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2016年9月21日 (水)

[雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(2)

盛りだくさんだったシンポジウム、時間が足りなかったのでは!

シンポジウムは以下の通りだったが、どれも魅力的なテーマであったが、時間が足りなかったのでは。

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 記念シンポジウム日程:918() 午後13:0017:00

シンポジウム会場:3号館305号室

 司会:川崎賢子(日本映画大学)

 第一部:

①山本武利(早稲田大学名誉教授)「20世紀メディア研究所と占領期研究」

②ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学)「新世紀における占領期再考」

 Rethinking Occupation History in the New Millennium

 通訳:鈴木貴宇(東邦大学)

③宗像和重(早稲田大学)「福島コレクションの由来」

 第二部:

④石川巧(立教大学) 「カストリ雑誌研究の現在」

⑤三谷薫(出版美術研究家)「占領期の少年少女雑誌:絵物語を中心に」

⑥土屋礼子(早稲田大学)「占領期の時局雑誌」

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 第一部の山本さんは、プランゲ文庫のデータベースの維持と有料による公開に至った理由について、縷々述べられていた。科研費による研究成果の活用が閉鎖的な学界の慣例を脱却して、公開して利用者に還元したいという思いが伝わってきた。
 
なお、会場には、福島鑄郎氏のご子息がいらしていて、写真の故福島氏の風貌そのままに、雑誌に囲まれた家族のエピソードや最近になって、お父様のやってこられた仕事が理解できるようになったことなどを話された。 

自国の研究者にも手厳しい「新世紀における占領期再考」

ルイーズ・ヤングさんの基調講演は、日本の占領期について研究史がテーマで、聞いているうちに、アメリカの研究者と日本の研究者の相違、そして変遷というものが、おぼろげながらわかってきたような気がした。日本における占領史研究については、竹前栄治「占領研究40年」(『現代法学』〈東京経済大学現代法学会〉8号 20051月)などで、おさらいをしていたつもりだったが、アメリカの研究者については、知日派、親日派と呼ばれながら、ライシャワーとジョン・ダワーでは、随分と違うんだな、くらいの関心しかなかったのが、正直なところであった。

アメリカ研究者による日本の占領期研究は、第二次世界大戦の戦中派であるライシャワーなどから始まり、アメリカによる占領の成功体験として語られ、冷戦下にあっては、リベラル知識人に繋がった。

1960年から数年間、続いた日米の研究者による、日本語による「箱根会議」に発展し、占領は、日本の近代化に大きく貢献し、「資本主義国における近代化と第三世界の発展モデルとしての日本」というのも、かなり偏向した結論で、日本人研究者の意見が傾聴された様子が見えにくかったという。私は、「箱根会議」のことは、耳にしたことはあったが、その実態はよく知らなかった。今回、アメリカの研究者のヤングさんよる、その手厳しい評価を、私ははじめて聞いた。

1970年に入ると、アメリカでもベトナム戦争へ反対運動とともに、アメリカの帝国主義的侵略に批判的な研究が高まり、新左翼的な史観による研究者たちは、占領が日本の自力による再生と社会的な改革を起こす可能性を抑制したものとして、アメリカ外交の身勝手さとアメリカの理想の実現という初期の信念を否定した、として「考え直すアジア研究者たちの学会」などの成果を示した。

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「考え直すアジア研究者たちの学会」の研究者による著作、Joe Moore,Japanese Workers and Struggle for  Power 1945-47(1983) Michael Schaller,The American Occupation of Japan(1985)など

ここで示された「New Left」(日本語のレジメでは「新左翼」との訳)の語は、日本でいう「新左翼」とはその意味するところが、若干異なるのではないかというのが素朴な疑問だった。

80年代から90年代にかけては、日米の研究者による共同研究、日本人研究者の著作の翻訳が活発化し、その研究対象は大衆文化、社会的な相互体験など多様化し、より精密な事例研究にも及ぶようになった、とする。

