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2018年6月30日 (土)

千葉の空がアブナイ!ますます危ない!~<安全保障環境>が変わったのに(5)横田のオスプレイは

 

 628日・29日の両日、周辺自治体の事前通告なしに、在日米空軍のCV22オスプレイが、横田基地と厚木基地で飛行訓練を実施した。

 

米空軍の垂直離着陸輸送機オスプレイCV22の、米軍横田基地(東京都福生市など)配備の時期は、2017年後半、19年後半以降など二点三転していたが、今年の43日に突然の前倒しとなり、45日には、5機が飛来、夏から本格配備が始まり、合計10機まで増える予定だ。これまでも、横田基地には海兵隊のMV 22オスプレイは飛んでいる。その実態は、以下を参照。

<神奈川県オスプレイ飛来関連情報>
 
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/bz3/cnt/f531088/

 MV22オスプレイは、201612月、沖縄の名護市海岸で墜落し、20178月にはオーストラリア東部沖でも墜落3人の死亡事故が起きている。前者の原因は、空中給油中の乱気流により自らのプロペラで給油ホースを切断したことによるとされ、機体構造上の問題はないとして、6日後には飛行を再開した。後者の場合は、プロペラが輸送艦の甲板に接触して海に墜落、降下時に事故機の吹きおろした風による乱気流によるものだとして、機体自体に欠陥はないという米軍からの説明で、翌日から同機種の飛行を再開している。 
 上記の事故などを受けて、防衛省は、
MV22の事故率(Aクラスの死者ないし200万ドル以上重大事故)は、米軍からの訂正を受けて3.24になったとした(2018225日)。 
 CV22は
、まだ、飛行74000時間ながら、飛行10万時間当たりの事故率は推定4.05とされ、MV22オスプレイの3.24を上回るところから、基地周辺の住民の不安が高まっている。日米合同委員会の合意では低空飛行訓練について、地上から150メートル以上で飛行し、人口密集地域などの上空を避けることになっているが、天候条件などによっては、150メートル以下を飛ぶ可能性もあるとする(JIJIcom201845日)。両機種の基本的な性能や構造は同様だが、CV22は、低空飛行や夜間飛行機能が強化されているという。
 しかしながら、いま、住民に一番近い自治体、東京都と横田基地周辺の五市一街でつくる連絡協議会は、6月4日、配備計画の詳細な説明と安全確保などを求める要請文を防衛大臣あてに提出している。具体的な配備計画・人員計画の公開、休日・深夜早朝の訓練中止、事前通告を要請し、お願いするのだが、政府とて、在日米軍には、ひたすら要請・お願いのみなのである。 しかしながら、いま、住民に一番近い自治体、東京都と五市一町でつくる連絡協議会は、6月4日、配備計画・人員計画の説明と安全確保を求める要請文を防衛大臣に提出している。さらに休日・早朝深夜の訓練中止と事前通告をお願いしているが、それを受けた政府とて、米軍には、ひたすら要請・お願いするだけなのである。この悪循環をどう断ち切るのか。

 

 

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2018年6月29日 (金)

千葉の空がアブナイ!ますます危ない!~<安全保障環境>が変わったのに(4)

 

下総航空基地の哨戒機PCの飛行訓練は、いま

  梅雨アケかと思うほどの好天が続き、と思ったら、本日関東も梅雨が明けたそうだ。一気に真夏の暑さに、我が家の居間は、南の掃きだしと西の出窓を開け放つ。この季節までは、気にならない航空機騒音が、否応なしに、また、飛び込んでくるのだ。これまでの三つの記事では、羽田着陸便の騒音とその要因、木更津駐屯地への米軍オスプレイの整備拠点、自衛隊オスプレイの暫定配備に伴う危険について報告した。今回は、これまでも、当ブログでは、毎年のように、主に海上自衛隊下総航空基地(柏市)からの哨戒機PC3の低空飛行、騒音についてレポートをしてきた。昨日628日、居間でパソコンに向かっていても、この騒音に悩まされた。午前中の9時台か10時台にかけてと、この日は、午後2時台、そして日没後の夜間飛行による騒音であった。この時間帯は、午前中は訓練のため館山沖に向かい、午後は、基地に戻る時間であり、夜間は離着陸の訓練であるということを聞いていた。自衛隊機は、ほぼ、我が家の真上を通過する。その時は、人の話し声、テレビの音はかき消されるが、とくに、静かな夜間は、窓から見上げたときの音と両翼、尾翼の強烈な灯りの近さには恐怖さえ覚える。350m以下は飛べないことになっているというが、高度500mそこそこではないかと思われる。ここでは、繰返さないが、かつて、2011年~13年にわたって、基地広報担当には、そっけないながらも、教えてもらったこともあった。佐倉市の総務・広報担当の対応は、まさに、ミもフタもないものだったことを思い出す。一連の報告は、以下のブログ記事を見てほしい。

 

あらためて、きょう、629日、下総基地のHPを見てみた。そして驚いたことに、かつて公表していた飛行訓練計画カレンダーがない。消えている。探し方が悪いのか問い合わせてみると、なんとそんなことはしてません、1週間分の予定なら教えますよ、という広報の返答だった。数年前には訓練計画のカレンダーが月単位で公表されていたのである。信じがたいのだが、なぜ公表しなくなったのかを尋ねると、遠方から基地周辺までやってきた飛行機マニアが「カレンダー」と違うではないかと文句をつけてくるから?!ともいう。軍事情報でもなんでもない、こんな情報まで隠蔽するんだ、と少し怖くもなった。かたや、情報公開をうたいながら、特別秘密保護法や公文書管理法によって情報隠しを合法化しようとする行政、政府の在り方に恐怖さえ覚える。いつの間にか、こんなことになっているとは、知らなかった。知る権利を行使しないとこうもなるのだ。下総基地の担当者は、1週間分をお知らせすれば、皆さん納得されて、文句を言う人もいませんよ、との発言。それではファックスによる情報提供をお願いします、と言えば、それはできない、とのことだが、近隣の自治体にはファックスで知らせている由。いずれ情報公開請求によって、一年間分くらいの飛行実態を知りたいと思っている。

 

ちなみに、口頭で確かめた、来週の予定と今週分の実績は以下の通りだった。昨夜の低空飛行と騒音の原因を追認した形である。50年目から続いていると豪語するのだが、住民としては、これ以上の騒音被害や低空飛行の恐怖は、何としても阻止しなければと思う。71()は、木更津で「オスプレイ配備に反対する!県民集会」が開催される。佐倉からは、バスで出かけることになっている。ぜひとも県民の力を結集したいものである。

 

20186月~7月(2週間分)飛行訓練時間の実績と予定(広報からの聴取)

6

25/

26/

27/

28/

29/

30/

1/

 

10∼15:00

10∼15:15

10∼16:15

10∼19:30

10∼16:00

なし

なし

7

2/

3/

4/

5/

6/

7/

8/

 

なし

14001600

なし

なし

なし

航空機騒音等のお問い合わせ先:海上自衛隊 下総航空基地
04-7191-2321(代)

 

参考:当ブログの関連記事をどうぞ 

2012411
〇自衛隊機、500メートルの低空飛行~50年も続いている

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/04/50050-5a56.html

 

2012819
佐倉市の航空機騒音、その後

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/08/post-bd02-1.html

2013713
〇自衛隊機の夜間演習飛行、日没から夜8時までの2時間!

