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2018年3月30日 (金)

3月29日、天皇夫妻は、3日間の沖縄の旅から戻る

・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)に来るな

  日本で祈りなさい(中里幸伸)

(「オキナワに詠む歌―百人の沖縄・アンソロジー」『歌壇』20156月)

 

 327日から29日までの天皇夫妻の沖縄訪問は、多くのメディアによって、皇太子時代から沖縄に寄り添い続けたことと在位最後の沖縄行きへの希望をかなえたことが合わせ報じられ、多くの新聞は以下のように「社説」を立てている。

➀「天皇陛下の沖縄訪問 よせ続けた深いお気持ち」『毎日新聞』327

②「天皇沖縄訪問 命とうとし平和を願う」『東京新聞』327

③「両陛下来県 平和願う姿勢の継承を」『琉球新報』328

④「沖縄ご訪問 鎮魂と交流をつなげたい」『産経新聞』329

⑤「両陛下来県 際立つ<寄り添う姿勢>」『沖縄タイムス』329

⑥「天皇と沖縄 <心痛む>歴史への思い」『朝日新聞』330

 

1975年から皇太子時代に5回、天皇即位後には6回目の訪問となることも、一覧表など付して強調する記事もある(「象徴天皇と平成第2部沖縄の旅・上」『東京新聞』324日、「慰霊の旅を重ね」『毎日新聞』326日)。

➀は、現政権の沖縄への冷淡さや一部政治家らの沖縄への中傷を指摘した後、「本土との溝が深まる中での両陛下の訪問は、国民統合の象徴としての存在をより深く感じさせられる」と結ぶ。

②では、「みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平けき世に思ふ命たふとし」(1976年歌会始「坂」)という皇太子時代初めて沖縄を訪ねたときの短歌を引用し、「陛下が大事にされている公的行為として、沖縄の地を踏む意味は一貫し、慰霊と平和を願うお気持ちに他ならないであろう」と結ぶ。

⑥は、天皇の沖縄への発言や重ねた訪問は、沖縄の人々の「日本にとって我々は何なのか」の問いへの答えではないかとし、次のように結ぶ。「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった。翻ってそれは、本来、問いに向き合うべき政治の貧しさ、社会のゆがみを映し出す」

 

➀における「国民統合の象徴としての存在」、②における「陛下が大事にされている公的行為」の背景には憲法上の疑義がある。⑥における「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった」・・・というくだりは、さらりと述べてはいるが、その事実認識には、多くの疑問が残る。NHKテレビのニュースでも、女手一つで育てられた女性が若いとき、遺族として天皇夫妻を迎えたときの違和感が、現在は払しょくされた、とのコメントが流されたが、⑥と同じスタンスで、沖縄の現実を歪めてはいないか、の疑問は大きい。

 

一方、③『琉球新報』では、1972年「沖縄は平和憲法の下に復帰した。しかし、米軍による相次ぐ事件事故、新基地建設強行にみられるように、沖縄では今でも憲法の基本理念がないがしろにされている。「象徴天皇」として憲法を順守する天皇に、この事実を受け止めてもらいたい」と結び、現憲法順守の強い願いがこめられている。⑤『沖縄タイムス』は、「国事行為は憲法に列記されているが、象徴としての公的行為については憲法上の定めがない。公的行為はどうあるべきか、国政の場での議論が必要だ。<寄り添う天皇像>は多くの国民の支持を得ているが、<男性中心>の天皇制に対する疑問は根強い。女性天皇の是非や皇族のあり方なども幅広く議論する必要がある」と、現憲法自体への疑義が指摘されていることに、他のメディアにない特色を読み取ったのである。

 

  私は、かつて、天皇夫妻の10回の沖縄の旅とそのたびごとに述べた「おことば」や詠んだ短歌に焦点を当て、そのタイミングで、どのようなメッセージが込められ、その発信・報道が、政治や社会においてどんな役割を果たしたのか、沖縄県民や本土の人々がどのように受け止めたかについて、検証したことがある(「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」『社会文学』20168月 6580頁)。もちろん、やり残していることもあり、新たな課題もみつかり、途上ではあるが、次のような思いは変わってはいない。

 

