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2018年1月29日 (月)

ピアノコンサートのプログラムから「平和憲法」の文言が削除

あってはならない、杉並区の男女共同参画事業でのこと

 

126日の院内集会でお会いした小林緑さんから信じがたい「事件」を知らされた。小林さんは国立音大名誉教授で「小林緑&知られざる女性作曲家カンパニー」を中心に、クラシック音楽史上、埋もれた女性作曲家たちの作品を発掘、聴いて、広めようという活動に長い間、取り組んでこられた方だ。NHKの経営委員を一時期つとめられ、NHK問題についても深い関心を寄せられている関係で、お話を聞いたり、「カンパニー」のコンサートにも伺ったりしていた。毎回さまざまな工夫を凝らしたコンサートは、私などの素人にも、わかりやすく、いつも楽しませていただいている。 

昨秋、東京ウィメンズプラザフォーラムの「音を紡ぐ女たち」の講演会では、11月に開催の杉並区男女共同参画都市宣言20周年記念「トークとピアノコンサート」の案内も配られていた。私は出かけることはできなかったが、そのコンサートのプログラムをめぐってとんでもない問題が起きていたのだ。 

『週刊金曜日』では、すでに「杉並区<憲法>文言の削除要請 平和憲法を女性たちの音楽から見直すのは政治的?」として報じられていた(2018112日号)。プログラムの中で、演奏される女性作曲家たちの曲目の紹介の末尾に、小林さんによる数行の解説「なぜ彼女たち?なぜこのような音楽を?」がある。今回、選んだ作曲家と曲目の趣旨を語っているのだが、当初の原稿は、つぎのように記していたそうだ。

 

「(前略)(選んだ)5人はみなピアノの名手にして作曲家ですが、抽象的なソナタより表題付きのわかりやすい小品を、さらに一人だけで目立つのでなく、連弾やトリオなど、息を合わせバランスを保つ形の作品を多く残しました。平和憲法さえも危機にある世界の現状を、こうした女性たちの音楽から見直すためにも・・・」

 

ところが、区の担当者から下線の部分が「政治的だ。記録に残るから直せ」との要請があり、その場で抗議をしたが、印刷の前日でもあったので、つぎのように修正にしたということだった。

 

「こうした女性たちの肩肘張らぬ音楽に耳を傾け、世界が平和に、男女が等しく、自然体で命を紡ぎ続けられるよう・・・」

 

その後、再度抗議したところ、区の男女共同参画担当課長は「政治的だからでも検閲でもない。これは男女共同参画事業なのだとわかりやすく伝えたかっただけ」と答えたそうだ。 

まさに、杉並区職員の「忖度」による「自己規制」の結果でもある。共謀罪の成立、安倍首相はじめ政府の言動から、国の官僚から自治体職員までが、自らの意思で、政府の意向、上司の意向に沿う判断しかできない状況が出来上がりつつあるからだ。言論統制など、多くの場合、「刃物など要らぬ」ということで、役職や出世、嫌がらせをチラつかせ、「萎縮」させればよい。そして市民には、ときに、見せしめのように、ほんの一部の人たちに逃亡や証拠隠滅などを口実にして、不当な警察権力を行使する。沖縄の山城博治さんや森友学園元理事長籠池さん夫妻のように。 

小林さんの件を知って、すぐに想起したのは、さいたま市の「9条俳句訴訟」であった。 

さいたま市立三橋公民館が、憲法9条について詠んだ俳句「梅雨空に『九条』守れの女性デモ」を「公民館だより」に掲載することを拒否した件につき、憲法が保障する表現の自由の侵害に当たるとして、作者が市に句の掲載と200万円の損害賠償を求めた訴訟であった。さいたま市は、公民館は改憲の議論に絡み「世論を二分するテーマで、公民館だよりは公正中立の立場であるべきだ」などとして掲載を拒否。市は「公民館側に発行、編集の権限がある」などと棄却を求めていた。 

