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2017年8月28日 (月)

国税庁のPR動画、ご覧になりましたか~どんな証拠も見逃さないマルサ?!

 国税庁の意見投稿窓口を開いたついでに、Web-TAX-TVというPR動画サイトを見てしまった。佐川国税庁長官の、ついこの間の理財局長時代のあの国会答弁が脳裏にに焼き付いているものだから、何を見ても笑ってしまうのだ。「国税査察官の仕事」というシリーズで、滞納者の家宅捜査の徹底ぶり、庭の発掘、同窓生への尋問にまで及び、「どこまでも追跡するぞ」との意気込みを、ドラマ仕立てで訴えているのだが、なんとそらぞらしいことか。そのトップ、就任会見も開けず、だんまりの佐川長官!籠池前理事長にも「通常の丁寧な」対応をした部下たち、国有財産をいとも簡単に大幅値下げ、10年間の分割払いという異例の措置に踏み切った「諸般の事情」のすべてを国民に語るべきでしょう


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いずれも、「国税査察官の仕事Ⅱ」の動画より
上:査察の厳しさを強調、滞納者の電子データの保存や解析、消去されたデータやファイルの復元も可能なだと伝えているではないか
下:税金の滞納者は、婚約者から、納めるべき税金は納めて、店を続けていこうと勧められて改心するストーリー。「世間から後ろ指をさされるようなことはするな」とは、そのまま、佐川長官に返したい

  

◆財務省:税務行政に関する意見(メールでの投稿画面)
 https://www.nta.go.jp/suggestion/iken/information_form.html
  

◆国税庁Web- TAX-TV
https://www.nta.go.jp/webtaxtv/

◆国税査察官の仕事Ⅱ
  https://www.youtube.com/watch?v=wld9Q_JrEvs

 

 佐川長官罷免要請署名、一万突破、締め切り後も、各地から署名が届いているそうだ。この現実をみよ。麻生大臣、安倍総理、高笑いしている場合ではない。8月15日と言えば、安倍首相は、全国戦没者追悼式での挨拶をそそくさと済ませて、こんなところで、麻生財務大臣たちと。

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8月15日鳴沢村の笹川陽平氏の別荘で。8月23日、笹川氏のブログから

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わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(3)兵隊さんの解散式?

 前後の記憶がなくて、断片的に思い出す一シーンがある。これは八月一五日の数日後のことだと思うのだが、母親から「今晩は、ゼッタイ、家の外に出てはいけない」と。兵隊さんたちが、(この馬市場の)草っぱらに集まるから」と言われたことだけは覚えている。暗い家の中、息をひそめて、板戸の細い隙間から見えた光景の、何と頼りないことか。

 兵隊さんの列の後か先だったのか、暗闇の中を、たしかに馬に乗った人が、道路につながる家の脇を横切って、原っぱに向かったのだ。じっと一部始終を覗くこともできなかったのだろう。次の記憶は、真っ暗な、馬市場跡の広場に、兵隊さんたちが並んで、誰かの話を聞いている場面である。何を話していたのかは、もちろん私には分からなかった。わけも分からず、私は、ただ、母にしがみついていたのだろうと思う。そして、小一時間の後に、原っぱを去っていく隊列の足音を聞いたのだった。暗闇から聞く、暗闇の足音の、今から思えば、重くて、鈍い音だったに違いない。家の灯りをつけたときの、裸電球の眩しさは格別だったろう。

ほんとに不思議なことなのだが、そのことについても、家族と話した記憶が思い出せない。随分後になって、当時中学生で、7つ離れた次兄からは、あれは部隊の解散式だったはずだとの話を聞いたことがある。なんで、軍の施設や学校の校庭などもっとちゃんとした場所でやらなかったのだろうね、という話もしたことがある。佐原市史でまた調べなければならないことが増えた。

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今年のイチジクは、小ぶりながら、たくさん実をつけた。雨が続き、一時は、青い実のまま固まってしまうのではと、心配した。ヒヨもあきらめたのか、今はあまりつつきには来ない。ほのかな甘さが私は好きだ。8月27日写す

 

 

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2017年8月24日 (木)

佐川国税庁長官の罷免要請署名、1万余名分を麻生大臣に提出!

