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2016年5月22日 (日)

白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

(3月20日の本ブログ記事「〈短歌サロン九条〉(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて」でも触れていましたが、『日本古書通信』に寄稿の「白蓮年譜の空白」を再録します。

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白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子と柳原白蓮をモデルとした人物の描き方が、あまりにも史実とかけ離れ、ひとり歩きしているのを知って、ブログで異議を唱えていた。そんな折、櫻本富雄氏から、文庫大の宮崎燁子(柳原白蓮)編『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 一九三八年九月)を頂いた。表題紙(遊び紙)に「昭和十三年十月 白蓮」のサインがあり、左上には「贈呈 松本恒子様」とある。その「松本恒子」が気にかかる旨の添え書きも一緒だった。

とりあえず、短歌史や女性史などの辞典や年表類を調べ、ネット検索もしてみたが、「松本恒子」のことは分からなかった。

二〇一五年一一月、東京池袋の西武で「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」が開催された。早速出掛けたが、白蓮の出自、宮崎龍介との「出奔」前後の経緯や往復書簡、敗戦直前の長男の戦死の悲嘆からのめり込む平和運動などに焦点があてられていて、日中戦争下の展示や記述は極端に少なかった。

「生涯展」にはなかった白蓮の『支那事変歌集 塹壕の砂文字』とは、「あとがき」によれば、「東洋平和、亜細亜民族の福利」を目指し、前線と銃後の「双方を結びつける魂と魂の親交を願つて」編集されたアンソロジーで、募集した短歌と新聞歌壇などの作品を収録し、白蓮自身もつぎのような短歌十首を寄せている。このアンソロジーは前年一九三七年の日中全面戦争突入を受けて刊行された読売新聞社編『支那事変歌集』(三省堂)や大日本歌人協会編『支那事変歌集戦地篇』(改造社)(ともに一九三八年一二月)に先駆けるものであった。

・旗ふるよあれは誰が夫たれが子ぞ命をわすれ出征つますらを

・やがてきく東洋平和の鐘の音に君がいさをもなりひゞけとぞ

献呈された「松本恒子」がやはり気になり出し、ネット検索を再開すると、意外なことが浮上してきた。一つは「山ちゃん1952」というブログで、内務省警保局の資料に「生長の家現勢一覧表」として、総裁谷口雅春以下役職者の名前が並ぶなか、「婦人部長 松本恒子」の記載もあることが分かった。さらに、生長の家婦人部の雑誌『白鳩』創刊号(一九三六年三月)復刻版を知り、彼女は「白鳩会の生ひ立ち」「白鳩会の使命」を執筆、『生長の家三拾年史』はじめ『同四拾年史』、『同五十年史』にも登場し、生長の家初代の婦人部長、白鳩会初代会長で一九四四年まで務めていたことを確かめた。

そこで、手もとの白蓮の主な伝記(注1)や思想的な系譜をたどった文献(注2)などにもあたるが、「生長の家」への言及は見当たらなかった。さらに、白蓮自身が宗教について綴る『大法輪』『宗教公論』『心霊研究』などの文章も読んでみたが、その片鱗も伺えなかった。

国立国会図書館OPACで<生長の家/柳原白蓮>を検索、ヒットは「『白鳩』(一〇九号)」の一件であった。ようやくたどり着けるかと思ったが、白蓮は、読者歌壇「生活の歌」の選者だった。その後、白蓮の選は見えないが、エッセイの寄稿は確認できた。『白鳩』の読者歌壇は、欄名・選者を変え、一時中断もあったが、白鳩会三代目の会長でもある歌人日比野友子が永らく務め、一九五八年からは中河幹子が引き継いでいる(ちなみに二〇一二年七月からの選者は小島ゆかり)。

松本恒子と白蓮の直接の接点は、まだ見出せないが、生長の家の幹部と『白鳩』歌壇選者の白蓮との親交は推測できる。生長の家は、大本教の出口王仁三郎の側近だった谷口雅春が、一九二一年第一次大本教事件を契機に大本教を離れ、一九三〇年に開いた神仏混淆の新興宗教である。病苦や貧困の解決を説き、天皇信仰・大陸進出・聖戦完遂を推進していた。

