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2016年7月30日 (土)

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

以下もやや旧聞に属することになってしまったが、5月中旬締め切りで、歌誌『ポトナム』に寄せた時評である。

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2015927日、緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(同実行委員会主催)が京都で、同年126日、緊急シンポ「時代の危機と向き合う短歌」(強権に確執を醸す歌人の会主催、現代歌人協会・日本歌人クラブ後援)が東京で開催された。「時代の危機」という言葉もあいまいながら、どちらにも参加できず、隔靴掻痒の感はぬぐえないが、その感想を記録にとどめておきたい。

 

京都での呼びかけ人、吉川宏志は「安保法制など、憲法を揺るがす事態が起こっている現在、私たちは何をどのように歌っていくのか。近現代の短歌史を踏まえつつ、言葉の危機に抵抗する表現について考えます」と訴え、表題の「時代の危機」は「言葉の危機」に置き換えられていた。京都での三枝昻之は、戦中戦後の短歌雑誌に対する検閲にかかわり、歌人みずからの自己規制の危うさを語り、永田和宏は、最近の政治家の失言を例に、脅迫的な暴言を繰り返す危険な言葉遣いを指摘、歌人は危機感をもっと率直に表明することの大切さを語った、と総括する(吉川宏志「時代の危機に抵抗する短歌~緊急シンポジウムを終えて」『現代短歌新聞』201511月)。

 

東京では、永田が「危うい時代の危うい言葉」と題して、民衆の表現の自由が民主主義の根幹ながら、その言葉が様々な手段で奪われようとしている危機を語り、レジメには、「権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す」などの短歌が記された。今野寿美は「時代の中の反語」と題して与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を例に時代状況の中で曲解・悪用されてきた事実を指摘、表現者のとして自覚の重要性を説いた。予告にあった佐佐木幸綱の「提言」は、本人が風邪のため中止になったらしい。

 

東京での呼び掛け人であった三枝は、シンポの表題を京都のそれと比べ、「時代の危機と向き合う・・・」として、「ソフト」にしたのだといい、シンポの主題は、「安保法案の是非ではなく、政治の言葉の是非」であると、繰り返し述べている(「2015126日シンポジウムを振りかえる」(『現代短歌』20163月)。

 

二つの集会のキーマンである吉川、永田、三枝の三者は共通して、「時代の危機」というよりは「言葉の危機」を強調したかったのではなかったか。「時代の危機」を前提にしながらも、あえて「言葉の危機」「政治の言葉」に置き換えたことは、見逃してはならないと思う。「安保の是非」は横に置いておいて、歌人は「言葉の危機」にどう対応するかの念押しに、参加者の多くは、やや肩透かしを食らった気がしたのではないか。

 

東京の集会に参加した石川幸雄は、永田の「投獄されて死んでゆくのは犬死だ」と怯える姿を目の当たりにした後、「ここで 登壇者の内三名(三枝、永田、今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や新聞歌壇の選者から降ろされるのがこわいのか。考えて見ると歌人の地位を失うのがこわいらしい」と、三枝については「『昭和短歌の精神史』は戦中の歌人の戦争責任を不問に付し」た「歴史観が今日の状況を作ったのではないか」と報告している(ブログ「岩田亨の短歌工房」2015128日)。私には、壇上の歌人たちが時代に「異議を申し立てた」という「証拠」を残すために、こうした発言の場を設けたように思われた。一過性で終わることのない本気度を見せてほしいと思った。近く記録集(*注)が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う。(『ポトナム』20167月号所収)

*注 『(シンポジウム記録集) 時代の危機と向き合う短歌~原発問題・特定秘密保護法・安保法制までの流れ』(三枝昻之・吉川宏志共編 青磁社 2016年5月8日)の書名で刊行された。

 

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2016年7月29日 (金)

都知事選に思う~なぜ、東京はオリンピックを中止できないのか

オリンピックは、今
 
都知事選“主要3候補”の政策論議は実らないまま、選挙戦は終盤戦に入ってしまった。投票日は二日後に迫った。参院選の当時は、舛添問題を執拗に報道しながら、国政選挙報道自体を自粛していたテレビ、とくにNHKの対応には、このブログでも触れたように、重大な問題を残した。都知事選において、主要候補が出そろって、これまでとは違う方向性が見出せるかもしれないという期待はあったが、見事に裏切られてしまった。各新聞やテレビ局は、それなりの工夫をしながら、テーマごとに各候補に質問している。しかし、その回答が、いずれも似たような、曖昧なものだったり、権限のない国政にかかわるものだったりする。あるいはキャッチフレーズやパフォーマンスだけで、実態をどれほど把握し、財政的な裏付けをどうするかが聞こえてこない。街頭にしても、個人演説会にしても、敵失を喜ぶネガティブキャンペーンは見苦しい。

私は都民ではないが、都民にはぜひ考えてもらいたい都政の課題がいろいろある。私には、どうしても、そのうちの一つ、オリンピック問題が気にかかるのである。三候補のうち、小池は、「情報公開をして、民間からの寄付も大事な財源」、鳥越は「情報公開をして、見直しコンパクトなものにしたい」といい増田は「復興五輪の原点に立ち返りたい」とも答えているが、いずれも、現実的な施策には結びつかない。

やや旧聞に属するが、参院選のさなか、あるミニコミ誌の電子版に寄稿したものがあったので、若干、手を加え、あらためて記事としたい。そもそも、オリンピックの原点に立ちかえって、考え直せないのか、と思ったからである。

そして、リオのオリンピックが近づき、アスリートたちが現地入りしているが、治安や衛生状態が心配されている。さらには、ロシアのドーピング問題も不明瞭なままに、なし崩し的に参加・不参加が決められてゆく。そんなところでメダルを争って何の意味があるのだろうか。

 

「底なしの疑惑の宝庫五輪かな(さいたま 高本光政)」 

表題は、69日の『毎日新聞』の読者川柳(「仲畑流万能川柳」)の入選作だ。東京オリンピックに、これほどケチがついているというのに、なぜ、「東京オリンピックをやめてしまおう」という機運にならないのかが不思議なのだ。というより、これほど今の安倍政権の失政が明らかであるのに、ほかに選択肢がないからと支持率が下がらず、無関心層が劇的に減ることもない。その構図と似てはいないか。

オリンピックの招致活動において、その報道、明らかな世論操作によって、東京オリンピック開催が決まっていく、実に見苦しい経過を知ることになる。さらに、安倍首相がIOC総会でのプレゼンで「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」とスピーチし、質疑で放った「福島の汚染水は、完全にコントロールされている」(201397日)との虚言を忘れることができない。

それまで、東京での開催を危ぶんでいた人たちも、東京に決まった以上、最善を尽くそうではないか、などという大きな声に流されて、多くの国民は取り込まれ、アスリートたちは利用されているのを知ってか知らずか「きれいな色のメダルをとるため頑張りたい」などと抱負を語るのを見るのは、やりきれない。そして、保守層はもちろん、「革新的」な野党に至るまで、企業もメディアも色めき立っている。もはや「スポーツの祭典」などでもなく、「国威発揚」と「利権政治」の温床になってしまっているにもかかわらず、である。