 「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」による署名活動では、自分もネット署名をし、知人にもお願いしていたので、どれほど集まるのか、気がかりでした。21日の締め切りには、10706筆に達したとの報告がありました。821日の提出当日は、テレビ局などの囲み取材があったようで、21日から22日、そんなニュースやツイートが駆けめぐりました。

第一報は、21日の日テレのeveryの冒頭近くの4時過ぎの放映だったらしく、知人の電話で知らされました。といっても、新聞では、日刊ゲンダイが署名の展開中から伝えていましたが、朝日は提出をうけて、翌日の朝刊で小さく伝えました。他の全国紙は、社説などでは、佐川長官の就任記者会見ボイコットについて異議を申し立てていたのに、市民のこうした運動には冷やかなのがわかりました。テレビ局は、籠池夫妻の再逮捕とからめての報道が多かったと思いますが、国会での答弁で、ウソをつき通したことが日に日に、明らかになってきたのに、「国税庁長官への出世はオカシイよね」、「記憶がない、記録がない、あった記録は消去した、と言い続けた人がトップの国税庁に税金は払いたくネェ」という視聴者、市民の目線にやや近いのかなと思いました。

森友問題の地元の関西テレビが、近畿財務局と籠池夫妻の交渉の音声記録を入手したこともあって、地道で熱心な取材を続けているらしい。21日の「報道ランナー」では、どんなニュースになったのか、当地では、見られなかったのが残念でした(一部が下記の4で見られます)。

ちなみに、ネット上でわかった情報は、以下の通りです。

 

1「森友文書廃棄は違法~佐川氏の罷免求め署名」
(
日テレニュース242017821 17:01
 
 http://www.news24.jp/articles/2017/08/21/06370306.html
2
「籠池夫妻を再逮捕 詐欺の疑い」
 
FNNニュース、8/21() 21:23配信)
 
 https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170821-00000897-fnn-soci
3
「籠池前理事長夫妻、再逮捕」
 
(テレビ東京、2917821日、ゆうがたサテライト)
 
 http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/you/news/post_138868/
4
「籠池夫妻 府の補助金詐欺容疑で再逮捕」
 
(「関西テレビ」8/21() 20:03配信)
 
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170821-00000004-kantelev-l27
5
「佐川国税庁長官の罷免求め申入書 市民団体が財務相に」
 
(朝日新聞デジタル 2017821日、1833
 
 http://www.asahi.com/articles/ASK8P56TJK8PUTIL027.html

8月14日の当ブログの記事を通じまして、署名にご賛同いただきました方々に、お礼申し上げます。ありがとうございました。

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2017年8月23日 (水)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(2)変電所への機銃掃射を見た

 疎開先の佐原での落ち着き先が、仁井宿の馬市場跡の管理さんの家だった。前回は、815日の薄れた思い出をたどった。

 そして、それよりどのくらい前だったのか。「変電所」への「キジュウソウシャ(機銃掃射)」の様子を、お手洗いの窓から、この目で見ている。まだ、私の背丈では、窓には届かないはずだから、母か兄かに抱っこされて覗いた窓の先、たしかに幾つもの「ショウイダン(焼夷弾)」が斜めに落ちて来るのを見たのである。大人たちが騒いでいたので、「ワタシも見たい」とせがんだのかもしれない。夜のような気もするし、昼間だったのか、棒状のバクダンが斜めに流れで落ちていくのを瞬間的に見たのだ。何日のことだったのか、佐原市の市史でも見れば出てくるだろうか。

 ネットの限りでは、確かな情報は出てこないので、あきらめかけたころ、「終戦のころの思い出」の寄稿を集めているサイトがあった。そこに、谷口敏夫さんという方が、仁井宿の変電所への爆撃で、家族を亡くされたことを書かれていたのである。http://www.s-s-m.jp/hiroba/zuisou/shusen_04.htm

 

 谷口さんご自身は、19439月、中学校3年の2学期に予科練を志願、土浦海軍航空隊に入隊し、19454月に鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事していた。720日過ぎに上官から、佐原の実家が空襲に遭い、家族が怪我をされているからと知らされ724日に帰省すると、74日の爆撃で、弟さんが即死、母上は重傷のまま亡くなり、葬式も済んでいた。父上は、東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤されていて、変電所前の社宅に家族で住まわれていたという。

 

 私が見たのは、この74日の爆撃ではなかったのか。正午前で、警戒警報の直後で、谷口さんのお宅では、小学校から帰ったばかりの弟さんと母上を亡くし、妹さんも大怪我で回復まで苦しんだという。すぐそばで、こんな悲劇があったことは知らずにいた。大人たちは知っていたのだろうか。そんな話は、後にも聞いたことがなかった。爆撃機は、P51 ムスタングだったという。

 降伏が伸びていたら、この疎開先の佐原の町も焼け野原になっていたかもしれない。77日、千葉市では、「七夕空襲」で多くの犠牲者を出している。610日の日立航空機工場の被害と合わせて、死傷者1595人、千葉市街の7割が焼失している。

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2017年8月15日 (火)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(1)