その後の新聞報道によれば、20171013日のさいたま地裁判決は「原告が掲載を期待するのは当然で、法的保護に値する人格的利益で、公民館職員らは思想や信条を理由に不公正な取り扱いをした」として、賠償2万円を認めたが、掲載は認めなかった。俳句の作者、市ともに、不服として控訴している。 

こうした事態は、どこでも起こり得る環境が整い始めてしまったのだ。だからこそ、こうした事態に対応する場合には、市民一人一人が毅然とした態度で立ち向かわねばならない。個人にしろメディアにしろ、表現の自由は与えられるものではなく、一人一人が獲得していかねばならないとあらためて思うのだった。

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この部分の修正が要請された

なお、くわしくは、「NPJ通信」の小林緑さんの寄稿をご覧ください。

http://www.news-pj.net/news/60309

 

 

 

 

 

 

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2018年1月27日 (土)

<もはや“詰み”だ!森友問題 責任の徹底追及を求める>院内集会

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集会の動画(全編)約1時間5030秒、ユーチューブで配信中です。
 https://www.youtube.com/watch?v=uOIWjA5SkdU

 

                     その熱気に圧倒される

通常国会は、122日に開会、衆参本会議での質疑も始まった。大阪豊中市議の木村真さんらの「森友学園問題を考える会」主催の院内集会が開かれるという。最初の集会案内チラシ見たとき、「詰み」ってなんだ、「罪」じゃないの、と思って、辞書を引いてしまったのだが、知らなかった!将棋の用語で「王将の逃げ道がなくなること、あと一歩」ということらしい。この年になって知らないことが多すぎる!と痛感。 

すこし早めに会場に向かった。茱萸坂には装甲車が並び、議員会館前には、観光バスが列をなす、いつもの光景だった。しかし、会場は、すでにスタッフたちが横断幕などを取り付けていて、参加者の出足も早い。開始10分前には満席、立ち見までいる盛況である。参加予定の佐倉の方々が入場できたか心配ではあった。 

主催の会からの木村真さんの挨拶は、2016年、地元豊中市の森友学園の瑞穂の国記念小学院の「設置認可適当」から「国有財産貸付契約」「売買契約」に到る情報開示請求が端緒となって始まった市民運動の実績を踏まえ、確信に満ちていた。若きリーダーを支えるスタッフの皆さんの熱気も伝わって来る。論点整理の報告は、議員たちのスピーチで中断、一番聞いてもらいたい、野党議員の詰めの甘さについて触れたのは大方の議員が退場した後だった。また、今治市で加計問題に取り組む黒川敦彦さんのスピーチや閉会の挨拶をした豊中市議の山本一徳さんの話も活動に裏付けられた、印象深いものだった。 

進行は、以下の通りなのだが、途中、衆参の国会議員が「入り乱れて」入場、連帯の挨拶をしては、退場していった。議員、秘書らで40人近くになったという。私のメモの限りだが、登場の議員を記しておく。

 

社民(福島)、民進(杉尾、原口)立憲(尾辻、岡本、生方、村上、初鹿、川内、森山、阿部、近藤)共産(辰巳、宮本)自由(森)希望(今井、階)

 

やってこなかったのは、当然のこととはいえ、自民党・公明党と維新の会だった。今国会で、野党は、どれほど頑張ってくれるのだろうか、あらたな調査や資料もないまま、マスメディア報道を後追いし、見解や所信を伺う、オカシイ、アヤマレを繰り返すような、甘い質問ばかりが多かったこの半年、イライラが続く昨今だった。もう少し、安倍首相や麻生大臣、官僚たちの決まりきった答弁を論理的に、さらに実証で崩す、覆す質疑をしてほしいのだ。ともかく、いま明らかになった文書やデータだけでも十分戦えるはずなのだから、頑張ってほしい。 

