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2015年11月16日 (月)

「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」へ

 池袋の実家に出かけるついでに、西武別館ギャラリーで開催中(~1116日まで)の表記「白蓮展」に出かけた。まさに、予想通り、高齢の女性たちが人垣を作っていた。歌人白蓮に関心がある人たちというよりテレビ「花子とアン」のファン層が多かったのではないか。

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 展示会への違和感はどこから

カタログや出品資料目録もないので、メモを取ろうとペンと手帳を取り出すと、係員が飛んできて「ペンはいけません」と制止する。「すみません、鉛筆を貸してもらえますか」とお願いすると「ご用意はいたしておりません。メモすることがいけないことになっています」「なぜですか、少しメモを取りたいのですが」「申し訳ありません、そういうことになっております」とのこと。仕方がないので、ロッカーまで戻って、バッグのポケットから鉛筆を探して持ち出した。あとは、係員の目を気にしながら、最小限度のメモを走り書きするしかなかった。なぜ? 写真がイケないというのは、理解できないことではない。しかし、メモ自体がイケないとは!

 戦時下の白蓮は

会場は、チラシにあるように、十四の章に分かれていた。やはり私が気になるのは、戦時下の白蓮の活動をどう伝えるかであった。これも予想にたがわず、空白なのであった。つまり、「第十章 歌人柳原白蓮」「第十一章 平和運動へ」「第十二章 中国との交流」「十三章 晩年 安らかな暮らし」という流れだったので、戦時中にあたる章を設けていなかった。第十一章に、「香織の戦死、平和運動へ」との解説があり、学徒出陣で出征中の長男が、敗戦の4日前、鹿児島空襲で亡くなった衝撃から立ち直って翌年1946年には「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に参加していく経過がたどられる。そして「十二章」は、戦前からの宮崎龍介とその父との関係から、戦前・戦後を通した、蒋介石や孫文、毛沢東らとの交流が多くの写真と共に語られていたが、「十二章」の冒頭の解説には「戦局悪化に伴い、宮崎家は、中国との懸け橋になるべくギリギリの活動を行ったが・・・」といった趣旨のことが書かれているのみだった。宮崎龍介の無産政党運動の中での位置づけも不明確なままだった。龍介が、近衛文麿の蒋介石への「密使」として送られようとした「密使事件」として言及し、白蓮ともども「反戦」思想の持ち主のような捉え方が強調されていた。

戦時下の白蓮の活動については、当ブログの以下を参照されたい。

◇ これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって白蓮の戦前戦後を振り返る(2014年10月)

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-2de4.html  

 私には、一つの宿題があった。「花子とアン」放送中、上記ブログを書いている折、櫻本富雄さんから柳原白蓮選によるアンソロジー『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 19389月)を送りいただいていた。自筆と思われる贈呈先の名前と白蓮の署名と日付が書かれているものだった。その献本先の氏名に心当たりがないかとのことでもあったので、とりあえず、女性史や女性文学史、歌人関係の辞典や書物を調べてみたが、不明だった。もしかしたらとも思ったが、展示にかかるものからは分からなかった。あらためて、再び家でネット検索していると、「生長の家」の幹部であるらしいことが分かった。

そのアンソロジーは、白蓮の「あとがき」によれば「前線にあられる方々と、銃後の留守を預かる私共と、双方を結びつける魂と魂との親交を願って、せめてお互ひに励ましあひ」とあり、白蓮身辺の歌集とともに、新聞歌壇などの作品にも対象を広げたとある。白蓮自身も巻末に、つぎのような10首を寄せている。

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売店で、展示会カタログの代わりという「ガイドブック」を購入したところ、章立てと構成が異なるものの、今回の展示の概要がわかる形にはなっていた(『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌人』宮崎蕗苳監修 河出書房新社 201511)。その売店のところで、私が参加している研究会での大先輩でいらっしゃる近代文学専攻の渡辺澄子さんにお遭いした。このガイドブック巻頭の論考を書かれているとのことだった。帰路の車内で早速読み始めると、その論考でも、このアンソロジーに触れていることが分かった。

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やはり、ここでも「年譜の空白」

さらにこの「ガイドブック」を読み進めると、巻末に1頁の「白蓮略年譜」が付されていた。やっぱりというか「昭和12年(1937)盧溝橋事件、龍介の密使事件のため憲兵隊に召喚」とあり、次の行が「昭和20(1945)811日学徒出陣中の香織、鹿児島県の串木野(現・いちき串木野市)にて空爆により戦死」とあり、上記アンソロジーの出版の記述もない。

当ブログでも触れた「土門拳記念館」の「年譜」でも、1944年、海軍省の依頼による霞ケ浦の予科練での密着取材の件に触れられることなく、空白であった。ここに、共通する姿勢は何なのか。一人の人間、とくに文芸の表現者の生涯をたどるとき、ある時期の表現活動を封じるということが、なにを意味するのか。さまざまな表現者たちが、そうした「操作」を繰り返すことは、史実を歪め、歴史を歪めることになるのではないか。

そう考えると、私が必要上よく利用する、歌人の年譜や短歌史年表の類の一行は、編者や作成者の思想がまともに反映する、大切な一行であることを痛感するのだった。

絢爛たる「恋文」

今回の展示会の圧巻は、なんといっても白蓮が伊藤伝衛門邸のもとから宮崎龍介へと送った恋文の公開だろうか。2年間にわたる約700通の手紙が残されているという。実に華やかな大阪の柳屋製の竹久夢二が描く絵封筒、巻紙、便箋はじめ、白蓮自作の歌が刷り込まれた歌封筒などが用いられている。その一部が展示されていた。さらに、白蓮が伊藤家を出奔した「白蓮事件」後、いわば幽閉されていた時期に龍介とかわされた書簡などの展示も初公開だという。パソコンや携帯電話、スマホなどのない時代の、その書状の量に圧倒されたことは確かである。現代の恋人たちは、いったいどんなふうに、ことばをかわすのだろうか。

なお、会場には、白蓮の肉声を聞かせるコーナーがあって1957310日、NHKラジオ放送番組の一部を流していた。シャキシャキした、気さくな物言いで、華族女学校在学中の様子を語る部分だったのだろうか、先生の下田歌子について「ほんとうにおきれいな方でしたよ、その頃の先生と言えば、きれいな方はいなかったんですけれど・・・」みたいなことを、さらっと言ってのけていたのには、少々驚いた。かつて皇太子と正田美智子さんの婚約が成立したとき、異を唱えていたという白蓮の一面と共通したものを感じるのだった。複雑な家族関係や生い立ち、その後の2度の結婚による抑圧された生活が逆に作用しているのだろうかとも。

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