ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか
不屈館から、数分のところに対馬丸記念館はある。これまで、太平洋戦争末期、沖縄から本土に疎開する多くの学童が乗っていた対馬丸がアメリカの潜水艦に撃沈され、多くの犠牲者を出したこと、遭難当初、箝口令が布かれ、多くの謎が残されたままになっていたこと、数十年後に海底に船体が発見されたが、引き揚げ不可となって、記念館が建てられたことなど、断片的な知識しか持ち合わせていなかった。
入館して、多くの展示や資料によって、さまざまな衝撃の事実を知ることになる。まずその犠牲者の多さに驚いた。学童ばかりでなく、一般の疎開者も多く、生存者が極端に少なかったことだった。
以下は、記念館の基礎データにより作成した表である。
対馬丸の乗船者(カッコ内は氏名判別者数)
疎開者(学童集団疎開/一般疎開) |
1,661名 (学童 783) (訓導/世話人30) (一般疎開626) |
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船員 | 86名(24) | ||||||||
船舶砲兵隊員 |
41名(21) |
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合 計 | 1,788名(1,484) |
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(平成27年8月22日再改訂) 救助された人々
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1944年7月、サイパン玉砕後、沖縄の老・幼・女子は、県外に疎開するよう指示された。対馬丸には、集団疎開の学童が783名も乗船していた。那覇を出港して27時間後の1944年8月22日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号の魚雷に撃沈された。1788名のうち助けられたのは、280名。幾昼夜も筏で漂流し、途中で命尽きた人々も多かった。わずかな生存者の証言がパネルや映像で語られ、痛切の何物でもなかった。2隻の護衛艦は、なぜ、きちんとした捜索、救助をしなかったのか、というのが率直な思いだった。
順路の2階から吹き抜けの遺影と遺品の展示室を見る
2004年8月22日、対馬丸記念館はオープンされるが、鹿児島県悪石島沖の海底に船体が発見されてから7年、撃沈されてから60年になる。船体が発見され、引き揚げが検討されたが不可となり、記念館建設に至った経緯がある。当初は遺影や遺品は少なかったが、あわせて証言なども徐々に収集され、館内は、整理され、とても分かりやすい展示に思えた。2階から吹き抜け部分のスクリーンに映写される「海よ、いのちよ。」は3人の子供を失った母親の証言がもとになっていた十数分の動画だった。また帰宅後、記念館のHPから8分ほどのアニメ「ぼくは対馬丸に乗った~声の絵本」、その他の証言や映画も見ることができるのを知った。
2004年記念館建設までの道のり
小桜の塔、1954年、愛知県の有志の方々が建立、船と鳩のレリーフの間の白い額の中には、山崎敏夫(愛知県立女子短期大学教授)による以下の「弔歌」が刻まれている。 「いのちみじかく青汐の花と散りつゝ過ぎゆけり 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ」
記念館を出て、「小桜の塔」への順路を進む。この塔は、その成り立ちがかなり特異で、愛知県のすずしろ子供会の保護者たちが中心になって、愛知県内有志の寄付などと敷地の隣の護国寺住職の尽力により、沖縄の地に学童疎開船の犠牲者鎮魂のために作られたという。1954年5月5日こどもの日に除幕された、立派な慰霊碑である。
さらに、この近くには、「海鳴りの像」という母子像の彫刻の下には、対馬丸のほかに事故や米軍の攻撃によって27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んでいる。その多くは、嘉義丸、湖南丸、宮古丸のような定期船や、富山丸のような軍隊輸送船であった。これらの犠牲者の名が、船の名前ごとに記されている墓名碑であった。いまはともに「旭ケ丘公園」に他の慰霊碑とともに静かに市内を見下ろかのように点在しており、日常的にはお参りする人も少ないのかもしれない。
赤城丸、嘉義丸、湖南丸などの船名が見える
旭ヶ丘公園入口から「小桜の塔」を望む
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