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2017年6月29日 (木)

71年前のきょう、1946年6月29日、何があったのだろう~<奉安殿>の行方

 きのうの朝日新聞の夕刊「あのとき・それから」の記事で、629日は、GHQの意向を受けた文部省が全国の国公私立学校に対して、「奉安殿」撤去の通牒を出した日と知った。 

 梅雨のさなかのことだったのだなァと、「奉安殿」については、いま思い起こすことがある。私たち家族は、母の実家のある千葉県の佐原(現香取市)に疎開していた。私は、敗戦の翌年4月、佐原小学校に入学している。明治36年(1903)生まれの母が結婚前、教師として勤めていた学校でもある。入学当初の想い出は、情けないことにほとんど消えてしまっているのだが、母の実家から、町の中心部から離れた馬市場の跡、管理人さんが住んでいたという、何本かのつっかえ棒のある古い家に転居した。そこは疎開者にとっては、ありがたい場所だった。一家で、市場の広い草原を畑にして、食料不足を補うことが出来たのである。母は、あの日、近くの農家と共同で使用していた井戸端で、敗戦のニュースを聞いてきたらしく、「日本は負けたんだって」と伝えられたことを覚えている。 

 その翌年、私は小学校に入学した。「ホウアンデン」の前では礼をしなさいと教えられたことは覚えていないのだが、ある日、先生が「あしたからは、ホウアンデンの前で、お辞儀をしなくてもいいことになったのよ」と言われたことは鮮明に覚えている。その日は、朝から雨で、階段の下から「さしていた傘を横にどけて、きちんとお辞儀をしてきたのに」の思いがあったのに、「どうして?」の気持ちであったのだろう。それが、何日のことかはもちろん不明だが、私たち、母と中学生だった次兄の三人は、父や長兄に遅れて、夏休みに池袋の焼け跡に建てたバラックに引っ越している。たった一学期だけでの転校であった。だから、先生の指示は、たぶん、7月の初めか中旬のころだったのだろうか。

 

 

 

 「奉安殿」とは、18901030日、明治天皇から内閣総理大臣山県有朋、文部大臣に下賜されたのが教育勅語と翌年、文部省から下付された明治天皇の御真影を保管するための場所である。全国の国公立学校は神社風の小さな建物や別置するための部屋を設けた。保管場所としての「奉安殿」の建設が盛んに奨励されるようになったのは、1910年代から1930年代で、天皇制教育の象徴的な存在となった。

 

 

 

 敗戦後の奉安殿の撤去について、手元にあった事典とネット検索でヒットした以下の資料でたどってみた。 

 

①多木浩二『天皇の肖像』岩波新書 19887 

 

②籠谷次郎執筆「御真影」「教育勅語」『天皇・皇室辞典』 岩波書店 20053 

 

③白柳弘幸「東京都と神奈川県の奉安殿遺構調査」『法政史学』68号 20079 

 

④小野雅章「戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題」日本大学教育学会紀要 46号(2011年)。著者は、冒頭の記事にも登場し、未見ながら同じ著者による近著に『御真影と学校 「奉護」の変容』(東京大学出版会 2014年)があるようだ。

 

 

 

 冒頭の記事にあった1946629日に至るまでには、曲折があったようである。19451215日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(以下カタカナをひらがなに書き換えた)というGHQから終戦連絡中央事務局経由の日本政府に対しての覚書である。「国家神道の物的象徴となる凡てのものを設置することを禁止する、而して之等のものを直に除去することを命令する」という、いわゆる「神道指令」であった。一週間後の同月22日には、文部次官より地方長官、学校長への通牒には、「學校内に於ける神社、神祠、神棚太麻、鳥居及注連縄等は撤去すること。尚御真影奉安殿英霊室又は郷土室等に付ても神道的象徴を除去すること」とある。その後も、教育現場と文部省とのやり取りの中で、「この際、撤去することを適当と認める」「形式の如何を問わず独立の建物として奉安殿を撤去すべき」「神社形式ではない奉安殿まで撤去する意向ではない」「撤去できないものは原形をとどめないように」とか様々な混乱があったようだ。そして、19466月の文部次官通牒に至るが、必ずしも撤去が徹底していたわけではないようで、各地に、その遺構が見出されることにもつながる。

 

 

 

 文献④によれば、宮内省の「御真影」を新たな制服による写真を再下付するという通達を受けて、19451220日文部次官通牒「御真影奉還に関する件」が出された。「御真影」の一斉回収は実施されたのだが、「御真影」自体を否定するのではなく、基本的な変更はなかったという。 

 

 194645日宮内次官による各省次官あての通牒に付された「御写真取扱要綱」は、「国民が日本国の元首、国民大家族の慈父として深き敬愛の念を以て仰ぎ奉るべきものとし」、写真は仰ぐに適当な場所に「奉掲」するものとするが、「拝礼」を強制してはいけないこと、奉安殿などに「奉護」しないこと、を内容とするもので、これについては、1946710日のCIEの「日本の学校における教育勅語と御真影の取扱い」という覚書で追認される形となった。

 

 

 

 「教育勅語」については、森友学園問題で、系列の幼稚園で「教育勅語」を暗唱させるような教育の実態が明らかになって、にわかに注目されるようになった。1946108日、文部次官通牒により「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考えをなくすこと、式日などに奉読をしないこと、勅語及び詔書や謄本などは学校で保管するものの神格化するような扱いをしないこと」とした。113日日本国憲法の公布、19473月教育基本法の公布を受けて、1948619日衆議院・参議院において教育勅語の排除、執行確認が決議された。こうした経過は、今回の森友学園問題の審議で知られるところとなった。この両院の決議にもとづいて、625日には文部次官通牒により教育勅語の謄本の返還が命じられたという経緯であった。

 

 

 

 朝日の記事に戻れば、戦前、根津嘉一郎が理事長だった旧制武蔵高校が、「奉安所新築」を三度も見送って軍部に抵抗する気骨を示したことやキリスト教系の学校は「建物や設備が整わず御真影を受け取るのはかえっておそれ多い」という理由で先延ばししていた例が書かれていた。

 

 

 

 こともあろうに、2017331日、森友学園の「教育勅語」教育が問題になっているさなか、安倍内閣は、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とした上で、「憲法や教育基本法等に反しないよう
な形で教材として用いることまでは否定されることではない」と、何とも不可解な閣議決定までしたことは、記憶に新しい。

 

 

 

私が「お辞儀」をしていた佐原小学校の奉安殿は、その後どうなったのだろうか。転校した池袋第二小学校の校舎は空襲で焼失、1年生の教室は近くの重林寺の本堂であった。二年になると、子供の足ではかなり遠方の要町小学校に間借りしていた教室に通った。二部授業ということで午後に登校することもあった。新校舎が完成したのは、1947年の夏のことだったろうか。御真影も奉安殿も、教育勅語の記憶は一切なく、学校も、先生もそれどころではなかったのではないか。

 

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小学校一年一学期、佐原の諏訪神社近くの諏訪公園に立っていた「伊能忠敬」の銅像の写生画。画用紙ではないわら半紙のような紙に描いた絵。母が新聞紙などで裏打ちをして残しておいてくれた、私の絵。右肩にくしゃくしゃになった銀色の紙、先生が銀賞をくださったのだろうか、下方には、壁に貼付したような張り紙も見える。母が必死で残してくれた佐原小学校の想い出の品である

 

 

 

 

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2017年6月23日 (金)

なぜ、いま、「斎藤史」なのか~6月12日の「大波小波」に寄せて

「大波小波」では

 もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、612日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取り上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。

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『東京新聞(夕刊)』2017年6月12日




  安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(
201412月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの異例の手段で、可決、成立させた。法務大臣はじめ、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移っても、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れていった。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。

 

斎藤史研究の基礎的な作業は

斎藤史は、194112月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。

 しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998115日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
 
 史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異同などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。

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『朱天』1943年7月15日発行の初版の奥付けと「後記」の末尾。出版会承認3000部とある。スキャンすると、どうしても歪んでしまって・・・

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『朱天』1944年1月15日発行の再版の表紙とカバー。奥付けには出版会承認3000部とある。初版・再版ともに櫻本富雄氏から頂戴したものである

二つの『朱天』が意味することは

ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。

多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異同が生じた理由や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。

 歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。 

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52 

 

 そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。

國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)


 初出は『日本短歌』19412月号、「秋より冬へ」15首の内の1

首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。




現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)



 初出は、『公論』19423月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』19424月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。




神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』
147頁)

 

初出は『文芸春秋』194212月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。 

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『朱天』初版・再版とも頁割は同一で、最終の2頁5首の内、4首が『全歌集』から削除され、収録されたのは、最後の1首であった。綴じが崩れている個所もあって・・・


 『全歌集』刊行の
1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。

それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が226事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。

さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。

占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。


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2017年6月22日 (木)

国会が終わり、世論調査も出そろった、忘れてはいけない!