ここで思い起こすのは、白蓮が宮崎龍介のもとに「出奔」した事件後、身をひそめていた住まいが、出口王仁三郎紹介による大本教信者中野岩太の京都府綾部の別荘であったこと、関東大震災後の龍介・白蓮の転居先も、東京の中野家の離れだったことだ。中野岩太は、王仁三郎のもとを離れ、浅野和三郎が立ち上げた心霊科学研究会のメンバーとなった人物である。大本教と白蓮の関係は確かだが、そこを離れた谷口雅春との関係は、不明である。

一九四〇年代に入って、白蓮は、『婦人倶楽部』<靖国の英霊に捧げまつる>特集(一九四〇年一〇月)に、読者歌壇の選者として、今井邦子、中河幹子らとともに、つぎのような歌を寄せている。

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちが銃後支援をめざした「輝く会」主催の九段対面の日、遺児の日の白扇揮毫に参加、機関誌『輝ク』には、つぎの二首が見られ、佐佐木信綱編『新日本頌』(八雲書林 一九四二年一一月)には自選十六首を寄せている。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ(九段対面の日)(一九四〇年四月)

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ(遺児の日)(一九四一年四月)

・大君のみことのまゝぞ生も死も我のものならずいざ子どもらよ(『新日本頌』)

『日本短歌』(一九四四年二月)の<皇軍将士におくる歌>女性歌人特集で、白蓮は「吾子は召されて」と題して寄稿、わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、つぎのような「祝出征」の作品が八首並ぶ。さらに、「一片の雲は南に急ぐなりけふのいくさの神集ひかも」などを加え、『皇道世界』(一九四四年二月)にも発表した。これらは、白蓮主宰の『ことたま』(同年一月)に発表済みの作品とも重複する。

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

・日の丸の御旗を肩にかけて征くあれが我子よと見てたもれ人

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき 

 こうした作品群がまったくなかったように、後の作家たちは、昭和初期の白蓮事件から一挙に戦後に飛び、平和運動家になった白蓮を賛美する。歌人たちも、白蓮の日中戦争下の短歌を語ろうとしない。各種の年譜においても、日中戦争下の記述は白紙に近く(注1②③⑤⑥)、上記の『塹壕の砂文字』も登場しない。しかし、菅(注2②)は、このアンソロジーに寄せた白蓮の十首と小説『民族のともしび』(一九四三年 奥川書房)に着目、素朴な母子の愛情が国家によってどのように母性ファシズムへと変貌し、戦時下の人々を支配したのかを分析している。秋山(注2③)は、定義が不明なまま、「公の歌」と「私の歌」と称し、『塹壕の砂文字』の作品は「公の歌」とし、出征するわが子を見送る一連には両者が混在していると捉える。この二人の評者も、その他の日中戦争下の夥しい数の作品には触れない。

 今回、一冊のアンソロジーの献本先から、日中戦争下、積極的に戦争協力していた生長の家と白蓮の親密性、種々のメディアに発表した作品を読み込み、読者歌壇の選者としての足跡をたどり、まず、伝記や年譜の空白を埋めた上での柳原白蓮の検証や評価の必要性を痛感した。とともに、一冊の本が私の手元に届くまでの七八年間の道のりを思うと古書界の深さ、ものを書くという表現者の覚悟の重さを思うのであった。

1 ①宮崎龍介:柳原白蓮との半世紀 文芸春秋 一九六七年六月 ②永畑道子『恋の華・白蓮事件』 新評論 一九八二年一一月 ③野々宮三枝:柳原白蓮略年譜 短歌 19923月 ④林真理子『白蓮れんれん』 中央公論新社 一九九八年一〇月 ⑤馬場あき子ほか『流転の歌人・柳原白蓮』 NHK出版 二〇一四年八月 ⑥宮崎蕗苳監修『愛に生きた歌人・柳原白蓮』 河出書房新社 二〇一五年一一月

2 ①水野昌雄:白蓮―その思想遍歴 短歌 一九九二年三月 ②菅聡子:柳原白蓮の<昭和> お茶ノ水女子大学人文科学研究5 二〇〇九年三月 ③秋山佐和子:私の歌、公の歌― 柳原白蓮と戦争 短歌研究 二〇〇九年一一月 ④中西洋子:柳原白蓮における歌の変容と到達 目白大学人文学研究8 二〇一二年二月      (『日本古書通信』20164月)

 

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

  やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。  冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

    しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。 もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。 天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。  結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。  

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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2016年5月16日 (月)