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/82-f987.html

 

20139月29
〇下総航空基地へ~佐倉の航空機騒音の原因の一つ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-d7df.html

 

2014425
〇340mの恐怖~習志野第一空挺団の軍機飛ぶ佐倉市上空 
 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/04/340m-6c9c.html

2014531
〇佐倉市上空の自衛隊機航空機騒音、その後

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/05/post-7d69.html

2016610()
あの低空飛行の軍用機は何だ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/koukakukakunnre.html

 

 

 

 

 

 

 

 

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千葉の空がアブナイ!ますます危ない!~<安全保障環境>が変わったのに(3)

陸自購入のオスプレイの配備が、急きょ木更津に決まったわけは

 アメリカから、1機100億以上もするオスプレイMV2217機もアメリカから買うなどということはいつ決まったのか。といえば、201312月、5年毎に策定される「中期防衛整備計画」(2014年~2018年度)が閣議決定されていた。そして、当初は、その17機は、佐賀空港に配備の予定であった。それが、201825日、佐賀県神埼市に、自衛隊の戦闘ヘリコプターAH64Dが点検後の試験飛行中に民家に墜落、乗員二人が死亡する事故が起きたことは記憶にも新しい。その事故により、オスプレイの配備が住民の反対により困難になったため、急きょ、暫定配備先として、木更津駐屯地が決まり、この秋にも5機が配備されることになったのである。木更津駐屯地は、すでに米軍のオスプレイ整備拠点であったことと無関係ではなかったはずである。木更津にとっては、二重の負担にいたった。

 なお、佐賀で墜落した自衛隊機AH64Dは、曰くつきの機種であったことを初めて知って驚いたのである。

陸上自衛隊は、2005年からAH-64D(アパッチ・ロングボウ,ボーイング社製)の導入を開始した。しかし、富士重工業のライセンス生産により、当初62機が調達・配備される予定だったが、2013年度まで9年をかけて、わずか13機で調達を中止した。富士重工は、初期投資が回収不能になったとして、国を相手取り351億円の支払いを求めた訴訟で、最高裁は富士重工側の訴えを全面的に認め、国に対し全額の支払いを命じる判決が確定した、という機種だったのである。国の選定の失敗の本当の理由は、新しい機種の開発を知りながら、価格には見合わない高い買いもの、コストパフォーマンスがあまりにも低い機種を調達してしまったということであった。下記の資料では、2015年度の実働機は、11機であったことも分かり、さらに今回1機を失ったことになる。乗員2名のみの対戦車用の高性能の「戦闘機」という触れ込みであったが、「調達」の失敗で、二人の自衛隊員を失い、民間人の命を奪いかけたのである。

ところが、今回の佐賀の自衛隊機墜落報道において、機種やその性能の高さや原因究明に言及する記事は散見したが、上記の調達ミスによる訴訟で国が全面的に敗訴したことを報道した記事を見いだせなかった。私が、たまたま機種名でネット検索したら、Wikiでもこの経緯は記されていたのである。報道関係者が知らないわけはないだろう。2002年からから予算計上され、2005年から導入していたのであるが、一機の平均購入額は68億と高額なものであった。その後の自衛隊からの原因究明の中間報告によれば、整備不良や操縦ミスは認められなかったという。こうした、不良兵器・装備の購入は莫大な無駄遣いと人命にかかわるということを、強調しておきたい。

<陸・海・空の各自衛隊別、機種別の機数>

https://flyteam.jp/news/article/53415

 もしかしたら、知らないのは国民だけで、氷山の一角だったのかもしれない。そんな失敗をも省みず、オスプレイの選定にも、同様の不安を覚える。だが、それにもまして、日本をとりまく安全保障環境は、大きく変わりつつあるなかで、防衛関係費の推移をあらためてたどっておこうと思う。

Img452_2
上記の数字には、以下の経費を除いたものであり、平成2930年度に限り、(  )内の数字はそれを含めたものになる。
SACO関係経費として、平成29年度:28億円、平成30年度:51億円
米軍再編関係経費のうち地元負担軽減分として、平成29年度:2,011億円、平成30年度:2,161億円
新たな政府専用機導入に伴う経費として、平成29年度:216億円、平成30年度:312億円
<我が国の防衛と予算 平成30年度予算の概要>よりhttp://www.mod.go.jp/j/yosan/2018/yosan.pdf

 

 防衛関係費の「平成30年度予算の概要」で、今回のテーマと関連して、私が注目したのは、

・戦闘機(F-35A)の取得(6機:785億円)その他関連経費(整備用器材等)として、別途293億円【30予算までの整備数/中期防内の整備数:28機/28機】

・ティルト・ローター機(V-22)の取得(4機:393億円)

輸送ヘリコプター(CH-47JA)の輸送能力を補完・強化のため。その他、関連経費として323億円【30予算までの整備数/中期防内の整備数:17機/17機】

 
 ということは、5年間で戦闘機F35A28機、MV22ヘリコプターは17機が発注されたことを意味し、そして、毎年、関連経費として、かなりの額の予算に組まれていることが分かる。これまでは、「北」の脅威、南西諸島にかかる中国への抑止力を口実に、防衛関係費は、近年0.8%の上昇率をもって増額してきたのである。しかし、在日米軍の経費の4分の3は日本が負担している現状にもかかわらず、トランプ大統領は、自国の負担の軽減を主張する。さらに最近では、米韓の合同演習も中止、在韓米軍の撤退すら言い出したのである。日本としては、在日米軍縮小のチャンスではないのか。今後は、イージス・アショア2基の買い付けなどは、もはや必要性を失いつつあるのではないか。日本の軍拡によって、誰が得をするのかをたどってみると、アメリカの軍事産業であり、日本の軍事産業ではなかったか。少なくとも、2019年から5年の「中期防衛整備計画」では、当然見直されなければならない。災害救助に重点を置いた「自衛隊」で、良いではないか。国民は、自らの安全・安心のために何を優先すべきなのか自身の意識を変えていくべきではないか。