政治への不信、安倍政権への憤りから、ともかく二つの一覧を作成してみた。政権は、国会が終わりさえすれば、共謀罪も、森友・加計問題も、国民は忘れてしまうだろうと、タカをくくっている。本当にそれでいいのか。

メデイア各社の6月の世論調査が出そろった。結果は以下の通りで、毎日新聞とテレビ朝日の結果で、安倍内閣支持率が逆転した。他の各社も軒並み内閣支持率は急落している。かつて安保関連法案を強行採決した時も、支持率は急落したが、徐々に戻っていたわけだ。だから、政府は、国民はすぐ忘れるもんだと、見守る構え。しかし、今回、私は内閣支持率と「テロ等準備罪」「加計問題」の結果も拾いあげてみた。

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「テロ等準備罪」について、新設自体の賛否で見れば、賛成が4割以上で反対を上回るのは、FNN産経、読売、日経東京テレビの三社の結果であり、他の五社は反対が上回る。質問の仕方・選択肢や調査方法・対象が若干異なるとは言うものの、いわゆる保守・政権よりのメディアが賛成多数となった。しかし、その「テロ等準備罪」の政府の説明や手続きが十分であったか否かについては、「不十分」とする回答が圧倒的に多くなり、64~80%を占める。また、「加計問題」も同様で、政府の説明に納得せず・不十分との回答が66~84.8%を占める、という状況であった。「テロ等準備罪」は成立しても、これから十分議論し、説明がなされるべきだし、それでも不十分ということになれば、廃案への手立ても考える必要がある。「加計問題」について納得できないという国民は、まずは国会を通じて、安倍首相がいう「丁寧な説明」を、臨時国会開催、証人喚問によって果たすべきだし、さらに内部文書の調査には第三者が入る必要も出てくるだろう。

つぎに、今日も、自民党の豊田真由子議員の秘書暴行・暴言事件が報じられ、明るみに出たが、除名とか、離党で処理する問題ではない。こうした事件が続く一方、今国会では、大臣や党要職の暴言放言事件が続いた。一覧表にしてみたが、まだまだ続くだろうし、私が失念しているものもあるかもしれない。教えていただければありがたい。ただただ、この表が膨れ上がらないことを願うばかりだ。「失言」とかミステークの問題ではなく、本音や隠蔽のなせる業で、政治家としての資質が問われる発言であって、その責任は重いはずで、大臣や要職に就いている場合ではないはずである。

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加計問題の行方、これでいいのかはぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官答弁(5)

613日、シンポ「森友問題の幕引きは許さない!」終了、これからは

話はやや前後したが、このブログ記事(6月5日)でも案内した13日のシンポは、国会内外騒然とした中の第一衆議院議員会館で開催された。あいにくの雨模様であったが、参加者の出足は早く、受付の渋滞に、お叱りを受けるほどだった。定員300人の地下大会議室は、ほぼ満席の状態となった。他の会議での入館者が回って来られたり、議員の秘書さんやメディアの方々も錯綜したりしたが、佐倉から来られた友人たちも加わり、受付も無事終了。ただ、入館証を手渡すスタッフは、しばらく会場と入り口とを行ったり来たりであった。

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シンポは、直前まで、法務委員会での共謀罪の質問に立っていた小川敏夫参院議員が駆けつけてこられたが、森友問題の報告を終えてしばらく、やはり参議院審議の山場に備えて退席された。宮本岳志衆議院議員、弁護士の杉浦ひとみさん、ジャーナリストの青木理さん、醍醐聰進行役で、熱のこもった議論が展開された。その模様はユープランさんの動画をご覧いただければと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=HGj6qkog6qw

2時間12分に及ぶ。各パネリストの発言が終わる45分すぎたころから討論となり、森本問題を巡る公文書の在り方、加計問題の文章調査、それを巡るメディア・記者の姿勢、加計問題における事実経過のチェックの必要性などへの発言が続き、会場からの質問は多岐にわたり、野党の追及が数の力で押し切られる現状を打破するには、

日米のトランプ・安倍に対するメディアの姿勢の違いは何か、公務員の守秘義務と国民の知る権利、日本の弾劾制度などなど、ジャーナリスト山口レイプ事件にまで及んだ。

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後ろの方の席からは、パネリストが見えないとの声も。


 

 最後に、第一次集約を控えた「安倍昭恵氏ほか国会証人喚問を求める要望署名」についての報告があった。その後の集計も含めて620日には、衆・参両院の議長あてに届けられた。その数は、以下の通りで遭ったとの報告を受けている。

やはり紙の署名が圧倒的に多く、ネット署名は、比べて少ないながら、そのコメントも収録、誰でも読めるので、お勧めしたい。このコメントは。両議長のみならず、首相夫妻に届けたいものだ。

合計署名数は8,621筆です。


 
 用紙署名数   7,710
 
 ネット署名数    927
 
  合 計    8,637
 
  うち、超複数   16
 
  差し引き純計 8,621筆 

 *ネット署名/メッセージの集約状況の閲覧サイト
              → http://bit.ly/2r68HhH

なお、この署名に遅れて、加計問題を含めた、新しい署名も始めている。日に日に細かな情勢が変わり、流動的でもあるが、私たちの基本的な要望の声を届けたいと思った。ぜひ、一度、以下もあわせてご覧いただけたらと思う。

森友・加計問題は、まだ解明できていない。これからが正念場だろう。

*この署名用紙のダウンロードは→ http://bit.ly/2rg198t  からできる。

*ネット署名は次のフォームで。
 
 http://bit.ly/2rOxgOd 

  メッセージも記入でき、名前やアドレスはもちろん公開はしない。

追記:作成中の関係年表は、いずれ発表したいと思っている。

 

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加計問題の行方、これでいいのか~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官答弁(4)

「ワーキンググループのヒアリング」「分科会」っていうけれど

安倍首相は、加計問題に一切関与してないとの説明の中で、参院のどの委員会であったか、「分科会、分科会では、議員はご存じないかも知れないが、ご存じないでしょ」と得意げに前置きをして「分科会には、獣医学の専門の方二人からも意見を聞いて、十分議論をしてもらっているし、私が関与する余地などない」という趣旨の発言をしていた。国家戦略特別区域諮問会議のなかに、区域会議があることは知っていたが、今治市の「分科会」で、何が検討されたかは確認してなかった。早速調べてみると、2016921日、2017112日の2回開催されている。

今治市分科会http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari.html        

  

 

回数

 
 

開催日

 
 

会議関係資料

 

2 

平成29112

議事次第(PDF形式:50KB                                                     
配布資料
議事要旨(PDF形式:284KB  
 

 

1

 
 

平成28921

 
 議事次第(PDF形式:95KB     
 
配布資料
 
議事要旨(PDF形式:334KB     
 

 

 

 

