたよ、その頃の先生と言えば、きれいな方はいなかったんですけれど・・・」みたいなことを、さらっと言ってのけていたのには、少々驚いた。かつて皇太子と正田美智子さんの婚約が成立したとき、異を唱えていたという白蓮の一面と共通したものを感じるのだった。複雑な家族関係や生い立ち、その後の2度の結婚による抑圧された生活が逆に作用しているのだろうかとも。

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2015年11月13日 (金)

「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」を聴く

かねてよりご案内いただいていた、表題のコンサートに行ってきた。この日、117日は、午後がNHK包囲行動であり、宮下公園までのデモの後、会場のウィメンズプラザ・ホールへは、週末の宮益坂を経て、歩いてもそう遠くはない距離だった。東京ウィメンズプラザフォーラムのプログラムの一つであった。企画・構成が「小林緑カンパニー」、小林緑さんは、国立音楽大学で教鞭をとられていた研究者だが、昼のNHKへの抗議行動とも無関係ではない。小林さんは、数年前まで、NHKの経営委員を2期務められ、NHKの内部を知って、NHKの改革を提唱しているお一人である。825日の第1回NHK包囲行動集会の折は、リレートークをされた。私が参加する地元の「憲法9条をまもりたい会」の講演会にもお呼びしている。

久し振りのウィメンズプラザのホールは初めてである。この日のプログラムは以下の通り。

最初の「乙女の祈り」(1851年)は、聴き慣れた曲ではあるが、プロの方の生演奏は初めてのような気がする。作曲のテクラ・バダジェフスカ(ポーランド語の読みだと異なるらしいのだが)17歳の時の曲で、その後、結婚、5人の子をもうけ、1859年頃、音楽雑誌に楽譜が載って以降、大人気になったという。私たちが想像するような感傷的な“乙女の祈り”ではなく、分割統治されていた祖国ポーランドの平和への「祈り」ではなかったかとの解説であった。

吉田隆子の歌曲、1949年発表の「君死に給ふことなかれ」(与謝野晶子18781942)は、すでに聴いたことがあるが(以下の当ブログ参照)。

   
 

「雪よりも、雪よりも、白くなし給え、君がみめぐみに」~「吉田隆子の世界」聴きにいきました

 
 

13/04/11

 

組曲『道』からの「頬」(竹内てるよ19042001)は初めて聴いた。竹内てるよ「頬」(『花とまごころ』所収 渓文社 1933)は、作者の没後、美智子皇后の国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会(2002929日、スイス:バーゼル市)でのスピーチの結びで「子どもを育てていた頃に読んだ,忘れられない詩があります。・・・」と「頬」の冒頭を引用したことでも知られるようになった。スピーチは英語でなされ、つぎのように訳されている。

 

生まれて何も知らぬ 吾子の頬に

母よ、 絶望の涙を落とすな

その頬は赤く小さく

今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも

いつ 人類のための戦いに

燃えて輝かないということがあろう

Of your innocent newly born,

Mothers,

Do not drop

Tears

Of your own despair.・・・ 

 

コンサートでは、歌詞の「絶望」が「悲しみ」と歌われていたようである。てるよの詩人としてのスタートは、貧困と闘病のさなかの1920年代、アナーキスト系の詩人と言われていたが、1940年代に入ると、多くの文学者とともに日本文学報国会の諸事業に参加するようになり(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995)、『辻詩集』(日本文学報国会編刊 1943)や種々のアンソロジーに作品が収録されるようになり、詩集も数多く出版された。朗読会やラジオ放送では「白梅」「母の大義」「女性永遠の歌」などの作品が朗読されている(坪井秀人『声の祝祭』名古屋大学出版会 1997)。

クララ・シューマンのピアノ協奏曲から「ロマンツェ」(1835)、ル・ボー「チェロとピアノのための4つの小品」(1881)、ガルシア・ヴィアルド「歌曲集」(1864)から「夜に」「星」の2曲だった。

いずれの作曲家も、日本でいえば幕末から明治にかけての時代を生き抜いた人たちで、西欧といえども女性へのさまざまな偏見にさらされていたのだろうと想像ができた。だからこそ、現代には、きちんとした評価がなされなければならないと思った。素人の私には、ピアノの河野さんは、テレビ「のだめカンタービレ」の上野樹里の手や音の吹き替えをした方とか、ヴィアルドの生涯にあっては、ロシアのツルゲーネフの存在が大きかった、といったエピソードも興味深く、チェロの江口さんのやさしい音色にも魅せられた。まだまだにぎやかな表参道の街を、コンサートの余韻をまとい、帰路につくのだった。