(つづく)

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2018年6月28日 (木)

千葉の空がアブナイ!ますます危ない!~<安全保障環境>が変わったのに(2)

 

2.木更津が米軍オスプレイの整備拠点となったわけは 

625普天間基地の米軍海兵隊のオスプレイMV22 2機目が、整備のために木更津駐屯地に到着し、26日は、要員輸送のためか、3機目が飛来したが、当日離陸したという。いま2機のオスプレイが、格納庫にあるということだ。普天間の海兵隊は24機のオスプレイを持つので、以下、下記の防衛装備庁の資料によれば、整備は5年に1度必要で、その工期は34か月を要し、試験飛行を経て終了することになる。こうした頻度でのローテーションでオスプレイの飛来することになる。整備を請け負った企業は、入札によって「技術力の高い」とされた富士重工と決められている。



オスプレイ整備が日米共同でなされることになったのは、 

①「我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中」、20154月策定の新たな日米ガイドラインに基づき、日米協力の実効性向上のため 

②陸上自衛隊のオスプレイの導入の円滑化と日米オスプレイの整備の効率化のため 

③沖縄の負担軽減実現のため

 であるとその意義をうたうが、着目すべきは「日米協力」の証であること、さらに「沖縄の負担軽減」を標榜していることである。しかし、一方、日本政府は、沖縄の北部のヘリパッド新設を強行し、辺野古新基地建設工事は、土砂投入を目前に強行している現状は、軽減とはまさに裏腹のことを実施している。たとえ、縮小と称して、若干の用地返還があっても、使い放しの原状回復には程遠い状態なのである。各地の基地では「日米共同」「日米協力」の名のもとに、市民にさらなる負担を強いているのが実態である。 

さらに、整備拠点として、なぜ、千葉の木更津駐屯地が選定されたのか。オスプレイ離着陸に適した滑走路があり、海に面しているので市街地を飛ぶことが少ないからだと言い、木更津駐屯地の陸自ヘリコプター整備隊が立ち会うことで知見を得ることができるから、というのが理由だった。とくに2番目の理由は、まさに、原発立地をも想起させ、リスクを前提に、周辺住民を不安に陥れるものである。

そもそも、オスプレイMV22のデメリットに関しては、当ブログでも何度か指摘してきた。メリットと称して、垂直の離着陸、高速、航続距離、ホバリングにおいて他のヘリコプターより優れているとされているが、部品落下も続き、名護市の海岸に、空中給油中のオスプレイが墜落したことも記憶に新しい。2016416日、熊本地震の災害救助に沖縄海兵隊のオスプレイが出動したが、25メートルプールにも入りきらない巨大すぎる機体、離着陸時の熱風、機内構造から大量物資輸送の不適が明らかになり、短距離移動には小回りの利く、異機種ヘイコプター、例えば、CH47Jの自衛隊機の方が効率がいいことも分かった。災害出動にどちらが優れているかは、その機動力の比較でも明らかであろう。オスプレイの出動は、自衛隊のオスプレイ導入のための政治利用のパフォーマンスであったとの見方も取りざたされた。 

                             

Photo
後方に停まるのが米軍海兵隊のMV22オスプレイ、回転翼の角度が変えられ、巾17.5×長さ25.5×高さ6.7mの巨体ながら、乗員2+24名、搭載重量9070㎏、航続距離3590km(ボーイング社製)。米軍は普天間に24機所有。写真は 4月19日午後、熊本県南阿蘇村(宮沢宗士郎撮影)産経WEST2016.4.21より

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自衛隊のCH47Jチヌークは、巾4.7×長さ15.8×高さ5.6m、乗員5+53名 、搭載重量22680kg、航続距離1000㎞(ボーイング社開発、川崎重工製)。陸上自衛隊に60機、航空自衛隊に15機合計70機以上所有。写真は航空自衛隊のHPより

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この写真は2013年9月の下総航空基地航空祭に地元の9条の会のメンバーと出かけたときのもので、説明のパネルを見ると、なんと「CH- 47J」とあるではないか。何の気なしに説明を聞いていたと思う。詳しくは、
当ブログの「下総航空基地へ~佐倉の航空機騒音の原因の一つ(2013年9月29日)」を参照http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-d7df.html

 CH47の歴史は古く、米軍では、ベトナム戦争、フォークランド紛争、湾岸戦争で、活用された機種であったという。日本では、福島第一原発事故の際にの放水作業にあたっているし、これまでも災害出動の実績は大きい。それにしても、自衛隊が70機以上持っていたということに驚いてはいる。

参考:
<木更津駐屯地における日米オスプレイの共通整備基盤について>

防衛装備庁(201510月)

http://www.mod.go.jp/atla/soubiseisaku/osprey/h28_seibikiban.pdf#search=%27%E6%99%AE%E5%A4%A9%E9%96%93%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E6%95%B4%E5%82%99%27

 

 

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2018年6月26日 (火)

千葉の空がアブナイ!ますます危ない!~<安全保障環境>は変わったのに(1)

 きょう626日の各紙朝刊・千葉県版には、見出しの違いや大小はあっても、6月25日に「木更津にオスプレイの2機目が飛来した」という記事が載った。

これまで、このブログにも、千葉の空に、佐倉の空に、なぜこれほどの頻度で民間機が飛行するのか、自衛隊の低空飛行の実態はどうなっているのかなどについては、できる限り調べてはレポートしてきた。さらに、2015年、沖縄、普天間基地のオスプレイの整備拠点に木更津の自衛隊駐屯地に決まったこと、そして、昨年の2月以来、1機がすでに整備を受けているはずが、そのまま、どうなっているのか、その上、今年2月になって、佐賀県神崎での陸上自衛隊ヘリコプター墜落事故に伴い、アメリカから購入のオスプレイ17機のうちの5機が配備先の佐賀空港から木更津駐屯地に「暫定的」に決まり、秋にも配備されることになったこと、が報道されても、千葉県民すら、どこか他人事であったような気がする。さきに、佐倉市地元の有志で、55日、「木更津にオスプレイ要らない!」のチラシを、最寄りの駅頭で配布したこともお知らせした。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/55-ec07.html201856日)

その時の反応が「え?そうなの?」「怖いね」といって、中には、飛び入りでチラシを撒いてくださった方もいた。

千葉の空が、佐倉の空が危ないのは、根っこは、日米安保条約、日米地位協定に由来すると考えられるのだが、様々な状況を、大きく分けて整理した方がよいのかもしれない。それほど、千葉の空は危ない。 

 

木更津市オスプレイ飛来情報等についてhttp://www.city.kisarazu.lg.jp/14,56737,50,447.html

 