天皇夫妻の短歌には、沖縄を詠んだものが数多くある。天皇のときどきに発せられる「おことば」とあわせて、なぜこれほどまでに沖縄を語り続けるのかについて、「昭和天皇が沖縄に対して負うていた責任を、いわば<負の遺産>として継承した者としては、当然と言えば当然の姿勢といえる。だがもう一つの理由として、戦後の日本政治が沖縄と真摯に向き合うことがなかったからではないのか」と記した(「天皇の短歌、平和への願いは届くのか」『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 20138月)。また、とくに、天皇の発言や振る舞いを忖度して、必要以上に美化したり過大評価したりすることのリスクに言及、天皇のメッセージが、たとえ国民との距離を縮め、共感や謝意を醸成したとしても、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点を逸らす役割を担ってしまう不安と危惧が去らない、と述べたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』20151112合併号)。

 

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一九七一年(島)『瀬音』(1997)
①いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)
一九七六年(伊江島の琉歌歌碑)
②広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事
(明仁皇太子)
一九九三年(沖縄平和祈念堂前)『道』(在位10年記念 1999)
③激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ
(天皇)
一九九七年(対馬丸見出さる)『道』(在位10年記念 1999)
④疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり
(天皇)
二〇〇四年(南静園に入所者を訪ふ)
⑤時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏(おだ)しさ
(皇后)
二〇一二年(元旦新聞発表、沖縄県訪問)
⑥弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く
(天皇)

 

 ここに、ほんの一部ではあるが、天皇夫妻の短歌を掲げてみた。➀の復帰前の皇太子妃の作品は、いま、ふたたび語られることの多い、毎年、沖縄の子供たちを本土に招いて皇太子夫妻が面会を続けてきたという「豆記者」からの手紙を詠んだ。②は、海洋博の閉会式に出席の折、本島中部、本部港から渡った伊江島での琉歌で、天皇が琉球の伝統・文化に深い関心を寄せていることの象徴として琉歌を詠むことが語られ続けている。伊江島は、米軍の空襲が323日に始まり416日に上陸が開始され、島民の半数1500人、兵士2000人が犠牲となっている。生き残った住民は強制移住させられている。戻った島の土地は「銃剣とブルドーザー」によって強制収用され、島の3分の一以上が基地という島である。そして現在は、オスプレイなどの基地として滑走路の拡張工事が進んでいる。島の中央にある城山の中腹に、歌碑は建てられているが、私が訪ねたときは、観光客は素通りで、案内の運転手も「そういえば、あったかもしれない」程度の関心しか示さなかった。④は「対馬丸」が発見されたときの歌だったが、2014年には、夫妻の強い希望で、対馬丸記念館を訪ねるために沖縄行きが計画されたという。⑤は、宮古島のハンセン病国立療養所を訪ねた折の歌である。全国13カ所ある療養所が沖縄県に二カ所、宮古島の南静園と名護市屋我地島の愛楽園が設置された。ハンセン病者の隔離政策が誤っていたこと、その国策に、皇室が大きくかかわっていたことは、このブログ記事にも何回か記しているので、合わせてお読みいただきたい。

 

 

 慰霊や慰問先で犠牲者に祈りを捧げ、面会した遺族や関係者に「大変でしたね」「ご苦労なさったでしょう」「いつまでもお元気で」と声をかける姿が映され、声をかけられた人々は、「ありがたかった」「感激した」と涙をぬぐう姿も報道され続けてきた。これは、本土の人たちが、そして、ときの政権が望む「物語」を、報道関係者が率先して発信している姿ではなかったか。

 

 少し遡ってアンソロジーをひもとけば、つぎのような短歌を読むことができる。大城作品の「勇気持て言ふ」の一首が「萎縮」や「自粛」が蔓延している状況を物語っているといえよう。

 

・天皇のお言葉のみで沖縄の戦後終はらぬと勇気持て言ふ

(大城勲1939年~)

・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ

(神里義弘1926年~)

・国体旗並ぶ街道囚はれの如く島人に警備の続く

(玉城洋子1944年~)

(『沖縄文学全集第三巻・短歌』19966月) 

   ところで、3月27日というのは、1879年3月27日、明治政府が処分官松田道之が、600人の兵士らを従え、首里城に入城、廃藩置県の布達をもって明け渡させ、「琉球王国」が廃された日でもあった。また、3月28日は、私が、昨年、渡嘉敷島に渡ったとき、案内人は、渡嘉敷にとって忘れることのできない日、1945年3月28日は、多くの島民が自決を余儀なくされた日であった、と語っていたことを思い出した。この日には、毎年慰霊祭を行っているという。

・歴博の「大久保利通とその時代」に行ってきました(2015年12月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-4db7.html

 

・冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはいけないこと―渡嘉敷村の戦没者・集団自決者の数字が錯綜している背景(2017年2月22日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

 

なお、「沖縄の天皇の短歌」について詳しい資料は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

 

 

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