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2016年10月25日 (火)

国立歴史民俗博物館の常設展「近代」見学記

10月23日、日本科学者会議東京支部の方のお誘いで、佐倉のフィールドワークに参加した。といっても、午前中の市内めぐりは失礼して、午後からの国立歴史民俗博物館の第5室「近代」の見学とかつて、歴博で「近代」の展示を担当された新井勝紘さんの話を聞いた。

歴博の企画展に出かけた際には、必ず、常設展の第5展示室「近代」と第6展示室「現代」を見学するよう心掛けてきたが、これまで素通りしていた個所がいくつもあることにも気づかされた。今回、かつて歴博研究部で「近代」を担当された新井さん(昨年まで専修大学教授)の解説付きという充実した見学となった。展示は、大きく「文明開化」「産業と開拓」「都市の大衆の時代」に分かれる。以下は、まったくの気ままな、私流の見学記録ながら、書きとどめておきたい。

 

沖縄のペリー来航

「文明開化」の展示は、ペリー来航で始まるが、ペリーに随行してきた画家ハイネの石版画がまず目をひいた。そのうちの一枚に「首里城からの帰還の圖」というのがあった。ペリーは浦賀に来る前に、何度か沖縄、琉球王国に立ち寄り、水や食料の補給に始まり、無理難題も突きつけた。アメリカは、琉球をアジアの軍事的拠点として目を付けていて、ペリーは、軍と大砲を従え首里城まで押し進み、武力で王国の開国を迫っている。浦賀来航の折にも、琉球に軍を待機させ、日本の開国拒否に備えていたことになる。明治政府による琉球処分、日本敗戦直前の捨て石作戦としての沖縄、アメリカによる沖縄占領、そして今日におけるアメリカの軍事基地としての沖縄への道筋を知って愕然となるのだった

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歴博のパンフレットより、左下が「旧石巻ハリストス正教会堂」の⒑分の1模型

 

石巻ハリストス正教会

人垣のある家屋模型の前を通りすぎようとしたとき、「石巻、イシノマキ」という新井さんの声が聞こえて来たので、思わず近づくと、模型は、なんと「旧石巻ハリストス正教会堂」であったのだ。今年の4月に石巻を訪ねたとき、ホテルのそばの千石町に「石巻ハリストス教会」があった。朝まだ早かったので、中には入れなかったのだが、簡素な佇まいであったことが思い出される。この教会はロシア正教の流れを汲む教会で、明治初期から東北のこの辺りでの布教が盛んであったという。私たちが見た教会は、宮城県沖地震で傾いた教会が、解体移築された跡地に1980年に建てられたものだった。1880年に建てられた旧館の移築先は、北上川河口の中州、中瀬公園内で、東日本大震災で被害を受けて、2階まで浸水、大きく傾いた写真を見たことがある。すでに、解体され、復元計画が検討されているという。日和山から中瀬公園を遠望した折は、津波に堪えた石ノ森章太郎萬画館が見えるだけだった。その「旧石巻ハリストス教会堂」の模型だったのである。だから、現在、その姿をとどめているのは、十分の一という模型ながら、ここ、佐倉の歴博だけということになる。移築先で5年前に津波で浸水してしまった2階の礼拝堂の畳敷きまで再現されていて、ここで出会えたことには、感慨深いものがあった。

 

(当ブログの以下の記事参照)

2016年5月14日 (土)
連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html

 

五日市憲法

 圧巻は、やはり自由民権運動、1968年に、西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢権八家の土蔵から発見されたという「五日市憲法」についての展示だった。新井さんこそが、当時、東京経済大学色川大吉教授のゼミの調査の一員として、土蔵の2階で、五日市憲法草案が包まれていた風呂敷包みを最初に手にした人だったのである。827日、その夜、合宿先の国民宿舎で、民間人による「憲法草案」らしいとわかったときの「興奮」は、格別で、忘れることができないとも説明された。その後の調査で、24枚の和紙に書かれた204条からなる憲法草案は、地元の小学校の教師千葉卓三郎(18521883)を中心に、多くの青年たちが集まって勉強会を開きながら、1881年、書き上げていったものだった。国民の権利についての規定が詳しい、画期的なものであったのだ。当時の多くのいわゆる「私擬憲法」の中でも先進的な内容であったという。それにしても、自由民権運動のコーナーには、各地で設立された「結社」名が壁いっぱいに貼られていた。全国で2043結社を数えるという。高知の立志社が有名だが、その数が、高知234がダントツで、京都59、熊本53、島根53と続いているのも興味深い。