上記の議事要旨をみればわかることなのだが、首相が、胸を張って民間有識者が参加して議論したというが、その内実は、すでに、事業者が加計学園に決定した後の第2回の分科会で、「民間有識者」2名が、意見というか質問を投げかけている場面があるだけなのである。その2名の有識者は、獣医師養成現場から、加計学園の新設獣医学部のカリキュラムについて、次のような疑問を呈していただけなのである。

 植田富貴子教授(日本獣医生命科学大学獣医学部)は「1点だけ教えていただきたいのですが」として、「56年でアドバンスト(選択)科目をやることになるということは、14年でコア・カリキュラムを全部終わらせることになる。コアからの出題が多い国家試験には、どう対応するのか」の主旨であった。加計側からは、臨床実習前の共用試験後も掛け持ちのスタッフもあるかもしれないが対応できる指導体制をとる、という心もとない答弁であった。

猪熊壽教授(帯広畜産大学畜産学部)は、「今日の御説明にはなかったけれども」との前置きで「1年生のときから獣医師のいろいろな職域について教える、体験させるという取り組みについて、必須科目ということになると、160人という学生を具体的にどういうところで参加型臨床実習をさせるのか具体的には述べられていない、就職先についても、ライフサイエンス、公務員獣医師産業動物獣医師などへの対応にも不安がある、との発言がなされていた。その答弁といえば

「カリキュラムを組みながらなら、なかなか難しいところ」「参加型実習は、難問で」とか、就職先は広域的に ということらしいが、回答にはほど遠い。 

 

  獣医学専門の民間有識者の発言は、それぞれこの1回きりである。安倍首相は、専門家からのお墨付きをもらったかのような口ぶりだったが、すでに、応募事業者が加計学園だけであることが確定した17111日の翌日に開催された今治市分科会でのやり取りだったわけである。


質問した野党は、首相の答弁に「おかしいじゃないですか」とクレームをつけるだけでなく、問題の核心に迫る「事実」を突き付けて、切り返さないといけない。例えば、諮問会議の議長たる首相が任命する民間有識者のたった一度の発言、それも、上記のような疑問を持っていたことを指摘するべきではなかったか。内閣府のHPを検索すればすぐ出てくる資料だ。首相に「知らないでしょ!」と言わせる手はなかった。

そもそも、分科会設置の根拠は?

 そもそも、「分科会」設置の根拠はどこにあるのか。自分で調べたり、内閣府や今治市に問い合わせたりしているのだが、いっこうにラチがあかない。明文での根拠がないのだ。今治市分科会のみならず、各分科会の第1回で、運営規則の細則は提示されるが、分科会自体が何を根拠に立ち上げられるのかは不明のままである。

その後、今治市の担当者からは、回答があって「たしかに明文の根拠はないが、第1回の区域会議で了承されている」というのだ。もう一度検索してみる。

2016年3月30日の第1回の区域会議の議事要旨によれば、「資料3」を提示して「『今治市分科会』の設置について」として、「今治市固有の具体的な事業、今治市で御活用いただける可能性のある項目につきまして、新たな制度改革、規制改革について重点的、集中的に取り組む仕組みを、こういった分科会という形で議論いただくという趣旨で、その成果を区域会議に提案をしていただく」とあった(12頁)。

その「資料3」「今治市 分科会の設置について」では、趣旨として「広島県・今治市国家戦略特別区域の区域方針の早期実現に向け、今治市において、区域会議の下に「今治市分科会」を設置し、区域方針に記載している7つの項目に資する、新たな制度改革・規制改革について重点的・集中的に検討し、その成果を区域会議に提案する」とある。その7つの項目の一つが「国際教育拠点の整備(獣医師系(ライフサイエンスなどの新たに対応すべき分野)であったわけである。その構成員としては、基本的に、国(内閣府)、自治体(今治市)及び民間事業者の三者によるものとするが、必要に応じ、オブザーバーを参画させることができることとする、としている。

1回の今治市分科会について、上記の「議事要旨」を見ると、その出席者は、以下の通りで、国会審議の参考人としてしばしば登場した、会議の進行役の藤原豊内閣府地方創生推進事務局審議官や佐々木基内閣府地方創生推進事務局長の名もある。*

 

* 第1回今治市分科会出席者
<国> 山本 幸三 内閣府特命担当大臣(地方創生、規制改革)

佐々木  内閣府地方創生推進事務局長

<自治体>  良二 今治市長

<民間事業者> 加戸守行 今治商工会議所特別顧問

<民間有識者> 八田達夫 アジア成長研究所所長 大阪大学社会経済研究所招聘教授

<オブザーバー> 浅野敦行 文部科学省高等教育局専門教育課長

 政彦 農林水産省消費・安全局畜水産安全管理課調査官

山下一行 愛媛県地域振興局長

渡部 浩忠 越智今治農業協同組合代表理事専務

西原孝太郎 公益社団法人今治青年会議所理事長

<事務局>藤原豊 内閣府地方創生推進事務局審議官

 

  上記、菅市長、加戸元愛媛県知事はじめ地元の人たちと八田(民間有識者)特区議員の「獣医学部新設の要望」の熱意は伝わってくるものの、それを裏付ける獣医学・医学・薬学的などの具体的な提案がなく、創薬、危機管理人材育成、獣医師の偏在、教育カリキュラムの特色などに言及するものの、それまでの1~2頁程度の提案書をなぞる程度のものであった。

アドバイザーとして参加している文科省の浅野専門教育課長は、当日配布資料の2015630日の閣議決定、いわゆる「石破4条件」の要件が満たされるかが重要だと述べた。

*獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討 ・現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化し、ライフサ イエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が 明らかになり、かつ、既存の大学・学部では対応が困難な場合には、近年 の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

農水省林調査官は、獣医学部の新設は、学校教育法に基づく文科省の告示により規制されている中、引き続き獣医師の需給に関する情報等を収集・整理して、必要に応じて文科省等に提供する、と述べた。

前回の「加計問題の行方、これでいいのか(3)」(619日)の末尾の「加計学園獣医学部構想資料の推移」でもわかる通り、今治市は、20156月の特区ワーキンググループのヒアリング以来、1~2頁の資料しか公表していない。少なくとも、京都府・京都産業大学は、20161017日におけるヒアリングで、詳細な提案書を公表している。繰り返しになるが、加計学園、京都産業大学両者の提案書は、以下をクリックして欲しい。

 

〇愛媛県・今治市提案資料(提案書1頁・添付資料2頁)
ワーキンググループのヒアリング(201565日)(16分)

(提案書)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h27/150605imabari_shiryou03.pdf
(添付資料)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h27/150605imabari_shiryou02.pdf

京都府提出資料「京都産業大学 獣医学部設置構想について」(21頁)

ワーキンググループのヒアリング(20161017日)(32分)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h28/teian/161017_shiryou_t_1.pdf

 

 それまでは、12頁の獣医学新設構想でしか進めてこなかった今治市・加計学園側、内閣府・官邸は、かなり慌てて、焦ったに違いない。今回、国会閉会後、新しく文科省から出た1021日「萩生田副長官ご発言概要」がそれを推測させるに十分ではないか。異様な“スピード感”をもって119日の諮問会議への「加計」絞り込み作戦が、強行されたことが伺える。

加計側の新獣医学部構想は、事業者が加計学園に決まった今年の112日に、初めて公表されたことは前述のとおりである。

ワーキンググループだ、分科会だと、あたかも厳密な議論や協議がなされているかのような口ぶりで、安倍首相や内閣府や首相官邸レベルの関係者は語り、議事録を公開しているからという。だが、その実態は、会議中に配布の、あらかじめ内閣府地方創生推進事務局が作成した添付資料や参考資料の説明すらなく「異議なし」で進行する場面があまりにも多すぎる会議であったのである。

役所内で交わされる文書やメール、ある時は口頭でなされたときのメモ、すべてが公文書である。内閣府や官邸の周辺は、記録がない、記憶にないと突っぱりながら、文科省から出てきた公文書は、承知してない、虚偽だ、不正確だと言い募るのは見苦しい。