そうした研究動向の中で、プランゲ文庫の位置づけも大きく変容してきたことにも着目、興味深いものがあった。1950年、マッカーサーの直属のスタッフだったゴードン・プランゲが、アメリカに持ち帰った日本における占領軍による検閲資料群であった。その保管は、アメリカ議会図書館東洋部を経て、メリーランド大学に落ち着いたが、保存状態は決していいといえなかった。プランゲ自身も、当初は、軍事秘話的な関心で『ミッドウェーの奇跡』『我らが眠っていた夜明け』『トラトラトラ』などを刊行、講義もそれらが中心だったらしい。カタログ化は、遅れて1963年から着手されている。このコレクションの存在が日本に紹介され始めたのが、60年代末から70年代にかけてだったのだろう。80年代になると、まず日本で「検閲資料」への関心が高まり、研究も活発になり、それがアメリカに波及した。その研究対象は、政治や経済分野ばかりでなく、現在では、文学、大衆文化、地方紙、社会史などへの広がりを見せている。日本での紹介の嚆矢は、前掲『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』にも詳しいが、松浦総三『占領下の言論弾圧』(現代ジャーナリズム出版会 1969年)や慶応大学からの派遣職員の一人森園繁「アメリカ大学図書館での経験」(『Kulic219716月)らによるものだった。さらに、1980年代になって、江藤淳が『閉ざされた言語空間』と題して、雑誌『諸君』に19822月から19866月まで断続的に4回連載された。

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邦訳:1967年

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邦訳:1984年

なお、最後に、戦争の前後を貫く「貫戦期」のアジアを射程にした植民地、占領地の歴史研究の必要を強調された。

 さらに、アメリカにプランゲ文庫というアーカイブが存在するということは、戦勝国の戦利品であったということと、占領軍の検閲政策の産物であったという認識も必要であるとも話したのだが、会場からは、「プランゲ文庫のおかげで、占領期の出版物や検閲の実態が分かってきたのだから、そこまで断定できないのではないか。もし、日本に残していたら、おそらく焼却処分されて、闇に葬られたのではないか」との質問が出ていた。「発禁図書」の国立国会図書館への返却、戦争絵画の国立近代美術館への無償貸与という実績もある。プランゲ文庫が日本に返却されるという交渉はなり立たないのだろうかと、ふと頭をかすめるのだった。

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メリーランド大学プランゲ文庫入り口、写真はプランゲの肖像

私自身は、1970年代の初め、職場の労働組合主催の松浦氏の講演会(19731月)を聞いたりして、大いに刺激を受け、「占領期における言論統制―歌人は検閲をいかに受けとめたか」(『ポトナム』19739月、後『短歌と天皇制』風媒社 198810月に所収)を書き急いだことが思い出される。その当時は、ゴードン・プランゲ(GordonWPrange)という名前の読み方も、「プランジ」と表記されていて、私もそれに倣っていた。短歌の検閲はどうであったのか、かつての当事者は、当時、あまり語りたがらない状況の中、プランゲ文庫自体のマイクロも閲覧できない中、それまで、戦時下の言論弾圧の延長線上で収集していた敗戦直後の短歌雑誌や歌集、あるいは、少しづつ語り始めた編集者や歌人のエッセイ等から、断片的に、占領検閲の実態を探ったものである。その後、国立国会図書館憲政資料室でのマイクロや早稲田大学の「占領期雑誌目次データベース」のおかげで、関係コピーを入手することができた。占領軍の言論弾圧の方向性が明確になってきた。その後、若干の検証をしたものの、本格的な論考は先送りになっている。

 

占領期の「時局雑誌」は、現代の「週刊文春」や「週刊新潮」?

石川さんのカストリ雑誌についても、福島コレクションのそれを上回るほどの収集量らしいので、その発言には説得力がある。ともかく、福島コレクションのデータベース化を急いでほしいと力説されていた。三谷さんの話は、「絵物語」に対する情熱がビンビンと伝わってきたが、明治以降の「絵物語」にだいぶ時間を取られたので、占領期の少年少女の「絵物語」や紙芝居については、短時間となった。私にとっては、リアルタイムで体験している部分もあったので、もう少し詳しく知りたかった。

最後の土屋さんの「時局雑誌」の話も、自分のかすかな記憶とも重なり、雑誌『真相』の実態なども知り、興味深かった。また、「時局雑誌」の定義も難しいが、現代にあっては、暴露、内幕、スキャンダルなど『週刊文春』や『週刊新潮』が「時局雑誌」的な役割を果たしているのではないかとの仮説も、なるほどの思い、定刻を過ぎるのを忘れるほどだった。

