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2016年7月16日 (土)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(3)波の上宮の天皇の歌碑

 

対馬丸記念館から旭ヶ丘公園を抜けると波の上宮の大鳥居に出る。米軍の戦火で全滅したが、この大鳥居だけが残ったという。

ここには、昭和天皇と明治天皇の歌碑があるはずである。参道の短い階段を上がると直ぐ左手に、「折口信夫(釈迢空)先生の歌碑(歌碑建設期成会 )」(一九八三年建立)の表示があって、木札に短い紹介もあり、歌の出典は『遠やまひこ』(一九四八年)とあった。碑面は、万葉仮名で、つぎのように読めた。

・なはのえに はらめきすぐる ゆうたちは さびしき船を まねくぬらしぬ

                                            (釈迢空) 

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  続いて、上段が昭和天皇晩年の歌で、下段が「おことば」になっている碑があった。

・思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(昭和天皇)

「おことば」は、病気のため沖縄国体出席を断念した天皇の代わりに、一九八七年一〇月二四日、皇太子が代読した「おことば」の一部であった。

「さきの大戦で戦場となった沖沖縄が、島の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。・・・」

さらに、「健康が回復したら、できるだけ早い時期に訪問したいと思います。皆には、どうか今後とも相協力して平和で幸せな社会をつくりあげるため、更に協力してくれることを切に希望します」と結ぶ一文であった。昭和天皇にあっては、太平洋戦争末期、沖縄捨て石作戦により地上戦となることを放置し、多大な犠牲をもたらしたこと、戦後にあってはいわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄の米軍基地が固定化した、といういきさつを考えれば、沖縄に、いわば昭和天皇を顕彰する歌碑など立てられるはずもないと思うのだが、神社だからこそだったのだろう。

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複雑な思いで、参道を進むと、目に入った銅像は、明治天皇ということだった。その背後には、弓なりの壁がめぐらされ、左右に縦長の色紙がはめられているような形で歌が彫られていたのである。つぎのような二首であった。

・たらちねの親には仕へて まめなるが 人の誠のはじめなりけり(明治天皇)

・わが国は 神の末なり神祭る 昔のてふり 忘るなよゆめ(明治天皇)

  下の写真の右側が「たらちねの・・・」であり、左が「わが国はの・・・」である。二首とも教訓的な歌で、沖縄とは直接関係がない。もちろん明治初期に、天皇が進めた「琉球処分」に触れるような歌があったのか、選べなかったのか、私には、まだわからない。この二首は、明治百年(一九六八年)を期して計画され、一九七〇年に建立されていることがわかった。

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  ちなみに1872年、琉球藩設置にあたり「下賜」されたのがつぎの2首であった。沖縄はこれ以降過酷な決断を迫られながらも抵抗するが、明治政府は武力もって首里城明け渡しと廃藩置県を強行した。

・けふさらに久しき契むすひてよいはにかかる滝の白糸(「水石契久」)

  (明治天皇)

・立ちならふ庭の梢のはつ紅葉いよいよそはん色をこそまて(「初紅葉」)

  (明治天皇)

  明治政府による皇民化教育が進められるなか、一八九〇年、琉球八社の中心的役割を果たす波の上宮が「官幣小社」となり、神道布教の拠点ともなっていた。

この日出会った参拝客、やはり、中国語を話す若い人たちが多いが、もちろん、これらの歌碑には、関心を示さない。

 

 

 

 

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