文科省では、すでに内部からの義憤で、明らかになった文書があるが、内閣府の関係者も勇気をもって、明らかにしてほしい。

閉会中の国会審議も、あるいは第三者によるチェックもぜひ実現して欲しい。6月20日、松野文科相が追加発表した後に、義家副大臣ととも、不正確な情報も混じっている文書を発表したことを「詫び」ていたが、いったい何なのか。官邸からの圧力だったのか。謎は深まるばかりである。

 

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2017年6月19日 (月)

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に   

 加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。

 今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。

 歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。

Img293

 


 空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、
この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。

 

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戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 

 

はじめに

 

拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。

 

『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(19031983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。


 『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。
 

 

窪田空穂が選ぶ「短歌」欄


一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(
18771967)であった。

 

・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく

(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)

 

・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも

(同上 奈良 松谷千鶴子)

 

入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。

 

・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり

(西宮 徳山くら)


・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し

(京城 丘志津)

・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり

 (東京 浜田彰子)

 

やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり

 (鹿児島 立山成子)


 一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。

『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。

一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。

一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。

・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ

(東京 中越愛子 一九四四年九月)

・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず

(島根 森蔦子 同上)

・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず

(窪田空穂 同上)

・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ

(同上)


 さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。


・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも

(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)

 

・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ

(三重 室井きよか 同上) 

・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ

(窪田空穂 同上)

・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力

(同上)

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『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」

 

選者、窪田空穂にとっての敗戦

ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」


なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。

そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到るのだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。

「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」


『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。

『新女苑』に登場した女性歌人たち

女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(18981978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。

・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる

(五島美代子 一九四一年三月)

・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ

(五島美代子 一九四二年一一月)


また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子
18951980)もつぎのような歌を寄せる。


・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々

 (中河幹子 一九四三年七月)

・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず(同上)


 五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(
19092002)も、短歌をたびたび寄稿する。

・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌

(斎藤史 一九四一年三月)


・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ

(斎藤史 一九四二年九月)

 

 しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。

(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)


<参考>
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いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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加計問題の行方、これでいいのか~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官答弁(3)

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共同通信世論調査、2017年6月18日、先月5月より不支持10ポイント上がる

 私は、必要があって、加計問題の経過年表を作ってみた。その作業の中で、今回問題になっている内閣府や文科省の内部文書やメールの一部が確認されて、その全貌や経過がかなり明らかになった。本来の「情報公開法」の趣旨に反する「黒塗り」の情報公開を許してはならないし、さらに追及を強化しなければならないだろう。

 同時に、だれもが閲覧できる、公開されている以下のような会議の「議事要旨」と配布資料を見ても、かなりの部分が浮き彫りになる。次から次へと出てくる内部文書も大事だが、すでに公開されている確かな会議録や資料を精査し、詰めて行くことも大事なのではないか。追及する野党は、感情的な、情緒的な質問ではなく、周到な準備と緻密な論理をもって、臨んで欲しい。菅官房長官の「切り捨て」、安倍首相の「イライラ」答弁の繰り返しを、すでに多くの国民の知るところとなったのだから。

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「国家戦略特区諮問会議」~誰が誰に諮問するのか

安倍首相は、「規制緩和の抵抗勢力を打ち破るには、岩盤規制に穴をあけるのには、首相の指導力で突破する」と豪語し、201312月「国家戦力特別区域法」を制定、141月「国家戦力特別区域諮問会議」を立ち上げ、みずから「諮問会議」の議長になっている。「諮問」とは、誰が誰に諮問するのか。行政府の審議会や首相の私的な諮問会議や有識者会議にしても、その成り立ちから、首相みずからが参加することはないはずなのに、特区の諮問会議には議長として、にらみを利かせるのだから、もはや、本来の「諮問」会議ではないだろう。会議終了後には、プレスを入れてのコメントで、その日の会議の成果をお披露目するのが慣例だ。そして、諮問会議の構成は、政府・内閣府の担当者と安倍首相の任命による民間有識者議員からなり、議題により、特区関係者が臨時議員として参加する。運営規則によれば、議事録は4年後に公表するとあるのが、これも納得のいかない規制である。私たち国民は、当面、「議事要旨」しか閲覧することが出来ない。それに、構成メンバーだが、第一に、前述のように首相が議長をつとめる矛盾があり、さらに、民間有識者議員の選任が恣意的であることは他の審議会と同様であると同時に、例えば、竹中平蔵議員などは、特区による規制緩和の対象事業者の役員にもなっていることから、ずばり利害関係者であって、公平性に欠けていることである(外国人材の家事、農業への導入の事業者に指定されている人材派遣会社パソナの会長でもある)。

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たとえば、第25回、2016年11月9日の諮問会議の出席者。この日に、以下の「資料3」「資料4」が添付され、「広島県・今治市」が特区指定され、「国家戦略特特区のにおける追加の規制改革事項について」の一事項として、「獣医学部の新設」が決定するが、提案者の今治市の関係者は出席していない。この前日には、すでに、この資料が内閣府から今治市に伝達されていたことは、「不適切であった」と謝罪されている。

「資料3」では第一事項で、問題の「広域的に」が挿入された文書になっている。「資料4」の「2.追加の規制改革事項について」と題して、有識者議員の意見として提出されたものだ。

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通常の諮問会議の「議事要旨」と添付資料から見えて来るものがある。地方創生担当大臣が進行役を務め、議事に係る配布資料による説明がなされる場合と資料を示すだけで、意見を求め、大方は、「異議なし」の声で進行する。「獣医学部新設」が論議されたのは、第14回(2015629日)、第18回(20151215日)、第25回(2016119日)、第27回(2017120日)の諮問会議であったが、いずれも2030分前後で終わる短い会議である。119日の第25回では、例の「広域的に獣医師養成系大学等の存在しない地域に(おいて⇒)限り」のフレーズが含む添付資料の「資料3」「国家戦略特区における追加の規制改革事項について(案)」には、二つの項目の一つ「先端ライフサイエンス研究や地域における感染症対策など、新たなニーズに対応する獣医学部の設置」という6行の文書が添付されていて、すでに、上記のように追加・修正されていた(ここでは赤字で示した)。そして、進行役の山本(幸三地方創生担当大臣)議員は、会議の最後の最後で、「それでは、「資料3」につきまして、本諮問会議のとりまとめとしたいと思いますが、よろしゅうございますか」「異議なし」の声で、決定されたのである。「資料3」の文章に即しての説明は一切なされいない。今国会の会期末の文科省側の文書再調査によって、上記の追加文言「広域的に」が萩生田光一官房副長官から藤原豊審議官にもたらされたという文書が出されると、山本幸三大臣は、参院予算委員会での質疑で、「広域的に」の文言の挿入は、自分が藤原審議官に指示したと言い出した。官邸側人物の身代わりとなって、官邸の防波堤となったことを推測させる。ならば、なぜ、先の諮問会議で、山本大臣は、「広域的に」を挿入した趣旨を説明しなかったのか。

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 もっとも、最後の「資料3」の採決に先立って、有識者会議が提出した資料4「国家戦略特区 追加の規制改革事項などについて」による「獣医学部の新設」について、代表して八田達夫議員がかなりきわどい賛成意見を述べている。前段では、「創薬プロセス等の先端ライフサイエンス研究では、実験動物として今まで大体ネズミが使われてきたのですけれども、本当は猿とか豚とかのほうが実際は有効なのです。これを扱うのはやはり獣医学部でなければできない。そういう必要性が非常に高まっています。そういう研究のために獣医学部が必要だ」と述べるが、新設であることの説明にはならないだろう。

