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2016年5月22日 (日)

白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

(3月20日の本ブログ記事「〈短歌サロン九条〉(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて」でも触れていましたが、『日本古書通信』に寄稿の「白蓮年譜の空白」を再録します。

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白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子と柳原白蓮をモデルとした人物の描き方が、あまりにも史実とかけ離れ、ひとり歩きしているのを知って、ブログで異議を唱えていた。そんな折、櫻本富雄氏から、文庫大の宮崎燁子(柳原白蓮)編『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 一九三八年九月)を頂いた。表題紙(遊び紙)に「昭和十三年十月 白蓮」のサインがあり、左上には「贈呈 松本恒子様」とある。その「松本恒子」が気にかかる旨の添え書きも一緒だった。

とりあえず、短歌史や女性史などの辞典や年表類を調べ、ネット検索もしてみたが、「松本恒子」のことは分からなかった。

二〇一五年一一月、東京池袋の西武で「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」が開催された。早速出掛けたが、白蓮の出自、宮崎龍介との「出奔」前後の経緯や往復書簡、敗戦直前の長男の戦死の悲嘆からのめり込む平和運動などに焦点があてられていて、日中戦争下の展示や記述は極端に少なかった。

「生涯展」にはなかった白蓮の『支那事変歌集 塹壕の砂文字』とは、「あとがき」によれば、「東洋平和、亜細亜民族の福利」を目指し、前線と銃後の「双方を結びつける魂と魂の親交を願つて」編集されたアンソロジーで、募集した短歌と新聞歌壇などの作品を収録し、白蓮自身もつぎのような短歌十首を寄せている。このアンソロジーは前年一九三七年の日中全面戦争突入を受けて刊行された読売新聞社編『支那事変歌集』(三省堂)や大日本歌人協会編『支那事変歌集戦地篇』(改造社)(ともに一九三八年一二月)に先駆けるものであった。

・旗ふるよあれは誰が夫たれが子ぞ命をわすれ出征つますらを

・やがてきく東洋平和の鐘の音に君がいさをもなりひゞけとぞ

献呈された「松本恒子」がやはり気になり出し、ネット検索を再開すると、意外なことが浮上してきた。一つは「山ちゃん1952」というブログで、内務省警保局の資料に「生長の家現勢一覧表」として、総裁谷口雅春以下役職者の名前が並ぶなか、「婦人部長 松本恒子」の記載もあることが分かった。さらに、生長の家婦人部の雑誌『白鳩』創刊号(一九三六年三月)復刻版を知り、彼女は「白鳩会の生ひ立ち」「白鳩会の使命」を執筆、『生長の家三拾年史』はじめ『同四拾年史』、『同五十年史』にも登場し、生長の家初代の婦人部長、白鳩会初代会長で一九四四年まで務めていたことを確かめた。

そこで、手もとの白蓮の主な伝記(注1)や思想的な系譜をたどった文献(注2)などにもあたるが、「生長の家」への言及は見当たらなかった。さらに、白蓮自身が宗教について綴る『大法輪』『宗教公論』『心霊研究』などの文章も読んでみたが、その片鱗も伺えなかった。

国立国会図書館OPACで<生長の家/柳原白蓮>を検索、ヒットは「『白鳩』(一〇九号)」の一件であった。ようやくたどり着けるかと思ったが、白蓮は、読者歌壇「生活の歌」の選者だった。その後、白蓮の選は見えないが、エッセイの寄稿は確認できた。『白鳩』の読者歌壇は、欄名・選者を変え、一時中断もあったが、白鳩会三代目の会長でもある歌人日比野友子が永らく務め、一九五八年からは中河幹子が引き継いでいる(ちなみに二〇一二年七月からの選者は小島ゆかり)。

松本恒子と白蓮の直接の接点は、まだ見出せないが、生長の家の幹部と『白鳩』歌壇選者の白蓮との親交は推測できる。生長の家は、大本教の出口王仁三郎の側近だった谷口雅春が、一九二一年第一次大本教事件を契機に大本教を離れ、一九三〇年に開いた神仏混淆の新興宗教である。病苦や貧困の解決を説き、天皇信仰・大陸進出・聖戦完遂を推進していた。