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時局雑誌『真相』の特集<天皇は箒である>天皇の巡幸は、訪問先の各地をきれいに整備することになるので、「箒」と称したらしい。<天皇特集>と銘打てば、必ず売り上げが伸びたという時代

懇親会は失礼して、外に出ると、雨こそ降っていなかったが、あたりはすっかり暮れていた。

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2016年9月19日 (月)

「雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(1)

 

雨も心配された918日、表記の20世紀メディア研究会百回記念企画展とシンポジウムに出かけました。私は、この「20世紀メディア研究会」には、この数年の間に数回しか参加していないが100回を越えていたのである。

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これが大隈タワーでした

 

コレクションの多様さに驚く

展示会は、早稲田大学の大隈タワー125記念室(大隈タワー10F)で、シンポ当日は日曜でも開催ということで、会場はかなりのにぎわいであった。

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タワー入り口

福島コレクションのオーナーであった福島鑄郎氏(19362006)は、種々の職業を経たのち、1960年ころから警備員という仕事をしながら、その休日を利用して、私財をもって、敗戦直後の雑誌を収集、研究されたという在野の研究者である。私も、1965年、国立国会図書館で働くようになって、どこの図書館も所蔵しないような、敗戦直後に創刊、短期間で廃刊になったような雑誌の収集をされているということは、先輩から聞かされていたから、求めたのであろう。今、私の手元には、氏の編著になる『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』(日本エディタースクール出版部 1972831日発行)があり、オビには「毎日出版文化賞」と書かれ、日高六郎の「この本は、戦後日本の再出発の時の日本の知識人・民衆の思想と精神を知るためのこの上ない案内書である。・・・」というコメントが載っている。197741歳で退職、本格的な研究生活に入り、メリーランド大学のプランゲ文庫にも出かけ、多くの書誌や資料集、研究書をなした。2005年、『福島鑄郎所蔵占領期雑誌目録:19458月~19523月』(文生書院)を出版、2006年に逝去されている。その所蔵は、6000冊に及び、2007年には、早稲田大学に図書館に収蔵され、公開に向けての準備と整理が進められているという国立国会図書館も、プランゲ文庫も所蔵されていない雑誌の数々が日の目を見るのも近い。

 

プランゲ文庫を利用してみて

私自身、最近、主に歌人斎藤史と阿部静枝の戦前・戦中・戦後の著作を追跡しているが、プランゲ文庫からの収穫は大きかった。2011年までは、無料で文庫のデーターベースが検索でき、名寄せによるリストもプリントアウトできた。そこから国立国会図書館にコピーを依頼していたのである。今回の会場には、検索コーナーがあったので、早速検索してみると、その後の整理も進んでいたようで、新しい文献が発見できた。プランゲ文庫では、地方発行の雑誌や様々な業界雑誌なども対象になっているので、思いがけない活動や執筆を知ることができたのである。プランゲ文庫については、基調講演のルイーズ・ヤングさんの講演の時に触れたい。

これに福島コレクションが利用できるようになったら、さらに占領期研究は進むかもしれない。

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2016年9月 8日 (木)

NHKを変えられるのか、いま、できることはなにか

 最近のNHKのテレビニュースを見ていると、その編集方針・内容があまりにも政府寄りなので、気分が悪くなり、消したくなるが、ウオッチの意味で、我慢してみている。これも視聴率を上げることに貢献しているのかと思うと、また腹が立つ。

 この数か月の選挙報道、オリンピック報道、災害報道、原発・原爆報道、沖縄報道、景気動向報道などを思い起こしてみると良い。

・選挙報道にあっては、争点ではなく政局報道に力点が置かれ、民放の一部でしていたように、争点における各党の相違などのあぶり出しに欠けていた。

・オリンピック報道にあっては、国威発揚、メダル競争を臆面もなく前面に出して、本来のスポーツ報道の域を脱し、必ず感動物語を添える。民放の番組を批判する資格があるのか疑わしくもある。4年後の東京オリンピックへとひたすら盛り上げるが、東京誘致のプレゼンで安倍首相が、福島の汚染水は完全にコントロールされているといった虚言、JOCの不正支出、東京オリンピック予算の半端でない膨張には目を向けない。