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挨拶する木村真さんと議員たち

集会の一般参加者は200人、議会関係者40人、計240人ということだった。 

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主催者あいさつ   木村 真(森友学園問題を考える会)
森友問題 論点整理 醍醐 聰(森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会)
国会議員スピーチ
スピーチ  田中正道・藤田景崇(森友・加計告発プロジェクト) 
 
     八木啓代(健全な法治国家のために声を上げる市民の会) 

 黒川敦彦(今治加計学園問題を考える会)
国会議員スピーチ
まとめの発言    山本一徳(森友学園問題を考える会)
 
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  会場では、昔の職場のMさんにもお目にかかれたのもうれしかった。帰りの電車では、偶然、参加者の豊中市議の熊野イソさんと一緒になり、はじめてお話しした。彼女には、『九州大学生体解剖実験 七〇年目の真実』(2015年 岩波書店)という著書があることを知った。長年高校の先生を続けながら、伯父にもあたる、米軍捕虜の生体解剖に反対した九大の医師、その妻の証言、裁判資料を基に書かれたという。図書館で借り出さねばと思う。 

なお、冒頭にあげた、集会の動画はユープランさんの作成です。大手のメデイアが報道しない集会などでも、黙々と取り組んでいます。ほんとにいつも感謝です。

 

 

 

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2018年1月24日 (水)

2018年、今年の歌会始、その行方は

  112日、平成時代の歌会始は、来年が最後となるが、それ以降の明仁上皇、美智子上皇后の作品はどうなるのだろうと、要らぬ心配もしながら、NHKの中継を見ていた。改元後、夫妻は歌会始に出席するのか、短歌は詠み続けられると思うが、発表の機会はあるのか、などなど・・・。岡井隆の選者就任の折の発言、たんなる「短歌コンクールの一種」との位置づけは、現実とは明らかに異なる性格、様相を呈している中で、天皇に「詠進」するという形式をとっている以上、上皇夫妻は、他の皇族と同じ扱いになるのかしら・・・。皇室行事には一切かかわらないことになるのか。それに、戦時を体験した者として、少しでも役立つのなら天皇にお仕えしたい、と言っていた、御用掛の岡井隆はどうするのかしら・・・。 

 

それはともかく、今年の歌会始の映像を見ていて、一番に目立ったのは、皇族方の出席者の少なさであった。男性では、皇太子と秋篠宮の二人であった。これが皇室の現実である。一方、陪聴者は、いつになく男性が多いように思った。陪聴者の待合室は、かなり混み合っていて、男性優先になったのだろう。

「語」の作品群を読んでいて、もっとも気になったのは、皇后のつぎの一首だった。 

 

・語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ 

 

 平成の時代に、天皇はいくたびか、やや政治的事象に踏み込んだ「おことば」を発信することもあった。「生前退位」表明もその一つといえるが、時の政府に“苦い”思いをさせてきた経緯は確かだと思う。もっと語りたいこともあったろうに、黙して裡に背負ったまま、天皇は、語らなかったと、皇后は詠んだ。 

 

小学校入学以来、あたらしい憲法を当然のこととして過ごしてきた私などは、日本国憲法における象徴天皇制という前提が、不思議な存在であった。一人の人間を「象徴」とすること自体の曖昧性と非人間性、日本国憲法の根幹である民主主義と平等の精神との矛盾を擁する制度が、論議されなければならないはずだったのに、七〇余年が過ぎてしまったという思いがある。 

