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2017年11月24日 (金)

本郷界隈、ほんのひとめぐり

 初めての「文京ふるさと歴史館」~窪田空穂展へ

「文京ふるさと歴史館」というところで、「窪田空穂展」を開催していることを知って、本郷に長らくお住いの友人と訪ねた。展示会は、正確には「季節のうた 歌人窪田空穂 生誕140年・沒50年」というものだった。受付では、65歳以上は無料ですと言われ、私たちは、なんとなく複雑な気持ちで地下の特別展を回りはじめた。

空穂は、若いときは、この文京区内を転々としていたので、ゆかりの地も多いという。1921年から、雑司ヶ谷、現在の目白台に居を構え、亡くなる1967年まで50年近く暮らしていたことになる。展示は、こじんまりとはしていたが、わかりやすいものだった。年譜や生い立ちに始まり、中央には「春夏秋冬のうた」が歌集や短冊などでまとめられていた。また、文京の季節を詠んだ百首、地名を詠み込んだり、地名を小題や詞書に付した作品が壁いっぱいに展示されていた。

私も、個人的なことをいえば、文京区竹早町にあった中学校に池袋から都電の17番で通学している。高校・大学は地下鉄丸ノ内線茗荷谷下車で7年間通ったことになる。さらに、浪人中の一年間は、山手線大塚駅前の予備校に通い、初めての職場が、目白の学習院大学で、2年間通勤している。文京区と、豊島区との境あたりをうろうろしていたことになる。そんなわけで、文京区には縁があり、親しみ深い。さらに、音羽通りの講談社裏にあった、閉鎖直前の東大病院分院に入院していたこともあった。その折、なんと、分院近くの町内会掲示板で窪田章一郎の訃報を知ったのだった。空穂・章一郎終焉の家近くに居合わせたことになる。そんな思い出の数々とともに、地名を詠んだ作品を興味深く読み進めるのだった。 

・咲き照れる桜仰ぎてわが童その手さし伸べ花に触りにけり(植物園)

『土を眺めて』

・目白台わか葉にけぶる空揺すり大きとどろき東より来る

(敵機の襲来を見る)『明闇』

・護国寺の松の木下ゆ秋日照る音羽通りの真直ぐにみゆる(護国寺境内)

『朴の葉』

・豊坂の上より見るや北屋根に残りて白く打ち続く雪(薄雪)

『さざれ水』

 「豊坂」は、空穂が自宅から早稲田大学に通う道であったそうだ。文京区内には名のついた坂が100以上あるとのこと、縁のある私とていくつの坂を越えただろうか。

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本郷三丁目の交差点から春日通りをわずかに進んだ、真砂坂上バス停を右に入る。向かいが真砂中央図書館になる

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展示会場の中央のガラスケースの「四季のうた」、カタログより

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囲ったところが歴史館、一本北の本妙寺坂の男女共同参画センター前の「案内板」より

         私は今年、空穂没後50年という認識もないまま、戦前の『新女苑』という女性雑誌の歌壇選者をしていたころの空穂について調べていた。その過程で、戦後に出版された歌集に戦時下に発表した短歌がそっくり削除されていたことを知った。その辺の事情も知りたいのだが、今回の特別展では、もちろん触れてはいなかった。生家のあった松本市には窪田空穂記念館があって、様々なイベントが開催されているが、私はまだ出かけてはいない。

 

*空穂について、*以下のブログに記事に書いていますので、ご参考までに。

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/post-8c97.html
戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に
2017年6月19日 (月)

黄葉の東大キャンパス

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赤門を入ってすぐ

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工学部前の大イチョウ

 東大の銀杏の黄葉が素晴らしいという友人の勧めで、足を伸ばした。友人には、格好の散歩コースのようで、丁寧に案内していただく。キャンパスは、外来者も多く、散歩のご夫婦や家族連れ、カメラ撮影に余念のない人、日曜画家かカルチャーの絵画教室の人たちか、だれもが輝く銀杏の黄葉に圧倒されているようだった。久しぶりの三四郎池も、都心とは思えない静かな佇まいで、私にとっても、秋を満喫した半日となった。

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2017年11月23日 (木)

森友問題、二つの動き~会計検査院報告と近畿財務局長の告発

森友学園、値引き問題の会計検査院報告が出たが?!