・地震や台風による被害の深刻さは伝え、その防災と復興への「課題」は申し訳程度に指摘はしても、その先の独自取材や調査による報道はない。

・原発報道に至っては、原発事故が今にもたらす重大さ、将来起こりうるリスクには触れない。熊本・大分地震報道に登場する地図には玄海、川内原発、四国の伊方原発原発の位置も示されず、三か所のうちもっとも揺れが大きかった川内原発のある九州南部は常に切られた地図しか示されなかった、と指摘するのは福島の原発事故に仕事を奪われた知人の指摘である。NHKの籾井会長は、熊本地震への対応を協議した4月20日、NHK局内の災害対策本部会議で「原発については住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と指示したという発言、かつての就任会見で「政府が右と言ったら左とは言えない」発言といい、報道機関の姿勢を真っ向から否定するものであったことと無関係ではない。

・沖縄報道、とくに辺野古や高江での基地建設工事の実態と市民による基地反対の活動報道は、スルーしても、北朝鮮、中国のマイナス情報は、毎日流す。

・政府や日銀の発表を忠実に、そしてバランスをとったような専門家の発言を流すにとどめるが、ロボットやスマホ、宇宙、医療などにおける技術開発情報は、丁寧に、こまめに伝える。

  こんなNHKは、「ほめて育てる」段階をとうに超え、まさに「我慢の限界」なのである。そんな中で、NHK経営委員会は、来年1月に籾井勝人・現会長の任期が満了するのに伴い、次期NHK会長の選考を進めている。、NHK視聴者は、受信料を支払っている方々は、一度立ち止まって、考えてみなければと思う。どんな成果を上げられるか、未知数ではあるが、私は「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」の一員として、以下の署名に賛同した。全国18の視聴者団体と共同で以下の3項目について、署名とともに、メッセージを付して、経営委員会に提出することになった。第一次締め切りは、迫っている。もし、ご賛同いただければと以下、ご案内したい。

<署名の主旨>
 1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと

 2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること

 3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること

 <用紙による署名:署名用紙は次をダウンロ-ド>
 http://bit.ly/2aVfpfH 

 ネット署名:署名の入力フォームは次をダウンロード> 
 
https://goo.gl/forms/G43HP83SSgPIcFyO2

  
 *用紙による署名を済ませた方も上の入力フォームから送信可。ネット署名にはたくさ んのメッセージが添えられている。そのすべてを、個人情報を伏せた上で、以下に掲載している。
 
https://goo.gl/GWGnYc 

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2016年9月 3日 (土)

ようやく、東京大空襲・戦災資料センターを訪ねる

   意外と近いところにありながら、なかなか訪ねることができない場所がある。今回、江東区北砂に住む友人との間で、とんとん拍子で話が決まり、訪ねることができた。東京大空襲・戦災資料センターは、1970年に早乙女勝元氏らによる「東京空襲を記録する会」が発足、空襲・戦災の資料や物品を収集してきたが、1999年の東京都の「平和祈念館」計画凍結を受けて、篤志家から無償提供による、この地に、市民の力で200239日にオープンしている。この夏、敗戦直後の東京をテーマにした写真展が開催されているのを知って、ぜひ訪ねたいと思っていた。友人は、展示写真のカメラマンたちが所属していた文化社についての講演会もすでに聞いていたのである。「文化社」、私は知らなかった。

東京大空襲・戦災資料センターHP

http://www.tokyo-sensai.net/index.html

 831日、台風一過の東京は、やはり暑かった。都営新宿線の西大島で待ち合わせ、まずはランチのイタリアンを食しながらの近況報告である。七夕のように一年に一度くらい会っては、社会を憂え、短歌や職場こそ違うが図書館員だったころに話が及ぶのがいつものパターンである。

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焼け残ったピアノ
 
歩けない距離ではないということだったが、明治通りで、車が拾えたので、センターに直行。レンガ造りの瀟洒な三階建てのビルだった。2階の常設展で、まず目についたのが、1945524日の空襲で焼け残ったという目黒区のピアノだった。この部屋は、空襲体験者による絵画が多い。