ふつうの歌詠みならば、「自注自解」の機会もあるが、皇后が自らの短歌を自解したり、自注したりするとどうなるのか。どういうわけか、二〇〇四年、平成一六年を期して、宮内庁のホームページには、各年の歌会始「御製御歌及び詠進歌」一覧に加えて皇族方すべての短歌に解説が付せられるようになった。その執筆者は不明で、宮内庁の担当者なのか、御用掛なのか、選者の一人なのか・・・。いわば、かつての「謹解」と呼ばれる作業でもある。大方のメディアの歌会始報道記事において、これらの「謹解」がそのまま使用がされているところから、メディア向けといってもいいのかもしれない。宮内庁記者クラブの記者たちは、短歌の読解力不足と思われたのか、面倒なので宮内庁に解説を依頼したのか、は不明だが、「官製」「お墨付き」の解説や鑑賞がなされるなどという文芸はあり得ないだろう。作者の手を離れた一首は、本来、読み手の自由・自在があってこそ、文学となり得るのではないか、と思うのだが。

 

今年の皇后の短歌についてはつぎのような解説がなされている。  

「天皇陛下は、長い年月、ひたすら象徴としてのあるべき姿を求めて歩まれ、そのご重責を、多くを語られることなく、静かに果たしていらっしゃいました。この御歌は、そのような陛下のこれまでの歩みをお思いになりつつ、早春の穏やかな日差しの中にいらっしゃる陛下をお見上げになった折のことをお詠みになっていらっしゃいます。」

 

「重き」には、昭和天皇の昭和前期の戦争責任や占領期の沖縄への対応という負の遺産、平成期の平和からの後退、数々の災害に見舞われた日本の歩みを読み取ることもできよう。

 

なお、今年の「選歌」入選者の男女比や年齢構成をみると、ここ数年の動きに大きな変化はみられない。ちなみに平成年間の応募者数、入選者10人の男女比を一覧してみた。応募者は、2万人前後を推移するが、今世紀初めの数年は、2.5万人前後を推移し、2005年の2.8万をピークに下降する。応募者の男女比は発表されていない。なお、新聞報道によれば、入選者の年齢構成は、10代を12名入れるのが恒例となり、20代~50代が少なく、60代以上が圧倒的に多い。  

こうした状況の中で、来年、改元される。「歌会始」どうなっていくのか。短歌愛好者たちの中で、応募者が「歌会始」にどんなところに魅力を感じているのか、皇室や天皇がどれほどの求心力を持つのかにかかっているのではないかと思う。「皇室」の権威付けが若干強化されようとも、「皇室」への親和性が補完されようとも、いまさら、国民の関心や求心力が増幅されるとは、考えにくい。改元後、「歌会始」が劇的に活況を呈するということはまずない、と思われる。  

しかし、歌壇の中での「歌会始」ワールドの在りようは、持続するだろう。歌壇やいわゆるネット歌壇なるものとの境界線を微妙に維持しつつ、選者というステイタスは手放しがたいものとなり、第二の岡野弘彦、岡井隆を生むだろう。そんな予兆の中で、当ブログの「201811日の歌人たち」(111日)の繰り返しになるが、「来年に迫った生前退位を前に、様々な形での<平成回顧>報道は激しさを増すだろう。そして、天皇夫妻の短歌の登場の場も増えるだろう。いま、<生前退位>という日本近代史初の体験」を目前に、右翼ならずとも、保守もリベラルも、何の躊躇もなく<尊王>や<親天皇>を口にするようになってきた。  

すでに、『東京新聞』(夕)では、「歌会始」選者である永田和宏による「象徴のうた 平成という時代」の連載が始まった(2018115日、122日~)。歌会始の選者今野寿美が新聞『赤旗』の選者にもなったことは、このブログでも言及したが、今年の1月には交代し、務めたのは2年間であった。

 

 

<参考> 

歌会始応募者数一覧(1991~2018) 

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/eishinkasu.html 

有効応募歌数は、これより数百首下回る。

*当初の記事において皇后の作品「負ひ」の部分を「背負ひ」としておりました。訂正し、お詫びします。

 

 

 

 

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2018年1月11日 (木)

