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2017年2月22日 (水)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景

「戦跡碑」と「白玉之塔」

渡嘉敷島において、前記事の「集団自決跡地」の碑とともに、前述のように、当初、この地にあって1960年米軍基地収用のために移転を余儀なくされ、1962419日に建立された戦没者慰霊碑「白玉之塔」と曽野綾子撰文による「戦跡碑」という碑の存在も記憶にとどめておかなければならないだろう。

先にも引用した渡嘉敷村のホームページに収録の「本村関係者戦没者数」の表を再掲する。

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 上記「慶良間諸島の沖縄戦」の記事における、下段の<集団自決>の注記について:『沖縄タイムス』『琉球新報』や多くの文献で、「集団自決(強制集団死)」という表現が使用されている。「集団自決」には、「自ら進んで死を選んだ」という死を美化した趣旨で使用されることも多いからだと思う。私は、カッコをつけずに使用するが、とくに強調したいときにカッコを付けて使用している。そこには、これまで知り得たところから、軍の命令や強制力が働いていたという趣旨を含めて使用している

上記の表の防衛隊とは兵力の不足のため住民から招集して兵士になった者をいい、住民としての戦没者は防衛隊42人、一般住民380を合わせた422人ということになる。この数字はホームページ上の「白玉之塔」の記述とも一致し、以下の渡嘉敷村遺族会の資料がもとになっている。この資料によれば、一般住民380人の戦没者の出身地別の内訳は左側の表、また、集団自決者329人という数字は、たしかに様々な文献の記述に見られるが、右の表では330人としている。これらの数字の齟齬は、気になるところで、渡嘉敷村の役場にも問い合わせてもみたが、数字については役場としてどちらが正確とも、いまとなっては確認できないし、並列的に提示している。おそらくは、数字の違いの多くは、聞きとり調査が元になっているからだろう、とのことであった。

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上記の文書は、渡嘉敷村遺族会のもの。「村では毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、慰霊祭を執り行っています」とあり、「玉砕」の語が使用されていることに着目したい。なお、慰霊碑右手前の歌碑には「忘れじと思う心は白玉の塔に託して永久につたえん 中井盛才」とある。作者は元渡嘉敷区長とのことである。

しかし、これらの数字の中には、赤松戦隊の兵士の戦死者の数字が表れない。それに言及しているのが、1979年建立の「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いたのであるが、集団自決の背景には、「家族愛」と「殉国美談」に仕上げたい意図が働いていたかのようだ。

「(前略)3 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 8 23 日、軍は命令により降伏した」

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曽野綾子による撰文であり、1979年2月の日付が見える。当初、曽野は、村からの依頼で撰文をしたためたと言っていたが、のち1988年、「家永教科書裁判」の証人尋問において、赤松戦隊生存者の依頼であることを証言している。曽野綾子は、1973年『ある神話の背景』において、住民の証言を以て軍の命令はなかったと主張していた。なお、「戦跡碑」裏面には「海上挺第三戦隊」となどの記述があるが、「挺進」の間違い

 この「戦跡碑」にある集団自決者394名という数字が他の数字と大幅に異なっている。また、赤松戦隊の将兵315名のうちの死者の数の根拠が不明である。防衛庁の戦史「沖縄方面作戦」によれば、当時の渡嘉敷の兵力は、海上挺進第三戦隊104人、整備中隊55人、特設水上勤務中隊14名と軍夫210人となっている(林『沖縄戦 強制された「集団自決」』39頁)。また、1994年9月には、戦隊の後方支援として海上挺進基地大隊として座間味、阿嘉、渡嘉敷の各島に1000人が投入されたが、1945年2月には沖縄本島に帰っている(。同上120頁)。碑文では、「将兵」とあるので、軍夫は含んでいないのだろう。

 そもそも海上挺進戦隊とは、どんな任務があったのだろうか。陸軍において1944年9月編成され、一戦隊、将兵104人、特攻舟艇㋹(マルレ)100隻を配備した。今回訪ねた秘匿壕跡の説明板にあるように、ベニヤ板製の巾1.8m、長さ5.6mの小さな舟艇で、当初は、爆雷を投下する方法が取られたが、特攻艇となった。ここでは、「人員540人余」の記述がある。これにはたぶん朝鮮人の軍夫が含まれていたと思われる。

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特攻艇㋹(マルレ)秘匿壕の一つ、固い黒色の千枚岩は多く軍夫によって掘られた

 

   今回、渡嘉敷島で訪ねたところを整理してみたが、適当な地図もなかったので、ひとまず手書きの地図を作ってみた。帰りのフェリーに乗って気付いたのだが、なんと「白玉之塔」と伊江島民収容所跡の「記念碑」を訪ねてないことが分かった。案内の方と話に夢中になって、手元のメモを見ることも忘れていたのかもしれない。とくに伊江島の住民が1945年4月に渡嘉敷に1700人、座間味に300人が立ち退きを強制されて移送されてきたのである。その収容所の跡は、ぜひ確かめておきたかった。昨年伊江島を訪ねたとき、まさに伊江島の住民が島を離れている間に、米軍の収用は着々進められていたことを知ったからであった。

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