開催決定までと決定後の不祥事が続く

 過去のことを水に流すのが、日本人の美徳なのだろうか。思い返せば、東京オリンピック決定までも、いろいろ取りざたされたではないか。20116月石原都知事が東京への招致を表明、2011311日以降は、具体的な施策もないまま、東日本大震災復興のための「復興五輪」が声高に叫ばれ、201191日締め切りの立候補に名乗りを上げた。2012217日、国立競技場建て替えを決定した。しかし、世論はそれほど甘くはなく、20125月、IOCの日本での世論調査では、東京開催賛成が47%、反対23%、どちらともいえない30%であったのである。ちなみに、いわば開催国の国民支持率は、当時、マドリード78%、イスタンブール73%とは大きく隔たっていた。大震災、原発事故で、オリンピックどころではない、というのが日本国民の大方の気持ちだったのではないか。これに、危機感を覚えたJOCは、立候補ファイル提出の1317日までに、必死のメデイア戦略を展開しての招致活動を続けた。同ファイルには、どこにも東日本大震災も、復興の文字も出てこない。記載された国内支持率は201211月現在66%に上昇したものの、それでも他の2都市には届かないことが明らかとなった。その後も2012年から13年にかけて、新しい猪瀬都知事、メダリストらを動員しての年末年始の活動をメデイアに幾度となく登場させている。

立候補ファイル提出後は、以下のような社説が続き、以降、国際キャンペンが解禁となった。一部のメデイアが若干の懐疑を示しつつも、東京オリンピックGO!のモードに切り替わった。

19産経:東京五輪招致 国を挙げて発信力を競え

19東京:社説:東京五輪招致、足元の支持を広げたい

110朝日:東京五輪招致、成熟都市と誇るなら

110毎日:五輪招致、東京だからを示せ

111日経:五輪開催で日本を元気に

113読売:東京五輪招致、日本の総力で実現したい

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20133IOC評価委員の東京視察がなされ、その先々での報道が活発化、6月のIOC世論調査における国内支持率は、東京70%、マドリード76%、イスタンブール83%と東京は上向いた。そして97IOC総会におけるプレゼンがなされ、翌日、開催地「東京」が発表された。910日の全国紙は、一斉に以下のような社説を掲げ、テレビでは、どの報道番組も、バラエティも、東京オリンピックに沸いた。あるプレゼンテイタ―の「お・も・て・な・し」のジェスチャーがもてはやされもした。また高円宮妃のプレゼンは、皇室の利用ではないかの声は、その後、すぐにかき消された。

 朝日:東京五輪―成熟時代の夢を紡ごう
日経:国や都市の未来を考える五輪に
読売:2020年東京五輪 復興と経済成長の起爆剤に
産経:2020年東京五輪 成功は世界への約束だ
東京:2020年 東京五輪 成功の条件 原発事故を封じ込めよ

1015日、国会では、「2020年東京五輪に向けた努力を政府に求める決議」が衆参本会議で採択され、反対は参院の山本太郎一人のみだった。パフォーマンスとの見方もあったが、私には至極まっとうな対応に思われ、全会一致、同調圧力の恐ろしさを感じたのだった。その後の顛末は、まだ記憶に新しい。

2015717 予算大幅増のザハ設計案撤回
201591  エンブレム佐野案模倣で白紙撤回
20151222 隅研吾設計案発表
2016425 新エンブレム野老案発表
2016511  JOCの不正振り込み疑惑発覚

2016511日には、英ガーディアン紙、BBCが、JOCIOC委員国際陸上連盟ラミン・D関係者に16億円振り込みをした件をフランス当局が捜査していることを伝えた。代理人として「電通」の名が浮上し、531日の参院内閣委員会の山本太郎議員の質問で、竹田日本JOC会長は、認めるに至ったが、電通への依頼は信頼に足りるとした。その後は、新聞・テレビの報道は、「舛添都知事公私混同事件」の異常なほどの報道が展開され、この裏金問題も、甘利元経済再生大臣の裏金問題もどこでかき消された印象が強い。テレビ・新聞が報じなければ、週刊誌や月刊誌に期待したいが、タレントの不倫や病気を追いかけるのではなく、オリンピック裏金疑惑を徹底取材に奔走してもらいたいという思いもある。

東京オリンピックという名のもとに、まるでオリンピックが聖域のようになって、どの政党やメディアも「やると決めた以上は・・・」はと、立ち止まることなく2020年に突き進むとしたら、やはり恐ろしい。安保法制、沖縄の基地問題、憲法改正問題、原発事故の収束・原発再稼働・廃炉、さらには、保育・介護の拡充、貧困・格差という政治的な課題が「さて置き」され、「オリンピック」のためならばという「大義名分」となってしまうことには、警戒しなければならない。都民はもちろん国民は、これまでなされてきた情報の隠蔽や操作を見抜く力、いざとなっても、決して責任を取らない権力のシステムを監視しなければならない。私たちの覚悟と責任は重い、とつくづく思う。

 

なお、オリンピックと経済効果が声高に叫ばれているが、以下の資料では、過去の実績に照らし、つぎのような危うさを警告しているように思う。近年のオリンピック運営における国力を誇示するような演出、メダル獲得競争などは、「競技者ファースト」、開催国の負担軽減というオリンピック精神に反する実態が横行していることにも目を向けなければならない。

 

1.収支決算をプラスにするには以下の3条件のクリアが必須だが、困難を極める

・ 直接経費が収入(放映権料、企業協賛金、チケット・ライセンス売り上げなど+公費)と見合う

・費用対効果のあるインフラ整備(交通・ホテル・IT環境など)が実施される

・諸施設の後利用も採算がとれる

2.経済効果以外の都市再生・政治的結束・環境配慮・国際理解・ダイバーシティなどが望める

<参考>

「オリンピックと経済」(坂田和光)

 

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9880033_po_078103.pdf?contentNo=1

『レファレンス』(国立国会図書館立法調査局)781号(20162月)

<総合調査 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けて諸課題>

 

 

 

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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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2016年7月26日 (火)

那覇を離れる前日、「平和通り」に寄ってみる

那覇市の「国際通り」にあるホテルは2度目ながら、通りと交差する「平和通り」という名の商店街に入ることはなかった。立ち寄りたいと思いながら、いつもゆいレールの「牧志」から足早に通り過ぎるだけだった。

立ち寄ってみたかったのは、私が、戦後の池袋の「平和通り」という商店街に育ったという単純な理由もあった。全国どこにでもある「平和通り」の一つとして、那覇のそこにも寄ってみたかったのだ。しかし、何よりも、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』の「不敬文学」としての強烈な印象があったからである。