「ノーベル平和賞」ってなに?沖縄施政返還の日に~佐藤栄作元首相とオバマ大統領

1972年、515日、沖縄の施政権が返還された。44年の月日を思う。さらにさかのぼれば、1945年から1972年までの米軍による占領期が長かった。この長い戦後史は、私たち本土の者が活字や映像などをたどっただけではなかなか理解しかねることも多いのではないか。

 ちょうど、沖縄の戦後文学、短歌について少し調べているとき、201641日、作家の目取真俊氏(1960~)が辺野古のキャンプシュワブ近辺の海上抗議行動中に米軍に拘束され、海上保安庁に逮捕されたというニュースが入った。「沖縄県民がどれだけ反対しても意に介さず、力ずくで作業を強行する日本政府への怒り」からカヌーによる抗議行動に参加したのは20148月からだったという(「季刊目取真俊」『琉球新報』2016413日)。氏のブログ「海鳴りの島から」では、全国紙ではなかなか報じられることのない沖縄の現況、とくに基地反対運動の動向を知ることも多かったので、他人事に思えなかった。

 512日に目取真氏は、米軍に拘束され、海上保安庁に引き渡されるまで8時間を要した件で、憲法で保障された人身の自由などの権利を侵害され、精神的苦痛を被ったとして、国を相手に60万円を求め、那覇地裁に提訴した、というニュースがもたらされた(『琉球新報』2016513日)。記者会見では、憲法よりも日米地位協定が優先され、市民が自分の権利すら守られない状況を許す政府の在り方が問題であると指摘している。

 そしてきょう、515日「NHKニュース7」では、沖縄返還に伴い、いったん撤去した核兵器を、「危機の際には再び持ち込む権利がある」と、アメリカ国防総省が公刊した歴史文書に記されていたことを報じた。日米間でいわゆる「密約」が交わされていたことは、当時の首相佐藤栄作の遺族のもとに、両国首脳がサインした極秘文書が残されていたことで明らかになったのだが、7年前、政府が設けた有識者委員会では検証の末「文書を後の政権に引き継いだ節は見られない」などとして「必ずしも密約とは言えない」とした結果を報告していたのである。

NHKは、「日本政府は1968年、唯一の被爆国として『核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず』とする非核三原則を宣言し、みずからは核を持たないという政策を堅持している」と解説するが、密約を隠蔽していた佐藤首相がノーベル平和賞を受賞していたのだから、噴飯ものである。

ノーベル平和賞といえば、200945日、アメリカとEUの初の首脳会議が行われたチェコのプラハで、オバマ大統領は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国としてアメリカが先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する道義的責任がある」という決意を表明し、その年の109日にノーベル平和賞を受賞したのである。そのオバマが、527日、伊勢志摩サミットの帰路に広島を訪問することが決まった。政府やメディアは、野党までが、今やこぞって大歓迎ムードである。はたしてこれでいいのか、過去の反省や謝罪のない「未来志向」とは、何なのか。なんでも「水に流す」ことでいいのだろうか、というのが素朴な疑問である。被爆者たちと対面することすら避けて、犠牲者慰霊の献花だけで、駆け抜けようとするに違いない、それがそんなに画期的なことなのか。長崎はどうなのか、東京大空襲はどうなのか、太平洋戦争末期の日本各地での無差別空襲、そして何よりも沖縄の地上戦での多大な犠牲者に対して、その後のアメリカと、そして日本政府の仕打ちの過酷さと無責任な対応に怒りがこみあげて来るのを禁じえない。大いなる声を上げなければならない。

日本政府が、みずから「謝罪」を要求しないということは、日本も、もはやどこにも謝罪はしないという意思表示でもある。昨年の戦後70年の「安倍談話」にも、それがよくあらわれていたではないか。

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

 

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。


食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・

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いちばん奥の赤い魚が「吉次」(キンキ)だった

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

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2016年5月11日 (水)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(4)その津波の壮絶さ