 現代の護憲運動は、広がりを見せながらも、青年層からの盛り上がりに欠け、閉塞感さえ伴うのはどうしたわけだろう。そんなことにも思いが至るのだった。

 

「近代」の展示の隠れテーマは、<差別>

 以下は、見学の後、新井さんの講義をお聞きしてから、あらためて、展示を思い起こすのだったが、新井さんは、「近代」の隠れテーマは<差別>にあった、という。さらに、歴博の展示のコンセプトは、あくまでも「民衆」と「課題設定」にあり、総ざらい的、教科書的な流れをとらなかった。これは、初代館長井上光貞さん、そして裏方でかかわった、新井さんの先生でもある色川大吉さんらの功績が大きい、と。これまでの歴史といえば、人物で語る歴史、統治者の名で語る歴史が、幅を利かせていた。 そんな視点で、展示を振り返ると、開化の落差としての「被差別部落」の実態、北海道開拓とアイヌ、関東大震災と朝鮮人のコーナーに力点が置かれていたし、労働者としての女性、消費文化の中の女性などにも焦点があてられていた。

 新井さんによると、部落問題に関しては、資料収集の難しさ、その展示の方法の難しさがあったという。現在の展示でも、地域が特定でできないように展示し、様々な配慮がなされ、見学者の写真撮影禁止のコーナーでもある。人別帳での表現、墓石の戒名に特定の文字を入れる地域などの実例が示されていた。

また、関東大震災における流言飛語による「朝鮮人虐殺」を伝えるコーナーでは、当初、文部省から「見出し」に「虐殺」の文字はふさわしくないと使用を止められたが、解説文や映像の中には残した。また、新井さんが異動した後、最近になって、朝鮮人の犠牲者「6600人を上回る」という表現にクレームがつき、「多数」に修正したという事実もあったそうである。歴博は順次、古い展示からリニューアルを進めてきている。近く「近代」も、閉室して、リニューアルの計画なので、どんな展示になるかも不安になってきた。教科書検定と同じ道をたどるのだろうか。

なお、展示パネルには、いわゆる、天皇による時代区分もないし、首相や個人名を挙げての見出しもないのが特徴でもある。ちなみに、展示の中で、唯一、天皇像が登場したのが、下記の「千葉県満州上海事変出征現役名鑑」(昭和7年)というものであった。

 

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携帯での撮影、画像不良です。「千葉県満州上海事変現役出征名鑑」

 

 

色川大吉・新井勝紘さん登場のラジオ番組~五日市憲法 明治の草の根憲法から学べ~を聴く(荻上チキ<セッション22201653日放送)

https://www.youtube.com/watch?v=cmWp7Mgc8Fo

 

 帰宅後、五日市憲法で確認したいことがあったので、ネット検索の途中で、上記の番組に出会った。荻上チキの番組は、以前から友人に勧められていたこともあって、たまに聞くことはあったのだが、53日の番組のことは初めて知って、聞いてみた。昼間の話に続く五日市憲法についての詳細な話であったので、興味津々だった。荻上さんは相変わらず饒舌で、電話取材でのしつこいほどの質問に、「もうその辺でいいのではないですか」と色川さんにたしなめられていた。直接の関係はないものの、例の不倫報道の前のことではあったが。


 新井さんや色川さんの話では、五日市憲法の先進性は種々の条文に現れていて、その核心は、つぎの
45条にあるという。

「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ」

 また、86条では「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス」と国会の優位規定もあった。各条文の中身もさることながら、まだ、20代の千葉卓三郎を中心に、深沢家の親子と多くの青年たちが相寄って、西欧の啓蒙書を読み、議論を重ね、自分たちの政治は自分たちの手でつかむという意気をみなぎらせていたことが尊いものだったと。選挙を終えたら、あとはおまかせという現代の政治のありように警鐘を鳴らしていた。今の青年たちは学んでほしいとも。女性の皇位継承を認めたり、独立した地方自治条項を設けたりしていた一方、女性や障がい者の参政権を認めないこともあった。 条文は以下を参考。

http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/img/itsukaichi_kenpousouan.pdf

 

 

 

 