羽田着陸便が千葉の空に集中するわけは

いま、佐倉市の上空を、ひっきりなしにかなりの頻度(35分に1機、午前11時台、夜8時台など)で飛んでいるのは、羽田空港への北からの着陸便で、今日は南風好天なので、北から南へ千葉市上空に向かいそこで西に向きを変え、東京湾を横断して羽田に着陸する。ちなみに千葉市内上空は、南からも飛来した着陸便も西に旋回し、羽田に向かい、離陸便の一部も旋回するので、佐倉市の上空の約2倍以上の、より低い飛行がなされているのが実態である。

夏は、家の窓を開けることが多いので、航空機騒音は、いっそう身にこたえることになる。佐倉市上空は、1000mから1200mというのが平均的な高度ではないか。

なぜ、民間機の羽田着陸便が千葉の空に集中するのか。これは、もっぱら、米軍横田基地空域という広い範囲の日本の空に日本の航空機の飛行ができないという、日米地位協定に基づく日本の航空法の特例に由来しているからだ。

最近、羽田空港の国際化、増便に伴い東京都心の新しい飛行ルート案が浮上し、住宅密集地の低空飛行による騒音や危険性が問題化している。千葉の空の危険性が東京都心にも及ぶことになるのだ。

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日本の空でありながら、上図の横田空域は、関東甲信越にわたり、実質的に日本の航空法は及ばない。

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横田空域を立体的に見ると、いくつかの区域に分かれ、飛行高度にも制限があって、民間機は、米軍の完成区域を避けて飛んでいる。離陸は、東京湾上空、千葉市上空を旋回し、着陸も図にはないが、千葉市上空で旋回して羽田に向かうことになり、複雑な航路は、CO2 排出も、危険度も高くなる。

日米地位協定第3 条[施設・区域に関する合衆国の権利]により、日本の航空法の重要部分は、ほとんど適用外とされ、米軍軍用機は以下の義務が免除されている。 夜間飛行の際の灯火義務、 飲酒・麻薬・心身障害の操縦禁止、 出発前の安全確認義務、 離着陸場所の特定、 飛行禁止区域の遵守、 最低安全高度の遵守、 巡航高度の遵守、 速度制限の遵守、 衝突予防の義務、 編隊飛行の禁止 粗暴操縦の禁止、 爆発物の輸送禁止、 物件の曳航・投下、落下傘降下の禁止、 曲技飛行の禁止、などに及ぶ。もはや無法地帯、空域ではないか。

沖縄県民の怒りの声と千葉県以上に危険にさらされている日常を思うといたたまれない気持ちである。日本周辺の安全保障環境が激変している中で、日米地位協定を変えずして、なんで国民の安全・安心を守れるのか、声を大にして言いたい。

 

参考:
<日米地位協定の改定を求めて>

-日弁連からの提言-201410

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/nichibeichiikyoutei_201410.pdf#search=%27%E6%A8%AA%E7%94%B0%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E7%A9%BA%E5%9F%9F+%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%B3%95%E7%89%B9%E4%BE%8B%27

 

<当ブログの関連記事>

2011727

この夏、航空機騒音、気になりませんか~佐倉市上空は、5分に1機の低空着陸飛行!

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/07/51-563f.html

 

2011114

羽田空港の国際化から1年、佐倉上空の騒音は

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/1-9441.html

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2018年6月23日 (土)

6月23日、怒りを持続するには

 

 相撲の暴力事件が妙な決着をみたと思ったら、日大アメフト部の悪質タックルに端を発した問題、女子レスリングのパワハラ問題も、その解決や今後の方向性が見えない中、いまや、サッカーのワールドカップで騒々しい。事件や事故のニュースが続き、大阪北部地震による災害ニュースが続いた。そして、政府やメディアは、何よりもますますの疑惑が深まった森友・加計問題の幕引き対応が目に余る。国会を延長してまで、押し切ろうとする働き方改革法案、カジノ法案などは、誰にとっての重要法案なのか。国民生活をむしろ不安に陥れる法律でしかない。

 

 朝鮮南北首脳会談、米朝首脳会談では、日本政府の思惑を大きく外れ、日本の安全保障環境も大きく変わるはずだ。いや、これまでも、変わっていたはずなのに、日本は、まるでアメリカの植民地のように、外交・軍事政策はアメリカ一辺倒であった。日米の外交・軍事政策は100%一致しているとまで、言い放つ無能な外交政策を展開してきた。憲法改正、9条加憲などを言う前に、1960年以降変わることがなかった「日米地位協定」を一日も早く、改定すべきはずなのだ。在日米軍関係者の警察権・裁判権、米軍基地空域には、日本の法律が及ばない。彼らは、出入国管理法も適用されず、車の国際免許証も持たないまま、日本国内を自在に移動している。日本による米軍基地への2000億を越える「思いやり」予算、汚染したまま用地返却など、その屈辱的な「日米地位協定」こそ変えるべきで、国内法の改正でできることもある。にもかかわらず、いわば特例尽くしの不合理を、日本政府は、半端な米軍への要望や運用改善を申し訳程度にするばかりで、抜本的な努力を怠ってきた。

 

私たちも、なぜ、沖縄に、米軍基地が集中するにいたったのかの経緯も知らなければならない。政府は、いまだに危機を煽り、安全保障上の必要、米軍依存の不可欠を喧伝するけれども、米軍は、日本を守ってくれるどころか、日本における米軍基地の存在自体が日本の危機を招いているのが実態だろう。その上、米からの軍需品の輸入額は増大する。1機100億もするオスプレイの17機の購入を決め、北朝鮮ミサイル対策として11000億イージス・アショアの2基導入を決めた。それらを中止、縮小することで、社会保障費の充実を図れるし、消費税を上げる必要もない。

 

そんな中で迎えた623日、辺野古の新基地建設現場では、工事はさらに進み海域への土砂投入は8月にも迫っている。私は、慰霊の日の追悼式には一度しか参加していないし、まだ、辺野古における工事阻止活動に参加したことがない。沖縄の地を踏んだのは3回ながら、気持ちの上では、それまでの関わり方とはずいぶん変わってきたように思う。何ができるのか、何をしてきたのか、と問われると、心細い限りではある。多く未知のことに知る努力とこのブログ記事や短歌作品などを通じて、自らの思いや考えを発信しながら、行動でも示していきたいと思っている。怒りを持続するには、エネルギーも、体力も。

 

玉城寛子『島からの祈り』(2018年2月)より

・荒あらと蟻潰すごと沖縄(うちなー)へのしかかる国よまこと母国か

清(ちゅ)ら海を一途に守ると腕(かいな)組むしわふかき人らここに集いて

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2018年6月19日 (火)