さらに、「口蹄疫とか、そういったものの水際作戦が必要なのですが、獣医学部が全くない地方もあ」り、大学設置基準により、過去50年間、獣医学部は新設されなかったものを、文科省告示で改正できるようになることを評価した。後段では、麻生財務大臣の、法科大学院や柔道整復師の規制緩和による失敗を例に挙げ、規制緩和は大いにやるべきことだが「上手くいかなかった時の結果責任を誰がとるのかという問題」を指摘、学生や関係者に迷惑をかけることまで考えておく必要があると、クギをさしていた。ところが八田議員は、「麻生大臣のおっしゃったことも一番重要なことだと思うのですが、質の悪いものが出てきたらどうするか。これは、実は新規参入ではなくて、おそらく従来あるものにまずい獣医学部があるのだと思います。そこがきちんと退出していけるようなメカニズムが必要で、新しいところが入ってきて、そこが競争して、古い、あまり競争力がないところが出ていく。そういうシステムを、この特区とはまた別にシステムとして考えていくべきではないかと思っております」と、既成の獣医学部への攻勢が顕著である。特区とは別のシステムとして振り払っているが、既成の獣医学部は、これを聞いて怒るのではないか。

さらに、資料4の追加事項の説明で「かねてより準備を勧め具体的な提案を行ってきた自治体を中心に、具体的なプロジェクトとして、実際の獣医学部立ち上げを急ぐ」必要があると記載されているではないか。「今治市」「加計」の文字こそ出てこないが、「加計ありき」の傍証だろう。

加計学園の新獣医学部構想の詳細はいつ提出されたのか

加計問題の一連の流れを見ていて、私は、もう一つ気になることがあった。テレビの報道番組で、加計学園が提出した新獣医学部構想(今治市)と京都産業大学が提出した新獣医学構想(京都府)のボリュームと中味の違いが指摘され、前者の書類が2頁ほどなのに比べ、京産大は、20頁を超えるという、情報だった。私も調べてみると、つぎのような経過をたどることが分かった。

加計学園が、構造改革特区に名乗りを上げた時代は、以下①②のような十数頁の提案申請説明資料を提出していた。しかしどうだろう、国家戦略特区になってからは、番組指摘のように、今治市・加計学園からの新獣医学部構想が記された資料が出てこない。私たちが目にするのは、201565日の内閣府のワーキンググループのヒアリングを受けた時の資料③愛媛県・今治市の提案書と添付資料、合計3頁の資料が最初である。

国家戦略特区諮問会議に先立ち、あるいは、合間を縫って、「区域会議」が開催される。広島県・今治市特区区域会議は15330日に第1回目が開催された。以降、いくつかの特区から進捗状況の報告や提案がなされる合同区域会議として今日まであわせて3回(15930日、2017120日、516日)3回開催されているが、実施的な論議は困難な状況である。そこでの配布資料によれば、上記の③であり、その後の今治市の獣医学部新設の提案資料は⑥⑦で、いずれも12頁のペーパーに過ぎない。つぎの構想資料の推移で見るように、本格的な獣医学部構想が提案され、私たちが知り得るのは、京都産業大学は、20161017日「ワーキンググループのヒアリング」での⑧京都府提出資料「京都産業大学 獣医学部設置構想について」(21頁)であり、加計学園に至っては、2017112日に事業者が加計学園に決定した直後になって、はじめて、詳細な構想ともいえる2017112日「第2回今治市分科会」への提出の⑩「広島県・今治市 国家戦略特別区域会議の構成員の応募について」(28頁)であり、同文の⑪が提出されるのは第27回諮問会議の120日であった。23頁の提案書と若干の説明で、内閣府や文科省、農水省、厚労省などの岩盤規制を突破してきたことになる。前述の八田議員による「かねてより準備を進め具体的提案を行ってきた自治体を中心に」の根拠にはなりにくい。構造特区時代の申請提案資料は、その提案書の体裁をととのえていたが、現在からみれば、掲載のデータは古いし、定員も現在の160人より少ない既存大学並みの120人となっていた。

諮問会議の議員たちは、詳しい提案書、提案資料を見ることもなく、120日の⑪提案資料をはじめて示され、今治市の区域指定、事業者は加計学園と決定したことになる。

一方、京都府・京都産業大学は、20161017日のワーキンググループのヒアリングで「京都産業大学 獣医学部設置構想について」(21頁)を提出している。これは一体どういうことなのだろうか。私には理解に苦しむ。私の見落としがあるかもしれない。ぜひご教示願いたいと思う。

つぎに、関係者の実質的な討議がなされとされるヒアリングや区域会議、分科会の実態について検証しておきたい(続く)

加計学園獣医学部構想資料の推移~付京都府(京都産業大学)資料~(赤字)

➀愛媛県・今治市提案説明資料(構造改革特区時代20086月)

http://www.city.imabari.ehime.jp/kikaku/kouzoukaikaku_tokku/siryo13_01.pdf#search=%27%E5%8A%A0%E8%A8%88%E5%AD%A6%E5%9C%92+%E7%8D%A3%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E6%A7%8B%E6%83%B3+%E6%8F%90%E6%A1%88%E6%9B%B8%27

②愛媛県・今治市(構造改革特区時代200911月)

 http://www.city.imabari.ehime.jp/kikaku/kouzoukaikaku_tokku/siryo16_01.pdf#search=%27%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%94%B9%E9%9D%A9%E7%89%B9%E5%8C%BA+%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C%E3%83%BB%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%B8%82+%E6%8F%90%E6%A1%88%E8%B3%87%E6%96%99+2009%E5%B9%B411%E6%9C%88%27

 ③ワーキンググループのヒアリング(201565日)(16分)

愛媛県・今治市提案資料(提案書1頁・添付資料2頁)

(提案書)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h27/150605imabari_shiryou03.pdf

(添付資料)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h27/150605imabari_shiryou02.pdf

 ④特区合同区域会議・第8回関西圏区域会議(2016324日)

「新たな獣医学部・大学院研究科の設置ため」(追加規制改革事項)1/2

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/160324goudoukuikikaigi/shiryou4.pdf

 ➄定例の関係省庁への要請(20166月)京都府

「創薬分野等における新たな獣医師の育成について」2p

http://www.pref.kyoto.jp/seisakuteian/documents/280608_32.pdf#search=%273%E6%9C%8824%E6%97%A5+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E3%83%BB%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%A4%A7%E3%81%8C%E7%8D%A3%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E6%96%B0%E8%A8%AD%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88%27

 ⑥第1回今治市分科会(2016921日)

「認定申請を行う特定事業」

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari/dai1_shiryou3.pdf1p

「獣医師養成系大学・学部の新設について」(特別顧問加戸守行提出資料)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari/dai1_shiryou4.pdf2p

 ⑦第2回広島県・今治市特区区域会議(2016930日)
「認定申請を行う特定事業」
「追加の規制改革事項」(加戸守行特別顧問921日分科会説明資料と同文)(合わせて2phttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/160930goudoukuikikaigi/shiryou3.pdf

 ⑧ワーキンググループのヒアリング(20161017日)(32分)

京都府提出資料「京都産業大学 獣医学部設置構想について」(21頁)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h28/teian/161017_shiryou_t_1.pdf

161017日付)

 ⑨定例の関係省庁への要請(201611月)京都府

「創薬分野等新たなニーズに対応する獣医学部の設置について」(3p

http://www.pref.kyoto.jp/seisakuteian/documents/281125_25.pdf

 2回今治市分科会 2017112日)

「広島県・今治市 国家戦略特別区域会議の構成員の応募について」(28頁)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari/dai2_shiryou6.pdf17110日)(27回諮問会議資料と同文)

 ⑪第27回国家戦略特区諮問会議( 2017120日)
資料6「広島県・今治市 国家戦略特別区域会議の構成員の応募について」(28頁)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari/dai2_shiryou6.pdf#search=%27%E5%8A%A0%E8%A8%88%E5%AD%A6%E5%9C%92+%E7%8D%A3%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E6%96%B0%E8%A8%AD+%E6%8F%90%E6%A1%88%E6%9B%B8%2717110日付)

