連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(2)
岩手県立美術館へ~モランディと松本竣介
4月27日、ホテルの窓の左手には、ゆったりした北上川が朝日に輝いていた。昨夕の北上川とは、また風情が違う。朝食前に歩いてみると、すぐそこには旭橋、川沿いの遊歩道があるらしいが、どういうわけかどこも立ち入り禁止、よく見れば、「木伏緑地工事中」の看板。「木伏」は「きっぷし」と読むと、きのう、 地元の案内の方に教えてもらったばかりである。「材木町」といい、盛岡は山林と北上川の恩恵にあずかる林業の町であったことがわかる。「木伏」は、山から降ろしてきた木材を、しばらくの間、水につけて置く貯木場であった。東京でいう「木場」だったのかもしれない。
立派な「開運橋」は通勤の人波であふれていた。のんびりカメラなどもった観光客は見当たらない。橋上からの岩手山は、意外と近くに見え、壮観でもあった。もう一つ先の橋が「不来方橋」らしいが、花盛りの対岸の遊歩道を旭橋に戻った。
岩手山は、もっと近くに見えたはず?
お天気には恵まれたが、今日は少し欲張ったスケジュールである。まず、岩手県立美術館の「ジョルジョ・モランディ展」にむかう。少し前まで東京ステーションギャラリーで開催中だった。これまで知らなかった画家の名だった。現代イタリア画家(1890~1964)で、ひたすらアトリエにこもっては、首の長いビンや円筒、直方体、逆さ漏斗などとっかえひっかえ、並べ直しては描き続けていたという、地味と言えば地味な作家だと知った。その描くところ、地元でご一緒している9条の会の代表を務める画家の高塚一成さんの画風にも似ていて、東京で見ていた高塚さんに勧められていた「モランディ展」だった。美術館は、盛岡駅を挟んで、反対側の雫石川を渡るとすぐの中央公園の一画にあった。弧を描き、2階建ての白いシンプルな外観、近づくと、コンクリート打ちっぱなしの外壁だった。2001年オープンとのこと、常設展の郷土の作家たち萬鐵五郎、松本竣介、舟越保武も期待されるのだった。
モランディは後にも先にも、入場者は私たち二人のみ、会場のスタッフは各室ごとに一人だから10人以上がいらっしゃったはず。東京の美術展では考えられない鑑賞環境ではある。明けても暮れても、“still life”を描き続けていながら、各室の展示は、時代を少しずつ重ねながら、晩年に向かう。第ⅹ室「風景の量感」では、一転してすべてが風景画となり、一気に解放された感がした。その風景とて「フォンダッツァ通りの中庭」(1958年)など、アトリエの窓からの光景だというが、窓もない方形の壁の平面だけで構成されている。絵の真ん中に描かれた階段や小さなドアには人間が通った形跡が見えない無機質さである。それでも、私にとって、閉塞感から少しでも突き抜けられた、というのが、全体の印象ではあった。
展示会チラシ裏、こんな絵ばかりが100点近く・・・
私が気に入った一点
ようやく出会った風景画
そして、常設展は、カメラも自由ですよということだった。萬鐵五郎(1885~1927)に墨絵のような屏風絵があるのをはじめて知り、さまざまな手法を試みていたことがわかった。どちらかと言えばタッチの荒々しいフォービズムかキュービスムの影響を受けたイメージが強かっただけに意外だった。松本竣介(1912~1948)は、これまでも、「新人画会展」(練馬美術館)、「戦争と美術」(神奈川県立美術館葉山館)などで見かけた「Y市の橋」(1942)、また、「有楽町駅付近」(1936)「議事堂のある風景」(1942)など、都市の建築物をしきりに描いていた時期、油の乗り切っていた時期ではなかったか。1948年の早世が惜しまれてならない。「盛岡の冬」(1931)は十代の作品なのに、やさしさのあふれるいい作品だったなあ、と。そして、彼と盛岡中学校同期の舟越保武(1912~2002)の作品も多く収蔵され、キリスト教・キリスト教受難を題材とするに作品が目立った。 また、この常設展では、深沢省三・紅子も盛岡出身と知った。二人の絵は、数年前か、国際こども図書館での「童画の世界」展で、『コドモノクニ』『子供の友』誌上で活躍していた頃の作品を、また紅子は野の花を好んで描いていたことなども思い出す。盛岡には深沢紅子の野花美術館もあるそうだ。原敬記念館もあるというのに。 時間が足りないなあ。
今回啄木は、素通りである。
萬鉄五郎、自画像二点
盛岡の冬(1931年)、竣介十代の作品
Y市の橋
議事堂のある風景
舟越保武常設展示室
ながい廊下の窓からも見える岩手山
つぎに向かったのが、美術館の隣にある、盛岡市先人記念館も立派な和風の建物、予備知識なく入館、受付近くに陣取っていたボランティアの方に、ここでの予定時間を問われた。30分ほどいう時間に合わせての説明となった。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助の各室をまさに大急ぎであり、2階には130人ほど顕彰されているんですよ、と残念そうだった。米内光政が昭和天皇からの信頼がいかに厚かったか、「賜った硯を見てください、墨を磨った跡が見える、直前まで使用されていた、大事なものだったのでしょう」とボランティアの方は力説した。それに「米内さんは、昭和天皇と一緒の平和論者で、アメリカとの戦争はしたくなかったんですよ」という説明、しかし、こんな風な昭和史だけが、後世に伝えられてしまっていいのかの疑問も去らない。なお、庭園には、盛岡駅構内にあった、金田一京助の筆になる啄木の歌碑がここに移築されていた。写真を撮ろうとしたところ、これも「資料」なので、学芸員の許可と立ち合いが必要である、とのことで、閲覧申請後、ようやく近づくことができた次第であった。
中央公園のしだれ桜満開の一画では、結婚式場を飛び出してきたカップルと家族たちだろうか、記念撮影の真っ只中、お幸せに。
「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」が萬葉仮名交じりで
彫られていた。碑面は凹凸があって読みにくい
盛岡市先人記念館
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