「女流」は、いつから「女性」になったのか―短歌メディアにおける女性歌人

 『ポトナム』の「歌壇時評」に書きました。

 歌壇における女性の活躍はたしかに目覚ましいものがある。だから、いまさら男だ女だとか目くじらを立てて、云々するのは野暮なことのように言う人もいる。しかし家庭や職場、地域で、あるいは政治の世界で、実際のところ、男女平等はどこまで進んだのか。差別をされている側、格差に耐えている側からの声は届きにくい。とるに足らないことなのか。今一度考えてみたいと思った。

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いま、『女人短歌』の創刊号から通覧しているが、創刊の一九四九年から六〇年代の誌面からは、女性歌人たちの気負いや息遣いが立ち上ってくる。阿部静枝を筆頭に、君島夜詩、森岡貞香、芝谷幸子をはじめ多くのポトナム人の活躍も見逃せない。『女人短歌』の発行・編集を担った「女人短歌会」は、「女歌の発展を期して、流派をこえた女流集団として発足し」たが、一九九七年、「当初の使命を果たしたことを確認」(森岡貞香「女人短歌」「女人短歌会」『現代短歌大事典』)し、『女人短歌』は終刊に到った。たしかに、「女人」という表現は、古めかしかった。

公的な組織や施設名も「婦人」を「女性」と看板を付け替えたのが一九九〇年代で、一九七八年創刊の「婦人白書」は、九二年「女性白書」、九七年「男女共同参画白書」となる。一九七七年開館の「国立婦人教育会館」が「国立女性教育会館」となったのが二〇〇五年。一九八五年男女雇用機会均等法、九九年男女共同参画社会基本法、二〇一六年女性活躍推進法が施行されるが、あくまでも官製のロードマップに過ぎない。現実の日本社会の男女格差は、一四四ヵ国の中、一一四位という結果である(「世界経済フォーラム報告書」二〇一七年一一月二日公表)。

『女人短歌』の創刊当初、不参加の歌人もいたし、短歌メディアや男性歌人の反応も好意的なものは少なかった。しかし、短歌人口は、圧倒的に女性が多くなり、作歌・評論の実力も高まり、各種の短歌賞や結社の指導者に女性歌人の登場が顕著になった。『短歌研究』の編集人中井英夫は、「乳房喪失」を第1回新人賞として中城ふみ子を送り出し(一九五四年四月)、杉山正樹は<現代女流特集>を組み、三〇人弱を出詠させた(一九五八年三月)。同号は「五島美代子・生方たつゑ読売文学賞受賞記念」でもあった。一九六九年から、節句に因む三月号を<女性歌人特集>とするのが恒例となった。「現代代表女流歌人作品集」という特集名が定着したのが一九七八年で、二〇一一年まで続く。二〇一二年に「現代代表女性歌人作品集」となり、三〇年余を経て、「女流」が「女性」となった。一方、五月号の<男性歌人特集>は一九七二年に「現代代表歌人特集」としてスタートする。その後、「全国主要歌人」「全国重要歌人」「現代第一線歌人」などの変遷を経て、一九八一年から、現在も続く「現代の○○人」に定着した。五月号の特集名になぜ「男性」が入らないのか。七〇年代後半から、三月号の女性歌人の数は増加する一方、一九八〇年代の五月号は「現代の66人」「現代の88人」という形で人数を固定化、女性が男性の倍を上回ることもあった。二〇〇五年、三月一六三人、五月八八人をピークに、女性が徐々に減り、男性が一〇〇人を超えるようになり、現在は、その差が縮まっているのは、男性歌人の<実力>の向上を示すものではなく、あくまでも、編集方針によるものだろう。日常的な『短歌研究』登場の男女比は、短歌・散文のいずれも男性の方が多い。三月号だけの大盤振る舞いだったのか。編集人が長い間女性だったということも逆に何らかの影響があったのだろうか。文芸の世界で、「ポジティブ・アクション(ある程度の強制を伴う実質的な機会平等確保計画)」という考え方はなじまないだろう。しかし、メディアは、率先して、歌人の実態や実力を反映するような誌面作りに努力して欲しい。最近、松村正直は、ある時評で「歌壇に男性中心の構造がある」として、この『短歌研究』の特集の名づけの差異に言及していた。男性歌人からの発言として貴重ではないか(『毎日新聞』二〇一七年一〇月二二日)。

(『ポトナム』2018年1月号、所収)

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2018年1月 8日 (月)

「成人式」って何?