⑫第3回広島県・今治市国家戦略特区区域会議(2017120日)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/170120goudoukuikikaigi/shiryou2.pdf

  

 

 

 

 

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2017年6月10日 (土)

加計問題の行方、これでいいのか(1)(2)

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 今年のアジサイの花の色は、鮮やかなような・・・

 

加計問題の行方、これでいいのか

~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官

答弁(1)

 肝心な時に国会中継をスルーするNHK 

NHKが中継する国会質疑を見ていると、ニュース番組では、なかなかわからないことも分かって来る。たとえば、65日の参院決算委員会での加計問題の質疑を見ていて、当方もいらだつことが多かったが、近頃の安倍首相も、かなりいらだっていることは明らかだった。答弁に窮する場面では、質問には答えず、聞かれてないことを延々としゃべる。ヤジが飛べば、「静かにしてくださいよ、人が誠実に話しているのに」「落ち着いて、落ち着いてくださいよ」「○○さん、ヤジはやめましょうよ」と名指しまでする。そのくせ、人の質問中には、自分の席からは、平気でヤジったり、指をさしたり、隣の麻生大臣とニヤニヤと私語を交わしたりする。首相たるもの、ヤジぐらいでオタオタするな。これほど、マナーも、教養も備えていない首相をいただいた不幸、しかし、歎いているばかりはいられない。

 第一、NHKが、この国会中継をするかしないかの基準は、随分と曖昧で恣意的なのである。問い合わせると、返ってくる答えは、国民の関心とNHKによる総合的判断の結果であるという。番組表に、中継表示がない場合、国会中継をするのか否かは、前日の夕刻までに判断するのだという。さらに、議事が延長した場合、中継を継続するか否かは、直前までその判断が伝えられない。これは、一昨年の安保関連法案の審議の時に知った。ことほど左様に、NHKは、国会中継に消極的である。国民の関心事より政府への配慮が顕著なのは明らかである。

 さらに、中継しても、午前中の分は12時のニュースでしか報道せず、7時や9時のニュースでは省略してしまう。また、まったく中継をしなかった場合は、ニュース番組内で伝えることは、めったにない。

 もっとも、以下の衆・参議院のインターネット中継のサイトでは、会議名をクリックすれば、開会中であれば、中継が見られるし、検索により録画も閲覧できる。(続く)

参議院インターネット中継

http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

衆議院インターネット中継

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php

 

加計問題の行方、これでいいのか

~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官答弁(2)

NHK報道の現実

68日のNHK「ニュース7」は、以下のように、国会のニュースは皆無であった。菅官房長官の記者会見も一切報道されなかった。

その「ニュース7」のニュース項目で振り返ってみよう。カッコ内の時間は、私が録画の時刻表示によって計った。合計28分となり、そのあとの気象情報に続く。

①福岡の母子3人殺人事件(610秒)+⑦続報(120秒)

FBIコミー前長官、議会に文書提出・トランプ大統領の捜査妨害(510秒)

③日本原子力開発機構大原研究所での被ばく事故(350秒)

④イギリスの総選挙(420秒)

⑤渋谷暴動事件、容疑者の45年の逃亡生活(210秒)

⑥ホンダの自動運転技術実用化へ(110秒)

⑧宮里藍 ⑨村田諒太 ⑩プロ野球速報(合わせて350秒)

 

このNHK報道の現実を見て、どう思われるだろうか。公共放送のニュース番組なのだろうか。もともと、NHKのニュースは、必要以上に、事件・事故、災害、スポーツに関する報道に時間を取り、この日は北朝鮮のミサイル打ち上げこそなかったが、北朝鮮脅威とともに、宇宙・医療・ITなどの科学トピックスや街の話題的なネタも好んでというより、重大な政治・経済ニュースを避けたり、薄めたりするために、大々的に報道して、限られたニュース番組を占拠することもある。8日の「ニュース7」も典型的なパターンで、28分の枠の中で、730秒を殺人事件にあてた。そして⑥の自動運転技術の実用化などは、速報性もなく、この日の項目にする必然性はない。②や④の海外情報も大事ではあるけれど、国内の国会での重要な論議をすべて無視したのは、政府に不都合な情報は流さないという、「政府広報」に徹した証だろう。

世論の動向が一番だと思うが、この日の、菅官房長官の記者会見の答弁で窮地に立たされたことが、翌日69日の文科省の内部文書再調査に繋がったともいわれる重要なやり取りであったわけである。それを報道しなかったという、NHKの報道姿勢の劣化はぬぐいようもない。 

私は、この日68日、NHKの参議院国会中継がなかったので、参議院のインターネット中継で、いくつかの委員会の審議を閲覧した。加計学園問題や共謀罪が取り上げられるはずだったからであった。

 

68日、参議院インターネット中継を見た

国会では、共謀罪、加計学園問題などが、いくつかの参議院委員会で議論されていたにもかかわらず、結論的に言えば、NHKの国会中継は一切なく、上記のようにその日の夜のニュースでは一切報道されなかったのである。私は、この8日は、時間の都合もあって、午後からインターネット中継と録画で、以下のいくつかの委員会をハシゴする形となった。 もちろん断片的ではあるが、関心ある方は、録画でぜひ確かめていただきたい。これらの一部は、当然のことながら、民放の報道番組では、取り上げられていたのである。

 

内閣委員会(2017年6月8日):

山本太郎議員 昼過ぎに、参議院内閣委員会の中継を見ると、山本太郎議員が質問に立っていた。行政文書の情報公開が、民主主義の根幹であり、憲法の国政調査権に基づいての文書公開を迫っていた。後半は、「国家戦略特別区域法」がうたう岩盤規制の改革突破の名のもとに、いかに不透明な、理不尽な特区事業が実施されたことについてあらためて知ることになる。例に挙げたのは、安倍首相と加計学園ではなく、「解雇特区」とも呼ばれる労働者派遣事業の規制緩和の一つ、神奈川県、東京都で展開される家事代行サービスに外国人材導入を例に、特区諮問会議の民間議員竹中平蔵が人材派遣会社パソナの会長であることを質していた。パソナは、神奈川県、東京都でも、特区の事業者として認定されている。特区の民間議員は、首相の任命であることから、「お友達」であっても不思議はない。岩盤規制にドリルで穴をあけるどころか、首相指導の「利権特区」ではないのか。

山本議員の質問の後は散会となったので、録画で、さかのぼって、田村智子議員と桜井充議員の質問を閲覧した。こうした質疑を通して、政府関係者の答弁の無内容~記憶にありません、承知していません、差し控えさせていただきます、今治市の責任での文書でございます、などが繰り返され、山本幸三地方再生担当大臣に至っては、下を向いてボソボソと自信のない言語不明瞭な答弁が続く光景をまのあたりにする。 

田村智子議員は、201629日 今治市の市議たちが、内閣府の地方創生推進室を訪ね、藤原豊次長、審議官他と面談し、藤原次長が、今治市に獣医学部を新設しても、人口減の時代、学生が集まるのか、今治市の財政負担などについて懸念を示したという出張報告書を入手、その内容を、藤原次長に質せば、会ってはいるが、その内容は定かではない、との答弁。田村議員は、その後、119日の第25回諮問会議で特区今治市の獣医学部の事業者として加計学園が急に固まるまでに何が起きたのかに焦点を絞る。



桜井充議員も、情報公開法について質していた。審議過程に係る文書は公開できないが、審議終了後には公開しなければならないのに、なぜ公開しないのか、の質問には、佐々木基地方創生事務局長は、審議終了後であっても、検討・協議過程以外の文書であっても、それを公開することによって、国民に混乱を招き、将来同種の案件について悪影響を及ぼし、支障をきたす場合は、公開できないと、見当はずれの答弁をしていた。今や、国民の混乱を招くのは、むしろ公開しないからでであって、国民の大半は公開を望んでいる公文書ではないのか、とも思えるのだ。