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 ピアノの左肩の角に、不発の焼夷弾が当たった跡が生々しい。ピアノの上の炎を描いた絵は「本郷の台地から見た310日の大空襲の大火災(岡部昭)であり、オルガンの上の作品は「青山同潤会の井戸」、手前の大作は「ケヤキの道」(いずれも山本万起)と題されていた

  そして絵画の小品の多くは、おのざわしんいち氏による絵画であった。おのざわ氏(19172000)は、16歳から川端画学校に学び、1938年応召、南京へ、2年後の除隊、大塚の軍需工場で働いた。太平洋戦争末期、防衛部隊として東京大空襲時には死体処理にも携わる。敗戦直後進駐軍で働いた後、漫画家となり、1970年ころから東京大空襲の絵を描き始めたといい、早乙女氏らとの活動に入ったという。その多くは、童画風でもあるが、語り部としての気迫に満ちていた。

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おのざわしんいち氏 のコーナー

「文化社」って
 
そして、隣の会議室が、今回の目当ての写真展「文化社が撮影した敗戦直後の東京」であった。「文化社」とは、戦争中、陸軍参謀本部の下で主に対外向けの写真宣伝雑誌の制作を担当していた「東方社」(194119457月)の後継団体で、194510月に発足している。「東方社」の説明パネルのなかにその刊行物「FRONT」とあって、ようやく結びついた。文化社は、あの「FRONT」を制作していた東方社の後身だったのである。東方社は岡田桑三(松竹の俳優でもあった)によって立ち上げられるが、主要メンバーの木村伊兵衛、原弘、伊奈信男は、日本工房の名取洋之助と袂を分かった4人で、花王石鹸にいた大田英茂はじめ、何人かの軍人たち、財界人たちをバックに、林達夫、岡正男、岩村忍、小畑操ら幅広い、錚々たる文化人が理事に名を連ね、そのもとで「FRONT」が創刊されている(詳細は、多川精一『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社 2000年)。 FRONT』は対外的な宣伝雑誌であったが、国内向けには、すでに内閣情報部(局)から『写真週報』(19382月~19457月)が刊行されていた。

今回の展示会は「敗戦直後の東京」がテーマで、センターが所蔵する「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係雄/写真コレクション」と東方社・文化社のカメラマンだった菊池俊吉・林重男氏の遺族所蔵の写真ネガから選んだという46点。私の焼け跡体験にも通じて、なかでも印象に残った写真を紹介しておこう。「個体の作品をカメラに収めるのは、著作権もありますので」という受付の方の言葉もあったので、会場の雰囲気と作品が見分けられるような形で、写真を撮らせていただいた。名前に聞き覚えのあった、二人のカメラマン、以下は、帰宅後、調べたことではある。林重雄(19182002)は、日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会調査団の委嘱により、日本映画社原爆記録映画撮影班スチール写真担当として、広島・長崎の爆心地を撮影し、後写真家として、反核運動に携わっている。菊池俊吉(19161990)も194510月より広島に入り、林と同じく委嘱を受けて原爆記録映画撮影班スチール写真を担当している。敗戦後は、広島、東京銀座の写真集を刊行、『世界』『中央公論』『婦人公論』などのグラビアで活躍する。ご両名やその遺族たちが、写真のネガをどのように守ってこられたかは、次の資料に詳しい。

・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ」

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080704201603850_ja

・山辺昌彦:東京大空襲写真研究と特別展の開催 『政経研究時報』154号(20123月)

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焼け跡の池袋

私の池袋の生家は1945413日未明の空襲で焼け出されたが、翌年には、一家の疎開先の千葉県佐原から、父は、一足先に池袋の元の場所にバラックを建て、薬局を再開していた。一家が戻り、私は、1946年7月、入学したばかりの佐原小学校から池袋の小学校に転校した。小学校は焼失していたから、一年生の教室は、川越街道沿いの重林寺の本堂であり、二年になると焼け残った要町小学校まで通学し、けっこうな道のりだったと記憶している。近隣の焼け野原には、我が家のようなバラックが建ちはじめ、付近一帯は、お屋敷だったお宅の石の門柱だけが残っていたり、地主さんや質屋さんだったお宅の蔵だけが残っていたりした。小さな商店街はやがて「平和通り」と名付けらられ、「平和湯」という銭湯が近くだったのがありがたった。薬局といっても、銭湯のお客さんが石鹸を買ってくれたが、他には、ちり紙、綿花、みやこ染などの雑貨とサッカリンと重曹が売れ筋だったことを思い出す。東京のほかの町の焼け跡や復興の様子を知るすべもなく、学校と家の行き来と池袋西口のヤミ市に母親と買い物に行くくらいだった。遊びはもっぱら近くの焼け野原だった。池袋の東口に行くのに、子供には暗くて、浮浪者や傷痍軍人がいる「怖いガード」を通らねばならなかった時代でもあった。