現在のような成人式、いや、実態はともかく、テレビで報道されるような成人式は、いつ始まったのだろう。祝日法の成人の日の由来も、成立当初から曖昧だし、なぜ20歳なのかもわからない。選挙権が18歳になった現在は、なおさら、その意味も薄れた。タバコやお酒が解禁になったことを、あんなに着飾って祝わなければならないことなのか。晴れ着を用意できない人たちも多いのではないか。しかも自治体が率先して、出席率を上げようと、税金をつかって躍起になっているのもおかしな現象だ。日常生活とはおよそかけ離れた振袖や袴紋つき、スーツ姿で会場に集まって、Vサインなどしているワンパターンの映像を流すメディアもメディアだし、その彼らの「大人としての自覚をもって頑張っていきたい」の類の決意を報じられても、 なんだか虚しいのだ。

 

結果的に、若い人の職場も非正規が正規に迫り、結婚や子育てが難しい世の中にしてしまった大人たち、その大人たちも老後の不安がいっぱいの時代にしてしまったのだから、大人としての自覚や責任と言われてみても、その内実を思うとやりきれない。“全世代型”の福祉行政といった高齢者の切り捨てが始まり、自己責任論が横行するのだろう。

 

いわゆる「成人」の儀式は、その年齢自体も、時代によって、階級や仕事によって、住む場所によって、異なっていたものだと思う。それを、国が束ねて、騒ぎ、踊らされているとしか思えない。現代ならば、家庭や地域社会で、職場の仲間で、さまざまな知恵と工夫で祝われるべきものではないかと思う。派手な晴れ着などとは、無縁ではなかったのか。

 

老若問わず、経済的な不安が多い時代は、すでに家族葬や地味婚・家族婚が定着し始めている。いくら成人式ビジネス業界が頑張ってみても、成人式だけが変わらないというわけにはいかなくなるだろう、と思う。私の成人式は知らないうちに過ぎていた。

 

 

 

 

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2018年1月 3日 (水)

2018年1月1日の歌人たち

今年の1月1日の新聞に登場した「短歌」について、記録にとどめておきたい。もちろん、私の知る範囲のことで、他のメディアの様子はわからない。 

どこの新聞もほぼ同じなのだが、毎年1月1日に宮内庁から発表される、天皇・皇后の短歌である。どういうわけか、天皇5首、皇后3首が定着していて、この5首、3首の差はどうしたわけなのだろう、夫婦茶わんや夫婦箸の感覚なのだろうか。天皇の短歌は、例年、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会の式典に出席して、その開催県に贈ることになっている作品で、昨年は以下の富山、愛媛、福岡県であった。他は、ベトナム国訪問、タイ国前国王弔問の2首が加わる。今年が最後の三式典出席となるはずである。

 

(第六十八回全国植樹祭) 

・無花粉のたてやますぎ植ゑにけり患ふ人のなきを願ひて

 

(ベトナム国訪問) 

戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか思ひつつ訪(と)ふべくベトナムの国

(

 また皇后の短歌から2首をあげておこう。

 (旅)
・「父の国」と日本を語る人ら住む遠きベトナムを訪(おとな)ひ来たり

(

(名)
野蒜(のびる)とふ愛(いと)しき地名あるを知る被災地なるを深く覚えむ

 