     翌日は、予報通りの雨と風。私は薄手のコートは着ていたがかなり寒い。連れ合いは、セーター姿の軽装に、近くのコンビニで、ビニール合羽を購入、一日中脱ぐことはなかった。  駅近くの観光協会で、かねてよりお願いしていた語り部ガイドTさんとタクシーの運転手さんと待ち合わせ、9時半過ぎ出発。最初に下車したのが、日和山、大きな鳥居が目に入る。運転手さんから 足もとの水たまりに気をつけてくださいよ、言われつつ、まず、北上川河口の市街が見渡せる場所に立つ。背後には日和山神社、ガイドさんの第一声は、「ここへ避難され方は全部助かりました。でも、わが家が、眼下で大津波に流されていくのを見て呆然とした方も多かったです」と。Tさんは、3月11日当時は消防職員として、3日間、ご自身の家族の安否が分からないまま、救助活動を続けた。みぞれの吹き荒れる、あの夜の水温は、1・2度、首までつかっての救助に携わったという。

石ノ森萬画館

見おろした正面の川の中央には、中洲が広がり、その端にきのこ状の白い建物が目立つ。「石ノ森(章太郎)萬画館」だそうだ。「きのこ」でなくて「宇宙船」を模したそうだ。この中洲の他の建物は流出してしまったが、ここは残った。津波の当時、萬画館の最上階にいた人は、頭上を漁船が押し流され、船底を仰ぎ見たという。石ノ森(1938~1998)は、宮城県登米郡中田町石森の出身で、その郷里にも記念館があるはずだ(2000年7月オープン)。自慢ではないけれど、私は、石の森の父親の小野寺さんと会って?いる。というのも1973年、私の短歌の師、阿部静枝の歌碑が郷里石森の神社に建てられ、その修祓式のお祝いの宴席で、地元代表で挨拶されたのだ。石の森の漫画は読んだことはないのだけれど、そんな関係で、なんとなく親しみのある作家だった。それに、池袋のトキワ荘にも手塚治虫らと住んでいた時代もあったという。しかし、石巻と石ノ森との縁は何かと言えば、若いころ、石森から、この石巻の中州にある映画館に、なんと自転車で通っていたというのだ。その映画館の跡地に、石巻振興の一環として建てられたというのである。石巻には「まんがロード」が設けられ、街角にヒーローやヒロインの人形が立つ。「漫画」でなくなぜ「萬画」というのか、萬画館のホームページには「1989年に石ノ森先生が提唱した『萬画宣言』によるものです。『萬画宣言』の中で石ノ森先生は、漫画はあらゆるものを表現できる無限の可能性を秘めたメディアであることから、もはや『漫画』ではなく万物を表現できる『萬画』であると提唱しました」とあった。

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中州の先に見える白い石ノ森萬画館
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市役所前のフィギュア、この市役所は、3・11の一年前、駅前さくら野デパートをそのまま譲り受けたものという

復興祈念公園予定地

日和山から北上川河口の方に目を転ずると、日和大橋をはさんで右岸一帯には、いま、建物が見当たらない。Tさんによれば「これから案内すると所だけれど、あの辺り一帯は、にぎやかな港町だったが、あっという間に津波にのまれた」地区というのだ。河口の左手は「石巻漁港で、後ほど案内しますが、立派な魚市場が完成したばかり」との説明だった。 次に、下車したのは、その、何もない港町だったところだ。瓦礫こそないが、しばらく焼野原のような、道なき道を進んだ、荒れ野の真ん中であった。よく映像で見たことのある「がんばろう!石巻」の看板の立つところだった。5年後の、この4月に、新しく建て替えられたというニュースは見たことがあった。 ほんとうに何もない焼け跡、私の数少ない体験でいえば、東京の池袋の焼野原に建てたバラックの我が家に、疎開先から一家で引っ越してきたときの記憶につながる。それでも、町内の石造りの蔵が、2か所ほど焼け残っていたし、池袋駅前の闇市までの平和通りには、すでにバラックも数軒建てられていた。1946年7月のことである。 ここ、南浜地区の40ヘクタールには、まだ何も建てられてはいない。すでに「復興祈念公園」となることが昨年決定している。看板の立っている場所はもともと門脇町の水道配管工事店があったところで、オーナーが瓦礫の山の中からベニヤ板とパイプを探し出し、ともかく「元気を出さねば」の思いで、4月11日に完成させたといい、5年の間に、祈りの場ともなって、さまざまな追悼行事がなされるようになり、訪れる人も多くなった。祈念公園完成後も引き継がれるという。この地には約4700人の方が住んでいらしたが、死者572人、行方不明者が42名におよび、月命日にはその捜索も実施されてきたが、いまは数か月に一度になったとのことであった。 Tさんの説明には、私たちにはずいぶん配慮されているところがあることもわかるのだが、津波が引いた後も約3週間で200棟近くが焼け出されたという。私たちが接する報道では、津波に襲われた後、あちこちから火の手が上がった気仙沼の映像が記憶に残っているが、石巻も、その火災で犠牲になった方もいらした。日和幼稚園園児5人が、地震直後、バスで家へ送り届けられる途中、津波に呑み込まれたのち、延焼の末、亡くなったという悲劇があった。幼稚園から、避難所の小学校に、小学校から日和山に避難した園児たちは助かったという。なぜ、海に向かって、津波に向かって園児を乗せて走ったのか、遺族から園の責任が問われているという。 帰宅後、3月11日当日の日和山から市街の様子を撮影したいくつかの動画を見ることができた。みぞれがレンズを打ち、海鳥が群れをなして画面を横切っていく中、津波が、船やビル、家々を押し流していくさまをあらためて目の当たりにした衝撃を忘れてはならない。