池袋の「平和通り」は、戦前は、西山町会と原町会の間にあったので「西原通り」と呼ばれていた。私の父は、1925年(大正14年)にこの通りに借地を求め、薬局を開業している。長兄が生まれる前年でもあった。1945414日未明、東京山の手空襲で焼け野原になったが、1946年の春には、その焼け跡に、同じ地主さんから借地をして、バラックでの薬局を再開している。私が母たちと疎開先から池袋に戻ったのは、その年の夏だった。西口の闇市も邦映座も、東口の人丗坐も巣鴨刑務所も知っているし、中学校は都電の17番で通っていた。私は1970年代の初めに生家を離れていて、いまでは時折、義姉と姪の家族が住む小さなビルを訪ねるだけだが、平和通りは、昔のにぎやかな面影はなく、不動産屋・コンビニ・飲食店と雑居ビルが立ち並ぶ街になってしまった。

那覇の「平和通り」の沿革は、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』にも詳しいが、目取真は1960年生まれなので、敗戦直後の様相は、聞き書きや記録によるものだろう。

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那覇市立歴史博物館資料より

小説の概略は、以下のように記憶している。夫は戦死し、幼いわが子を避難先のガマで亡くした主人公の女性は、この平和通りで露天商を営み、苦労して子供を育ててきた。そして、仲間の露天商たちの結束にも大きな力となってきた彼女は、今でいう認知症にかかって、平和通りを徘徊しては、少し悪さをしているとの噂もありながら、かつての仲間たちや家族には見守られながら暮らしていた。その家に毎日のようにやってくる男がいて、そのお年寄りを施設に入れるか家から出ないようにと言い含めていく。迷う息子夫婦やその理不尽さを、孫の少年の目を通して描かれる。そして、迎えた皇太子夫妻の沖縄訪問(19837月の第19回献血運動推進全国大会への出席を背景にしている)、その当日、息子は悩んだ末、母親を家の座敷に閉じ込めるため戸板に釘を打つ。しかし、母親は、皇太子夫妻の車列に飛び出してきて、夫妻が乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手の跡を残したのである。息絶え絶えになっている祖母を見つけた孫の少年が背負い、バスに乗り、山へと出かける。その背に、冷たくなっていく祖母を感じながら歩き続けるところで小説は終わっていた。このラストには、涙をこらえきれなかったことを思い出す。小説の中の「あの沖縄戦で、あれほどの血を流したのに、まだ、献血せよというのか」との主旨のセリフも記憶に残るものだった。初出は、198612月の『新沖縄文学』だが、私は『目取真俊初期短編集 平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房 2003年)で読んだ。

現在の「平和通り」は、やはり観光客で混んでいた。ほんとうは、奥まで進みたかったが、先が急がれ、途中で引き返した。入り口近くの醤油屋で、塩醤油の小瓶を買った。

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醤油屋さんは入って左側

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2016年7月24日 (日)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(10)沖縄全戦没者追悼式

 

 623日も、朝から暑い。県庁北口からは、追悼式会場の糸満市摩文仁まで直行のピストンバスで出る。まだ9時前の早めのためか、空席を残しての出発である。途中の渋滞もなく、かなり早くに着いた。「平和の礎」には、お参りの方々やそれを取材する人たちで、かなりにぎわっていた。

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まだ誰もいない式典会場

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平和の火ともる

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左手前の平和の礎の向こうは、右手、朱の屋根の沖縄県平和祈念資料館、左の白い塔、平和祈念堂である

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琉球放送の取材班にが囲まれているので、手を休めたカメラマンに、「どういう方ですか」と質問すると、「いや私たちも知らないけどいいお話をされているので」とのこと。ツアーの若いガイドさんと思たのだが、別の場所で二人連れで歩いていたので、質問すると、琉球大学の学生さんで夏休み明けに、生協関係の学生が全国から集まるそうで、その時のガイドのリハーサルだったそうだ

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三線を弾いて、慰霊するお年寄りとお孫さんか、ここにもカメラが。

 摩文仁の丘に一帯に広がる各都道府県はじめ地域、様々な職業・業界ごとに建てられた慰霊塔が散在しているが、今回は、追悼式会場を離れないことにして、平和祈念資料館に入館、なかは涼しい。やはり早めの到着の翁長知事や国会議員らが、控室でもあるのだろうか、足早に通り過ぎてゆく。

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企画展「沖縄の戦争孤児」が開催中であった

 

 開会まで1時間半はあったが、入口の列も動き出したので、入場する。物々しいボディチェックを受けて、プログラムをもらって、テント下に着席。しばらくは涼しいと思っていたが、下の芝生からも熱気があがってくる。席の周りは、年配の方が多い。隣の方も斜め後ろの方も、肉親を沖縄戦で亡くされているという。報道陣の動きがあわただしくなってきた。SPの眼付も険しくなってくる。平和行進の方々が到着、前の方に着席する。テント下は満席、周辺に立つ人も多くなってきた

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再入場の札をもらって、会場外のお茶を買いに

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平和行進入場 

 1150分開会、来賓らが入場、県議会議長の式辞、12時黙とう、献花。翁長知事の熱のこもった「平和宣言」、小学生の仲間里咲さんの詩「平和ぬ世界どぅ大切」の朗読に続いて安倍総理のあいさつだった。何せ席からは遠いもので中央での式の進行が分かりにくい。安倍総理の挨拶は、こんかいの米軍軍属の「犯人憎し、犯罪抑止」を強調しても、基本的な解決にはならないだろうにと、予想通りの発言の終わりを機に会場を抜け出した。太陽の照り付けは、半端でない暑さの上、私たちは、ピストン輸送のバスを乗り間違え、30分ほどのロスをした。摩文仁を離れる頃に、要人も移動し始めたのだろうか。警備もご覧の通りの過剰さであった。

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翁長知事登場、望遠があったらなあ

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警備の青い制服がどこまで続く

那覇への帰り道は、相当の渋滞で、那覇空港の離陸時刻に間に合うか、かなり気をもんだが、結果的に航空機の到着・整備の遅れで、私たちの便は20分遅れの離陸となった。どっと疲れが出たなかで、沖縄の旅も終わった。

 翌日の報道によれば、式典への参加者は4700人という。また、『琉球新報』によれば、沖縄各地での慰霊の集い学習会などが開催されていたこと、参院選での伊波・島尻対決が本格化したことが報道されていた。

 そして、いま、沖縄では、参院選でも民意が示されたのにもかかわらず、本島北部の東村高江のヘリパットの工事再開が強行され、辺野古の国と県の訴訟において、和解後には「協議続行」の裁定があったにもかかわらず、国は、県を訴え、「陸上」工事再開するという。この現実を、私たちはどう受け止めるべきか、他人事ではないはずである。

すでに、あの日、623日から1か月も過ぎてしまっていた。世界でも、日本でもいろいろなことがありすぎた。この沖縄訪問の記録も、ようやく最後の10回目になる。こんな駄文を書きつらねて何になるのかと思い、むなしさが募るばかりの日々であった。それでも、続けてこられるのは、お訪ねくださる読者いらっしゃること、さらに自分が知らなかったことの多さが分かり、少しでも、ものを知ることの確かさが得られるからでもあるのだが。