 地元の9条の会でも、高齢化は免れないが、戦前生まれは、どうやら私一人になったようなのだ。「語り継ぐ」というのは、難しい。なにせ、私の「戦争体験」は、小学校に上がる前のことなので、記録はないし、断片的なカスレカスレの記憶しかない。わずかな記憶を、家族の記憶とわずかな資料、そして多くは、公刊された資料や資料館、体験談などに頼るしかない。私自身の家族、父母、二人の兄も亡くなってしまって久しい。疎開先でお世話になった親類とも、叔母が亡くなってからは、お付き合いも間遠になってしまった。そんな中で、先日、数十年ぶりに、少し年上の従姉から電話があって、積もる話で長電話となり、近く会うことになったのである。

 これまでも、このブログで、折に触れ、思い出話として、当時のことを書いてきた。最近では、新聞記事に触発されて、「奉安殿」前の「拝礼」について書いたのだった。馬市場と佐原事件については数年前にも綴っていた。

71年前のきょう、1946629日、何があったのだろう(2017629日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/711946629-0991.html

* 祭りの後の佐原を行く~ふたたびの疎開地(2)(201010月15日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

 

 すでに、どこかで書いていることと重なるかもしれないが、私の1945815日は、疎開先の千葉県佐原の仁井宿(現香取市)の借家で迎えた。簡易な馬小屋も並ぶ、馬市場が開かれていたという、広いくさ原の端っこに建つ、管理人さんが住んでいたという二階家だった。といっても、遠くから見ると、3~4本の「つっかい棒」に支えられている古家だった。それでも、1944年、池袋の店を続けていた父、学生だった長兄を残し、東京の空襲を怖れて、母と次兄と私が転がり込んだ母の実家の「ヒサシ」のひと部屋と比べたら別天地のような気がした。といっても、母の実家には、すでに母の長兄は病死したばかりで、叔母と三人の子供たちがいたのだ。そんな中で、私たち家族とやはり東京の蒲田から疎開してきた母の妹家族を受け入れてくれていたのだ。この時の恩は忘れることが出来ないのに、不義理を重ねてしまっていたのだが。

 その仁井宿の家で、裏にあった、近所の農家と共同の井戸端から戻って来た母は、815日の午後だったのだろう、「日本は戦争に負けたんだって」と、暗い土間に肩を落として立っていたのを覚えている。この日の記憶はたったこれだけなのだ。ただ、母の実家から、この家に引っ越してきてまもなく、叔母がサツマイモなどを持って、訪ねて来たとき、叔母から聞いた話は覚えていた。「負けた」と知らされ、とっさに、その話を思い浮かべたに違いないと思う。叔母は、どこから聞いてきた話だったのか、「日本が戦争に負けたらよォ・・・」と話し始め、「女はみんな、ボウズにされてヨッ」と続けたのは、みんな捕虜になって食べるものは、雑炊いっぱいで、アメリカ兵にこき使われる・・・というのだ。幼い私には、なんか怖ろしい話として、頭にこびりついていただろう、今でも鮮明に思い出す。叔母は、これに限らず、一家の大黒柱でもあったので、気丈で、情報通でもあって、話術にも長けた女性だったと、今から思う。

 この家での記憶の断片を、随時、たどっていきたい。

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2017年8月14日 (月)

佐川国税庁長官、この声届けます~怒りを署名に!

  トカゲでいうとどの辺りになるのだろうか。森友問題で、籠池夫妻は、いま勾留中で取り調べを受けています。まさに、トカゲのしっぽ切りです。籠池夫妻周辺の国有財産値引きや補助金取得には相当強引な手法が展開されていたことは、彼ら自身が公にした資料や音声データからでも明らかであるが、それにもまして、実に軟弱な、というより国側のさまざまな助け舟を出す対応も明白になりました。 国側の対応や資料を、記憶シテゴザイマセン、記録シテゴザイマセン、廃棄シテゴザイマス、消去シテゴザイマス・・・というウソの答弁を繰り返して、国家公務員法、公文書管理法違反しまくりの佐川理財局長が、なんと7月の人事異動で、国税庁長官に出世しましたね。そして、恒例の就任会見は、「諸般の事情」?!で見送りになりました。納税者の国民の怒りは、あちこちで噴出しています。 これまで、関係者の証人喚問の要請署名やシンポジウムなどを続けてきた「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」は、8月1日より、「佐川宣寿国税庁長官(前財務省理財局長)の罷免を求める要望署名」を始めました。ネット署名と用紙署名の二本立てで、当初の締め切りは、きょう、8月14日でしたが、署名提出先は麻生財務大臣なので、呼びかけ人と財務省との交渉で、提出日は8月21日になりました。

ネット署名の締め切りは前日の8月20日(日)まで受け付けていますので、お気持ちのある方は、メッセージとともに、ぜひ署名を寄せられたらと思います。もちろん署名だけでもよろしいと思います。

