晩年の母の一首、見つけました
風邪でしばらく外出を控えていたが、図書館通いを再開、国立国会図書館にでかけた。10月15日のブログ記事、母の晩年の短歌を知りたく、「女流短歌連盟」の「第1回女人短歌会」の入選作を報じる記事があればと、後援が毎日新聞社なので開催日1957年6月27日直後の『毎日新聞縮刷版』7月号をのぞくと、なんと7月2日にずばりの記事があった。
「入選者決まる 第一回女人短歌会」の見出しで、十人の入選者の作品と名前があった。十人の中には、岡山たづ子(岡山巌夫人)や山本かね子(後の『沃野』代表)の名前があったのも驚きであった。
内野佳子(東京)
磨きたる廻転窓の玻璃すきて厨浄むる如く陽の射す
そういえば、この一首、母が色紙に書いているのを見たことがあった。母にとっては大事な一首であったにちがいない。阿部静枝先生も指導に当たっていた、地元の『豊島新聞』の歌会や『ポトナム』の歌会に参加して間もないころの入選である。これが励みになって、短歌からは離れられなくなっていったのだろう。
この記事の翌日7月3日には、生方たつゑが「生活のうた 『女人短歌会』のこと」という記事で、入選作品の短評と以下のような総評もなされていた。
「日本の体質は短歌的であり、女性の体質はさらに短歌的である。情感で享け、情感で消化しやすい。しかし、今回多くの応募歌の選をしながら発見しえたことは、女性がたしかに思惟の世界をもちつつあるということであった。じめじめした女の暗さや、血のねばねばした詠嘆から、もっと知的な、内発的な開眼が行われつつある。・・・」
母は、長兄は、大正15年年生まれなので、昭和の歴史とともに母として、商店の主婦として働き、三人の子を育てた。このころ、末っ子の私が高校生で、教育やPTAの役員などからの解放感もあったのではないか。これからいろいろやってみたいことがあったろうに、二年半後、母は56歳の若さで亡くなる。いまの医学をもってしたら、きっと克服できたにちがいないとも。親孝行したいときには・・・、としみじみ思った日もすでに遠い。
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コメント
磨きたる廻転窓の玻璃すきて厨浄むる如く陽の射す
良い歌ですね。
56歳は確かに若い! 冥福を祈ります。
投稿: 夜明けのカラス | 2017年11月14日 (火) 17時14分