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ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(9)普天間基地周辺 2

 普天間基地周辺の航空写真から、今回、立ち寄った場所を書き込んで作成してみた。

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キャンプ瑞慶覧(ずけらん)は、キャンプフォスターとも呼ばれている。赤い線の内側が宜野湾市となる。以下を参考にした。詳しくは「まちのど真ん中にある普天間飛行場」(宜野湾市基地対策課 20163月)http://www.city.ginowan.okinawa.jp/cms/sisei/base/05/2016pamphlet/2016panfumatome.pdf

チヂフチャーガマ(浦添市牧港)
 嘉数の高台から国道330号に戻って、チヂフチャーガマに向かう。ここは浦添市だが、1945年3月23日の空襲以降、宜野湾村嘉数の住民の半数以上が避難したガマである。その後、日本軍にこのガマから追い出され、それでも残った年寄りや幼児を抱えた家族らが米軍の投降の呼びかけにも応ずることが出来ず、5月になって毒ガスが投げ込まれ、多くの犠牲者が出たという。

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鍾乳洞が発達した洞穴で、1986年に市の指定史跡となった

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佐真下(さました)のガマ(宜野湾市真栄原)
 この壕は、総延長153mもある鍾乳洞で、1944年からは、日本軍の陣地壕として使用されていた。1945年3月下旬米軍の空襲が始まると、日本軍は周辺の民家のすべてを焼き払ったという。いま、かつての佐真下集落は、現在一部普天間基地に没収されていて、地名としては真栄原となっている。 壕入口の「産川」は、かつては住民の飲料水ともなっていた。

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手前が「偲 石十三大隊第三中隊之英霊」(1977年)、奥が「昇華之塔」(1966年)

我如古(がねこ)の戦跡
 
我如古 の交差点を何度通ったことだろう。運転手のKさんは、ここ数年、この辺りには来たことがないと言い、まるで街の様相が変わってしまっているとのことであった。細い路地を走らせ、地図や案内書にある壕などを探してくださるのだが、なかなか見つからない。車を降りて、庭先の方や商店の方に尋ねても「知らない」「十数年住んでいるが、聞いたことがない」「もしかしたら・・・」という返事が多いといい、確実な情報が得られないとも。そして、ようやく我如古公民館を見つけ、見当をつけるとができた。この辺りは、もうしっかりと家が建て込み、確かに新しいアパートやマンションも多い。激戦地であったことなど、すでに知る人は少ないのだろうか。公民館の人の話だと、かつての「いのちのツナ」でもあった湧き水の跡や壕などは、直近まで家が建ったり、民家の庭先になったり、その上にすでに家が建ったりしていることもあるそうだ。
 71年前、米軍と日本軍から追い詰められて、逃げ惑い、命を落とした多くの地元の人たち、まだ、遺骨の収集ができないまま、あるいは不発弾を抱えたまま開発が進んでしまったところも多いと聞く。

 今回、たまたま訪ねることができた慰霊碑には、ひたすら祈るしかなく、その非力を詫びるような気持ちであった。少なくとも沖縄戦の実態を少しでも知り、多くの人たちにも知ってもらいたいという思いばかりが先走るのであった。

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戦没者のための慰霊の塔(1989年)

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我如古の辺りは、新しいマンションやアパートが建て込んできているそうだ

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1892年石工と住民総出で整備された井戸で、生活用水、若水、産水として利用されていた集落の聖地でもある

つぎの資料の棒グラフは、「沖縄戦における宜野湾村各字(あざ)人口(1944年10月)と戦没者数である。今回、訪ねることができた嘉数、佐真下、我如古は、戦没者がの割合が高い。

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「沖縄戦戦後70年企画展・宜野湾 戦後の復興とくらし」(宜野湾市立博物館 2015年7月)8頁から

沖縄国際大学ヘリ墜落事件(宜野湾市宜野湾2丁目)

 2004年8月13日、普天間飛行場の米軍海兵隊のヘリコプターが、沖縄国際大学の本館に墜落した。乗員に負傷者は出たが、大学は夏季休暇で被害者はいなかった。事件の処理は、日本の警察・消防・行政・大学の関係者をすべて排除して行われた。日米地位協定に阻まれ事件の全容解明には至っていない。現在、新たに建て直され、焼け残った一本の木だけが残っている。

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宜野湾市立博物館

 慰霊の日に合わせての企画展が開催中なので、寄ってみた。街の模型図で、普天間飛行場の大きさとその存在の深刻さを目の当たりする。戦前の宜野湾村の光景が各種の写真で見ることができ、記録としての写真の重要性も知ることになる。

昨年と今開催中の展示カタログを紹介しておこう。

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緑の灯りが点灯する通りは、並松街道と言われ、首里に続く松並木だった。沖縄戦で焼き払われただけでなく、今は、普天間飛行場の真ん中を縦断している

佐喜眞美術館(宜野湾市上原)

 佐喜眞美術館を見学、ここには丸山位里・俊による「沖縄戦の図」(4×8・5m、1984年)があることで知られている。私もそのくらいのことしか知らなかったが、今夏はルオー展を開催中であった。まず、美術館に迫って、基地のフェンスがあるのに驚かされる。それもそのはず、館長の佐喜眞道夫さんが、大変な苦労をされて、基地の一部を返還させて、1994年11月23日のオープンにこぎつけている(参照『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』(佐喜眞道夫 岩波ブックレット 1914年7月)。

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展望台から見える、基地内の墓所

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美術館を出ると右手に佐喜眞家の亀甲墓がある

普天間宮

 宜野湾市コースの最後は、普天間宮であった。ここにも、大きな洞穴遺跡があって、

戦時中は避難壕として使用されている。その背後に迫っているのは、キャンプ瑞慶覧である。

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彼女らを撮ったわけではないのだが、去り際に振り向いて写したら・・・

 

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2016年7月20日 (水)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(8)普天間基地周辺1

嘉数の戦跡(宜野湾市)

 194541日、比謝川の河口あたりにまず上陸してきた米軍が、嘉数(かかず) の日本軍への攻撃を始め、戦闘となったのが、諸説があるようなのだが、467日から424日までと言われ、沖縄戦の中でも最初の激戦地となった。多くの住民を巻き込んで、704人のうち336人、48%の方々が犠牲になっている(『沖縄の戦跡ブック ガマ』2013年改訂)

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日本軍の地下陣地壕の入り口、手前は、花が散った後の「月桃」

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陣地壕見取り図

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トーチカの入口弾痕の跡が見える

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韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊の塔、軍夫として動員され、亡くなった朝鮮人の386柱が祀られている

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右が「嘉数の塔」、嘉数住民の慰霊塔、正面が「京都の塔」、この地で戦った第62師団に京都出身者が多かったによる。手前の碑文には、戦争の悲惨さや沖縄住民への思いが記されている。他の碑文にはない言及が有名とのこと

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嘉数高台の展望台より, 右上端の緑の部分が普天間飛行場

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嘉数高台の展望台より、正面の緑の部分が普天間基地、その右端にオスプレイが並んでいるのは、肉眼では見えたのだが