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2015年11月10日 (火)

11月7日、NHK包囲行動、集会と渋谷デモに参加しました  

  前日からの偏頭痛が残っていたので、集会には遅れて参加した。地下鉄の代々木公園で下車、地上に出ると雨が降っているではないか。家を出るときは晴れていたのに、NHK西門前のコンビニの傘は売れてしまわないかな、と。 公園沿いに急いでいると、音楽を流しながら街宣車がやってくる。今日の集会のかしらと、車体の横断幕をみると「NHK職員の給料は、民間平均の4倍!」等の大きな文字が見える。これって今日の集会の横断幕ではないはず、ここまでえげつないことは言わないはず? その横断幕の下の端に「籾井会長頑張れ!」の小さなポスターがあった。そういえば、NHK近くで、田母神氏らの団体も集会を開いている由、聞いていた。彼らの言う、NHK職員の高給は知られるところで、平均1200万円(福利厚生費を入れると1700万を超える。 籾井会長は3000万)というから、私とても叫びたいところだ。籾井会長にはやめてもらいたいが、職員には「給料に見合う仕事をしてください。何しろ、その財源は受信料なのですから」と。
  集会中の列を縫って、 まず、傘を買おうと、コンビニに向かう途中で、佐倉の知り合いに出会った。傘なら、まとめ買いした一本が残っているからと、ビニール傘を差し出してくださった。カンパですよ、との言葉にありがたく頂戴した。知っているだけでも佐倉からは8人が参加していますよ、とのことだった。事前にチラシを配ってくださったMさん、メールで拡散してくださったSさんも。
   肝心の集会は、すでに終盤、リレートーク7人の最後は、沖縄辺野古で基地反対活動を撮り続けている映画監督の影山あさ子さんだった。前にもシンポジウムのパネリストとしての発言を聞いたことがある。沖縄の基地反対運動の実態を克明に撮影して来て見えること、ほとんどのメディアがその実態を伝えていないこと、とくにNHKは豊かな人材と機器を持ちながら、遠く離れた地点から、あるいは上空から取材するだけだという。しかも、ふだんの取材はなく、何か「ヤバイ」ことが起こりそうな時だけ、どういうわけか取材に現れるという不思議も語っていた。また、東京から派遣された機動隊員は、朝の30分で、座り込みの人たちを排除して、一泊1万円もするホテルに引き上げるという。ほかにする仕事はないらしい。「本工事に着工」と本土のメディアは報じるけれど、なにも始まってはいない。既成事実をつくるのに手を貸しているメディアが少なくない中で、零細の映画製作者の影山さんたちは、潜水をいとわない取材、そのためにはカヌーが欲しいという。皆さん一度辺野古に来てください、と締めくくった。メモを見るでもなく、堂々とした話しぶりだった。

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   NHK西門前からデモ出発点の宮下公園までは、歩道での移動であった。8月25日の第1回NHK 包囲行動の時の帰り道と同じコースである。週末だけあって、渋谷駅に近くなると、さすがに街はにぎやかでもあり、眩しいくらい華やかにも見えた。公園での小集会、一緒に歩いた知り合いの東京のSさんは、公園の隅に、大きなミカンの木と沢山の実をつけたキンカンの木を見つけた。よくも人知れずこんな街中の公園にと二人で感心したのだった。私は、出発までに、まだ実行委員の手元にたくさんあったデモコースが載るチラシと「NHKは政権の介入に屈するな!」「安倍政権はNO,報道への介入をやめろ!」などのプラスター、まだの人いませんか、お持ちでない人いませんかと配ってみた。
  いよいよ、デモの出発。NHK正門前の交差点では、「NHKをアベチャンネルにするな」「マイナーバーで受信料を徴収するな」「籾井会長やめろ」のコールも一段と盛り上がる。公園通りを渋谷駅に向かえば、歩行者は俄然多くなるが、このデモは?パレードは何?といった表情で、立ち止まる人、信号を待つ人も多いので、手元に残るチラシを撒くことにした。若いカップルはチラシになかなか手を出してはくれない。なかには「ゴメンね」とことわる高校生もいる。グループで歩いている人たちはおしゃべりに夢中だ。受け取ってくれるのは中高年の男性が多い。中年の女性に声を掛けたら、「バスが遅れて困っているのよ」と叱られてしまった。さまざまな反応を見るのが楽しみというのも、図々しくなった証拠、年の功?だったりして。
  偏頭痛は、すっかり消えていた。歩いたのがよかったのかもしれない。

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デモをする人々、沿道の人々・・・
11月9日のNHK世論調査報道によれば、安倍政権への支持率47%、不支持39%の由、8月の調査では、支持37%、不支持46%だった。この結果をどう見るのか。

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2015年11月 5日 (木)

いよいよ、11月7日、NHK包囲行動です。昼間なので、渋谷のデモに参加してみよう。

 土曜日は、天気もよさそう、雨は降らなさそうです。NHKをよく見る人、聴いている人、NHKを見たくない人、NHKに一言ある人、 ぜひ参加してみよう。

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NHK包囲行動『アベチャンネル』はゴメンだ!