(

 来年に迫った生前退位を前に、様々な形での「平成回顧」報道は激しさを増すだろう。そして、天皇夫妻の短歌の登場の場も増えるだろう。いま、「生前退位」という日本近代史初の体験をするわけだが、平成晩年に至って、「右翼」ならずとも、保守は「尊王」を、リベラル派と言われる人たちも天皇期待論を、躊躇なく口にするようになった。これからは、天皇夫妻が、戦死者や遺族、被災者はじめ国民に寄り添い、平和を願い、祈り続けるメッセージを短歌に読み取り、思いを寄せ、期待する歌人や論者が続出するだろう。 

11日の『朝日新聞』は、朝日歌壇・俳壇の選者の新春詠を掲載した。馬場あき子、佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏の4人が2首づつ発表しているので、その1首目を記す。


・柊(ひひらぎ)に花咲きからたちも実りたりはるかなる齢(よはひ)にわれは入りたり(馬場)

(

・戌年の初日の出なり多摩川の霜の河原に犬と見ている(佐佐木)
・長城も長江も見て島国に戻り、みそひと文字を愛せり(高野)
・鶴見俊輔二年参りを教えくれき火を囲み人ら年を迎ふる(永田)
 

また「歌会始の選者」を持ち出すとは、とクレームがつきそうだが、永田は、歌会始の選者だ。ほかの三人は、オファーはあったと思うが、踏みとどまっている歌人たちではないか、と私は推測している。ちなみに、永田の2首目は、以下の通りであった。

・媚びることなさず生き来し七十年おのづから敵も多くつくりて

 11日の『赤旗』の「文化学問」欄は一面全部を使って、詩人・俳人・歌人・画家の作品が並んだ。歌人は、何と穂村弘の「ゆで卵」と題する5首で、そのうちの2首を記す。 

・食べようよ塩を振ってと誘われてシロツメクサにきらきら座る 

・正午なり 財布は空でSUICAには12150

 

穂村は1962年生まれだから、50代後半だろう。いまや「歌壇」をけん引する歌人でもある。ナンセンスにも近い印象が先に立ち、私は、短歌としての魅力を感じないのだが、エッセイやトークでの出番が多いらしい。三枝昂之とともに『日本経済新聞』の「歌壇」の選者も務める。穂村の起用で、『赤旗』が若い読者を増やせるとも思えない。短歌に限らず、最近の『赤旗』の「有名人縋りつき作戦」には、いささかゲンナリしている。

 

 

 

 

 

 

 

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2018年1月 1日 (月)

新春

新年のご挨拶申し上げます。 

当ブログをお訪ねくださりありがとうございます。 

おかげさまで、なんとかほそぼそ書き続けています。 

続けて調べ、続きを書かねばと思うテーマを幾つかかかえ、 

もどかしさを感じながら過ごしています。 

昨年は、国の内外で受け止めがたいできごとが続きました。2月には、沖縄に出かけました。今回は、屋我地島の沖縄愛楽園と渡嘉敷島の戦跡を訪ねることができました。多くを知らずに過ごしていたことを知る旅でもありました。 

来年となる天皇代替わりに向けての時代や人々の動向を見届けなければの思いです。 

今年もいろいろご教示いただければ幸いです。

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「ユダヤ人を救った動物園」を見てきました。

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 映画評論家の友人から、「ポーランド映画祭2017」と「ユダヤ人を救った動物園」の案内をもらっていた。ポーランド映画祭は、残念ながら出かけられなかったが、暮れに「ユダヤ人を救った動物園」を見に行った。

 

 ナチス・ドイツへの抵抗映画というか、ナチスと戦った様々な人々のさまざまな抵抗を本や展示で知ることはつらいけれども、やはり必要なことと思っている。さらに映画やドキュメント映像となると、より衝撃的な場面に遭遇することが多い。

  そんな中で、今回の映画は、チェコ・イギリス・アメリカの合作ともいうべき映画で、主役の動物園長夫人アントニーナをアメリカのジェシカ・チャスティンが演じ、夫のヤンはアイルランドの俳優が、夫妻にからむドイツ・ナチス軍の獣医へックをスペインの俳優が演ずる。最近の映画事情はさっぱり分からないので、白紙で見られるのがかえっていいのかもしれない。