今治市側から入手した複数の行政文書に「内閣主導にて不透明に進行する」「内閣府が考えているスケジュール感に対応するために」という文言がでてきたり、20184月の加計学園獣医学部開学のスケジュールが先行したりする文書の存在を示せば、それは、あくまでも今治市の責任で書いた文書で、自分たちは承知していない、その内容は不正確だと藤原次長は答える。また、201542日には、内閣府を訪ねた今治市の職員が、予定を変更して、首相官邸にいたことが伺われ、その時間帯の「首相動静」によれば、下村文科大臣と山中伸一事務次官が面談していることになっていることは何を意味するのか。特区の担当は内閣府なのに、なぜ、提案者側の今治市職員が官邸を訪ねるのか、の疑問に迫った。また、事業者が決まる前に、201610月には、今治市は、加計学園による予定地でのボーリング調査を承諾していることも不可解だとする。

さらに、中村時広愛媛県知事はこの4月の記者会見で、長年の大学誘致をあきらめていた頃「内閣府から助言があって、国家戦略特区で出したらどうかということだったので、出したら許可が下りたということですので、その国サイドのことについては、私は何があるのか、どういう議論があったのかは分かりません」の発言があり、後で、内閣府からは「誤解がある」とのクレームが付く一件も質された。答える藤原次長の痛々しい、苦しそうな姿は、財務省の佐川理財局長にも通じ、情けない。つい、それぞれのご家族の気持ちはいかばかりかと、思いを馳せてしまうのだ。どんなに出世したとしても。

 

法務委員会(2017年6月8日):

また、次に閲覧したのが、参議院法務委員会で、福山哲郎議員の「共謀罪」新設法案、「テロ等準備罪」新設法案についての質問がなされていた。政府が、盛んにいうのは、この法案が通らない以上、国際的組織犯罪防止国際連合条約=TOC条約が締結できない、締結国と組織犯罪についての情報が共有できない、従って、オリンピック開催時のテロが防止ができないという論法なのである。

福山哲郎議員は、そもそも、TOC条約は、趣旨・内容から、アメリカの911事件以前に成立し、その「立法ガイド」(解説)では、人身取引、密入国、銃器取引などを防止し、マネーロングを防止するのが目的の一つで、テロ等準備罪には触れていない、さらに、政治的な意味合いのあるテロ防止をこの条約の対象から除外するとまで記されている、というのだ。また、外務省条約局の職員が、その解説においても、「テロ防止」には一切触れていない、とも。この条約の批准のために「テロ等準備罪」を新設するのは論外だとし、法案の第62項、2項の2に見るように、集団に属していなくとも、捜査の対象になるということではないか、の質問には、金田法務大臣は答えらえず、刑事局長からは、集団に属していなくとも、周辺の者、密接な者、関わり合いのある者ものは対象になるという、驚くべき答弁であった。さらに、報道でも取り上げられていた、国連の特別報告者による今回の法案はプライバシーの見地から非常に問題があるとの安倍首相への書簡を個人的な意見だとして拒み、抗議し、安倍首相国連事務総長との懇談で、あの書簡は、国連の総意ではない、という言質を取り付けたという点に対して、その事実を問い質せば、岸信夫外務副大臣は外交上の発言なので回答は控えるとの対応であった。

 

農水委員会(2017年6月8日):

つぎに、見たのが参院農水委員会で、ここでは森裕子議員が奮闘していた。

森裕子議員は、内閣委員会の桜井議員との連携で、201542日の今治市幹部職員の内閣府・首相官邸への訪問、面談について質していた。ここでも、記録もないし、記憶もないというのが、藤原次長の答弁であった。森議員は、今治市サイドの行政文書の徹底的な情報公開をしていて、まだたくさんの文書が出てくるのではないか。また、文科省内部文書について職員の複数が命をかけて文書の存在について、上司に報告しているのに、なぜ、握りつぶすのか、部下を見捨てる気なのか、と迫っていた。相手は、常盤豊高等教育局長であり、義家副大臣である。

 

菅官房長官の記者会見

 68日の記者会見は、かなりひどいものだった。テレビ朝日の報道ステーションで、食い下がる記者たちとの質疑が長い間放映されていた。その答弁は、これまた、テープレコーダーのごとく「出所不明の文書であることには変わりなく、文科省が適切に調査して、報告した」と繰り返す。記者が、公益通報者保護法で、内部通報者はどう保護されるかを問えば、仮定の問題には答えない、というありさまだ。この質疑は、いつになく、30分にも及んだという。(続く)

 

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2017年6月 5日 (月)

5月31日、共謀罪法案の廃案を求める集会に参加しました

 「共謀罪」、こんな怪しげな、危険な法律を通すわけにはいかない、という怒りと悲壮感が漂う表情の人たち、まだ参議院で廃案にすることができるぞ、という意気ごみをみなぎらせた人たちが、続々と日比谷野外音楽堂にやって来る・・・。正直、私もいろいろな思いが交錯するのだが、この日の集会「531共謀罪法案の廃案を求める市民の集い」への参加には、もう一つの目的があった。613日「森友問題の幕引きを許さない市民の会」主催の「森友・加計問題を考えるシンポジウム」のチラシを配布することだった。

会の有志が、4人ほどで配布しているはずである。会場でのチラシ配布はできないことになっているので、その周辺で、集会が始まる前には配り終えなければならない。「加計・森友問題のシンポを開きます」「森友・加計問題を糾明しましょう」とチラシを渡すのだが、受け取りの感触は良かったと思う。手を差し出して受け取ってくれる人、通り過ぎてから戻って受け取ってくれる人、「まったくおかしいわよ」「許すわけにはいかない」「とんでもないやつらだ」「あら、青木さんが来るのね」「がんばろう」と反応はさまざまだが、みな怒っていた。あとで合わせてみると4人で1100枚近く配ったことになる。そんな中、一人で参加の佐倉の知人にもお会いした。

 613日は、ウィークデイだし、国会は会期末で、どうなっているかの不安定要素もあった。また、一方、前川証言が出現して、加計問題は予想外の展開もし始めている。「市民の会」のシンポジウムにどのくらいの方が参加されるだろうか。会場が衆議院第一議員会館で、定員300人限りなので、先着順ということになった。参加の方は、お早めにご参集くださるよう、お勧めしたい。

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よいよ、集会もスタートという直前に、私も入場、入り口では「プログラムがなくなってしまいました」というほど、会場びっしりの参加者である。そして間もなく、入場制限が始まって、門は閉じられてしまった。野音での集会には、何度か通っているが、これだけの混み具合いだと、どうだろう3500は超えていると思った(翌日の報道によれば4700人とのことだった。立ち見や場外の人たちを入れると、そんなものかなと)。開会のあいさつ、海渡雄一弁護士のアピール、山尾志保理議員の報告と続いていたが、所用のため抜け出すことに。一度出たら入れませんよと、係の人から念を押されてのことだった。

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 前日の5月30日、参院法務委員会の「共謀罪」質疑において、有田芳生議員の質問「組織的犯罪集団に一変するのを誰が監視して判断するのか」に、手を挙げた金田法務大臣は、安倍首相から腕を抑えられ、答弁を阻止された。その後の挙手も、盛山副大臣からスゴイ勢いで振り払われていた。答弁するのは、”実務に通じた”林刑事局長。

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5月30日の「報道ステーション」より

 

 

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2017年6月 4日 (日)

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(2)(3)

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(2)

スラヴ叙事詩」からのメッセージ 

ミュシャ展は65日までの最終盤に入っていたので、覚悟はしていたが、まずは、チケット売り場で並ばねばならなかった。チケットを求めても、入場するまでには60分から70分はかかると、係員は声を掛けて回っている。私たちも、入場の行列の最後尾を見つけるのも容易でなかった。会場は2階だが、その行列は、館外でも2回ほど蛇行し、館内に入っては幾重にも曲がりくねっていた。ようやくエスカレーターにたどりついても、小刻みに入場制限がされるというありさまだった。それでも、ともかく、45分ほどで、入場できた。