怒りのNHK包囲行動

 日時: 2015117日(土)

  PM 1:302:45 集会:NHK(渋谷)西門前でリレートーク

  PM 2:453:15 宮下公園北側へ移動

  PM 3:153:30 デモコースの説明・諸注意、コールの練習

  PM 3:304:00 宮下公園北側からデモスタート、神宮通公園ゴール

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詳しくは、告知チラシPDFダウンロード 
    表http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117omotehoi.pdf 

   裏http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117urahoi.pdf

 なお、11月7日の東京でのNHK包囲活動に呼応して、現在のところ、つぎの10都市でも、各NHK支局へのアピール行動が行われます。詳細は、以下の「NHKを監視激励する視聴者コミュニティ」のHPをご覧ください。

 

水戸、名古屋、岐阜、京都、大津、奈良、大阪、神戸、広島、福岡のNHK放送局周辺「

http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/#_ga=1.98127647.1241685374.1352992517

 

 

 

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2015年11月 3日 (火)

「ヒトラーの暗殺、13分間の誤算」(2015年)を見て

藤田嗣治の展覧会の後、夫と日比谷で待ち合わせ、映画を見てきた。今回の映画の主人公、ゲオルク・エルザーは、昨年のドイツ旅行の折、ベルリンの抵抗運動記念館で、初めて知った名前だった。下記の当ブログにも、つぎのように記していた。

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.2028(7)20141115日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/2014102028-d8b1.html

「第7室は、たった一人での暗殺計画で1939118日に逮捕されたミュンヘンの家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、アウシュヴィッツ強制収容所を経て、19454月ダッハウ強制収容所で殺害されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。」

(一部訂正済み)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室のエルザーのパネル(リーフレットより)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室入口(2014年10月撮影)

 この映画の主人公がエルザーと知ったとき、見逃してはならないと思った。実話に基づいた映画を見、その後調べてみると、上記の私の記事には、間違いがあることがわかった。抵抗運動記念館の展示の解説の肝心のところが読み取れていなかった。エルザーが生まれたのは、ミュンヘンの北西ケーニヒスブロンという町であり、ミュンヘンは、ヒトラーの演説中の暗殺計画が未遂に終わった事件の現場、ビヤホールがあった都市である。なお、アウシュヴィッツに送られたかは、今回確かめられなかった。映画でも、「5年後」のダッハウ収容所で解放直前の194549日に銃殺されたことはわかったが、途中が定かではない。ただ、調べてみると、やはり昨年訪ねたベルリン北部のオラニエンブルク市のザクセンハウゼン強制収容所に、かなりの期間収容されていることもわかってきた。収容所の資料館でもエルザーに関する展示があったのを思い出す。こうなるともう語学の問題で、情けないながら、資料の前を素通りしていたのだ。それはさておき、映画に移ろう。

 ミュンヘンのビヤホールの柱に、暗がりの中、時限爆弾を仕掛けている男がいた。ミュンヘン一揆を記念して、毎年開かれるヒトラーの演説会の壇上の柱にである。1939年11月8日、ヒトラーは、演説中に、天候の不順で飛行機が飛ばなくなったことが知らされる。ちょうどその頃、爆弾を仕掛けていた男エルザーは、仕掛けた時刻が迫るのを気にしながら、スイスとの国境を超えようとしていたところを不審者として捕えられた。ヒトラーが会場を後にした直後、ビヤホールは爆破し、8人の犠牲者を出し、ヒトラー暗殺は未遂に終わった。13分早く、演説を切り上げたためだった。エルザーが所持していた設計図などから実行犯と目されるのだが、名前や生年月日さえ明かさない。さまざまな拷問の末、元婚約者まで動員して、ついに自供させる。その取調べの過酷さの合間に、田舎の、気のいい家具職人の青年エルザーが、なぜ、暗殺を計画するまでに至ったのかが、丁寧に描かれる。取調べにあたったのは、親衛隊組織の両翼をなす保安警察(ジポ)と秩序警察(オルポ)の保安警察、その保安警察の中の、いわゆるゲシュタポ(秘密警察局)の局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベという超大物で、ヒトラー自身の指示であったという。ヒトラーは、エルザーの単独犯行が信じられず、必ず共犯者や黒幕がいるとの見立てで、拷問に続く拷問で自供を迫れとの指示を出す。飲んだくれの父や貧困との葛藤、夫からの暴力被害にさらされている女性との恋、特定の政党に属するわけでもなかったが、地域の有力者や子どもたちまでが、ナチスのプロパガンダにはまってゆくことに危機を感じていた。共産党員の友人やユダヤ人と付き合っていただけの幼馴染の女性が捕えられ、自らの自由も日毎に狭められていく息苦しさと正義感から思い詰めたエルザーは、綿密な計画により決行に到る。