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「石巻市南浜地区復興祈念公園基本構想」より

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手前の建設中のビルは、復興住宅だが、津波で壊滅的な被害を受けた跡地に建設したため入居者が3割ほどしか決まってないという。

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日和大橋を望む、津波は高さ18mの橋の下に押し寄せ、たまたま橋を通過していた車は助かったそうだ

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5年を経て、4月に少し移動して建てられたばかりであった

世界一長い石巻魚市場へ

つぎに下車したのが、南浜地区から日和大橋を渡って、昨年完成したばかりの魚市場だった。876m、世界一を誇る長さの魚市場だそうだ。約3年間で、200億、鹿島による工事だったという。市場内の衛生管理はハイテク管理で、鳥一匹の侵入も許さない!というシステムだそうだ。もうすでに水揚げ量からすれば9割は復旧したそうである。 地元の政治家が大きく動いたのでは…というのが、地元の見解のようであったが、復興の象徴になっているという。構内には、宿泊や商業施設のビルも建設中で、完成の暁の観光客も見込まれている。今年の3月に、天皇夫妻はここへ立ち寄り、これまたできたばかりの漁業関係者の慰霊碑にも参ったそうだ。

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石巻魚市場、鹿島のHPより

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駐車場から雨に濡れずに市場棟に移動できるはずが・・・

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すでにセリは終了していて、がらんどう・・・

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2016年5月10日 (火)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(3) はじめての「日本現代詩歌文学館」 ~「塚本邦雄展」開催中

   翌4月27日訪れた、北上市にある「日本現代詩歌文学館」(1990年~)は、数十年来、一度は訪ねてみたいと思っていた。私にとっては今回の旅の目的の一つでもあった。盛岡からの道順はいたって簡単、東北本線50分ちょっとで北上駅で下車、車で5分のところだ。新幹線も停るが、その必要もない。前夜の夕食時、農協関係の方に、翌日の文学館行きの話をしたところ、北上は地元だけど「知らない、知らない!」といいながら、スマホで調べて「エエッー、母校だよ、私の母校の跡地ですよ。知らなかった!」と声を上げる。地元での知名度がこれほどとは、少し驚いたりもした。ラグビーで有名な黒沢尻工業が移転したのは、1980年代らしかった。辺りは、芝生の広場で、その一画には、たしかに「塚本邦雄展」の看板が見えるが、文学館前の庭園の池では、何組かの親子連れが遊んでいた。

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   入館後、連れ合いは、閲覧室で、東日本震災関係の詩歌集、とくに詩集や体験集などのコーナーに張り付いていた。いま執筆中の原発関係のものに関連? 私は、ともかく企画展「塚本邦雄展」に入場(300円)したが、ここも、入場者は、2・3人のグループの姿を見かけただけで、閑散としたものだった。受付で、どちらからかと問われて答えれば、「遠くからご苦労様です」とねぎらわれた。一通り回ったところで、「動画のコーナーをぜひ見て行ってください。塚本さんの肉声も聞けますよ」とおっしゃって、スクリーンの前に座らされたのには参った。「歌人朗読集成」の声と何かの受賞記念会の挨拶の映像が流れていた。早々にそこは退散、もう一度会場を回る。塚本は、私の短歌の世界とは別世界ながら、その歌稿の几帳面な筆跡には感心させられた。ワープロやパソコンを利用した形跡は展示にも年譜にも見当たらなかったが、晩年、ゼミの学生とのやり取りは「ファクシミリ」が活用されたという(森井マスミ「「塚本邦雄展」カタログ2016年3月81頁)。展示に見える、その華麗な人脈にも、やはりさもありなんと思いつつめぐった。寺山修司が、歌集の題名を塚本に選んでもらいたい旨の依頼をして、催促したりしている手紙もあって、どこか「甘えて」いるような雰囲気があって、興味深かった。私の塚本への関心は、天皇制との「距離感」にあった。

