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2016年10月25日 (火)

国立歴史民俗博物館の常設展「近代」見学記

10月23日、日本科学者会議東京支部の方のお誘いで、佐倉のフィールドワークに参加した。といっても、午前中の市内めぐりは失礼して、午後からの国立歴史民俗博物館の第5室「近代」の見学とかつて、歴博で「近代」の展示を担当された新井勝紘さんの話を聞いた。

歴博の企画展に出かけた際には、必ず、常設展の第5展示室「近代」と第6展示室「現代」を見学するよう心掛けてきたが、これまで素通りしていた個所がいくつもあることにも気づかされた。今回、かつて歴博研究部で「近代」を担当された新井さん(昨年まで専修大学教授)の解説付きという充実した見学となった。展示は、大きく「文明開化」「産業と開拓」「都市の大衆の時代」に分かれる。以下は、まったくの気ままな、私流の見学記録ながら、書きとどめておきたい。

 

沖縄のペリー来航

「文明開化」の展示は、ペリー来航で始まるが、ペリーに随行してきた画家ハイネの石版画がまず目をひいた。そのうちの一枚に「首里城からの帰還の圖」というのがあった。ペリーは浦賀に来る前に、何度か沖縄、琉球王国に立ち寄り、水や食料の補給に始まり、無理難題も突きつけた。アメリカは、琉球をアジアの軍事的拠点として目を付けていて、ペリーは、軍と大砲を従え首里城まで押し進み、武力で王国の開国を迫っている。浦賀来航の折にも、琉球に軍を待機させ、日本の開国拒否に備えていたことになる。明治政府による琉球処分、日本敗戦直前の捨て石作戦としての沖縄、アメリカによる沖縄占領、そして今日におけるアメリカの軍事基地としての沖縄への道筋を知って愕然となるのだった

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歴博のパンフレットより、左下が「旧石巻ハリストス正教会堂」の⒑分の1模型

 

石巻ハリストス正教会

人垣のある家屋模型の前を通りすぎようとしたとき、「石巻、イシノマキ」という新井さんの声が聞こえて来たので、思わず近づくと、模型は、なんと「旧石巻ハリストス正教会堂」であったのだ。今年の4月に石巻を訪ねたとき、ホテルのそばの千石町に「石巻ハリストス教会」があった。朝まだ早かったので、中には入れなかったのだが、簡素な佇まいであったことが思い出される。この教会はロシア正教の流れを汲む教会で、明治初期から東北のこの辺りでの布教が盛んであったという。私たちが見た教会は、宮城県沖地震で傾いた教会が、解体移築された跡地に1980年に建てられたものだった。1880年に建てられた旧館の移築先は、北上川河口の中州、中瀬公園内で、東日本大震災で被害を受けて、2階まで浸水、大きく傾いた写真を見たことがある。すでに、解体され、復元計画が検討されているという。日和山から中瀬公園を遠望した折は、津波に堪えた石ノ森章太郎萬画館が見えるだけだった。その「旧石巻ハリストス教会堂」の模型だったのである。だから、現在、その姿をとどめているのは、十分の一という模型ながら、ここ、佐倉の歴博だけということになる。移築先で5年前に津波で浸水してしまった2階の礼拝堂の畳敷きまで再現されていて、ここで出会えたことには、感慨深いものがあった。

 

(当ブログの以下の記事参照)

2016年5月14日 (土)
連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html

 

五日市憲法

 圧巻は、やはり自由民権運動、1968年に、西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢権八家の土蔵から発見されたという「五日市憲法」についての展示だった。新井さんこそが、当時、東京経済大学色川大吉教授のゼミの調査の一員として、土蔵の2階で、五日市憲法草案が包まれていた風呂敷包みを最初に手にした人だったのである。827日、その夜、合宿先の国民宿舎で、民間人による「憲法草案」らしいとわかったときの「興奮」は、格別で、忘れることができないとも説明された。その後の調査で、24枚の和紙に書かれた204条からなる憲法草案は、地元の小学校の教師千葉卓三郎(18521883)を中心に、多くの青年たちが集まって勉強会を開きながら、1881年、書き上げていったものだった。国民の権利についての規定が詳しい、画期的なものであったのだ。当時の多くのいわゆる「私擬憲法」の中でも先進的な内容であったという。それにしても、自由民権運動のコーナーには、各地で設立された「結社」名が壁いっぱいに貼られていた。全国で2043結社を数えるという。高知の立志社が有名だが、その数が、高知234がダントツで、京都59、熊本53、島根53と続いているのも興味深い。