 ミュラーとネーベの取調べの手法は対照的で、ミュラーが強権的で、ネーベはやや温情的な側面を見せる。事務的で冷やかな女性書記も、ときには、ひそかに頼みごとを聞いてくれることもある。しかし、エルザーの信念と単独決行は揺るぎないままであったようだ。映画では、その後、彼は収容所に送られ、処刑されないまま5年を経、ダッハウ強制収容所の特別囚として過ごしていたことが伝えられる。19452月半ばのドレスデン爆撃、ナチスの崩壊が確実となった194549日、突然、処刑ではなく、テロによる殺人ということにして、銃殺される。それに先立つ、3月には、かつて取調べにあたったネーベは、その後、ヒトラー暗殺計画に関与したとして絞首刑に処されるのである。 映画は、このネーベとエルザーの死で終る。エルザーの婚約者だった女性は、1994年に亡くなるが、波乱の人生だったようである。

 戦後70年、ドイツでの、いまだこうしたレジスタンス映画を通じて、ナチスの歴史の真相に迫ろうとする姿勢や動向を、つい、いまの日本と比べてしまう。ナチス時代のドイツは決してヒトラー一色ではなかった証として、ヒトラー暗殺事件は、40件にも及んでいた、という指摘もうなずける。いまの日本は、歴史の不都合を消し去ろう、消し去ろうとする勢力が、暗雲のように頭上を覆う時代、この現実をしかと記憶に留め、異議を唱え、過去とは真摯に向き合いたいと思う。

 もっとも、戦後の東ドイツと西ドイツにおいても、エルザーにまつわる史実は、長い間封印されていた。なぜかと言えば、映画のプログラムでは、つぎのように語られている。「西ドイツでは、共産主義者の偏屈なドイツ人とみなされ」、「東ドイツでは、ドイツを解放したのはソ連赤軍だとして」、エルザーのような存在は無視され続けた(鳥飼行博「ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺計画」)と。エルザーの復権署名運動は1993年に始まり、ミュンヘンには、「ゲオルク・エルザー広場」があり、爆弾が仕掛けられたビヤホールには、記念碑がつくられ、切手まで発売されるようになった。

 なお、ゲオルク・エルザーが、未遂とはいえ暗殺事件の実行犯であったのにもかかわらず、すぐに処刑されなかったことには、諸説があるらしい。イギリスの謀略による暗殺事件だと内外に公表しているので、将来、エルザーはその証人となる大事な要員であったからとか、ヒトラーがエルザーの暗殺を免れたのは「神の摂理」であるということが喧伝されたので、暗殺未遂は、ヒトラーサイドによる自作自演の要員として利用したからとか・・・。エルザーが収容されていたダッハウは、他と比べて、政治家や聖職者、文化人などが多い収容所であり、処遇の定まらない要人も多かったらしい。

 また、エルザーの取調べにあたった、ネーベは、意外な展開で処刑されるに至るのだが、過去にはさまざまな大量処刑の指揮を執った軍人であった。ミュラーは、ヒトラーの最期に立ち会った人物ながら、その後、行方不明となり、海外に逃亡して生き延びているという噂も飛び交った。しかし最近になって、ドイツ抵抗運動記念館の調査により、すでに19458月、ベルリンで遺体となって発見された後、ユダヤ人墓地に埋葬されていたことが確認されたという。

 できるなら、ドイツ再訪の折は、一度、ミュンヘンには立ち寄りたいと思っている。かつて、このブログの記事にもした映画「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(2005年) の舞台もミュンヘンだったのだ。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html2013715日)

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映画のスタッフについて(プログラムより)

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エルザーが一時収容されていたザクセンハウゼン強制収容所跡(2014年10月撮影)



 

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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