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嘉数高台を下るガイドのKさん(右)と

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2016年7月19日 (火)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(7)伊江島4

 伊江島での滞在時間は4時間半、タクシーには3時間弱乗っていたことになる。記録にとどめたいことはたくさんあったように思ったが、メモや記憶が追い付かない年齢となったか。

芳魂の塔・公益質屋跡

 つぎに車を停めたのが、「芳魂之塔」で、伊江中学校の隣になる。伊江島3500人の慰霊の塔で、墓名碑は、「平和の礎」と同じように黒御影で、ここは縦書きとなっていた。

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  そのすぐ近くには、「公益質屋跡」という戦跡があると、写真などでも見たことがあるのだが、よく理解できていなかった。そもそも「公益質屋」というのは、昭和初期、市町村、社会福祉法人によって設立された庶民金融機関で、伊江島では村役場が管理運営していた。蔵のように頑丈に作られていたので、激しい戦闘による砲弾の跡を残しながらも、その外形をとどめていたという。当時の地上戦を思わせる戦跡は、今ではここくらいしか見られないといい、村の文化財として保存されている。

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マーガ
 ここは、運転手さんが車を停めてくれたところだ。少し日照りが続くと、水不足に見舞われるのが島の常だったという。大いなる井戸、水汲み場であったところで、今は、巨樹のかげになって、実に涼しげな公園になっていた。手押しポンプに手をかけると、少しぬるい水が出てきた。私たちも熱中症予防で「こまめに」ペットボトルを口にし、何本目だったか。本当にサイクリングなどにしなくてよかった。第一、人っ子ひとり通らない道に迷っただろうし、この日差しでは30分も持たなかっただろう。

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被爆慰霊碑
 出発点の港に戻ってきた。港の少し手前の公園の中にある「被爆慰霊碑」というのは、「被曝」ではなく、「被爆」だったのだ。敗戦後、米軍は、沖縄戦で未使用の爆弾を北海岸に集積し、それを上陸用舟艇で、爆弾を島外に運び出す作業を行っていた。爆弾は水納島(みんなじま)との間の海中に投棄していた。194886日、その船が伊江港の桟橋を離れようとしたとき、荷崩れで、大爆発となったのだ。桟橋は別の連絡船が着いたばかりで下船の客、出迎えの人でごった返していて、102人もの犠牲者を出した事故となった。沖縄戦を生き延びた村民も多く、米軍に補償を請求したが、わずかな見舞金が出されただけだったという。この惨事には、言葉も出ないほどのくやしさを、いまの私さえ感じるほどである。

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 伊江島の島めぐりもこれで終わった。地図を見ると、まだ回り切れないところもあった。フェリー乗船までお茶でもと思って探すが店がない。お土産さんのベンチでソフトクリームとサイダーのおいしかったこと。伊江島のお土産は?ホテルで食しましょうとパッションフルーツ5個入り270円をまず買った(なんと、夕方久茂地のスーパーでほぼ同じ5個入りが720円で売っていた)。また、落花生が特産というが、千葉県の人間には今一つ。

 少し、時間にゆとりをもって、バス停に向かった。木陰がまったくないので、わずかなバスストップの表示板や植え込みの陰で、二人連れと離れてお一人とが待っていた。あと一緒にフェリーを降りた男性とまた出会い、それに私たちだったのだが、このあと大変なことになったのである。

 なかなかバスがやってこず、夫は営業所に電話すると、「少し渋滞しているかもしれないが、こちらではわからない」という返事。それでも20分近く遅れてやってきた。バスの入り口近くにいた男性と私たちが乗り込むと、なんと、私が補助席の最後で、「乗れません」と断られているのだ。先に待っていた三人の女性が乗れなかったのだ。迷っているうちにバスは発車、なんか申し訳ないような気持ちだった。それにしても、車内は、皆さん海水浴帰りの雰囲気の人ばかりであった。乗り損ねた人たちは、那覇直行便には間があるので、路線バスで、名護まで行かれたのだろうかと心配であった。

 

 

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ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(6)伊江島3

城(グスク)山、中腹の天皇の歌碑
 つぎに向かったのは、城山である。途中、「基地の滑走路が見えるところはあるんですか」と尋ねると、運転手さんは「そうだった、過ぎてしまった、戻りますか」とのことだった。時間も気になるところ、つぎへということで、城山の中腹までやってきた。駐車場もある広場は、展望台にもなっていて、確かに、私の目当ての天皇の歌碑もあった。正確に言えば、天皇の皇太子時代の「琉歌」の歌碑と言い直さねばならない。

・広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事(明仁皇太子)

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「皇太子殿下皇太子妃殿下御来村記念碑」(記念碑建立期成会)、昭和51年1月17日とある。

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広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事

 明仁皇太子夫妻の最初の沖縄訪問は、1975年7月の海洋博開会式出席のためであった。その折、ひめゆりの塔における火炎瓶事件が発生している。伊江島へは、翌年1月17日、海洋博閉会式に出席した折に立ち寄っている。歌碑は、「皇太子殿下・皇太子妃殿下御来村記念碑」と並んで立つ、小ぶりのものだった。その年の4月29日に建立されていた。

 伊江島といえば、1945323日から米軍の空襲が始まり、416日に上陸を開始、住民も戦闘に巻き込み、420日には壊滅状態となり、島の住民の半分にあたる1500人、兵士が2000人、約3500人が犠牲になった島である。住人は、ただちに慶良間島や大浦崎収容所に強制移住させられた。島に戻ってきた矢先、1955年、米軍は基地、射爆撃場建設のため、まさに「銃剣とブルドーザー」による土地の強制収用がはじめられた苛烈な歴史を持つ。前述の阿波根昌鴻らを中心とする伊江島の土地を守る運動は、まさに血のにじむ闘争であった。現在も、米軍基地は島の35%以上を占めて言うのは前述のとおりである。

 皇太子夫妻の伊江島訪問当時、過剰警備についての地元紙の報道はあるが、来村記念碑や歌碑建立の報道は見当たらない。そして、『伊江村史』や役場が発行する資料にも、詳しく記載されていない(「レファレンス事例詳細」沖縄県立図書館提供、2011年11月)。今回、島で入手した観光案内パンフなどにも、一切言及がないし、地元の各地域に伝わる民謡の「歌碑巡り」でも、もちろん対象とはなっていない。皇太子夫妻の来村には、当時を知っている人々にとっては、苦々しく、複雑な思いがあったにちがいなく、若い人は、もはや関心の対象ではないのかもしれない。

 沖縄本島には、もう一つ天皇の歌碑、万座毛から恩納岳を望んだ天皇の歌碑があると聞いた。201211月全国豊かな海づくり大会の折の短歌である。

・万座毛に 昔をしのび 巡り行けば 彼方恩納岳 さやに立ちたり

 同時に、前日訪ねた瀬長亀次郎の資料館「不屈館」に展示されていた、亀次郎夫人のフミの短歌「歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず(瀬長フミ)」を思い出していた。

