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2018年6月19日 (火)

今年の6月15日は・・・、第一歌集『冬の手紙』のころを思い出す

 今年の615日は、病院で少し大掛りな検査を受けた直後だったので、家で静かに過ごし、1960615日前後のことから私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)のころまでのことを思い出していた。1960年は、私が母を亡くした翌年で、大学に入って二年目だった。末っ子で、お母さんっ子と言われていた割には、当時の立ち直りが早かったらしく、家族は、いささか安堵したらしいことを、後から聞いた。

 

1960615日は、安保闘争のさなか、学生だった樺美智子さんが、国会南通用門で、警官隊との衝突の混乱の中で死亡し、その死をめぐって、反体制運動の分断が図られようとしていた。620日の安保条約改定の自然承認を前に、私も何度か学生自治会の一員としてあるいは一人で、集会やデモに参加することがあった。在学の大学自治会は、いわゆる全学連「反主流派」と呼ばれ、「過激」とされる「主流派」とは一線を画することが強調されていた。いわばノンポリに近い、シナリオ研究所に通う映画青年?を気取ってもいた私には、その深層には触れないまま卒業した。卒業後は、2年間の私大職員を経て、国家公務員となっていた。その頃の職場の労働組合は、職員約800人のうち、管理職を除いて、ほとんどの職員が組合に加入することが当たり前という状況だった。政党色が濃い組合とされていた。そして、私の配属先の10人余りの課からは組合の委員長や執行部役員が選出されていた時期でもあった。

 

永田町の職場は、国会議事堂に近いこともあって、私は、615日の昼休みには、ひとりで、議事堂を一周して樺さんを偲び、いま、何をしたらよいのかを考える時間になればと、いささかの感傷も手伝って、毎年続けていた。その頃、職場の男性たちの間で始まっていた、昼休みの皇居一周のジョギングというものに、女だって走りたいよねと、週に23回、友人と誘い合うようになっていた。約5キロのジョギングは、当初は、かなりきつく、千鳥ヶ淵の土手で、一息入れながらストレッチをしたりしていた。約30分、それまで、知らなかった四季折々のお堀端の風景を楽しめるようにもなった。そんな折、同期採用で、組合青年部で活躍していると思っていた友人が、ある「過激派」とされる人たちの集会で、逮捕・拘留されるという事件が起きた。数か月後、保釈されたが、人事課は、職場復帰を認めなかった。その時、労働組合は、「過激派」の活動に参加していたことをもって、いっさい支援することをしなかった。この時の組合の対応がきっかけになって、「労働組合」って何だろうという疑問が、かつての615日の樺さんの死をめぐる「革新政党」の対応とつらなっていることにも気づくのだった。しかし、私は、職場内で立ち上げられた「支援」の会にも参加することをしないまま、労働組合を抜け出すということもできなかった。この私の曖昧さを、いま、どう考えたらいいのだろう。そして、いまは・・・。忸怩たる思いもある。

 

当時は、短歌に関わっていることすら、職場では言い出してはいなかったし、ごくわずかな友人にしか話していなかったと思う。こんな歌ばかりではないのだけれど、当時の拙いつぶやきを恥ずかしいながら・・・。

 ・晶子・雷鳥・菊栄らの論争いまだ越ええず<女の仕事> 

・等分に与野党責めて傷つかぬ立場というを知らされており 

・キャンパスは整いゆけるに組合の成らぬ私大に働き慣れて

 

・理事室の明るきに抗議を続けたる会を見守る側に立ちいて

 ・好奇なる問いに遇いたり新しき職場に小さき嘘を重ねん

・シュプレヒコール禁じたるマイクの声に列は少しく昂ぶり見せる

 ・少数者意見を葬る手続を自らの組織が如実に見せる

 ・首相発ちし日より一つの空席を持せる職場に冬を迎えん

 ・ひそやかに救援資金が集めらるる職場の冬の混濁におり

 ・陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語

 ・ようやくに保釈なりたる友が来て涙見せたり職場の隅に

 ・いささかの力となるか抗議文手渡す友の背後に並ぶ

 『冬の手紙』(五月書房 19717月)より 

  

 獄中より職場に届いた手紙を同僚たちと、陽にかざして読んだことが、歌集名「冬の手紙」の由来となった。母の没後11年後に父を亡くした。晩年の父とはよく旅に出た。歌集には、そんなときの一首もある。

 ・すすき野にすすき折りいる父が言うぱっと明るい顔はないのか

 そして、半世紀近くが経とうとしている昨年、ネット上で公開された私の評論集への書評が縁で知り合った青年から、就職先が、私のかつての職場であることを伝えられた。それではと、職場の近くでランチをすることになった。孫の世代にもあたる若者に、話の成り行きながら、現在の組合の加入具合を尋ねてみると、2割くらい、ともいう。官民問わず、組合の組織率が著しく低下しているというのは聞いていたが、やはり愕然とした。本人が加入しているか否かは聞きそびれてしまったのだが。

 

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コメント

初めてのコメントです。『短詩形文学』6月号に下村すみよさんの1首「主催者の旗を掲げて立つひとり内幸門まえ内野光子氏」の内野光子さんが解らないので、ネット検索し、2018年6月19日 (火)今年の6月15日は・・・、第一歌集『冬の手紙』のころを思い出すを拝見ししたコメントです。
  1960年6月15日は、安保闘争のさなか、学生だった樺美智子さんが、国会南通用門で、警官隊との衝突の混乱の中で死亡し、……とあり、私は九段下の職場でしたので、昼休みの皇居一周のジョギングし、靖国神社広場でバレーボールなどをしていました。都職労の青年婦人部で「組合」をしていましたので懐かしく思いました。昼は職場の動員で国会、夜は大学からデモと出かけて、樺さんの死をしり、お父上は中大の教授をされて休講の札が掲げられていました。1940年生まれの私は父が満州へ徴兵され母と妹の3人は空襲を避けて母の生まれた千葉の本納へ縁故疎開し、シベリア帰りの父と早稲田に移転と、内野光子様と同じところで空気を吸っていたとを知りました。その頃を詠んだ歌が同じく『短詩形文学』6月号に載っています。偶然の出会いと思いますが、あつかましくもコメントしました。図書館から借りて『現代短歌と天皇制』を読んでいます。

投稿: 立石武男 | 2018年7月 1日 (日) 03時09分

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