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これが今回の展示会のチラシのおもて、下の写真には「寺社の焼け跡」(文化社1946年2月)のキャプションがつけられ、「ゴム跳びをする女の子たち」の説明がある。我が家のバラックの隣は、教会付属の病院の焼け跡での遊びでは、「ゴム跳び」ではなく、私たちは「ゴムだん」と呼んでいた。高さには、小さい児のための「ひざ下」から、頭の上のひとコブシ、ふたコブシ、手伸ばしまであった。ママゴトの記憶もあるが、男子女子入り混じっての馬乗り、石けり、カンけり、水雷艦長などが盛んだった

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  上段が「池袋駅」(文化社・菊池俊吉 1945年11月)、「西武農業鉄道(現西武鉄道)のホームで、電車に乗り込むのを待つ龍くさっくや包みを背負った人々」で、下段が「品川駅」(文化社・菊池俊吉1946年1月)で、品川駅は引揚列車の終着駅だった」の説明がある。池袋東口の敗戦後の歩みを少なからず見てきた私には、感無量であった

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 上段は、「宮城前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会会場で座っている人たち」(文化社 1946年11月3日)、下段は「上野公園で車座になる被災者たち」(文化社・1945年11月 

東京大空襲、3階の常設展
 ここには、戦争の開始と拡大、防空、空襲の被害、東京大空襲と朝鮮人・・・などのテーマごとに罹災証明書、衣料切符などの資料や防空頭巾や焼けた瓦、爆弾の破片、焼夷弾、アメリカ軍の伝単(ビラ)などの実物、東京各地の空襲被害状況の写真が展示されている。写真は、これまでも何度か目にしたことのある、警視庁所属の石川光陽(19041989)による「親子の焼死体」などの写真が強烈であった。また、撮影者名をメモし損ねているが、「被災した慶應義塾大学図書館」「破壊された外壁だけが残るカテドラル関口教会内部と神父」「銀座教文館前の消火活動」「大塚駅南側から池袋方面の焼け野原を見る」などは、現在の各々を見ているだけに、そのインパクトは格別だった。

今回の展示会にしても、常設展にしても、東京大空襲はじめ広島長崎などの戦争被害の記録写真が、日本人カメラマンによって撮影され、GHQからの引き渡し要請にもかかわらず、ネガだけは自らのもとに残し続けた努力、それを保管し続けた遺族の方々にも敬意を表したい。軍や官庁が戦時中の記録類を抹殺し、後にも収集には無関心だった公的機関が多い中で、個人の努力で記録を残したことの大切さを実感した。そして「東京大空襲・戦災資料センター」のような施設が、まったくの民間、市民の手で作られ、維持されていることにも驚いている。そういう意味でも、戦争責任を曖昧なままにして、人間の命を粗末にする、この国の在り方は、問われなければならないと思う。

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  これは、最近刊行の『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版 2016年6月)のカタログの表紙で、背景は林重男撮影の「改修中の東京駅」(1946年8月)である

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  上記写真集カタログからの5枚の写真、いずれも気になる作品だが、右上は国民学校初等科の国語の授業風景(文化社・林重男 2046年5月)で、教科書が行きわたらず、二人で使用、一番手前の女の子は赤ちゃんをおんぶしている。このきょうだいは今、どうされているだろうか。池袋第五小学校5年次、1951年、私のクラスにも、Y君という男子が毎日赤ちゃんを背負って登校していたので、教室で同じような光景を目にしている。Y君は、あまり背が高くなかったから、一番前の席の出入り口付近にいつも座っていた。 小学校のクラス会でも、卒業後の消息が分からず、時々話題になっていた。今頃どうされているだろうか。担任のO先生も、新任で、持ち上がりの初めて送り出した卒業生だったから、印象に残っているとおっしゃっていた

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