 

1122日に、会計検査院から、森友学園への国有財産売却8千億円余の値引き問題に関する報告書が、国会に提出された。先の私のブログ記事にもあるように、すでになされたNHKの検査院長独自インタビューの骨子に沿うものであった。値引きの十分な根拠が確認できないという結論だった。

 

①国交省のゴミ推計量と撤去費用の根拠が不十分、財務省近畿財務局は必要な手続きをしないで売却予定価格を決定したことは適性を欠くこと
②売買契約交渉過程での具体的なやり取りが確認できず、会計経理の検証が十分できなかったので、財務、国交両省に文書の管理の改善が必要であること

 

 政府は、これまで、「適正な処理だった」と言い続け、安倍首相は、第三者のしっかりした独立した機関である会計検査院の調査結果に委ねているので国会で云々することではないという答弁を続けていた。その上「前川前文部事務次官さえ、私が関与してないことを明言している」とか、「籠池氏はすでに詐欺罪で捕らえられている人だ」とか、弁明にならない発言を繰り返してきた。

今回の報告書は、適正な処理、適正な価格、その根拠としての交渉記録は破棄という政府の共通した抗弁に疑義を呈する程度のものだった。しかも、財務省、国交省の担当者が、なぜ異例な対応を繰り返したのかは解明されておらず、適正なゴミの種類や量、撤去費用を具体的に示すこともなく、売買契約の妥当性についても言及されない玉虫色の調査結果と言えよう。検査院は、どこまで本気で調査をしていたのか、「手ごころ」や「忖度」が加わらなかったのかが、素朴な疑問であった。

 

近畿財務局長の告発

 同じ1122日の午前中、司法記者クラブでは、「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」有志と代理人弁護士による記者会見が開かれていた。先月の佐川国税庁長官らの告発状提出に続き、森友学園への国有地売却に関し、美並義人近畿財務局長(当時)を背任罪で告発、東京地検に告発状提出後の会見だった。その内容というのは、「瑕疵」(欠陥)には当たらない、建設工事の支障とはならない、地中埋設物を故意に「瑕疵」とみなしてゴミ撤去費用と計算し、国有財産を違法に安く売却していた国の当事者を背任罪に問うべきだとするものであった。

土地の価格についての近畿財務局職員と籠池前理事長などとの間での交渉音声記録によれば、土地の価格についての売却価格の提示や買取希望価格の提示とみられる発言があり、地下99mのサンプル掘削で先端に絡まったわずかな生活ゴミに過ぎないことを確認しただけで、業者や籠池学園前理事長から、ゴミ撤去の請求書や領収書が示されないまま、値引き額が決定、売買契約が成立したことになっている。そもそも、校舎建設に支障のない、架空のゴミ撤去費用から算出された値引きによる売買価格であったと指摘している。

それに加えて思い起こすのは、その売買契約は、異例の10年間の分割払いでありながら、事案終了として、関係文書を直ちに破棄したという佐川前理財局長の発言だった。

司法の力で、疑惑の“総合商社”たる岩盤に穴があけられないか。

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司法記者クラブ、記者会見の模様、テレビ報道は、フジとテレビ東京でした

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日比谷公園の紅葉、弁護士会館14階より。野外音楽堂ではきょうも集会の準備が始まっているようだった。野音の奥の三角の建物が日比谷図書館

 

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2017年11月11日 (土)

11月9日NHK「ニュース7」、会計検査院院長インタビュー放映の意味(2)~NHK「ふれあいセンター」の対応~

 きのうの続きだが、NHKふれあいセンターとのやり取りでは、おかしなことがいっぱいあって、また怒りがこみあげてくる。録音をとっているはずなのに、オペレーターたちは、記録に余念がなく?こちらの話に全くの無言、無反応で、電話が切れたのではないかと「聞こえていまずか」と確認することも何度かあった。電話の受け手は、「ハイ」くらいの返事をしたらどうなのか。とくに、代わって出てくる「上司」というのが、態度が悪い。今回の場合もそうなのだが、視聴者の話をさえぎって、NHKの代弁者、防波堤の如くしゃべるのだ。正直言って、その「上司」の個人的な意見など聞きたくない。