今年の6月15日は・・・、第一歌集『冬の手紙』のころを思い出す

 今年の615日は、病院で少し大掛りな検査を受けた直後だったので、家で静かに過ごし、1960615日前後のことから私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)のころまでのことを思い出していた。1960年は、私が母を亡くした翌年で、大学に入って二年目だった。末っ子で、お母さんっ子と言われていた割には、当時の立ち直りが早かったらしく、家族は、いささか安堵したらしいことを、後から聞いた。

 

1960615日は、安保闘争のさなか、学生だった樺美智子さんが、国会南通用門で、警官隊との衝突の混乱の中で死亡し、その死をめぐって、反体制運動の分断が図られようとしていた。620日の安保条約改定の自然承認を前に、私も何度か学生自治会の一員としてあるいは一人で、集会やデモに参加することがあった。在学の大学自治会は、いわゆる全学連「反主流派」と呼ばれ、「過激」とされる「主流派」とは一線を画することが強調されていた。いわばノンポリに近い、シナリオ研究所に通う映画青年?を気取ってもいた私には、その深層には触れないまま卒業した。卒業後は、2年間の私大職員を経て、国家公務員となっていた。その頃の職場の労働組合は、職員約800人のうち、管理職を除いて、ほとんどの職員が組合に加入することが当たり前という状況だった。政党色が濃い組合とされていた。そして、私の配属先の10人余りの課からは組合の委員長や執行部役員が選出されていた時期でもあった。

 

永田町の職場は、国会議事堂に近いこともあって、私は、615日の昼休みには、ひとりで、議事堂を一周して樺さんを偲び、いま、何をしたらよいのかを考える時間になればと、いささかの感傷も手伝って、毎年続けていた。その頃、職場の男性たちの間で始まっていた、昼休みの皇居一周のジョギングというものに、女だって走りたいよねと、週に23回、友人と誘い合うようになっていた。約5キロのジョギングは、当初は、かなりきつく、千鳥ヶ淵の土手で、一息入れながらストレッチをしたりしていた。約30分、それまで、知らなかった四季折々のお堀端の風景を楽しめるようにもなった。そんな折、同期採用で、組合青年部で活躍していると思っていた友人が、ある「過激派」とされる人たちの集会で、逮捕・拘留されるという事件が起きた。数か月後、保釈されたが、人事課は、職場復帰を認めなかった。その時、労働組合は、「過激派」の活動に参加していたことをもって、いっさい支援することをしなかった。この時の組合の対応がきっかけになって、「労働組合」って何だろうという疑問が、かつての615日の樺さんの死をめぐる「革新政党」の対応とつらなっていることにも気づくのだった。しかし、私は、職場内で立ち上げられた「支援」の会にも参加することをしないまま、労働組合を抜け出すということもできなかった。この私の曖昧さを、いま、どう考えたらいいのだろう。そして、いまは・・・。忸怩たる思いもある。

 

当時は、短歌に関わっていることすら、職場では言い出してはいなかったし、ごくわずかな友人にしか話していなかったと思う。こんな歌ばかりではないのだけれど、当時の拙いつぶやきを恥ずかしいながら・・・。

 ・晶子・雷鳥・菊栄らの論争いまだ越ええず<女の仕事> 

・等分に与野党責めて傷つかぬ立場というを知らされており 

・キャンパスは整いゆけるに組合の成らぬ私大に働き慣れて

 

・理事室の明るきに抗議を続けたる会を見守る側に立ちいて

 ・好奇なる問いに遇いたり新しき職場に小さき嘘を重ねん

・シュプレヒコール禁じたるマイクの声に列は少しく昂ぶり見せる

 ・少数者意見を葬る手続を自らの組織が如実に見せる

 ・首相発ちし日より一つの空席を持せる職場に冬を迎えん

 ・ひそやかに救援資金が集めらるる職場の冬の混濁におり

 ・陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語

 ・ようやくに保釈なりたる友が来て涙見せたり職場の隅に

 ・いささかの力となるか抗議文手渡す友の背後に並ぶ

 『冬の手紙』(五月書房 19717月)より 

  

 獄中より職場に届いた手紙を同僚たちと、陽にかざして読んだことが、歌集名「冬の手紙」の由来となった。母の没後11年後に父を亡くした。晩年の父とはよく旅に出た。歌集には、そんなときの一首もある。

 ・すすき野にすすき折りいる父が言うぱっと明るい顔はないのか

 そして、半世紀近くが経とうとしている昨年、ネット上で公開された私の評論集への書評が縁で知り合った青年から、就職先が、私のかつての職場であることを伝えられた。それではと、職場の近くでランチをすることになった。孫の世代にもあたる若者に、話の成り行きながら、現在の組合の加入具合を尋ねてみると、2割くらい、ともいう。官民問わず、組合の組織率が著しく低下しているというのは聞いていたが、やはり愕然とした。本人が加入しているか否かは聞きそびれてしまったのだが。

 

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2018年6月11日 (月)

6月10日財務省前、雨の中、アピール行動~とんでもナイ閣 今すぐ退陣

 6月10日、このブログでもお知らせした「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」の財務省前のアピール行動・デモに参加した。前日からの大雨の予報が心配だったが、ともかくデモの解散地点、日比谷公園西幸門までは、小雨であった。決して大規模な会ではなかったが、登壇者・スタッフ・参加者によるスピーチやコールが霞が関界隈によく響いていたと思う。事前の準備もさることながら、直前のスタッフによるプラスターの準備や人の配置ができぱきと進んでいた。ただ、早くから多くの警官が各所に配置されているのが気になった。週日ほどの人通りもないのに、歩道は赤いコーンで仕切られ、メディア関係の脚立も規制されていたようだった。事前の警視庁との打ち合わせで、担当者は、主催者側の予想よりもかなり多い参加者を見込んでいたらしい。
 コールを担当した、Sさんは、新潟知事選の応援から駆け付けたといい、菅笠の和服姿で、若々しい歌声も聞かせてくれた。古今亭菊千代さんは、昨晩から考えたという力強いメッセージを寄せられた。主催の会の杉浦ひとみ弁護士、醍醐聰共同代表からは、安倍・麻生の退陣と財務所関係者の不起訴の理不尽を強く訴えた。そして、霞が関・虎ノ門をめぐってのデモでは、司会者も務めたYさんの、格調高い、落ち着いた声調による先導のコールが素晴らしかった。

 

・麻生の居直り 許さない!
・アメフト以下の反則政治!
・信じられない 全員不起訴!
・佐川不起訴は許さない!