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城山中腹展望台より

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城山中腹展望台より

ヌチドウタカラ(命どぅ宝)の家・反戦平和資料館

 団結小屋の項でも触れた阿波根昌鴻が、戦中戦後に収集した資料が展示された反戦資料館である。反戦・反基地運動で使用された様々な品々、記録写真などが集められている。その雑然の中に何を読み取るのか。見学は、館内の暑さと汗にも耐えつつ、ファイルを見ての館のガイドの方も大変である。

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庭園の片隅に、彫刻家金城実による阿波根昌鴻像

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2016年7月18日 (月)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(5)伊江島2

団結小屋

村営のバス路線があるらしい。北上すると西崎区公民館を経て団結小屋のバス停を入ったところで下車。そこには、いかにも頑丈そうな小屋があった。もちろん今は無人で、外壁には、大きな文字で、伊江島の土地を守る会、そしてその運動の中心だった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう/19012002年)からのメッセージが書かれていた。1955年、この真謝の集落は、西崎と並んで、米軍の銃剣とブルドーザー、焼き払いなどによって農地の強制収用、住民排除が展開された地域でもある。その様子は阿波根の証言による『米軍と農民―沖縄伊江島』(岩波新書 1973年)に詳しい。収用後は爆撃演習が日常となった地である。古いながらも『教えられなかった戦争・沖縄戦―阿波根昌鴻・伊江島のたたかい』という記録映画が、1998年のキネマ旬報ベストテンで文化映画の部門で1 位を受賞しているそうだが見てみたい。また、報道によれば、佐々木愛が代表の文化座で、阿波根昌鴻と瀬長亀次郎の若き日の生き方を描く「命どぅ宝」という劇の5来年の上演を目指しているそうだ(「<非暴力精神>劇に」『琉球新聞』2016713日)。若い人にぜひ見てもらいたいと思った。 

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米軍演習地ゲート

どのゲートにあたるのかがわからないのだが、この米軍海兵隊の基地には常駐の部隊はいない。ヘリコプター、ハリアーパットも擁し、オスプレイの離着陸訓練、パラシュートの降下訓練が日常的になされているそうだ。フェンス外の滑走路を含む伊江島補助飛行場は、周辺は黙認耕作地なので、「地主は結構な地代をもらっているはずだよ。1千万以上の農家もざらにいるさ」と、運転手さんは話していた。ところが、翌日、普天間基地周辺をガイドされた運転手Kさんは、こちらが尋ねたわけでもないのに、伊江島の話に及んだとき、「伊江島の黙認耕作地の地主さんは、地代をもらうといっても6割以上は年間100万円以下ですからね」と語っていたのだ。家に戻って調べたところによると、伊江島補助飛行場用地の国・県・市町村所有地は801ヘクタールの4分の1ほどで、613ヘクタールは、民有地で、地主が1872人、という。防衛省が支払っている年間賃借料は15500万円(20133月現在、沖縄県基地対策課)というから単純計算すると、地主一人平均80.4万円、ということになり、Kさんの数字に納得するのだった。1000万以上という地元の運転手さんの言い方にはかなり問題あり、と見たのだった。

しかし、一方、当たり前なのかもしれないが、基地内の私有地が、「フェンス内(黙認耕作地ではありません)なので、絶対に返却されることはありません。賃借料は値上がりしています」などの売り文句で、普通に売買されていることも知った(ちなみにある不動産店の今年6月の実績で、1674㎡が885万円とある)。投資としても有利との説明があるほどだ。

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湧出(わじー)展望台、リリーフィールド

ときどき見える牧場で飼われているのは、ブランドの「伊江牛」だそうだ。島には人口の倍くらいの1万頭くらいはいるだろう、とのことだった。

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つぎに下車したのは島の北海岸を見下ろす「湧出」展望台だった。私たちの予定にはなかったところだったが、島の名所だというだけあって、素晴らしい展望だった。続いてと、案内されたのはリリーフィールド、ゴールデンウィークまでは、ユリの見ごろで、様々なイベントが開催され、大変な人出だそうだ。今はうちひしがれているユリがその姿をさらしていた。

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岩場の中央の色の違ったたまり水が湧き水だそうだ

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中央に見えるのが舞台

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地域、集落ごとの民謡の立派な歌碑をあちこちで見ることができる。「仲村柄節」の碑は、リリフィールドのそばに、湧出のそばには、「こてい節」の碑があった。

 

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2016年7月17日 (日)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(4)伊江島1

伊江島へ

今回の沖縄行きの目的の一つに、伊江島行きがあった。島に渡ったのが、慰霊の日の二日前だった。。

那覇から高速バスで北上、明日訪ねるつもりの嘉数が意外と近い。途中で満席となり、多くの乗客が取り残されたはずである。なかには「アリエナーイ」と叫んでいた若い女性たちの声を振り切っての発車であった。伊芸サービスエリア、世冨慶(よふけ)と海岸線に沿い名護市役所に着くと、二人ほど下車。沿線には採石・砕石工場などがつつく。2時間弱でフェリーの発着所のある本部(もとぶ)港に着いたのが1045分だった。降りた乗客は、意外と少なく、私たちを含めて数人だった。バスの路線図を見ると、この先の海洋博(1975年)跡地の公園や美ら海水族館があり、そのあと先にはリゾートホテルごとに停留所がある感じで、さらに今帰仁(なきじん)城跡を経て、終点の運天港に至る。乗客のほとんどが中国人、台湾人で、彼らは、いったい、どこへ向かおうとしているのだろう。

伊江島へは、30分の船旅である。デッキや甲板に出ると海風は心地よいが、日差しが強い。青空に、刷毛ではいたような白い雲、前方かなたには、伊江島の中央に突起する城(ぐすく)山が見え、振り返れば、恩納岳の山並みが遠のいていく。

島めぐりはタクシーと決めていたが、船内で案内のパンフレットを読んでいた夫が、サイクリングがいいかもしれないと、突然の提案である。冗談でしょ、この暑さで、熱中症にかかってしまう、加えて私は、風邪の後遺症で咳も出るし、無理、むり、ムリと、必死の説得に思いとどまり、ホっとするのだった。

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フェリー「いえじま」から伊江港を望む

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伊江村商工会発行のパンフレットから。沖縄本島北部、本部半島から9キロの洋上にある、周囲22.4キロの離島。このパンフレットからは、島民の半分1500人、兵士2000人が犠牲となった地上戦や現在も島の3分の1以上が米軍基地であることが伺えない。

 伊江港には、11時半着、少し早いが、伊江港ターミナルの2階、伊江漁協直営の海人食堂で海鮮丼をいただいた。



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海鮮丼(小)500円でした

  タクシーの運転手さんには、回ってほしいところをマーカーした地図を渡し、ルートはもちろんお任せした(1時間3600円ということだった)。ただ、どうしても訪ねたかったので、「城山に天皇の歌碑がありますよね」と念押しをすると、「たしか、あったかも知れない」と気のない返事だった。城山は、172m、その中腹に、いまの天皇の皇太子時代の琉歌の歌碑があるはずなのである。運転手さんは、この職について5年とのこと、土地の言葉らしくて、少々聞き取りにくい説明に戸惑うこともあった。