 今回のやり取りで、こんなこともあった。私が、NHKが前川元文科省事務次官のインタビューを放映していないことと今回の会計検査院長のインタビュー報道には、共通する問題があると、言いかけると、「え?今度は前川さんの話?、別件ですね」というから、「最後まで聞いてください」と。両者に共通するのは、あまりにも恣意的で、政府への偏向が著しい報道姿勢ではないかと、つい力が入ると、「前川さんの件、報道局に伝えるのか」、気のない返事、「伝えるも伝えないも、あなたが選択することではなく、すべて伝えるのが仕事でしょ」といえば、「私は混乱してしまった」とのこと。なんとも情けない「上司」ではあった。

「ふれあいセンター」なのだから、できれば担当者とのやりとりが望ましい。もしそれが無理なら、担当者からの意見や声を、後刻でもいい、視聴者に伝えるシステムが必要なのではないか。さらに、すぐにでもできる提案をしたい。「ふれあいセンター」の仕事を、NHKの下請けのアルバイトに丸投げをするのでなく、担当でなくてもいい、NHKの現場担当者を含めた職員自らがローテーションで、視聴者のナマの声を聞くチャンスを設けるべきだと思う。「みなさまのNHK」をいうならば、何よりも「ふれあい」の一歩であり、職員の「研修」にもなるのではないか。「ふれあいセンター」が、むしろ、NHK職員や現場担当者(これもかなり下請けが多いらしいが)と視聴者とのバリアになっている現実を十分承知しながら、視聴者の意見を聞くふりをしているのが実態なのだろう。

各地で開かれる「経営者と語る会」も、もっと回数を増やし、各地でトラブルになる参加者の人数制限など撤廃すべきである。受信料から、高額給料を払っている経営委員であり、大会議室くらい難なく用意できるだろうに。

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2017年11月10日 (金)

1月9日NHK「ニュース7」、会計検査院院長インタビュー放映の意味~NHKの政府追従報道はどこまで続く~

 1022日、総選挙前夜の党首追跡報道が、議会の議席数に比例する時間をもって編集するという悪弊とともに、その与党分が「よいしょ」一辺倒であったと複数の方からメールをいただいた。私は見ていなかった。

 トランプ来日報道も日米首脳親密強調の色濃いものであった。私が見たニュースで、少し驚いた場面があった。115日「ニュース7」で、トランプ大統領の移動の車列を沿道で迎えて「岐阜からこのためにだけに来たので、(見られて?)うれしい」という若い男性が大写しされていた。こんなレアケースがニュースとして流される内容なのだろうかと大きな疑問が残った。

 そして昨日119日の「ニュース7」で、森友問題の調査報告が迫ったとして、河戸会計検査院長との単独インタビューを放送した。調査が詰めの段階に入り、調査に必要な重要文書が欠けているのは問題であり、国有財産の値引きに関しては種々の要件により値引きはあり得る、という主旨であった。

 これって、調査報告書が公表される前の、院長みずからのNHKへのリーク?なのか。それにしても、公表前に、会計検査院組織内、議会、国民に予断を与えてしまう内容ではないか。いや、森友問題における文書不備が問題だといい、値引きもあり得るということは、すでに調査結果の方向性を明示したにも等しい。

 私は、今朝、NHKふれあいセンターに電話をした。河戸院長のインタビュー報道は、第三者機関であるはずの会計検査院が、報告書公表前に、報告内容を予断させるような発言を放送したのは、メディアとしてのルール違反があり、視聴者をミスリードする可能性があるのではないか。どうして、この時期に報道したのか、と質問すると、「そういうご意見があったことを担当に伝えます」という、いつもの応答である。さらに、こうした放送をしたことについてNHKの意図を確認したいといえば、「質問には答えないことになっています」とこれまた、いつもの返答なのである。「同じような質問が多く来ている場合、これまで、NHKとしての回答をしてもらったことは何度でもありますよ」といえば、上司のN.Jと名乗る男性に代わった。 

私: 先ほどの方から、質問の内容を聞いているか。

NHK:聞いている。いま、WEB上でその記事を読んでいるが、何が問題なのか。

私: 報告書公表前に、その内容をNHKにもらしたことにならないか。

NHK:内容は、一般論であって、文書が欠けているのが問題、値引きする場合もあり得るという、当たり前の発言であって、これまでも報道されていることで、まったく問題はない。

私: 一般論ではない。はっきりと森友問題の調査報告書についての質問に答えている。この時期に、院長のこのような発言を報道することは、メデイアとしてのルール違反であり、視聴者をミスリードしていることになる。