 

 私も、途中から後方の2枚目の横断幕を持って歩いた。私たちの声は、どこまで届いただろうか。本降りになった雨のなか、午後2時からの国会前の集会に合流する参加者も多かったと思う。私は、所用で帰宅したが、その車中では、佐倉市から参加された方々、むかしの職場の同僚の方々、知人の方々と声を掛け合ったことなどを思い出しながら、まどろみかけていた。

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菊千代さんを先頭に、右から市民の会の醍醐、杉浦、渡辺さん

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2018年6月 9日 (土)

短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える  

 『梧葉』という季刊の短歌新聞の「視点論点」に以下を寄稿しました。

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短歌における「改ざん」問題

①國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日の日にまた
  

❶国こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた

 

亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため
 
➋亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 

  ①②は、斎藤史の初版『朱天』(一九四三年)八九頁の掲載作品だが、❶➋ は、後年の『斎藤史全歌集』(一九七七年、一九九七年)の収録作品である。初版では「天つ御業」の小題のもと、②には「すぐる二・二六事件の友に」という詞書を付す。『全歌集』での小題は「天雲」となり、傍線部分が改作されている。傍線部分を比べると、作者には、『全歌集』編集時に、歌の意味を大きく変更する意図があったことは明白である。ちなみに、①②は、『大東亜戦争歌集愛国篇』(一九四三年)『新日本頌』(一九四二年)にも収録されている。 
 

  また、斎藤史は、『全歌集』編集時に、『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば昭52記」の一首を付記した。『全歌集』刊行時、この一首は、戦時下の自らの作品を隠そうとしなかった潔い宣言として、高く評価され、その後、しばしば引用されている。ところが、『全歌集』に収録された『朱天』は、初版の『朱天』から



(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何 かはせむや

 等を含む一七首が削除されていた。その上、『全歌集』の「後記」に「・・・多少の手直しはあるが、発表当初と大差はない。世渡り上手に生きるならば削ったであろう戦争時の歌もあえてそのまま入れたの・・・」とも記していた。
 隠さずに公表したと言いながら、あとから、改ざん、削除、隠蔽が徐々に明らかになってきた、公文書改ざんの一件の構図を思い起こす。文芸の世界でも、用字・用語等の修正はともかく、一度、世に問うた作品や歌集には、表現者としての責任が伴うはずである。斎藤史は一例に過ぎない。(『梧葉』2018年4月春号 所収)

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6月10日、大雨の予報を吹き飛ばそう

 安倍首相が「国難」と称していたことは、朝鮮南北の首脳の融和的会談後、米朝首脳会談を前に、その根拠を失いつつある。自分の国の「拉致問題」を他国の大統領に交渉の依頼をするのが「外交」なのだろうか。公文書の隠蔽・捏造・改竄に手を染めた「膿」を出しきることは、自らの破たんをさらけ出す段になって、首相は、再発防止の責任を全うするというが、それはムリというもの。自分の手で自身の首を絞められるわけがない。この民主主義の根幹を揺るがす事態に―「国難」を乗り切るには、国民の「NO]という意思表示しかない。あの麻生大臣の言いたい放題の暴言を許していていいのか、との思いに焦る。 

 折も折、市民たちの告発を受けた大阪地検は、一連の財務省関係者の虚偽文書記載、証拠隠滅、背任罪などは証拠不十分で、すべて「不起訴」とした。刑事罰を問う手立ては、あと、検察審議会への申し立てという道が残されている。 

 こうした中で、国会での野党による政府追及は、本気度が疑われる、ゆるい質問ばかりの手詰まり状態が続いている。メディアは、力士による暴力事件、タレントの未成年者への飲酒強要、レスリング選手へのパワハラ、 財務省次官のセクハラ、日大アメフト悪質タックル問題、和歌山県の資産家の死亡事件などには飛びつくようにワイド番組や紙面をにぎわせている。さらに、根深い企業のデータ改ざん・談合・情報流出や過労死問題などの「不祥事」というより「犯罪」の発覚が続き、幹部が頭を下げる映像が繰り返し流される。それも一過性で、時の災害や事件や事故があれば、それに雪崩れこみ、企業に不都合なニュースはいつのまにか追いやられてしまう。それでなくとも、災害地の復興、東京オリンピック、来年の天皇代替わりというニュースがいつの間にか、前面に躍り出て、日本の政治や外交問題と沖縄の辺野古新基地工事、原発再稼働の動向は、脇に押しやられ、情報量がめっきり少なくなる。というより、情報量を、あえて絞るのである。 

 例えば、官邸とパイプが太いと言われるNHK幹部がニュース担当者に飛ばした指示というのが、「森友問題は、トップニュースで伝えるな、トップでも仕方ないが放送尺は3分半以内、昭恵さんの映像は使うな、前川前文科次官の講演問題と連続して伝えるな」というものであったことが、3月29日参議院総務委員会の山下芳生議員の質問で明らかになった。NHKがそうした事実を全面的に否定したというニュースは伝わってこない。NHKに限らず、新聞社や民放の幹部やジャーナリストたちと安倍首相との会食は続いているのだ。 

 こんな折に、私たちは何ができるのだろう。とりあえず、私も参加している「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」では、明日6月10日、次の行動を予定している。東京の大雨の予報が、夜間にでも少しずれこんでくれるといいのだが。雨の予報や銀座まつりの関係もあって、デモのコースが当初の予定より変更され、少し短縮されるらしい。

6月10日(日)12時~財務省前集合、アピール行動開始

 *デモの出発は日比谷公園西幸門で、西幸門での解散は、1時前後になるらしい。それから各自、国会前集会へ合流しよう。 

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(13)

 はや、翌日は、もうワルシャワを発たねばならない。ワルシャワの最後の一日、自由に使える日なのだが、どうしても行っておきたいところがあった。ガイドのAさんからお聞きしたワジェンキ公園のショパンコンサートである。5月中旬から9月いっぱい、毎年、日曜日に公園のショパン像の前で、ショパンピアノコンサートが開催されていて、その初日が今日だというのだ。「ぜひ、出かけてみてください、野外だし、何しろ無料ですから」という。前回は、たしかにショパン像までは来ているはずだが、時間もなく直ぐ引き返していた。今日は、少しゆっくりしたい。12時と4時からの2回の演奏というから、12時には間に合わせたい。 

公園には、116番か180番系のバスですよと、ガイドさんから念を押されていた。公園の塀に沿っては、いろいろな看板が立てられていた。少し早めに着いた公園、ショパン像の横のテントの下では、すでにピアノの調律が行われていた。演奏が始まる前に、水上宮殿に向かった。雲一つない、すでに真夏の日差しだったが、木陰の風は心地よかった。