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2016年10月19日 (水)

吉川宏志氏「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」(『うた新聞』8月号)への反論、9月号に書きました

 

 以下は、上記8月号の吉川宏志氏の文章への私の反論です。その経過は、つぎの当ブログ記事をご参照ください。なお、吉川氏の私へ反論、再反論の文章は転載できませんので、あわせて『うた新聞』の吉川氏の文章をお読みくださればと思います。

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『うた新聞』』(いりの舎)10月号、吉川宏志氏の「<いま>を読む」(6)内野光子氏に答える」は、私への再反論でした

 私が会員である『ポトナム』7月号の「歌壇時評」(当ホームページに「時代の<せい>にするな」として登載)に対する吉川氏の反論が、『うた新聞』8月号「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」として発表されました。発端となった「歌壇時評」は730日の記事を、また経過は、89日の記事をご覧ください。

 なお、私の再反論も、『うた新聞』11月号に掲載予定です。

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「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

20168 9 ()

「うた新聞」吉川宏志「<いま>を読む~批評が一番やってはいけない行為」という私への反論

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吉川宏志氏「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」に応える

(『うた新聞』20169月号所収)

 

本紙八月号の上記記事は、『ポトナム』七月号掲載の私の歌壇時評への反論だった。八月八日、その記事の名前表記にミスがあったということで、編集部と執筆者からお詫びの連絡が入り、その際、反論の機会をいただくことになった。

私の『ポトナム』の歌壇時評は、私のブログにも再録している(「内野光子のブログ」「《時代》の所為(せい)にするな~私の歌壇時評」(二〇一六年七月三〇日)は、京都「時代の危機に抵抗する短歌」と東京「時代の危機と向き合う短歌」という二つのシンポジウムについて書いている。

たしかに、私は、二つのシンポに参加してはいないが、時評の前半を使って、京都での呼びかけ人吉川氏による『現代短歌新聞』(二〇一五年一一月)、東京での呼びかけ人三枝昂之氏による『現代短歌』(二〇一六年三月)の報告から引用して、その内容を伝えている。私は、これらの報告を読んで、「時代の危機」が「言葉の危機」に置き換えられていくことに危惧を覚えたことを率直に述べたのである。この二つのイベントについて、多くのメディアに掲載された記事や感想の大方は、好意的なものであったことも承知している。

私の時評の後半の三分の一では、シンポに参加した二人の歌人が書いている感想をブログ記事と雑誌記事から引用紹介した。最後に、内野のシンポへの感想として「私には、壇上の歌人たちが『時代に異議を申し立てた』という『証拠』を残すためにこうした発言の場を設けたように思われた」と記し、その文章に続けて「一過性に終わることのないように本気度を見せてほしいと思った。近く記録集が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う」と結んでいる。

ところが、吉川氏の文章は、私が、参加したI氏の感想として引用した部分と私の地の文とをないまぜにし、引用の際のカギかっこ「 」の使い方が不明確であった。その上、内野の時評で、二つのシンポについて指摘した「危惧」には、何ら応えてはいない。

さらに、吉川氏は後段で、(内野が)「天皇制を絶対的な悪と考えている」といい、「天皇制への賛否によって、善悪を割り切るような思想を、私は最も憎む」と結ぶが、私は、今回の時評で、「天皇制」にも言及しておらず、これまでの著作で「絶対的な悪」という言葉も使ってはいない。私が言い続けてきたのは、「天皇」というシステムと日本国憲法が基本理念とする主権在民・平等主義との矛盾であり、天皇・皇室をめぐる権威や国民との「親しさ」を利用しようとする権力に対する「現代短歌」の無防備と「現代歌人」の節操の無さであった。事実を積み重ね、実証に努めてきたつもりである。

また、「主張のために真意をねじ曲げて解釈する行為は、批評が一番やってはいけない」とも書いて、内野が何をどうねじ曲げて解釈しているのかも判然とせず、これこそ、印象批評の憶測の域を出ない一文ではないかと思った。