NHK :ルール違反とか、ミスリードというのはおかしい。反論したい。

私:私はあなたの反論を聞きたいのではなく、NHKの意図を確認したい。あなたたちは、NHKの責任者でもないし、意見を伝えるだけといつも言っている。あなたの意見ではなく、NHKの見解を知りたい。



 「ふれあいセンター」、「ふれあい」など言いながら、いつも一方通行で「担当者に伝えます」というばかりのシステムが問題なのだ。受信料はとことん集金するが、あとの意見対応がないに等しい。質問などが殺到した場合は、統一見解、回答があってしかるべきではないか。即答でなくともよい、NHKとしての見解が知りたい。

  ついでながら、NHKは、前川元文科省事務次官に、他局に先んじて、真っ先に、インタビュー取材しながら、とうとうそのインタビューを放映することはなかった。そして今回まるでスクープかのように、会計検査院長の独自インタビューを、この時期を選んで放映したのである。政府に都合の良い情報は率先して流すが、不都合な情報は流さない、という、これほど、露骨で、恣意的なNHKにつけるクスリはないのか。すぐに編集権を持ち出して、やることは政府広報ではやりきれない。


 
受信契約による受信料の支払いについて、126日には最高裁の判決が出る。司法の適切な判断を待ちたい。

 

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2017年11月 8日 (水)

歴博の企画展「1968」に出かけました

Dscn1246                 写真撮影はここまで

見てきたその日の夕刊で

夫の仕事の合間ながら、お天気もいいことなので、急きょ、国立歴史民俗博物館に出かけた。目当ては、1010日から始まっている「<1968> 無数の問いの噴出の時代」という企画展である。一見わかりにくいネーミングだが、、さまざまな場から、様々な形で噴出してきた日本の社会運動に1968年という年で切り込もうという趣旨らしい。従来の組織による問題設定・解決方式によるのではなく、「個」「私」から主体的な問いかけにより、各地の住民運動、各大学で学生運動が盛り上がった1968年前後に焦点をあてた展示という。 

帰宅後、夕刊を広げると、朝日新聞(117日)のトップが「学生運動の軌跡 <歴史>に 60年代末全共闘・反戦・・・」とあって、そのタイミングに驚いた。この記事では、主に学生運動に焦点があてられていたが、実際の展示は、第1部「<平和と民主主義>・経済成長への問い」と題された、「べ平連」の運動、それに呼応するような戦後を問い直す神戸の街、三里塚闘争、熊本水俣病闘争、横浜新貨物線反対運動に割かれるスペースが大きく、第2部「大学という「場」からの問い―全共闘運動の展開」がやや小規模だったかな、という印象だったので、少し、偏っていた感があった。

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               いつものように町内会の回覧板でも回ってきたチラシ

そのころ、私は何をしていたのだろう

1968年といえば、私はすでに社会人となっていたが、まだ生家の池袋から永田町の職場に通っていた。明治百年という区切り方をして、政府やマスコミは賑やかだったようにも思う。60年安保の時代とは、議事堂付近の様相もずいぶんと変貌を遂げていた。職員組合から参加する集会やデモも、なんか義務的要素が色濃くなっていた。そんな中で、聞こえてくる、べ平連運動も直接は関わらなかった。三里塚闘争は、地理的には東京に近いのにもかかわらず、写真集や映像で、農地を奪われる農民の必死の抵抗、団結の重要性を感じながらも、どのくらい我がこととして考えていたかは、疑問だった。成田に隣接の佐倉市に暮らし始めて30年、成田空港を利用することも多くなって、この地に、「東京国際空港」は必要だったのだろうかと考えてしまうこともある。水俣病患者や家族と国やチッソとの闘争にあっては、その歴史を少しばかり繙いただけでも、悔しさを募らせていたことは確かだが、横浜の新貨物線反対運動も、東京には近かったのに、どれほどの関心を持っていたかとなると心細い。さまざまな住民運動が、「公共の福祉」や「国益」の名のもとに、地域エゴとして退けられてきたことを思う。そして、貨物線は完成したが、いまやトラック輸送がとってかわり、その必要度はどうなのだろうと。佐倉市における、私が住む地域でも、1960年代に計画された都市計画道路は数年前に完成したものの幹線道路とはつながらず、沿線は空き地が続く。駅近くの高層マンションや大型商業施設が出来ても、周辺の個人商店を撤退に追い込み、共存とはならなかった。たった二・三十年で住民の高齢化、空き家が増える一方の「開発」とは、いったい何だったのだろう、と。そんなことまで考えてしまう今回の展示だった。

