「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」を聴く
かねてよりご案内いただいていた、表題のコンサートに行ってきた。この日、11月7日は、午後がNHK包囲行動であり、宮下公園までのデモの後、会場のウィメンズプラザ・ホールへは、週末の宮益坂を経て、歩いてもそう遠くはない距離だった。東京ウィメンズプラザフォーラムのプログラムの一つであった。企画・構成が「小林緑カンパニー」、小林緑さんは、国立音楽大学で教鞭をとられていた研究者だが、昼のNHKへの抗議行動とも無関係ではない。小林さんは、数年前まで、NHKの経営委員を2期務められ、NHKの内部を知って、NHKの改革を提唱しているお一人である。8月25日の第1回NHK包囲行動集会の折は、リレートークをされた。私が参加する地元の「憲法9条をまもりたい会」の講演会にもお呼びしている。
久し振りのウィメンズプラザのホールは初めてである。この日のプログラムは以下の通り。
最初の「乙女の祈り」(1851年)は、聴き慣れた曲ではあるが、プロの方の生演奏は初めてのような気がする。作曲のテクラ・バダジェフスカ(ポーランド語の読みだと異なるらしいのだが)17歳の時の曲で、その後、結婚、5人の子をもうけ、1859年頃、音楽雑誌に楽譜が載って以降、大人気になったという。私たちが想像するような感傷的な“乙女の祈り”ではなく、分割統治されていた祖国ポーランドの平和への「祈り」ではなかったかとの解説であった。
吉田隆子の歌曲、1949年発表の「君死に給ふことなかれ」(与謝野晶子1878~1942)は、すでに聴いたことがあるが(以下の当ブログ参照)。
13/04/11 |
組曲『道』からの「頬」(竹内てるよ1904~2001)は初めて聴いた。竹内てるよ「頬」(『花とまごころ』所収 渓文社 1933)は、作者の没後、美智子皇后の国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会(2002年9月29日、スイス:バーゼル市)でのスピーチの結びで「子どもを育てていた頃に読んだ,忘れられない詩があります。・・・」と「頬」の冒頭を引用したことでも知られるようになった。スピーチは英語でなされ、つぎのように訳されている。
生まれて何も知らぬ 吾子の頬に
母よ、 絶望の涙を落とすな
その頬は赤く小さく
今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも
いつ 人類のための戦いに
燃えて輝かないということがあろう
(Of your innocent newly born,
Mothers,
Do not drop
Tears
Of your own despair.・・・ )
コンサートでは、歌詞の「絶望」が「悲しみ」と歌われていたようである。てるよの詩人としてのスタートは、貧困と闘病のさなかの1920年代、アナーキスト系の詩人と言われていたが、1940年代に入ると、多くの文学者とともに日本文学報国会の諸事業に参加するようになり(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995)、『辻詩集』(日本文学報国会編刊 1943)や種々のアンソロジーに作品が収録されるようになり、詩集も数多く出版された。朗読会やラジオ放送では「白梅」「母の大義」「女性永遠の歌」などの作品が朗読されている(坪井秀人『声の祝祭』名古屋大学出版会 1997)。
クララ・シューマンのピアノ協奏曲から「ロマンツェ」(1835)、ル・ボー「チェロとピアノのための4つの小品」(1881)、ガルシア・ヴィアルド「歌曲集」(1864)から「夜に」「星」の2曲だった。
いずれの作曲家も、日本でいえば幕末から明治にかけての時代を生き抜いた人たちで、西欧といえども女性へのさまざまな偏見にさらされていたのだろうと想像ができた。だからこそ、現代には、きちんとした評価がなされなければならないと思った。素人の私には、ピアノの河野さんは、テレビ「のだめカンタービレ」の上野樹里の手や音の吹き替えをした方とか、ヴィアルドの生涯にあっては、ロシアのツルゲーネフの存在が大きかった、といったエピソードも興味深く、チェロの江口さんのやさしい音色にも魅せられた。まだまだにぎやかな表参道の街を、コンサートの余韻をまとい、帰路につくのだった。
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