・われの戦後の伴侶の一つ陰険に内部にしづくする蝙蝠傘も(「悪」『短歌』1956年1月)
・日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(「貝殻追放」『短歌研究』1956年6月)
・冬の河口 乏しき水が泡だちて落つる日本の外へ必死に(同上)

  五十代で他界した、晩年の私の母が購読していた短歌雑誌を、ときどき取り出して読むが、塚本にこんな作品が散見できる。時代は下って、1990年紫綬褒章を、1997年勲四等旭日小綬章を受章したときに、歌壇でも、若干批判的な論評もあったが(拙著「勲章が欲しい歌人たち」『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年8月 72~75頁)、現在は、誰が受章してもでお祝いの記事しか目にしなくなった。

 

  あれはいつのことだったか、書肆季節社の政田岑生(~1994)氏から、「塚本が、『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)を読みたいと申しているので、余部があれば分けていただけないか」と代金のことまで書かれた、丁寧な手紙をもらったことがある。出版直後ではなく、しばらく経ってからのことだったと思う。出版元で品切れになった頃だろうか、私は、手元の拙著を差し上げたところ、礼状と『玲瓏』の最新のバックナンバー3冊分が送られてきた。政田氏の訃報を聞いたのは、それから1・2年してからのことだったか。読みたいと言っていたご本人からの音沙汰はもちろんなかったが、政田氏の手紙を保管しておけばよかったと今にして思う。

  再び閲覧室に戻って、私が所属している『ポトナム』、すでに終刊の『風景』の所蔵状況を調べてみた。他にも、いま私の手元にある雑誌類で、ここに寄贈して役に立つものはないだろうか、そんな思いもあった。自宅からも検索できるので、本気で考えようと思った。ただ、一巡しての感想を言えば、ここで刊行している『詩歌の森』という広報誌にしても、案内のリーフレットにしても、どこかよそよそしいのはなぜかなと思う。地元の人にどれほどアピールしているのか、あるいは、全国の詩歌愛好者にどれほど認知されているのか、もう少しリサーチした方がいいのでは、とも思ったものである。短歌に限っていえば、企画や姿勢が中央の短歌総合誌に傾斜するよりは、まず保存図書館としての使命を全うした上で、つぎの一歩を考えるという役割分担をしたらどうだろうか。

 同じ詩歌の森公園内の山口青邨旧居が移築されているので、立ち寄ってみた。昭和の一軒家のたたずまいの色濃いものだった。

  この後、その日の宿泊地、石巻に向かう。15時49分発一の関行き、小牛田乗継ぎ、途中、高校生や地元の人たちの乗降が多い。ドアの開閉は、自分でボタンを押さねばならないらしい。停車時間のエアコン管理のためなのだろう。6時11分石巻着。東京・盛岡間より時間がかかったことになる。

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2016年5月 8日 (日)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(2)

岩手県立美術館へ~モランディと松本竣介  

  4月27日、ホテルの窓の左手には、ゆったりした北上川が朝日に輝いていた。昨夕の北上川とは、また風情が違う。朝食前に歩いてみると、すぐそこには旭橋、川沿いの遊歩道があるらしいが、どういうわけかどこも立ち入り禁止、よく見れば、「木伏緑地工事中」の看板。「木伏」は「きっぷし」と読むと、きのう、 地元の案内の方に教えてもらったばかりである。「材木町」といい、盛岡は山林と北上川の恩恵にあずかる林業の町であったことがわかる。「木伏」は、山から降ろしてきた木材を、しばらくの間、水につけて置く貯木場であった。東京でいう「木場」だったのかもしれない。 立派な「開運橋」は通勤の人波であふれていた。のんびりカメラなどもった観光客は見当たらない。橋上からの岩手山は、意外と近くに見え、壮観でもあった。もう一つ先の橋が「不来方橋」らしいが、花盛りの対岸の遊歩道を旭橋に戻った。