今にもかすれて消えそうな、ガリ版刷りの資料群

展示物は、ケースのガラスに、顔を近づけないと読めないような、ガリ版刷りの集会案内のビラやニュース、手書きのメモ類からポスターや旗、ハチマキ、ヘルメットまで多種多様であった。

各地で立ち上げられたべ平連、その最初の、424日の清水谷公園からのデモ呼びかけの葉書は「声なき声の会」呼びかけ人代表として、高畠通敏、小田実の名がある。予備校生たちの「斗う浪人」創刊号の編集発行は「浪人平和運動連絡会議」で、615集会の報告から始まるが、いずれも1968年のことである。

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展示会カタログより、左が「声なき声の会」呼びかけ人代表からのデモの案内、右が「斗う浪人」創刊号

三里塚闘争での家族ぐるみ、地域ぐるみの闘争の一端とも思える、少年行動隊や高校生たちのビラにはドキッとする。それに、反対同盟が結成された集落で、同盟員集結の合図としたドラム缶の太鼓が、実際展示されていたのだ。風雪に耐えて、白茶けたザラザラな表面と打たれてかすれた団結の文字が生々しかった。

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Img344   いずれも展示会カタログより

やはり、最も関心のあった第2部は、東大と日大の闘争に焦点を当てた内容であった。東大は、医学部学生の処分問題が発端であったし、日大は、20億円の不正経理の発覚が端緒となった。首都圏や地方の大学も、各々独自の問題を抱えていたことがわかる。.大学管理だけがきつくなってゆく中、二大学の闘争の激化は、管理者との攻防という枠を超えて、周辺の市民たちにも大きな影響を与え、先行していたべ平連の運動や各地での同時多発的な住民運動と無関係ではありえなかったこともわかる。ただ、学生運動の一部は、突出した過激な闘争となり、内ゲバも激化、19706月には安保条約が自動延長になるなどすると、住民運動や市民運動は、多様化するが、個別の運動となっていくような沈静化みられるようになった、と私には感じた。

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しかし、この時代の運動を担った世代の人々が、現在に至るまで、ジャーナリストになったり、出版社を自力で興したり、あるいは教職についたり、地域の住民運動のリーダーになったりして、独自の道を歩んできた人に出会ったりすると、旧友と再会したような気分にもなる。その一方で、見事に企業人になり切った人、ここまで変節・変貌できるのかと思える人、何かはっきりしないけれど、あるいは苦悩をしているふりをしながら、陽のあたる場所を歩いている人、「元活動家」を売りにしている人と様々だが、かける言葉を失う。持続し、継承することの難しさを痛感してしまう。そして自分はどうだったのかと振り返るチャンスにもなる。

ともかく、歴博が、現代史に切り込んだ展示をしてくれたことを喜びたい。この展示のプロジェクトは、東大・日大の闘争時の活動家が数十にも及ぶ段ボールに入った資料の歴博への寄贈に始まったと言い、いろいろな経緯をたどりながら、いま大学の資料センターなどにおさまっている資料や個人蔵の資料があって、はじめて可能な展示であったろう。

出来れば多くの友人たち、佐倉市民に見てもらいたい、とくに若い世代の人たちに、との思いで、佐倉城址を後にした。アンケート先着1000名内だったらしく、歴博の招待券を頂戴した。1210日までなのでお早めに。これからの日曜日には、展示プロジェクト委員代表の荒川章二教授のギャラリートークがあるそうだ。

 

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2017年11月 5日 (日)

「忖度」が「まんじゅう」になって~正岡子規の「忖度」ふたたび

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 出先の夫から、大阪の知り合いから「忖度まんじゅう」をいただいたとのメールが入っていた。帰宅後、さっそく、熱いお茶を入れていただいたが、石川県の会社が製造した、大阪土産という、かわいらしいお饅頭であった。「商標登録申請中」と、その包み紙には刷り込まれているので、今年の「森友・加計問題」が浮上してからの急ごしらえなのだろう。

