歴博で開催中の「大久保利通とその時代」に行ってきました
11月の最後の週末、松本三之介先生を囲む会に、I さんから声を掛けていただいた。二つの大学合同の松本ゼミOBの会と言ってもいいのだろうか、10人ほどが池袋に集まった。多くは、近代政治思想史専攻の研究者たちで、世代的に現役組よりも退職組が多くなってきた。京都や福岡からの参加者も。まず先生の老いを感じさせない研究姿勢や日常生活に接し、一同、大いに励まされる思いがしたのだった。メールでのやりとりもある現役の京都のKさん、大学同期のWさんとも久し振りであった。
入館者はやはり圧倒的に高齢者が多かった
子孫による顕彰、研究者の努力
そのWさんから、佐倉に住んでいる私にと、国立歴史民俗博物館の企画展「大久保利通とその時代」展の招待券を頂いたのだ。今回の企画展に携わった歴博の教授からのご招待だったという。
北風が冷たい日ではあったが、会期末も近いので、思い切って歴博に出かけた。私の明治維新史は、高校の日本史で止まっている。大学では、よその学科ながら、歴史の講義は好んで聴いて、楽しく新鮮だった思い出はあるが、明治維新史となると、かつての日本映画やNHKの大河ドラマ的な物語がなじまず、苦手と言ってもよい。ただ、大久保利通となると、紀尾井町の大久保利通哀悼碑のある清水谷公園は暗殺の地であり、60年安保の集会の会場にもなっていた場所でもある。かつての職場の同じ課ながら別室の「憲政資料室」には、大久保利通の子孫という大久保利謙さんが在籍されていて、よく姿をお見かけしたこともあった。そんなわずかな、細い糸を辿りながら、展示を見ていくに従い、幕末から明治の激動の時代、桜田門外の変、生麦事件に始まる著名な歴史的事件にかかわり、歴史的人物たちが多くは大久保に宛てた、膨大な量の書簡、そして克明な大久保の日記に圧倒され始めた。わかりやすいキャプションや手紙や日記の要所の「読み下し文」も示されていて、思わず引き込まれるのだった。
今回の展示は、大久保利通の子孫たちによる資料の収集とその顕彰への格別な努力と研究者たちの検証の成果と言えるのだろう。
大久保家失火で、焼け焦げの跡が生々しい朱子学入門書『近思録』
教科書でもおなじみの写真、岩倉使節団の5人、右が大久保、中央の髷は岩倉具視
琉球処分とは何だったのか
いま、私が気になっているいわゆる「琉球処分」関係の文書や書簡はあるのだろうか。大久保の果たした役割は、どれほどだったのかに関心もあった。160点ほどの展示の中で、気が付いたのは「琉球藩使節の上京嘆願について記した大久保利通日記(1875〈明治8〉年10月25日)であった。1875年7月、政府からの清・韓との交流を断てとの要請に、琉球王府は、三司官池城親方(安規)をして、従来通り「日清両属」を認めるよう14回もの直訴を繰り返していたが入れられず、1877年3月、陳情のさなかに池城は「悶死」したとのことである。そういえば、「琉球処分」を事典などで調べると、政府からの琉球藩に派遣される内務官僚の松田正之が王府の抵抗や清国からの干渉に遇い、結局は武力によって首里城を明け渡させ、廃藩置県を強行したのは1879年3月であった。その前年、1878年5月14日に、大久保利通は、征韓論に敗れた不満の士族たちによって暗殺されていたことになる。松田正之も琉球処分官としての琉球・東京との往来に奔走し、1882年、43歳の若さで没している。
「琉球処分」については、日本の近代化に伴う民族統一を大義名分として、琉球王府や住民の意思を踏みにじって、領土として併合したとみるのが、私にはもっとも理解しやすい。
明治政府によるその施策は、1945年敗戦時は米軍の本土上陸阻止のために犠牲となり、1952年日米平和条約発効に伴い米軍管理が固定化、基地は「東アジアの要石」として拡充、1972年本土復帰時にあっても膨大な米軍基地がそのまま残り、固定化したとみることができ、その状況は、現在に至っても大きく変わることがないのではないか。日本政府の軍事上、外交上の都合による犠牲の出発点が「琉球処分」ではなかったか。そんなことまでも考えさせられた展示だった。
また、大久保の業績として「外交手腕の発揮」「国家建設の指導力」などの章立ての命名による展示には、若干の違和感を持ちながら、こうした展示では仕方ないのかな、とも思いつつ。「盟友西郷隆盛との訣別」「家庭にて」「その死と追悼」では、冷徹な実務家のイメージを払拭するかのように、家庭的な側面などが強調されていた。「正妻との子どもたちも、他の女性との子どもたちも、一緒に分け隔てなく育てた」との主旨の解説もあった。「なんだかなぁ」の思いも。
大久保の漢詩や和歌などの展示もあったが、その一部を以下紹介しておこう。
大久保利通の歌二首
・雲にのぼり海にひそむも時ありて龍の動きのやすくもあるかな(年月不明)
(1.薩摩で育まれた者もの より)
・君が代の千代を寿ぐ鶯の初音のとけきあさぼらけ(年月不明)
(5.国家建設の指導力 より)
勝海舟(物部安房)の大久保利通追悼歌二首
・たはさみし剣のたわみとりしはりあらそひしさへなつかしきかな
(十五年忌に、1893年)
・夢なれやつるきたわみとりしはりあらそひしさへなつかしき哉
(二十年忌に、1898年)
見学の帰路、今年の紅葉は遅いのか
歴博入口、すでに陽は傾き、中央に光る水面は佐倉城址の濠
| 固定リンク
« マイナンバー通知、到着、どうしますか、「ニューデンシャ」って、何?! | トップページ | 「自治会と寄付金」問題がなかなか改善されないのはなぜか~自治会が共同募金や社協会費を集める根拠がないのに? »
コメント