島内の地図だが、少し手を加えた。2本ある滑走路の西は、米軍基地内であり、演習地と合わせて島の面積の35%以上になる。Img170_2

米軍飛行場の周辺はもちろん米軍基地で、周辺の多くは、「黙認耕作地」となっており、タバコやキビ畑、牧草地が続く。

アーニーパイル記念碑

県道181号線、海岸沿いを走って最初に下車したのが、アーニーパイル記念碑だった。アメリカの名従軍記者アーニーパイル(19001944)、アーニーパイル劇場(GHQにより接収された東京宝塚劇場)の名を知っている程度だった。伊江村のHPによれば、この伊江島で1944418日、日本軍の機関銃弾に撃たれた。416日に上陸アメリカ第305連隊に従軍していたというから、その直後ということになる。「同記者は、戦場にあっても一般の兵士の不安や怒り、喜びや悲しみを愛情をもって報道しつづけた。 遺体は粗末な木製の十字架の下に埋葬されていたら、後に沖縄本島の陸軍墓地、そして、ホノルルの国立墓地へ移された」とも。今は、キビやたばこの畑に囲まれたなかで、のどかにも見える記念碑だった。そして、この碑は、2000年に彼の生誕100年記念、平和の誓いとして、伊江村が建立したという。

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ニィヤティヤガマ(千人ガマ
  
県道わきの案内板の横の階段を下りていくと、洞が広がり、様々に浸食された岩の間からは、光が差し入り、海が見える。日本軍が
1942年から飛行場を建設したときに、動員された兵士、徴用人夫、住民らの避難場所として使用された。地上戦においては、防空壕として使用され、多くの命を救ったガマでもある。海からも、地上からも発見しにくい場所であることがわかる。

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2016年7月16日 (土)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(3)波の上宮の天皇の歌碑

 

対馬丸記念館から旭ヶ丘公園を抜けると波の上宮の大鳥居に出る。米軍の戦火で全滅したが、この大鳥居だけが残ったという。

ここには、昭和天皇と明治天皇の歌碑があるはずである。参道の短い階段を上がると直ぐ左手に、「折口信夫(釈迢空)先生の歌碑(歌碑建設期成会 )」(一九八三年建立)の表示があって、木札に短い紹介もあり、歌の出典は『遠やまひこ』(一九四八年)とあった。碑面は、万葉仮名で、つぎのように読めた。

・なはのえに はらめきすぐる ゆうたちは さびしき船を まねくぬらしぬ

                                            (釈迢空) 

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  続いて、上段が昭和天皇晩年の歌で、下段が「おことば」になっている碑があった。

・思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(昭和天皇)

「おことば」は、病気のため沖縄国体出席を断念した天皇の代わりに、一九八七年一〇月二四日、皇太子が代読した「おことば」の一部であった。

「さきの大戦で戦場となった沖沖縄が、島の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。・・・」

さらに、「健康が回復したら、できるだけ早い時期に訪問したいと思います。皆には、どうか今後とも相協力して平和で幸せな社会をつくりあげるため、更に協力してくれることを切に希望します」と結ぶ一文であった。昭和天皇にあっては、太平洋戦争末期、沖縄捨て石作戦により地上戦となることを放置し、多大な犠牲をもたらしたこと、戦後にあってはいわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄の米軍基地が固定化した、といういきさつを考えれば、沖縄に、いわば昭和天皇を顕彰する歌碑など立てられるはずもないと思うのだが、神社だからこそだったのだろう。

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複雑な思いで、参道を進むと、目に入った銅像は、明治天皇ということだった。その背後には、弓なりの壁がめぐらされ、左右に縦長の色紙がはめられているような形で歌が彫られていたのである。つぎのような二首であった。

・たらちねの親には仕へて まめなるが 人の誠のはじめなりけり(明治天皇)

・わが国は 神の末なり神祭る 昔のてふり 忘るなよゆめ(明治天皇)

  下の写真の右側が「たらちねの・・・」であり、左が「わが国はの・・・」である。二首とも教訓的な歌で、沖縄とは直接関係がない。もちろん明治初期に、天皇が進めた「琉球処分」に触れるような歌があったのか、選べなかったのか、私には、まだわからない。この二首は、明治百年(一九六八年)を期して計画され、一九七〇年に建立されていることがわかった。

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  ちなみに1872年、琉球藩設置にあたり「下賜」されたのがつぎの2首であった。沖縄はこれ以降過酷な決断を迫られながらも抵抗するが、明治政府は武力もって首里城明け渡しと廃藩置県を強行した。

・けふさらに久しき契むすひてよいはにかかる滝の白糸(「水石契久」)

  (明治天皇)

・立ちならふ庭の梢のはつ紅葉いよいよそはん色をこそまて(「初紅葉」)

  (明治天皇)

  明治政府による皇民化教育が進められるなか、一八九〇年、琉球八社の中心的役割を果たす波の上宮が「官幣小社」となり、神道布教の拠点ともなっていた。

この日出会った参拝客、やはり、中国語を話す若い人たちが多いが、もちろん、これらの歌碑には、関心を示さない。

 

 

 

 

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ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか

不屈館から、数分のところに対馬丸記念館はある。これまで、太平洋戦争末期、沖縄から本土に疎開する多くの学童が乗っていた対馬丸がアメリカの潜水艦に撃沈され、多くの犠牲者を出したこと、遭難当初、箝口令が布かれ、多くの謎が残されたままになっていたこと、数十年後に海底に船体が発見されたが、引き揚げ不可となって、記念館が建てられたことなど、断片的な知識しか持ち合わせていなかった。

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入館して、多くの展示や資料によって、さまざまな衝撃の事実を知ることになる。まずその犠牲者の多さに驚いた。学童ばかりでなく、一般の疎開者も多く、生存者が極端に少なかったことだった。

以下は、記念館の基礎データにより作成した表である。

対馬丸の乗船者(カッコ内は氏名判別者数)                

  

  疎開者(学童集団疎開/一般疎開) 

1,661

 

(学童  783

 

(訓導/世話人30

 

(一般疎開626  

  船員   86名(24 
 船舶砲兵隊員  41名(21  
 合 計

1,788名(1,484)  

(平成27822日再改訂)

 

救助された人々                                                             

漁船・哨戒艇による救助された疎開者    

 

177

 
 

船員・砲兵

 
 

82

 
 

奄美大島に漂着して救助された人

 
 

21

 
 

合 計 

 
 

280

   
対馬丸記念館の基本データより作成。いずれも確かな数字は不明とされています。詳います。詳しくは、 

http://tsushimamaru.or.jp/?page_id=72

 