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岩手山は、もっと近くに見えたはず

  お天気には恵まれたが、今日は少し欲張ったスケジュールである。まず、岩手県立美術館の「ジョルジョ・モランディ展」にむかう。少し前まで東京ステーションギャラリーで開催中だった。これまで知らなかった画家の名だった。現代イタリア画家(1890~1964)で、ひたすらアトリエにこもっては、首の長いビンや円筒、直方体、逆さ漏斗などとっかえひっかえ、並べ直しては描き続けていたという、地味と言えば地味な作家だと知った。その描くところ、地元でご一緒している9条の会の代表を務める画家の高塚一成さんの画風にも似ていて、東京で見ていた高塚さんに勧められていた「モランディ展」だった。美術館は、盛岡駅を挟んで、反対側の雫石川を渡るとすぐの中央公園の一画にあった。弧を描き、2階建ての白いシンプルな外観、近づくと、コンクリート打ちっぱなしの外壁だった。2001年オープンとのこと、常設展の郷土の作家たち萬鐵五郎、松本竣介、舟越保武も期待されるのだった。 モランディは後にも先にも、入場者は私たち二人のみ、会場のスタッフは各室ごとに一人だから10人以上がいらっしゃったはず。東京の美術展では考えられない鑑賞環境ではある。明けても暮れても、“still life”を描き続けていながら、各室の展示は、時代を少しずつ重ねながら、晩年に向かう。第ⅹ室「風景の量感」では、一転してすべてが風景画となり、一気に解放された感がした。その風景とて「フォンダッツァ通りの中庭」(1958年)など、アトリエの窓からの光景だというが、窓もない方形の壁の平面だけで構成されている。絵の真ん中に描かれた階段や小さなドアには人間が通った形跡が見えない無機質さである。それでも、私にとって、閉塞感から少しでも突き抜けられた、というのが、全体の印象ではあった。

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展示会チラシ裏、こんな絵ばかりが100点近く・・・

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私が気に入った一点

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ようやく出会った風景画

  そして、常設展は、カメラも自由ですよということだった。萬鐵五郎(1885~1927)に墨絵のような屏風絵があるのをはじめて知り、さまざまな手法を試みていたことがわかった。どちらかと言えばタッチの荒々しいフォービズムかキュービスムの影響を受けたイメージが強かっただけに意外だった。松本竣介(1912~1948)は、これまでも、「新人画会展」(練馬美術館)、「戦争と美術」(神奈川県立美術館葉山館)などで見かけた「Y市の橋」(1942)、また、「有楽町駅付近」(1936)「議事堂のある風景」(1942)など、都市の建築物をしきりに描いていた時期、油の乗り切っていた時期ではなかったか。1948年の早世が惜しまれてならない。「盛岡の冬」(1931)は十代の作品なのに、やさしさのあふれるいい作品だったなあ、と。そして、彼と盛岡中学校同期の舟越保武(1912~2002)の作品も多く収蔵され、キリスト教・キリスト教受難を題材とするに作品が目立った。 また、この常設展では、深沢省三・紅子も盛岡出身と知った。二人の絵は、数年前か、国際こども図書館での「童画の世界」展で、『コドモノクニ』『子供の友』誌上で活躍していた頃の作品を、また紅子は野の花を好んで描いていたことなども思い出す。盛岡には深沢紅子の野花美術館もあるそうだ。原敬記念館もあるというのに。 時間が足りないなあ。 今回啄木は、素通りである。


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萬鉄五郎、自画像二点

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盛岡の冬(1931年)、竣介十代の作品

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Y市の橋

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議事堂のある風景

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舟越保武常設展示室

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ながい廊下の窓からも見える岩手山

  つぎに向かったのが、美術館の隣にある、盛岡市先人記念館も立派な和風の建物、予備知識なく入館、受付近くに陣取っていたボランティアの方に、ここでの予定時間を問われた。30分ほどいう時間に合わせての説明となった。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助の各室をまさに大急ぎであり、2階には130人ほど顕彰されているんですよ、と残念そうだった。米内光政が昭和天皇からの信頼がいかに厚かったか、「賜った硯を見てください、墨を磨った跡が見える、直前まで使用されていた、大事なものだったのでしょう」とボランティアの方は力説した。それに「米内さんは、昭和天皇と一緒の平和論者で、アメリカとの戦争はしたくなかったんですよ」という説明、しかし、こんな風な昭和史だけが、後世に伝えられてしまっていいのかの疑問も去らない。なお、庭園には、盛岡駅構内にあった、金田一京助の筆になる啄木の歌碑がここに移築されていた。写真を撮ろうとしたところ、これも「資料」なので、学芸員の許可と立ち合いが必要である、とのことで、閲覧申請後、ようやく近づくことができた次第であった。
 中央公園のしだれ桜満開の一画では、結婚式場を飛び出してきたカップルと家族たちだろうか、記念撮影の真っ只中、お幸せに。 