なお、吉川氏は、「NHKや新聞の方が、『政治的中立』を名目にして、政府に批判的な論者を排除しようとしている時代なのだ」とし、「内野はそこが分かっていない」とも断じている。彼のメディアへの現状認識は、私も同感である。だから、私もこれまで、退職後は、メディア論を少しく学び、ここ10年は、たとえばNHKの改革を目指す市民活動に参加し、個人的にも、具体的な報道番組や記事に際して、その都度、文書や電話などで抗議や申し入れを続けてきた。その一部は、ブログや著作などでも報告している。上記のように断ずる前に、多忙とはいえ、多少なりとも確認するのが、評者としてのルールではなかったか。「伝聞情報で憶測を書く」という禁じ手に自ら走ってしまったのである。

私は、歌壇には、もっと論争が起こればいいと願っている。異なる意見を持つ者との議論が民主主義の根幹であり、「反論に値しない」と無視することの恐ろしさにも思いが至る。ただし、論争するのであれば、①論難されている当事者がまず受けて立つこと ②反論は、相手の論の核心部分を突くこと ③相手の文章の引用や先行研究の引用は、明確に表示すること、などが基本的なルールかと思う。①については、歌壇における論争が、いわば「保護者」同士や「弟子筋」同士の<代理>論争的な側面を持つことも多々あるからである。もちろん多くの人が参入することは大いに望まれるところである。②については、論点をずらしたり、末節を切り取ってきたり、過去に遡ったりすると焦点が拡散し、「愚痴」にもなりかねないからでる。③も基本的なマナーだが、今回の吉川氏の本紙記事における引用の表示が曖昧だったことは前述のとおりである。

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日曜日は、池袋第五小学校のクラス会でした

 幹事の方々のお世話で、4年ぶりのクラス会だった。2年持ち上がりの担任のO先生の米寿のお祝いの会でもあり、ホテルの一室の壁には、幹事手づくりの「会次第」が貼られていたが、「旧池袋第五小学校」と「旧」が付いているのが、やや寂しくも思えた。すでに2005年、大明小学校との統合で「池袋小学校」と校名が変わっている。集うもの、昔の児童14人と賑やかであった。

O先生は、相変わらず絵画の制作にいそしみ、お元気そうで何よりだった。長い間所属されている「白日会」では、年会費が免除される特典に浴する年齢になられた由、感慨深げに話された。健康の秘訣はと問われ、まだ人が出歩かない早朝に、ほぼ毎日「歩く」ことではないか、とも語っていた。言うは易くしてと、わが身を振り返るのだった。

 私たちのクラスは、先生が教職について初めて送り出した卒業生だったという。先生が詰襟の学生服で写っている遠足の集合写真もある。たまたま隣になったOくんは、だいぶ前、先生の個展が地元の三越で開かれているのを知って出かけたところ、数十年ぶりの対面にもかかわらず、名乗る前に、先生から名前を呼ばれて、驚くとともに感激したとのこと。また、Sくんは、遠足で高尾山の頂上からの眺めに、隣の先生に「スゴイね、お父さん」と思わず叫んでしまってはずかしかったけれど、思うに、五人兄弟で、父親との接触が少なかったこともあって、たしかに先生は「お父さん」のようでもあったと。Tさんは、先生が風邪かで休まれたときに、放課後、何人かで、先生の住まいを訪ねて、小さな家の節穴から中をのぞいて帰って来てしまったとのこと、いや、私の記憶では、先生の家に皆で上がらせてもらった覚えがあるので、別の時だったかもしれない・・・。そんな話で盛り上がったが、まるで、『二十四の瞳』のような、と思ったものである。といっても、私たちのクラスは卒業時、55人だったので、「一一〇の瞳」ということになりそうだ。先生も、子どもたちの親たちも、苦難の時代、昭和20年代、池袋の話である。 

 

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池袋東口、パルコ(旧丸物百貨店)が途切れ、左に西口へのガードを見て、第2パルコの先が、線路沿いの池袋駅前公園となる。この公園の位置こそ変わらないが、当たりは一変している。クラス会会場は、右手の第一イン池袋だった。もちろん、こんなところにホテルがあるのも、ルノアールが入っているのも知らなかった。正面が、西武池袋スケートリンク跡に建てられた清掃工場の煙突で、これはかなり遠くからも見られる高さである。スケートリンクの手前には、人世座系列の名画専門の「文芸地下」があった。そういえば、第一インの手前の角から、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館という映画館が並んでいたはずである。 今は、ビッグカメラとヤマダ電機が並んでいる。先生が長い間個展を開いていらした池袋三越は、今はヤマダ電機の本館である

 

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2016年10月 6日 (木)