 19447月、サイパン玉砕後、沖縄の老・幼・女子は、県外に疎開するよう指示された。対馬丸には、集団疎開の学童が783名も乗船していた。那覇を出港して27時間後の1944822日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号の魚雷に撃沈された。1788名のうち助けられたのは、280名。幾昼夜も筏で漂流し、途中で命尽きた人々も多かった。わずかな生存者の証言がパネルや映像で語られ、痛切の何物でもなかった。2隻の護衛艦は、なぜ、きちんとした捜索、救助をしなかったのか、というのが率直な思いだった。
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順路の2階から吹き抜けの遺影と遺品の展示室を見る

 

 2004822日、対馬丸記念館はオープンされるが、鹿児島県悪石島沖の海底に船体が発見されてから7年、撃沈されてから60年になる。船体が発見され、引き揚げが検討されたが不可となり、記念館建設に至った経緯がある。当初は遺影や遺品は少なかったが、あわせて証言なども徐々に収集され、館内は、整理され、とても分かりやすい展示に思えた。2階から吹き抜け部分のスクリーンに映写される「海よ、いのちよ。」は3人の子供を失った母親の証言がもとになっていた十数分の動画だった。また帰宅後、記念館のHPから8分ほどのアニメ「ぼくは対馬丸に乗った~声の絵本」、その他の証言や映画も見ることができるのを知った。

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 2004年記念館建設までの道のり

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小桜の塔、1954年、愛知県の有志の方々が建立、船と鳩のレリーフの間の白い額の中には、山崎敏夫(愛知県立女子短期大学教授)による以下の「弔歌」が刻まれている。いのちみじかく青汐の花と散りつゝ過ぎゆけり 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ」

  記念館を出て、「小桜の塔」への順路を進む。この塔は、その成り立ちがかなり特異で、愛知県のすずしろ子供会の保護者たちが中心になって、愛知県内有志の寄付などと敷地の隣の護国寺住職の尽力により、沖縄の地に学童疎開船の犠牲者鎮魂のために作られたという。195455日こどもの日に除幕された、立派な慰霊碑である。
 
さらに、この近くには、「海鳴りの像」という母子像の彫刻の下には、対馬丸のほかに事故や米軍の攻撃によって27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んでいる。その多くは、嘉義丸、湖南丸、宮古丸のような定期船や、富山丸のような軍隊輸送船であった。これらの犠牲者の名が、船の名前ごとに記されている墓名碑であった。いまはともに「旭ケ丘公園」に他の慰霊碑とともに静かに市内を見下ろかのように点在しており、日常的にはお参りする人も少ないのかもしれない。

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赤城丸、嘉義丸、湖南丸などの船名が見える

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旭ヶ丘公園入口から「小桜の塔」を望む

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2016年7月13日 (水)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(1)「不屈館」~「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ

Dscn0229                           那覇空港は自衛隊と共用である

Dscn0232            ゆいレール、出発進行

 

 那覇空港から市内のホテルまでは、例のゆいレールで向かった。荷物を置いて街に出た。夕方というのにともかく日差しが強い。地図を見ながら、県庁前のバス停で待っていると、「どちらへ」とやはり声をかけてくれる。ありがたいことだった。

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連れ合いは、数年前、すでに訪ねたことがある「不屈館―瀬長亀次郎と民衆資料」へと向かう。バスひと駅で下車、ともかく暑い。若狭小学校を右に見て左に折れる。目の前は、海浜公園になっていた。冷たいお茶をごちそうになって、館内を一巡り、亀次郎の不屈精神も去ることながら、妻のフミの足跡を、今回初めて知ることになる。高等女学校を出てから、働きながら助産婦の資格をとり、 1935年結婚、亀次郎の戦時下での労働運動による投獄、戦後の米軍施政下では沖縄人民党への弾圧、那覇市長追放など、いまの私たちには想像できない露骨な弾圧にも負けない活動を支え、商店を営み、子を育て、1965年からは、自らも那覇市の市議を4期務めている。1981年勇退後は『新日本歌人』にも入会、作歌を続けていたことも知った。亀次郎は、1987年、脳梗塞で倒れ、7期務めた衆議院議員を勇退し、療養生活を経て、200194歳で亡くなっている。一方、フミは、20106100歳で亡くなった。当時の翁長雄志那覇市長から長寿のお祝いを受けている写真も展示されていた。次女の内村千尋館長には、閲覧コーナーの資料のコピーもムリにお願いした次第である。

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Dscn0240            写真中央の2首
     ・若夏のまぶしき朝に大輪のアマリリス見つめる夫と共に(瀬長フミ)
      ・デモ隊をテレビに見る目輝きて胸中燃えるか病床の夫(瀬長フミ)

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選挙報道おかしくなかったか?NHKへ電話する

いつも当ブログをお訪ねくださり、ありがとうございます。やや急ぐことがあって更新ができず、自分でもかなり焦っていました。

参院選の選挙速報も、その後の新聞なども、朝刊を読まずじまいの日が続いた。それにしても、<ながら>で見るテレビも告示後の選挙報道は、報道量もめっきり減って、内容も自粛に自粛を重ねた、<戦況>報道まがいが多く、政策論議が実らなかった。NHKのように、政府広報に徹したところもあった。

NHKのニュース番組を見ていると、710日の投票日が近づくと、週の後半から、選挙報道は皆無に近い状態になった。この異変に気付いて、NHKのふれあいセンターに問い合わせると、オペレーターに代わって、電話口に出た“上司”は「投票日直前の選挙報道は、投票結果に影響するから控えています」(?!)というではないか。一瞬耳を疑ったのだが、どうも冗談ではないらしい。

「その代わりに、土曜日の夜は、特番で『党首の選挙戦に密着』をやりますよ」という。毎度おなじみの「党首密着」だ。「応援演説の途中でのランチの中身が何だったとか、移動中の車中の電話で情報収集している様子とか、はては、家庭内にカメラを入れて、奥さんとの会話を拾うとかいう定番なのでしょう。あれでは、党首が何を訴えていて、何が論点で争点なのかわかりませんね」というと「そうですね」という。党首が車上から声を張り上げて、聴衆や支援者と握手をしているところを映されても、テレビの視聴者としては、判断の材料を得ることはできない。しかも、その党首の映像は、国会の議員数によって、時間が割り振りされているのである。これって、公平? 当然ながら、弱小、泡沫政党は当然切り捨てられている。時間配分の公平など、報道にあってはナンセンスだし、日常のNHKニュースでは、安倍首相の映像や政府発表にやたらに時間をかけているという日常を思えば、“公平”などではなく、まさに偏向といわざるを得ないだろう。

 選挙結果が確定すると、急に、今後の政治課題は、経済政策と憲法改正問題ということで、子細に解説を始めたりする。これって、逆ではないのか。投票前にこそ、報道すべき内容ではなかったのか。

 政府に不都合な報道は避けて、殺人事件や災害、宇宙・ロボットネタ、南シナ海の島の実効支配、北朝鮮のミサイルなどが、こと細かく流され、あるいは、突然、緊急性のない海外ニュースに振られることもある。

 暑さに加え、当分、私のイライラは、おさまりそうにもない。

 

 

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