 1939年、ポーランド・ワルシャワ。ヨーロッパ最大の規模を誇るワルシャワ動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻の実話をもとにした物語である。映画は、毎朝、園内を自転車で巡り動物たちに声をかけるアントニーナの日課から始まる。我が家のベッドで我が子同様に育てられることもある動物たち、その命の危機とも向き合いながら、アントニーナの献身に支えられる動物園でもあった。ところが、その年の9月には、ドイツがポーランドに侵攻し、親友のユダヤ人夫妻も捕らえられ、ユダヤ人たちが次々とゲットーに収容されてゆく。動物園の動物たちも殺処分されてゆくことになる。そんな中、夫ヤンから「この動物園をユダヤ人たちの隠れ家にする」との提案がなされ、夫妻の奮闘が始まる。まず、園内一部を養豚場とし、その餌として、ゲットーの生ごみをもらい受けるというものだ。きびしい監視のもとに、生ごみを車で運び出す折に、何とそのゴミの下にユダヤ人たちを一人、二人と隠して脱出させるのだ。そして、動物園内の地下室の檻の中に彼らをかくまい、食料を分け合う。ゲットーと動物園のドイツ軍による監視は、ますます強化される中、夫妻は共にさまざまな危険を冒しながら、ユダヤ人の救出に命を賭ける。かねてより、アントニーナに好意を持っていたドイツ軍の獣医へック、自分の地位を利用して思いを遂げようとする彼と夫妻の関係も重くのしかかる。

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国内軍兵士による動物の殺処分が始まる

ワルシャワへの空襲も始まり、ゲットーも焼き尽くされる。19438月、ポーランド国内軍と市民によるワルシャワ蜂起にヤンも加わり、行方も分からなくなる。ワルシャワ市民の激しい抵抗も、近郊まで侵攻してきたソ連軍の支援もないまま、ドイツ軍の軍事力により壊滅的な打撃を受け、市民20万人以上の犠牲者を出すにいたる。

 

生れたばかりの長女を人に託し、幼い長男とワルシャワを脱出する。そして映画は、19445月、ドイツが連合軍に無条件降伏後の、ワルシャワと飛び、再開を目指す動物園で、園長夫妻家族4人の暮らしが始まるところで終わる。たしかにホっとするラストではあった。しかも、かくまったユダヤ人は300人にも及び、母娘の二人が移動先でユダヤ人とわかって殺害された以外は無事であったとのテロップが流れた。 

 

「敵役」であるドイツ軍の獣医へックも、実在の人物で、ベルリン動物園の園長を務めたことのあるとのこと、動物に希少種復元に熱心な研究者であったらしい。映画のラスト近くで、夫妻の監視にたびたびやってくるヘック、長男の少年が「ヒットラーを倒せ」と叫んだとして、捕らえられ、銃を構えるヘックにアントニーナが命乞いをし、思わぬ展開で少年が解放される場面、また、ユダヤ人たちがかくまわれていた動物園の地下室に立ち入ったヘックが、壁一面に描かれた彼らの絵やメッセージを前に立ち尽くす場面に、わずかな良心を垣間見るのだったが、かつて見た「戦場のピアニスト」にも通じるものがあった。どうもこのあたりが、アメリカの映画色を垣間見る思いがしたのだが。

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 地下室で息を凝らすユダヤ人たちとアントニーナと息子、パンフレットより

 20105月に、ワルシャワとクラクフを訪ねている。この動物園のことは知らず、キューリー夫妻の記念館を見学、休館で見学しそこなった歴史博物館の辺りを歩いている。近くを流れるヴィスワ川の対岸一帯が動物園だったのだ。1928年開設、40ヘクタールもあるという。もしチャンスがあれば寄ってみたい。 

 

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