いま、なぜ、「情報公開」の後退なのか~佐倉市社会福祉協議会がやっていること~予算・決算の広報に見る(2)人件費の内訳、正職員・嘱託職員・非常勤職員別がわからないしくみは、どうにかならないのか

 佐倉市社会福祉協議会の予算・決算についての下記の記事を書いてから、だいぶ日が経ってしまった。前回は、予算・決算の広報の仕方が例年と異なりグラフ化などされて、情報量自体が大幅に減らされた上に、実に分かりにくくなったことを伝えた。広報で円グラフ化された数字の元をたどろうと思って、社協のホームページや送ってもらった冊子体の予算書や決算報告書、事業報告書と照合しようにも、該当する表が作成されていないのだ。担当者によれば、広報の事業活動別の数字は、複数の表から数字を拾って作成している、数字の総計には間違いはないというが、市民としては、そんな操作を確かめようがない。

いま、なぜ、「情報公開」の後退なのか~佐倉市社会福祉協議会がやっていること~予算・決算の広報に見る2016820 ()

101日、広報紙『社協さくら』 の最新号189号には、「佐倉市社会福祉協議会の人事・給与などの状況」(平成27年度)という記事がでた(とんでもない単位のミスがあって仰天!)。

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これとて公表され始めたのはここ数年のことである。職員数、正職員14名、嘱託職員18名合わせて32名、今、2010年(平成22年度)からの推移を見ているが、2013年から正職と嘱託の数が逆転し始めた。記事の中央には、諸手当の正職と嘱託の差は事細かく示される。しかし、記事の右端の3(1)(2)の表で職員32名の人件費17570万円とその資金源は、正・嘱の別が示されていないし、自主財源の内容も分からない。これは、当方からの8月の問い合わせで、別途送ってもらった資料で分かるのだが、自主財源には、事業収入ほか障害者福祉サービス等・介護サービス・収益事業による収入があるはずだが、そこに配置された人数もわからない。資金源の方に合計欄はないが、私が加えてマーカーをした。合計額は、当然のことながら一致する。行政からの委託事業による受託金の人件費は、理解できるが、佐倉市からの人件費補助金の根拠は相変わらず不透明で、一社会福祉法人に過ぎない「社協」のみが、人件費の補助を受けるのか、が問題のはずだ。他の社会福祉法人との公平性に欠け、受託に拠る人件費と補助金の人件費は人件費の2重どりではないか、とする指摘もある。

さらに、ここには、現場で、大半のサービス業務に苦労されている多くの非常勤職員の人件費は、この数字から抜け落ちている。これも問い合わせで分かったのだが、昨年度、非常勤職員給与は、総計で約5964万円であった。さらに、その内訳、実態のわかる数字、人数配置と時間数、支払額など、これまでの資料からはわからないので、質問を続けている。

3職員の人件費と補助金(平成27年度)

1)職員の人件費                          

 

職員数

 
 

32

 
 

給料・諸手当

 
 

給料・諸手当

 
 

112691千円

 
 

期末・勤勉手当

 
 

 29768千円

 
 

社会保険料

 
 

 24611千円

 
 

退職掛金

 
 

 8648千円

 
 

合計

 
 

175708千円 

 

 2)人件費の資金源                        

 

区分

 
 

金額

 
 

佐倉市補助金(人件費)

 
 

32957千円

 
 

佐倉市受託金(人件費)

 
 

46650千円

 
 

県社協受託金(人件費)

 
 

 9568千円

 
 

自主財源

 
 

86534千円

 
 

合計

 
 

175708千円

 

 『社協さくら』の記事で、最大の難点は

さらに、この広報記事の難点は、左側の「(2)平均給料月額など」の欄の数字である。これはなんと、正職員・嘱託職員込みの平均給料(基本給)24万8443円と平均給与(諸手当含む)26万3389円だったのである(平均年齢45・7歳)。この一緒くたにした平均に意味があるのであろうか。限りなく意味のない「平均」というマジックに、市民や読者は惑わされるに違いない。これは、上記の表の人件費・資金源と同様、まさに「正職員給与・給料」を意図的に不明確にする常套手段ではないのか。この点は改めるよう、担当者に申し入れの際「趣旨は分かりました」と言っていたが、来期実現すかどうか見守りたい。

