ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(8)普天間基地周辺1
嘉数の戦跡(宜野湾市)
1945年4月1日、比謝川の河口あたりにまず上陸してきた米軍が、嘉数(かかず) の日本軍への攻撃を始め、戦闘となったのが、諸説があるようなのだが、4月6~7日から4月24日までと言われ、沖縄戦の中でも最初の激戦地となった。多くの住民を巻き込んで、704人のうち336人、48%の方々が犠牲になっている(『沖縄の戦跡ブック ガマ』2013年改訂)
日本軍の地下陣地壕の入り口、手前は、花が散った後の「月桃」
陣地壕見取り図
トーチカの入口弾痕の跡が見える
韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊の塔、軍夫として動員され、亡くなった朝鮮人の386柱が祀られている
右が「嘉数の塔」、嘉数住民の慰霊塔、正面が「京都の塔」、この地で戦った第62師団に京都出身者が多かったによる。手前の碑文には、戦争の悲惨さや沖縄住民への思いが記されている。他の碑文にはない言及が有名とのこと
嘉数高台の展望台より, 右上端の緑の部分が普天間飛行場
嘉数高台の展望台より、正面の緑の部分が普天間基地、その右端にオスプレイが並んでいるのは、肉眼では見えたのだが
嘉数高台を下るガイドのKさん(右)と
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