ここで思い起こすのは、白蓮が宮崎龍介のもとに「出奔」した事件後、身をひそめていた住まいが、出口王仁三郎紹介による大本教信者中野岩太の京都府綾部の別荘であったこと、関東大震災後の龍介・白蓮の転居先も、東京の中野家の離れだったことだ。中野岩太は、王仁三郎のもとを離れ、浅野和三郎が立ち上げた心霊科学研究会のメンバーとなった人物である。大本教と白蓮の関係は確かだが、そこを離れた谷口雅春との関係は、不明である。

一九四〇年代に入って、白蓮は、『婦人倶楽部』<靖国の英霊に捧げまつる>特集(一九四〇年一〇月)に、読者歌壇の選者として、今井邦子、中河幹子らとともに、つぎのような歌を寄せている。

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちが銃後支援をめざした「輝く会」主催の九段対面の日、遺児の日の白扇揮毫に参加、機関誌『輝ク』には、つぎの二首が見られ、佐佐木信綱編『新日本頌』(八雲書林 一九四二年一一月)には自選十六首を寄せている。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ(九段対面の日)(一九四〇年四月)

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ(遺児の日)(一九四一年四月)

・大君のみことのまゝぞ生も死も我のものならずいざ子どもらよ(『新日本頌』)

『日本短歌』(一九四四年二月)の<皇軍将士におくる歌>女性歌人特集で、白蓮は「吾子は召されて」と題して寄稿、わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、つぎのような「祝出征」の作品が八首並ぶ。さらに、「一片の雲は南に急ぐなりけふのいくさの神集ひかも」などを加え、『皇道世界』(一九四四年二月)にも発表した。これらは、白蓮主宰の『ことたま』(同年一月)に発表済みの作品とも重複する。

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

・日の丸の御旗を肩にかけて征くあれが我子よと見てたもれ人

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき 

 こうした作品群がまったくなかったように、後の作家たちは、昭和初期の白蓮事件から一挙に戦後に飛び、平和運動家になった白蓮を賛美する。歌人たちも、白蓮の日中戦争下の短歌を語ろうとしない。各種の年譜においても、日中戦争下の記述は白紙に近く(注1②③⑤⑥)、上記の『塹壕の砂文字』も登場しない。しかし、菅(注2②)は、このアンソロジーに寄せた白蓮の十首と小説『民族のともしび』(一九四三年 奥川書房)に着目、素朴な母子の愛情が国家によってどのように母性ファシズムへと変貌し、戦時下の人々を支配したのかを分析している。秋山(注2③)は、定義が不明なまま、「公の歌」と「私の歌」と称し、『塹壕の砂文字』の作品は「公の歌」とし、出征するわが子を見送る一連には両者が混在していると捉える。この二人の評者も、その他の日中戦争下の夥しい数の作品には触れない。

 今回、一冊のアンソロジーの献本先から、日中戦争下、積極的に戦争協力していた生長の家と白蓮の親密性、種々のメディアに発表した作品を読み込み、読者歌壇の選者としての足跡をたどり、まず、伝記や年譜の空白を埋めた上での柳原白蓮の検証や評価の必要性を痛感した。とともに、一冊の本が私の手元に届くまでの七八年間の道のりを思うと古書界の深さ、ものを書くという表現者の覚悟の重さを思うのであった。

1 ①宮崎龍介:柳原白蓮との半世紀 文芸春秋 一九六七年六月 ②永畑道子『恋の華・白蓮事件』 新評論 一九八二年一一月 ③野々宮三枝:柳原白蓮略年譜 短歌 19923月 ④林真理子『白蓮れんれん』 中央公論新社 一九九八年一〇月 ⑤馬場あき子ほか『流転の歌人・柳原白蓮』 NHK出版 二〇一四年八月 ⑥宮崎蕗苳監修『愛に生きた歌人・柳原白蓮』 河出書房新社 二〇一五年一一月

2 ①水野昌雄:白蓮―その思想遍歴 短歌 一九九二年三月 ②菅聡子:柳原白蓮の<昭和> お茶ノ水女子大学人文科学研究5 二〇〇九年三月 ③秋山佐和子:私の歌、公の歌― 柳原白蓮と戦争 短歌研究 二〇〇九年一一月 ④中西洋子:柳原白蓮における歌の変容と到達 目白大学人文学研究8 二〇一二年二月      (『日本古書通信』20164月)

 

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