 現代の護憲運動は、広がりを見せながらも、青年層からの盛り上がりに欠け、閉塞感さえ伴うのはどうしたわけだろう。そんなことにも思いが至るのだった。

 

「近代」の展示の隠れテーマは、<差別>

 以下は、見学の後、新井さんの講義をお聞きしてから、あらためて、展示を思い起こすのだったが、新井さんは、「近代」の隠れテーマは<差別>にあった、という。さらに、歴博の展示のコンセプトは、あくまでも「民衆」と「課題設定」にあり、総ざらい的、教科書的な流れをとらなかった。これは、初代館長井上光貞さん、そして裏方でかかわった、新井さんの先生でもある色川大吉さんらの功績が大きい、と。これまでの歴史といえば、人物で語る歴史、統治者の名で語る歴史が、幅を利かせていた。 そんな視点で、展示を振り返ると、開化の落差としての「被差別部落」の実態、北海道開拓とアイヌ、関東大震災と朝鮮人のコーナーに力点が置かれていたし、労働者としての女性、消費文化の中の女性などにも焦点があてられていた。

 新井さんによると、部落問題に関しては、資料収集の難しさ、その展示の方法の難しさがあったという。現在の展示でも、地域が特定でできないように展示し、様々な配慮がなされ、見学者の写真撮影禁止のコーナーでもある。人別帳での表現、墓石の戒名に特定の文字を入れる地域などの実例が示されていた。

また、関東大震災における流言飛語による「朝鮮人虐殺」を伝えるコーナーでは、当初、文部省から「見出し」に「虐殺」の文字はふさわしくないと使用を止められたが、解説文や映像の中には残した。また、新井さんが異動した後、最近になって、朝鮮人の犠牲者「6600人を上回る」という表現にクレームがつき、「多数」に修正したという事実もあったそうである。歴博は順次、古い展示からリニューアルを進めてきている。近く「近代」も、閉室して、リニューアルの計画なので、どんな展示になるかも不安になってきた。教科書検定と同じ道をたどるのだろうか。

なお、展示パネルには、いわゆる、天皇による時代区分もないし、首相や個人名を挙げての見出しもないのが特徴でもある。ちなみに、展示の中で、唯一、天皇像が登場したのが、下記の「千葉県満州上海事変出征現役名鑑」(昭和7年)というものであった。

 

20161023142942

 

 

 

携帯での撮影、画像不良です。「千葉県満州上海事変現役出征名鑑」

 

 

色川大吉・新井勝紘さん登場のラジオ番組~五日市憲法 明治の草の根憲法から学べ~を聴く(荻上チキ<セッション22201653日放送)

https://www.youtube.com/watch?v=cmWp7Mgc8Fo

 

 帰宅後、五日市憲法で確認したいことがあったので、ネット検索の途中で、上記の番組に出会った。荻上チキの番組は、以前から友人に勧められていたこともあって、たまに聞くことはあったのだが、53日の番組のことは初めて知って、聞いてみた。昼間の話に続く五日市憲法についての詳細な話であったので、興味津々だった。荻上さんは相変わらず饒舌で、電話取材でのしつこいほどの質問に、「もうその辺でいいのではないですか」と色川さんにたしなめられていた。直接の関係はないものの、例の不倫報道の前のことではあったが。


 新井さんや色川さんの話では、五日市憲法の先進性は種々の条文に現れていて、その核心は、つぎの
45条にあるという。

「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ」

 また、86条では「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス」と国会の優位規定もあった。各条文の中身もさることながら、まだ、20代の千葉卓三郎を中心に、深沢家の親子と多くの青年たちが相寄って、西欧の啓蒙書を読み、議論を重ね、自分たちの政治は自分たちの手でつかむという意気をみなぎらせていたことが尊いものだったと。選挙を終えたら、あとはおまかせという現代の政治のありように警鐘を鳴らしていた。今の青年たちは学んでほしいとも。女性の皇位継承を認めたり、独立した地方自治条項を設けたりしていた一方、女性や障がい者の参政権を認めないこともあった。 条文は以下を参考。

http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/img/itsukaichi_kenpousouan.pdf

 

 

 

 

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