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自転車専用道路が整備されていて、歩道をはみ出し、このコースにうっかり入ってしまったとき、自転車の人に大声で叱られてしまった

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ワジェンキ公園の柵にはさまざまな立看板、この国でも人気のスポーツなのか、サッカーチームの選手一人一人の紹介のパネルが続く

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少々ドキッとした看板だったが、数日後から公園内で開催予定の浮世展のポスターだった

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水上宮殿への道

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マロニエの花筏のよう


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野外劇場から水上宮殿を望む、真夏の日差しがきつい

演奏会場に戻ってみると、かなりの聴衆が集まり始めていた。と言っても野外なので、池をはさんでのピアノに近い芝生、ベンチが並ぶスペース、それを取り囲む木陰のベンチには、すでに着席している人も多い。夫は、最前列のベンチに、私は、ピアノからはだいぶ離れるが、リストの胸像の後ろのベンチで待つことにした。目の前の散策路には様々な人が行き来するし、すでに立ち見の人も重なるように列をなす。隣に座っていた、地元の年配の人からは、英語で話しかけられるのだが、情けないながら、聞き取れない。ここは恥をかいてもと、きのうガイドさんにこの演奏会のことを聞いてやってきた、大変な人出なのですね、ワルシャワの最初の夜は、フィルハーモニーにも出かけたこと、前回ワルシャワに来た8年前は、ショパン生誕200年だったけれども、コンサートには縁がなかった・・・などと話すと、にこやかに返事を返してくれるのだが、それ以上の質問もできない・・・。いよいよ演奏が始まった。聞き覚えのある楽曲も中にはあったのだが、野外コンサート自体の聴衆の自在な雰囲気がすばらしく思えた。ピアニストのインゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder1985 )は、ウィーン国立音楽大学出身で、数々のコンクールに入賞、2010年のショパン国際ピアノコンクール2位入賞者とのことであった。

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ショパンコンサートの9月までのプログラムを知らせる看板

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ショパン像の脇のテントではピアノの調律中。その前の丸い池は、前回のときは水が抜かれていて、孔雀が見事な羽根を広げていたっけ・・・

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聴衆はどんどん増えて・・・

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私は、この立ち見の人たちの後ろの木陰のベンチで聴いた。リストの胸像の陰におさまっている少年は何をしているのかな

 つぎに向かったのは、バスを乗り継いで、111番の終点、エストニアで下車。運転手さんにユダヤ人墓地を教えてもらうが、レンガの塀が続くばかりで、どこから入るのか迷っていると、ひょっこり小さな戸が開いて、ようやく判明したのだった。ここも中は広く、私たちはほんの入り口付近をめぐっただけだった。

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このユダヤ人墓地の森は、広大なものだった

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延々と続くレンガの塀だったが、ここからひょいと人が出てきて、出入り口と知った

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コルチャック先生がうつむく子供たちを連れて向かった先は強制収容所だった

 

 つぎは、ワルシャワ・ゲットー記念広場に向かうのだが、すぐ近くのつもりが、なかなかたどり着かない。通りすがりの人に尋ねるとあと500m、あと5分と言われつつ、歩き続けた。前回来たときは、記念碑の前面は博物館の建設中であったが、その博物館が、2014年、ポーランドのユダヤ人歴史博物館としてオープンしたという。この博物館も、その展示や構造そのものが、緊迫感に溢れ、圧倒されるばかりであった。ここも時間が足りず、途中で閉館が告げられた。

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2010年には工事中だったが2014年にオープン

 

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工夫が凝らされた様々な展示

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さまざまなメッセージが壁から聞こえるようだ

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外はまだ明るいのに、閉館時間だった

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ワルシャワ・ゲットー記念碑裏からみた博物館

 外は、まだ夕方とは言えない日差しであったが、夜には、イベントでもあるのだろうか「かがり火」に点火しているところだった。もう、足は棒のようで、早くホテルに帰りたい、休みたいの思いで、ホテルに急ぐ。一休みして、ワルシャワ最後の夕食をと、お目当ての店を探すが、なかなか見つからず、どこでもいいよ、ということで、賑わう店に入ってみる。

  料理の注文も少し慣れてきた感じだったが、ビールが届いてからが長かった。隣のテーブルの中年カップルのピエロギとパスタはかなり早いね、などとちらちら眺めたりしていた。ようやく届いた料理をいただき始めたころ、お隣の二人が席を立ったと思ったら、男性の方に「ワルシャワはいかがですか、存分に楽しんでください」と、日本語で声をかけられたのだ。とっさに「日本語が上手ですね」と返せば「大阪から久しぶりに帰国したんです。また1週間ほどで大阪です。大阪には仕事で10年になります」とのことで、「こちらの方もですか」と女性に問えば、違いますとのこと。このハプニングにはいささか驚かされた。私たちの話が男性にはぜんぶ聞かれていたかもしれないのだ。なんか不都合なことは話してはいないかったかと心配にもなったが・・・。

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「カイザー」というお店のできごとだった

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2018年6月 2日 (土)

この諦めと、閉塞感ただよう中で~森友・加計問題と報道萎縮について、記者たちは~

 きのう、61日、永田町の議員会館会議室で、小規模ながら熱気にあふれたやり取りが展開されていた。近年の報道統制や萎縮に危機を肌で感じている7人の研究者・弁護士たちが、第一線の大手メデイアやソーシャルメディアの記者たちに訴えていた。世の中の新聞・テレビは、日大アメフト部の悪質タックル問題と米朝首脳会談の「駆け引き」の報道とに大幅な紙面と時間を割いていた。その合間に、森友関係の財務省の文書改竄・隠ぺい問題、加計学園からの"虚偽"報告問題、申し訳程度に開会中の国会での質疑が足早に報道される。531日には、何と、森友問題関係の公文書偽造、虚偽記載、背任などで告訴されていた財務省の38人の不起訴決定が大阪地検から公表されていた。佐川前理財局長はじめ、あれだけ大量の公文書改ざん、隠ぺいが明らかになったにも関わらずである。そして、このドサクサにに、働き方が選べると標榜し、高プロ申告制による残業代ゼロにしての、経営者が喜ぶだけの「働き方改革」法案を強行採決しようとしている。大方の国民の無力感、脱力感は、計り知れない。これがまさに、いまの政府の思うツボかもしれない。

 

 そんな状況の中でも、研究者・弁護士によるアピールは「権力監視報道に立ち戻り、報道現場の萎縮報道克服を求めます」であった。そのきっかけというのは、329日の参院総務委員会であきらかになったNHK報道局上層部の強圧的な指示であり、NHK大阪放送局で、森友問題を精力的に取材、いくつかのスクープもとった敏腕記者を意に添わず記者職を外して閑職へ異動させるという露骨な動きが明らかになったからである。