ほかの社協では、どうなのか

お隣のほぼ同規模の千葉県八千代市社協の広報『ふくし八千代』はどうだろう。最新号196号(20167月)で、昨年度の事業報告と決算報告が2頁にわたって掲載され、去年の佐倉市『社協さくら』と同様に財務諸表が公表されていた。倍の規模の東京都府中市社協の場合は、広報『ふちゅうの福祉』年6回の発行で、5月1日号に予算、7月1日号決算の収支が報告される。項目別の割合が出ているのはわかりやすい。会費は収入総額の3.6%(広報では不明、佐倉市社協5.2%)に過ぎず、市からの受託金収入が41.7%(広報では不明、佐倉市社協47.6%)を超え、人件費については別途、正職員に関してのみ、以下のように公表している。豊中市社協はドラマ「サイレント・プア」で有名にもなったが、どうだろう。広報『みんなの福祉は』は年3回、佐倉市社協はこんなところだけまねたのだろうか。決算は収支決算報告のみとあっさりしているが、事業計画・予算にあっては歳入歳出の円グラフながら、内訳の数字が明記されているし、別にサービス区分別の予算も付されているので、佐倉市社協よりはわかりやすい。社協職員は、私たちよりも、各地社協の情報が集まるだろうし、研修もしているはずだ。わかりやすい広報を目指してほしい。

 ・八千代市社会福祉協議会事業報告・収支決算書(平成27年度)

     file:///C:/Users/Owner/Desktop/yatiyosi196.pdf

・府中市社会福祉協議会職員の給与・職員数等について

(平成2741日現在)

http://www.fsyakyo.or.jp/img/about/27syokuin.pdf

・豊中市社会福祉協議会『みんなの福祉』

117号(201610月)116号(201661日)

http://www.toyonaka-shakyo.or.jp/nav/nav_toyosyakyo/paper

  さらに、非常勤職員の実態について、問い合わせてもいるので、分かり次第報告したい。

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2016年10月 5日 (水)

夏の課題図書 戦争と短歌 『沖縄文学全集第三巻・短歌』

 やや旧聞に属しますが、8月29日の当ブログ記事でも紹介しましたように、8月発売だった『現代短歌』9月号の特集<夏の課題図書 戦争と短歌>に寄稿しました。

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夏の課題図書 戦争と短歌 

『沖縄文学全集第三巻・短歌』(国書刊行会 一九九六年六月) 

 「沖縄文学全集」全二〇巻のうちの一冊で、380人ほどの近・現代の沖縄歌人によるアンソロジーである。版元にも在庫はあり、古書店でも見つけることができるし、所蔵する公共図書館も少なくはない。作者たちは、沖縄出身の沖縄在住者が圧倒的に多い。昭和期以降に限っても、沖縄出身の井伊文子・春山行夫・桃原邑子、ゆかりの深い折口信夫・中野菊夫・丸木政臣・遠役らく子・武田弘之らの作品も見える。ただ、初出、出典歌集などの記載がないのが、残念ではあるが、平山良明による年表・歌集解題・歌壇概観があるのがありがたい。

 五十音順に並んでいるので、どの頁から読み始めてもよい。『スバル』を舞台に活躍した山城正忠(18841949)「朱の瓦屋根の絲遊春の日にものみなよしわが住める那覇」や摩文仁朝信(18921912)「いたましき首里の廃都をかなしみぬ古石垣とから芋の花」などの作品にも出会うことができる。 作者自身が沖縄戦を体験し、あるいは身近な家族が犠牲となっている世代の人々は、つぎのようにも詠む。平成の天皇は、皇太子時代に五回、即位後五回、夫妻での沖縄訪問は一〇回に及ぶ。昭和天皇の「負の遺産」を払拭すべく、沖縄への思い入れは強いが、謝罪のない鎮魂のメッセージは届くはずもない。

・天皇のお言葉のみで沖縄の戦後終はらぬと勇気持て言ふ

(大城勲1939年~)

・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ

(神里義弘1926年~)

・天皇は安保廃棄基地撤去を宣言してから沖縄へ来られよ

(国吉真哲1900年~)

・警備陣万余到りておどろおどろ島に黑影あまたに揺らぐ

(新里スエ1934年~)

・洞穴に児を殺したる軍その銃の菊の紋章我は忘れじ(仲松庸全1927~)

 