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「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」が萬葉仮名交じりで
彫られていた。碑面は凹凸があって読みにくい

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盛岡市先人記念館

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(1)

 連休中にもかかわらず、当ブログにお訪ねくださった方も多く、恐縮しています。時節柄、多くは、自治会会費や社協・日赤関係記事へのアクセスですが、熊本地震への義捐金にかかわってのアクセスも混じっていたと思います。続く余震の中、被災者の方々には、ただただお見舞いの言葉しか申し上げられず、むなしさが募っています。  一か月以上も、長い間、ブログへの投稿が途切れてしまいました。ともかく、目の前の仕事に追われ、その途中、かねてからの予定通り、連休前に、東北旅行に出ました。4月29日に帰宅した折には、わが家の垣根は、テッセンの花盛りになっていました。  

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北海道新幹線「函館北斗行き・はやぶさ・こまち」に乗って  

   4月26日午後、連れ合いが、盛岡で、岩手県生協関係団体のTPP学習会で報告をするというので、便乗してついて行くことにしていた。はらずも、開業間もない「はやぶさ」10時24分発に乗ることになり、指定も7割くらいは埋まっていたか。盛岡には12時半過ぎには到着。ホテルに荷物を預け、学習会会場へ。「TPP合意の内容、くらしへの影響」と題された話、端々には聞いてはいるものの、まともに客席で聴いたのは久しぶりである。国会審議最中に明らかになった西川公也『TPPの真実』の内容、結局出版取りやめになったものの、ゲラ刷りが出回って、交渉過程は秘密と言いながら、結構踏み込んで書かれているという。熊本地震対応もあって、結局批准は先送りになった。問題は山積みで、この日は、TPPは、定着しかけてきた「地産地消」を侵害し、高額医療・薬価高止まりを助長し、国民の命が危なくなるという話は身につまされた。ご苦労様でした。  

高松の池、平和の像は桜吹雪くなか   

    生協、農協関係の二方のご案内で、桜の名所でもあるという「高松の池」まで。「先週末が最後の見ごろ」ということだったが、遊歩道は、ジョガーが行き交い、散った桜が薄紅のじゅうたんを敷いたようでもあった。ここには、二つの平和の像があるという。最初に案内してもらったのは、岩手県生協連と婦人団体、青年団体、原爆被害団体協議会4つの市民団体の提唱・賛同により、1995年に建立された、郷土の彫刻家、舟越保武とその弟子による家族の群像「望み」だった。もう一つは、池のちょうど対岸に位置する、自身もシベリア抑留体験者であった佐藤忠良による「ひまわり」、とてもかわいらしい少女像である。少し風が冷たくなり、池の端の桜並木から、目を空に転じると、雪を頂いた岩手山が望めるのだった。

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高松の池、平和記念像「望み」舟越保武他制作

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高松の池から岩手山を望む

    そして次にと案内いただいたのは、材木町の「光原社」だった。材木町の「いはーとぶアベニュー」と名付けられた商店街は、なかなか雰囲気のある通りで、その真ん中あたり、生前の宮沢賢治が出版した唯一の童話集「注文の多い料理店」、その印刷・出版をしたのが友人の経営になる「光原社」だったらしい。通りから一歩、店の中庭に踏み入れると、大正の香がする、独特の世界が展開する。喫茶室も資料室もあり、中庭を突き抜けると、北上川に直面する。通りの向かいには、民芸店があり、陶器、鉄器、笊、織物からアクセサリーまで有り、時間が許すなら、ゆっくりしたいところであった。  夜は、生協連の方々との会食となり、さまざまはお話を伺うことになった。ありがとうございました。

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光原社中庭

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光原社、中庭から望む北上川
かつては松尾鉱山から流れる汚水で川は赤かったそうだ

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