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2016年7月19日 (火)

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(6)伊江島3

城(グスク)山、中腹の天皇の歌碑
 つぎに向かったのは、城山である。途中、「基地の滑走路が見えるところはあるんですか」と尋ねると、運転手さんは「そうだった、過ぎてしまった、戻りますか」とのことだった。時間も気になるところ、つぎへということで、城山の中腹までやってきた。駐車場もある広場は、展望台にもなっていて、確かに、私の目当ての天皇の歌碑もあった。正確に言えば、天皇の皇太子時代の「琉歌」の歌碑と言い直さねばならない。

・広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事(明仁皇太子)

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「皇太子殿下皇太子妃殿下御来村記念碑」(記念碑建立期成会)、昭和51年1月17日とある。

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広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事

 明仁皇太子夫妻の最初の沖縄訪問は、1975年7月の海洋博開会式出席のためであった。その折、ひめゆりの塔における火炎瓶事件が発生している。伊江島へは、翌年1月17日、海洋博閉会式に出席した折に立ち寄っている。歌碑は、「皇太子殿下・皇太子妃殿下御来村記念碑」と並んで立つ、小ぶりのものだった。その年の4月29日に建立されていた。

 伊江島といえば、1945323日から米軍の空襲が始まり、416日に上陸を開始、住民も戦闘に巻き込み、420日には壊滅状態となり、島の住民の半分にあたる1500人、兵士が2000人、約3500人が犠牲になった島である。住人は、ただちに慶良間島や大浦崎収容所に強制移住させられた。島に戻ってきた矢先、1955年、米軍は基地、射爆撃場建設のため、まさに「銃剣とブルドーザー」による土地の強制収用がはじめられた苛烈な歴史を持つ。前述の阿波根昌鴻らを中心とする伊江島の土地を守る運動は、まさに血のにじむ闘争であった。現在も、米軍基地は島の35%以上を占めて言うのは前述のとおりである。

 皇太子夫妻の伊江島訪問当時、過剰警備についての地元紙の報道はあるが、来村記念碑や歌碑建立の報道は見当たらない。そして、『伊江村史』や役場が発行する資料にも、詳しく記載されていない(「レファレンス事例詳細」沖縄県立図書館提供、2011年11月)。今回、島で入手した観光案内パンフなどにも、一切言及がないし、地元の各地域に伝わる民謡の「歌碑巡り」でも、もちろん対象とはなっていない。皇太子夫妻の来村には、当時を知っている人々にとっては、苦々しく、複雑な思いがあったにちがいなく、若い人は、もはや関心の対象ではないのかもしれない。

 沖縄本島には、もう一つ天皇の歌碑、万座毛から恩納岳を望んだ天皇の歌碑があると聞いた。201211月全国豊かな海づくり大会の折の短歌である。

・万座毛に 昔をしのび 巡り行けば 彼方恩納岳 さやに立ちたり

 同時に、前日訪ねた瀬長亀次郎の資料館「不屈館」に展示されていた、亀次郎夫人のフミの短歌「歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず(瀬長フミ)」を思い出していた。

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城山中腹展望台より

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城山中腹展望台より

ヌチドウタカラ(命どぅ宝)の家・反戦平和資料館

 団結小屋の項でも触れた阿波根昌鴻が、戦中戦後に収集した資料が展示された反戦資料館である。反戦・反基地運動で使用された様々な品々、記録写真などが集められている。その雑然の中に何を読み取るのか。見学は、館内の暑さと汗にも耐えつつ、ファイルを見ての館のガイドの方も大変である。

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庭園の片隅に、彫刻家金城実による阿波根昌鴻像

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