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45分並んで、たどり着いた展示会場入り口 、5月31日

会場はやはり大変な混雑だった。20点からなる「スラヴ叙事詩」は、3部屋に分かれていた。どの作品も、巨大で、見上げても全貌がつかめないし、眼前は入場者の頭でいっぱいとい状況だった。大きいものは610×810との表示もある。ともかく離れたり、近づいたりしながら、出品リストと突き合わせるという「鑑賞」しかできなかった。世界史の授業でのかすかな記憶、ヤン・フスの名前。チェコの旅では、カトリックと闘い、火刑に処せられた、チェコの英雄と知るにおよび、ヤン・フスが登場する作品には、一種の親しみさえ覚えるのだが、スラヴ民族史や宗教史自体にも疎いので、理解が及ばないものもある。(以下の作品の説明は、主にミュシャ展公式ホームページの作品解説に拠った)

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プラハ旧市街広場のヤン・フスと戦士たちの群像。この日もイベントの用意が始まっていた。正面の赤い屋根がの建物がゴルツ・キンスキー宮殿、道をはさんで左が聖ミクラーシュ教会、右がテイーン教会、2003年9月

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N0.9 ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師(1916年)
15世紀に始まった宗教改革の指導者ヤン・フスが左上で、身を乗り出して説教している様子が描かれる。聴衆には、弟子のみならず、国王ヴァーツラフ4世の妻、王妃ゾフィーさえもプロテスタント運動の先駆者フスの言葉に耳を傾けている。カトリック教会はフスを異端として141576日火あぶりの刑に処した

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NO10.クジーシュキでの集会(2016年)
ヤン・フスが火刑に処せられた後、チェコ改革派の指導者となったピルゼンの改革派司祭ヴァーツラフ・コランダがクジーシュキで説教をする場面(1419930日)。信仰を守るためには武器も必要と説き、フス派改革運動からフス戦争へと移行していった。左側には、枯れ木に白い旗が、右側には高い松の木とそれにくくりつけられた赤い旗が掲げられていて、白は戦争と死を、赤はチェコの生命力と希望を表しているとのこと。左下には火刑の様子が描かれている

今回の「スラヴ叙事詩」からのムハのメッセージの中で、とくに強烈であったのは、人間の歴史にとっての言語、暮らしのなかでの言葉の持つ重さであり、ムハの母国語チェコ語への思い入れの深さでもある。

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NO3 スラヴ式典礼の導入(1912年)
東ローマ帝国勅使が、ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。左手前の青年は左手の拳で団結を訴え右手にはスラヴ民族の統一を象徴する輪を握っている

 

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NO4
.ブルガリア皇帝シメオン1世(1923年)
ブルガリアおよびギリシャの皇帝シメオン1世(在位888-927)はスラヴ文学の創始者とされている。高名な学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させた。 

 

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NO15.イヴァンチツェの兄弟団学校(1914年)
ムハの生地モラヴィア地方イヴァンチツェでは、領主ジェロティーン公により15世紀半ば、初のモラヴィア兄弟団が設立され、クラリツェ聖書がチェコ語に翻訳、印刷された。紙を運ぶ青年、印刷物を整理する少年たち、聖書を盲人の老人に読み聞かせている青年の表情は引き締まり、ことのほか明るいように思えた

 

 

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 こんな混み具合のなかの撮影許可ゾーン、5月31日

 

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(3)

市民会館のムハ

プラハには、ムハの足跡がほかにもあったらしい。2003年の東欧の旅で、プラハに着いた翌日の市内めぐり後の夜は、スメタナ・ホールでのコンサートに出かけた。ホールのあるの市民会館は、アール・ヌーヴォー建物の代表的なもので、私の写真では、その辺の華やかさは今一つである。会館内にも、ムハの作品が様々な形で残されているそうなのだが、館内ツアーには参加できなかった。壁画であり、天井画にありで、華やかさは格別だろう。下の天井画は、中央に鳩があしらわれ、民族の平和を描いているという。コンサート開演前には、会館内のレストランでの食事の折は、お客も少なかったためか、そして、日本人は私たち二人だけというのに、日本の曲を、主に童謡のメドレーで何度か弾いてくれるピアニストがいて、その気づかいに心和んだ思い出もある。肝心のコンサートはヴィヴァルディ・オーケストラであったが、「四季」の演奏はあったのだろうけれど覚えてはいない。アルバムの間から、はらりと落ちて来た、チケットと座席表である。

もし、もう一度、プラハに行けるとしたら、ムハ美術館の再訪と市民会館見学ツアーに参加を実現したい。プラハ城もカフカとミレナが歩いたであろう街も、シナゴーグにも再訪したいが、かなううだろうか。

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市民会館の正面とレストランのカード、2003年9月

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会館内の見学ツアーまで気が回らなくて・・・ここでのムハを見ることができなかった

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スメタナホールの座席表とチケット、2003年9月

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スメタナ・ホール正面のパイプオルガン、2003年9月

 

 

 

 

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どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(1)

プラハ、ムハとの出会い 

3月から、新国立美術館で開催中のミュシャ展(チェコ語ではムハと呼ぶらしい)では、彼の後半生の大作「スラヴ叙事詩」が一挙公開されているという。私がこのブログを始めたのが2006年だから、その前のもう十数年前のこと、東欧を旅したとき、プラハでのムハとの出会いには忘れがたいものがあった。

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通り過ぎてしまいそうな

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展示会場入り口 2003年9月

  ウィーンでチロリアン航空に乗り換え、プラハに着いたのが夕方、翌日から、精力的に市内めぐりを始めた。といっても、地図が頼りの心もとない街歩きだが、旧市街広場を何度も行き来するという、気ままさもあった。街なかの、ちょっと通り過ぎてしまいそうな入口の、ムハ美術館(1998年開館)ではあったが、会場では、優美な衣装をまとい、華麗な草花に彩られた女性が描かれた絵とポスターに圧倒された。入場者もまばらで、静かなゆったりした時間を過ごした後、出口近くで出会った一枚のポスター、その中の少女のまなざしに、思わず足をとめた。鉛筆を手に、決意を秘めた、鋭い眼差しの少女が立っていた。「鉛筆を持った少女」と題され、それは、日本では「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」(1912年)のポスターと呼ばれているらしい。「挙国一致」というより「連合」とか「連帯」との意味合いなのではないか。当時、モラヴィアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、教育はドイツ語で行われていた。民族語のチェコ語を教えるための資金確保のための宝くじだったわけで、チェコ語を学ぼうとする少女の引き締まった表情には、ムハ自身の意思も込められていたのだろう。この眼差しは、今回の「スラヴ叙事詩」の巨大な作品の各所にくり返し立ち現れているのではないか。「母国語」を奪うということは、日本の植民地政策の柱でもあった。その過酷さを知らなければならないだろう。朝鮮でも台湾でもそして東南アジアにおいての「国語教育」を思い起こさせるのだった。

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ポスター上部は「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」の主旨らしい
Lottery Of The Union Of South Western Moravia(1912)との英訳が・・

 ムハ(18601939)はモラヴィア出身だが、ウィーン、ミュンヘンを経てパリで絵を学び、女優サラ・ベルナール主演の舞台のポスターを手掛けたことから、独特の華やかな画風で一躍有名となった。1910年、50歳で故国チェコに戻り、チェコ語やスラヴ民族の苦難の歴史にこだわり、ズビロフ城に籠って制作し続けたのが「スラヴ叙事詩」であった。最晩年は、チェコに侵攻したナチスに捕らえられ、収容所生活を余儀なくされた直後に病に倒れた。

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チケットもリーフレットもバレエ「ヒヤシンス姫」のポスター(1911年)が用いられていた。左側の「日本語版ガイド」は折りたたみ式で、裏側は、伸ばすと40センチほどの長い絵で、「サラ・ベルナール」の舞台のポスターであった

 

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