つぎは、沖縄歌壇をけん引してきた人たちの作品である。1950年代「九年母簿論争」を経て、昨今、「類型的」とか「スローガン的」など沖縄県内外の評者からの指摘を受けてもいるが、「語り部」として次代につなげる、力強い作品を発信してほしい。

・流線の機首美しき三式戦のわが子の良太を切り裂きにけり

(桃原邑子19121999

・わが戦車の待避壕いまものこるという西岳村に行きたかりけり

(松田守夫1928~)

・はらからの手に帰るなく摩文仁野のいづべに汝は朽ち果て行くか

(屋部公子1929~)

・爆音が臓腑を刺して突き抜けるかかる不安を日常とする

(平山良明1934~)

・病み臥る母が皺深き顔見ればなべて沖縄戦の記憶につながる

(平山良明1934~)

・国体旗並ぶ街道囚はれの如く島人に警備の続く

(玉城洋子1944年~) 

沖縄歌壇の歴史で、忘れてはならないのは、ハンセン病療養所の歌人たちの作品である。沖縄県には、名護市屋我地島の愛楽園、宮古島の南静園がある。医学的に根拠のなかった「隔離・断種政策」が強行され、新薬プロミンが開発され、一九九六年「らい予防法」が廃止された後も、いわれのない隔離と差別が続き、二〇〇一年熊本地裁の隔離違憲判決により当時の小泉首相が国として謝罪した。この間の過酷な差別が続く療養所には、多くの短歌サークルが生まれ、作品が様々な形で出版されるようになった。このアンソロジーにも、多くが収録されているが、そのほんの一部を紹介しておこう。

・潮鳴りの遮光灯蒼き病棟の夜は新海の魚となり棲む

(新井節子1921~2015

・ひと生(よ)病む遠離の果てをおもうとき夕雲よ炎のごとく奔れよ

(新井節子1921~2015

・親のつけし名をかえ戸籍もこの島の療園に移してひそやかに住む

(松並一路19222010

・住民に焼かれし病友の住家あとに千日草が小さく咲きおり

(松並一路19222010

 このアンソロジー出版後の最近の沖縄歌人の作品は、「特集・歌の力沖縄の声」(『短歌往来』二〇一三年八月)、「特集・戦後七十年、沖縄の歌―六月の譜」(『歌壇』二〇一五年六月)に多く収録され、最近では、『現代短歌』五月号から「沖縄の歌人たち」の連載が始まった。あわせて、まずは沖縄歌人の作品に触れてほしい。 (「現代短歌」20169月号所収)

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沖縄にも天皇の歌碑がある    

  8月29日の下記のブログ記事でも紹介いたしましたエッセイです。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/08/post-fdc8.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

 沖縄には、天皇の歌碑がいくつあるのだろう。今回、三つを訪ね、その背景を考えた。

那覇に着いた当日、夕方というのにともかく日差しが強い。瀬長亀次郎の資料館「不屈館」と「対馬丸記念館」に立ち寄ったあと、波の上宮へと向う。

ここには、昭和天皇と明治天皇の歌碑がある。参道の直ぐ左手に、「折口信夫(釈迢空)先生の歌碑(歌碑建設期成会)」(一九八三年建立)の表示があり、『遠やまひこ』(一九四八年)収録の一首だった。

・なはのえに はらめきすぐる ゆうたちは さびしき船を まねくぬらしぬ(釈迢空) 

続いて、昭和天皇晩年の歌を上段に、下段に「おことば」が刻まれた碑があった。

・思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(昭和天皇)

「おことば」は、病気のため沖縄国体出席を断念した天皇の代わりに、一九八七年一〇月二四日、皇太子が代読した一文であった。

「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。・・・」

昭和天皇は、太平洋戦争末期、沖縄捨て石作戦により地上戦となることを放置し、多大な犠牲をもたらした、戦後にあってはいわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄の米軍基地が固定化した。そんな経緯を考えれば、沖縄に、歌碑など立てられるはずもないと思うのだが、神社だからこそだったのだろう。複雑な思いで、参道を進むと、目に入った銅像は、明治天皇だった。その背後には、弓なりの壁が回らされ、左右に縦長の色紙がはめられたような形で歌が二首刻されていた。

・たらちねの親には仕へて まめなるが 人の誠の始めなりけり
(明治天皇)

・わが国は 神の末なり神祭る 昔のてふり 忘るなよゆめ
(明治天皇)