「まんじゅう」にもなった「忖度」だが、今回、永田町や霞が関で飛び交うのは「忖度」なんていう上品な言葉では言いあらわせない、もっと下世話な、犯罪のにおいすらもする実態を浮かび上がらせた。日本には、「おもねる」「媚びる」「へつらう」という言葉もあるし、日常的には「オベッカをつかう」「ゴマをする」とか「お追従」「ご機嫌をとる」という言い方もある。「迎合」「配慮」「意向をくむ」という少し上品そうな言葉もあるが、忖度する側・される側、双方の心中に共通してあるのは「贔屓」「縁故」「情実」「私情」であり、必ず「見返り」が期待され、「互酬性」を伴う。政府や役人による優遇、不正見逃しなどが横行し、「献金」「天下り」などという「金銭」「地位」「栄誉」が行き交う。その行き着く先を考えると、環境破壊、テロや戦争の土壌にもなり、人間の命を人間が奪うことにもなり得る。

「忖度」が泣き出しそうでもある。たかが「まんじゅう」されど「まんじゅう」ながら、包み紙の地の模様は、模様ではなく、いくつかの文章が連ねてあった。すなわち、石川啄木「硝子窓」、福沢諭吉「「学問の独立」、太宰治「ダス・ゲマイネ」などの一節で、いずれも「忖度」の語が使われている個所が印刷されていたのである。そして最後は、今年、生誕150年を迎えた正岡子規の「歌よみに与ふる書」から、つぎの一節が刷られていた。

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「・・・今は古人の心を忖度するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。」 

 

「歌よみに与ふる書」は18892月「日本」から10回にわたって連載されたいたものだが、この節は、第6回目(224日)に掲載されたものの一部である。念のため、前後を引用しておこう。現代の短歌の世界でも、先人や同時代人の作品鑑賞や評伝などにおいて、この「忖度」が充満しているとは言えないか。自らの「文学の標準」がいつの間にか、ブレてゆく歌人も少なくはない。

 

同じ用語同じ花月にても其れに対する吾人の観念と古人のと相異する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度する必要無之、只此処にては古今東西に通ずる文学の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸汽船を知りて居る眼より風帆船は遲しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば貫之を下手と評すること亦至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文学的に其歌を評するが目的に有之候。

(講談社『子規全集』に拠る青空文庫)

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晩年の母の一首、見つけました

 風邪でしばらく外出を控えていたが、図書館通いを再開、国立国会図書館にでかけた。10月15日のブログ記事、母の晩年の短歌を知りたく、「女流短歌連盟」の「第1回女人短歌会」の入選作を報じる記事があればと、後援が毎日新聞社なので開催日1957627日直後の『毎日新聞縮刷版』7月号をのぞくと、なんと72日にずばりの記事があった。

「入選者決まる 第一回女人短歌会」の見出しで、十人の入選者の作品と名前があった。十人の中には、岡山たづ子(岡山巌夫人)や山本かね子(後の『沃野』代表)の名前があったのも驚きであった。

内野佳子(東京) 

磨きたる廻転窓の玻璃すきて厨浄むる如く陽の射す

 そういえば、この一首、母が色紙に書いているのを見たことがあった。母にとっては大事な一首であったにちがいない。阿部静枝先生も指導に当たっていた、地元の『豊島新聞』の歌会や『ポトナム』の歌会に参加して間もないころの入選である。これが励みになって、短歌からは離れられなくなっていったのだろう。

 この記事の翌日73日には、生方たつゑが「生活のうた 『女人短歌会』のこと」という記事で、入選作品の短評と以下のような総評もなされていた。

「日本の体質は短歌的であり、女性の体質はさらに短歌的である。情感で享け、情感で消化しやすい。しかし、今回多くの応募歌の選をしながら発見しえたことは、女性がたしかに思惟の世界をもちつつあるということであった。じめじめした女の暗さや、血のねばねばした詠嘆から、もっと知的な、内発的な開眼が行われつつある。・・・」

 母は、長兄は、大正15年年生まれなので、昭和の歴史とともに母として、商店の主婦として働き、三人の子を育てた。このころ、末っ子の私が高校生で、教育やPTAの役員などからの解放感もあったのではないか。これからいろいろやってみたいことがあったろうに、二年半後、母は56歳の若さで亡くなる。いまの医学をもってしたら、きっと克服できたにちがいないとも。親孝行したいときには・・・、としみじみ思った日もすでに遠い。

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