ネット署名とメッセージの記入は、こちらへ  

      http://bit.ly/2uCtQkK

メッセージを読みたい方は、こちらへ  

 http://bit.ly/2h5AR94

 

*署名された方の熱いメッセージの数々は、上記をお読みいただきたいのですが、ランダムに、区切りの良い辺りを拾い、コピーしました。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/coment.pdf

もちろん、署名用紙による署名も続けています。集約先の局留めの私書箱は週末閉じてしまいますので8月18日(金)必着です。

署名用紙はこちらへ

 http://bit.ly/2ub1F8W

<速報>

8月15日、0時25分現在、署名現在数、6889筆となりました由。締め切りも迫りました。引き続きの署名活動へのご協力を。

<速報>

8月18日24時現在、9278筆となりました。目標の10000筆、あと一歩です。19日、20を残すのみとなります。賛同の方は、ぜひネット署名を。ネット署名のメッセージを読みますと、同じ思いの方がたくさんいらしゃるのがわかります。お名前の公開はありません。

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2017年8月 3日 (木)

『「利己」と他者のはざまで』に触れて

  長兄の命日でもあったので、実家に出かけた。店を休みにしていた義姉を囲み姪たち家族も集まっていて、久しぶりの思い出話や親戚の消息などにもおよぶ。やがては自分たちの健康や体調の話にもなってしまう。実家を出ると、小雨が降り出し、傘を貸してもらい、先を急いだ。 

 

その日は、大学時代の恩師の松本三之介先生が卒寿にして出版された、新著『「利己」と他者のはざまで―近代日本の社会進化思想』(以文社 20176月)の合評会であった。集まるメンバーは先生のゼミ出身の研究者ばかりで、私などは参加資格がないのだけれど、メンバーの方に声をかけてもらい、末席に加わった。ただ、事前に、幹事役の五十嵐暁郎さんからは、新著へのコメントや質問を提出しなければならないという、重い宿題が課せられていた。先生はお元気で、ときには熱い講義となる場面もあり、学生時代を思い出すのだった。

 

新著は、副題にもあるように、ダーヴィンの進化論に端を発した社会進化論が、加藤弘之、内村鑑三、有賀長雄、中江兆民、徳富蘇峰、丘浅次郎、大山郁夫、穂積陳重らの思想形成にどんな影響を与えたのか、という日本における進化論の受容の系譜をたどるというものだった。素人の私には、ダーヴィンの進化論が、日本の近代思想史に、こんなにも影響を与えていたのかという驚きさえあった。

 

私の浅い理解で申し訳ないのだが、ダーヴィンの進化論は、社会進化論においても生存競争の成り行きのまま、「利己」のための集団、社会が形成され、それがやがて国家への奉仕という形で全体主義的な思想を肯定する根拠へとなってゆくのが、日本での受容の流れとなった。その流れのなかで、上記の思想家たちの受容の内実を綿密に検証されたのが新著の核だと思った。この日集まるメンバーには、兆民や蘇峰の専門家もいらっしゃるので、そこはほとんどスルーをして、私は、ともかく、これまで何らかの接点や関心があった人物への興味を糸口にするという幼稚な読み方となった。加藤弘之の天賦人権論からの明治国家近代化への転向、内村鑑三の義戦論から非戦論への転向という、真逆の「転向」にどう影響したのかを読み取ろうとした。社会進化論が、多くの場合は、リベラルな考え方や社会主義的な考え方の抑制機能を果をたしているなか、穂積陳重が法社会学的な方向を目指していたということを知ったり、大山郁夫が人類的普遍性、倫理性との融合に苦慮しながら、未成年や女性などの社会的弱者への保護に向かっていたということも知ったりした次第。

 

松本先生は、社会進化論が、自らの生命をまもるという「利己」の考え方が、日本では自然権思想に結びつく可能性が失われてゆく近代化の過程のなかから、その可能性を、現代から問い直し、探ろうという道筋を示されたのだろうと思う。本当は『「利己」のすすめ』という書名を考えないではなかったけれど、今の世の中では、理解されそうにもないともおっしゃっていた。

 

席を変えての夕食会では、大田昌秀元知事の県民葬の準備で多忙だったという比屋根照夫さんと隣り合わせになった。若いとき、短歌も詠んでいたという話から、現代の沖縄歌壇の話にも及んだ。すでに大学のリタイア組が多いメンバーの話は、1960年代から70年代の学生生活や研究生活に及び松本先生の厳しい指導や何事にも真摯に向き合われているエピソードが語られたりした。

 

帰宅してみると、この辺りは、夕方にかなり降った跡が見えた。その日も、神奈川の各地で局地的豪雨による水害が報じられていた。久しぶりの出会いもあった一日、今夜はゆっくり眠れるだろうか。

 

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