二首とも、沖縄とは直接関係がない。もちろん明治初期に、天皇が進めた「琉球処分」に触れるような歌があったのか、選べなかったのか、私には、まだわからない。この二首は、明治百年(一九六八年)を期して計画され、一九七〇年に建立されていることがわかった。ちなみに、一八七二年、琉球藩設置にあたり「下賜」された短歌がつぎの二首であ.った。沖縄はこれ以降、過酷な決断を迫られ

ながらも抵抗するが、明治政府は武力をもって首里城の明渡しと廃藩置県を強行した。

・けふさらに久しき契むすひてよいはにかかる滝の白糸
(「水石契久」)(明治天皇)

・立ちならふ庭の梢のはつ紅葉いよいよそはん色をこそまて
(「初紅葉」)(明治天皇)

明治政府による皇民化教育が進められるなか、一八九〇年、琉球八社の中心的役割を果たす波の上宮が「官幣小社」となり、神道布教の拠点ともなっていた。この日、出会った参拝客は、ここでも、中国語を話す若い人たちが多く、もちろん、これらの歌碑には、関心を示さない。

明仁天皇の歌碑がある伊江島に渡ったのが、慰霊の日の二日前だった。那覇から高速バスで北上すること二時間弱、フェリーの発着所である本部(もとぶ)港で下車、伊江島へは、三〇分の船旅である。

島のタクシーの運転手さんに回りたいところを地図で示し、ルートはもちろんお任せした。ただ、どうしても訪ねたかったので、「城山(島の中心に突起する一七二メートル)の中腹に、天皇の琉歌の歌碑がありますよね」と念を押すと、「たしか、そんなものがあったかも知れない」と気のない返事だったが、たしかに、中腹の広場に、それはあった。

・広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事

(明仁皇太子)

 明仁皇太子夫妻の最初の沖縄訪問は、一九七五年七月の海洋博開会式出席のためであった。その折、ひめゆりの塔における火炎瓶事件が発生している。伊江島へは、翌年一月一七日、海洋博閉会式に出席した折に立ち寄っている。歌碑は、「皇太子殿下・皇太子妃殿下御来村記念碑」と並んだ小ぶりのものだった。その年の四月二九日に建立とある。

 伊江島といえば、一九四五年三月二三日から米軍の空襲が始まり、四月一六日に上陸を開始、日本軍は、住民も戦闘に巻き込み、四月二〇日には壊滅状態となった。島の住民の半分にあたる一五〇〇人、兵士が二〇〇〇人、約三五〇〇人が犠牲になった島である。住人は、ただちに慶良間島や大浦崎収容所に強制移住させられた。島に戻ってきた矢先、一九五五年、米軍が基地建設のために「銃剣とブルーザー」による土地の強制収用が始まったという苛烈な歴史を持つ。阿波根昌鴻らを中心とする伊江島の土地を守る運動は、まさに血のにじむ闘争であった。現在も、米軍基地は島の三五%以上を占め、おもに、オスプレイの離着陸、パラシュート降下訓練などが日常的に行われている。

 皇太子夫妻の伊江島訪問当時、過剰警備についての地元紙の報道はあるが、来村記念碑や歌碑の報道は見当たらない。そして、『伊江村史』や役場が発行する資料にも、詳しく記載されていない(「レファレンス事例詳細」沖縄県立図書館提供、二〇一一年一一月)。今回、島で入手した観光案内パンフなどにも、一切言及がないし、地元に伝わる民謡の「歌碑」巡りでも、対象とはなっていない。皇太子夫妻の来村について、当時を知っている人々は、苦々しく、複雑な思いがあったにちがいなく、いまの若い人たちは、もはや関心がないのかもしれない。

 本島に戻るフェリーからは、恩納岳に連なる山並みが美しかった。万座毛からその恩納岳を望んだ天皇の歌の碑があると聞いた。

・万座毛に 昔をしのび 巡り行けば 彼方恩納岳 さやに立ちたり(明仁天皇)

二〇一二年一一月全国豊かな海づくり大会の折の短歌である。前日に訪ねた「不屈館」に展示されていた、瀬長亀次郎夫人のフミの短歌を思い出していた。

・歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず(瀬長フミ)

新日本歌人2016年9月号所収)

関連の紀行記録は次の記事にもありますので、ご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4264.html(7月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-a2b2.html(7月29日)

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