 

 出席したのは、以下の7名だった。 

梓沢和幸(弁護士) 

 小林 緑(国立音楽大学名誉教授/元NHK経営委員) 

  澤藤統一郎(弁護士) 

  杉浦ひとみ(弁護士) 

  瀬地山角(東京大学大教授) 

醍醐 聰(東京大学名誉教授/NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同   代表)
  服部孝章(立教大学名誉教授)

 集まったメディア関係者1823名、スタッフ2名を含み、総勢32名となった。 

 前記、NHK上層部の報道現場、ニュース番組の編集責任者への具体的な指示というのは「森友問題をトップで伝えるな、どうしても伝える時は三分半以内、昭恵さんの映像を使うな、前川前文部次官の講演問題と連続して伝えるな」というものであった。大阪放送局の件も合わせて、50数名の研究者・弁護士の賛同者名簿を添付してNHK会長に申し入れをしようとするものだった。 

1 受信料で支えられる公共放送機関としてのNHKは、権力から独立して自主自律の放送を貫くなか、権力を監視し、国民の知る権利に応える放送を続けているという視聴者の信頼を得ていることが大前提です。NHKが日々の報道でも人事においても、こうした前提を自ら壊すような言動は視聴者への背信行為であり、厳に戒めること

2. NHK報道局の上層部は取材・番組制作の現場の職員を萎縮させるような人事権を含む権限の濫用を斥け、事柄の核心に迫ろうとする意欲的な取材、番組制作への職員のモチベーションを支え、高めるような役割と職責を果たすべきこと

3. 以上の趣旨と関連して、目下、伝えられているNHK大阪放送局の記者を異動させる人事につき、不当で不合理なおそれも強く、中止を含め根本的に再検討すること

 当日の質疑は、記者自身に関わる問題だけに、具体的かつ真剣であるように思えた。大阪放送局の人事に関しては、とくに、最初に報道した「日刊ゲンダイ」のIさんはじめ、「東京」のMさん、「朝日」の記者さんは、かなり突っ込んだ質問を投げかけていたが、記事にしてくれるのかどうか・・・。 

会場の手伝いとして参加した私だが、個人的なことを言えば、出席者の服部先生には、社会人入学した修士課程で指導を受け、瀬地山先生は、非常勤でいらしていたジェンダー論を聴講していたので、久しぶりにお目にかかれる機会となった。

 

 

 

 

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(12)

5月12日(土)、ワルシャワは、何の日?<自由の行進>と歩む

 ポーランド料理のランチを終えて、次に向かうのはワルシャワ博物館だったが、旧市街への道はロイヤルロードとも呼ばれ,、王宮広場に続く。

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静かな週末のコペルニクス像周辺の光景に思えたが・・・

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上の2枚は、いずれも、ヴェネチア出身の画家カナレット(ベルナルド・ベロット、1721~80年、G.A.カナレットの甥で、ワルシャワではカナレットと呼ばれている由)が、ワルシャワでの宮廷画家として、都市景観を描き続けた作品と当時を再現した現在を同時に見ることがとができるように、こんな光景があちこちに見られる。現在残されている作品(26枚?)は、一時ナチス軍に渡ったが、今は王宮に戻され、壊滅状態だったワルシャワ再興の資料になったそうだ

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三輪車のタクシーらしい。車の横にtaxiの文字が見える。後から分かったのだが、よく見ると奥には<自由の行進>の立て看板があった

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静かな街に、赤い街宣車と、旗などを掲げた人々の列が現れた

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これは何のデモ?パレード?

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EUの旗や風船も、家族れや若い人も・・・

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警官もリラックスして・・・。案内のAさんの話では、れっきとした反政府運動の一環だそうで、街宣車の文字のMARSZはマーチ、「自由の行進」ということであった

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王宮広場がデモの解散会場なのか、大きな舞台が設置されていた

  現在のポーランドは、10年前、カチンの森の追悼式典参加のためロシアに向かう飛行機が墜落、大統領を含む96人の政府関係者が死亡したときの大統領の双子の弟が、大統領を務めている。保守与党の「法と正義」が最高裁判事の総入れ替えという暴挙に司法の独立性が侵害されたとして、欧州委員会から制裁を受けている。野党の「市民プラットフォーム」が中心になって「自由と尊厳、民主主義を、欧州の中のポーランドをのために」と訴える<自由の行進>であった。EUの旗が多くみられるのは欧州委員会を支持、大統領のEU離脱をめざす政策への抗議を意味するのだろう。Aさんよれば、政府によるメディア統制も目立つそうだ。現大統領寄りの番組が増えていて、前大統領の追悼番組などは繰り返し流されているとのこと。そういえば、ワルシャワ最初の日のホテルで、夜、テレビをつけると、まさに、その追悼番組の再放送を流していたのだ。

  どこかの国でも同じようなことが起きている。しかし、こうした、さまざまな世代による、幅広い人々が、思い思いのプラカードや旗を掲げて、いわば、一見無秩序に、一つの同じ思いをもって行進できるなんて、うらやましいな、と思う。印刷された画一的なプラスターをかかげるわけでもない、歩いてシュプレヒコールを繰り返すわけでもない、車道も広い歩道も、自在に歩けるデモなんて・・・。おまけに、コースのロイヤルロードの沿道の各所にはスローガンを掲げた、幾つもの柱状の大きな櫓風の立て看板が設置されていた。旅先で、思いがけず、<自由の行進>と共に街歩きができたことは貴重な体験だった。

ワルシャワ博物館とワルシャワ蜂起博物館へ

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旧市街市場広場と人魚像

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旧市街市場広場の一角にあるワルシャワ博物館、もともとは「ワルシャワ歴史的博物館」という名前だったが、長い改修工事を経て 2017年5月末に「ワルシャワ博物館」として再開した

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展示はさまざまな図表などが用いられ、工夫されていた。上記は、ワルシャワの宗教別人口が年代別にしめされていた。拡大してみるとわかるのだが、1810年、1897年、1931
年、2011年、左端のカソリックが73-58-67-75%との推移にくらべて、ユダヤ教は、18-35-30ー1%以下という推移が見て取れる

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描かれたワルシャワ・・・

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ワルシャワのシンボルでもある人魚像、人魚のバストの大小、その描き方が政治論議にもなったそうだ

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  去年リニューアルしたばかりで上のワルシャワ博物館のガイドリーフレット通り見学するには一日かかりそうにも思えた。また、次のワルシャワ蜂起博物館は、全館照明がかなり落としてあり、細い路地や迷路のような順路の壁には溢れるような情報、展示、頭上から覆いかぶさるような壁の展示には臨場感や緊張感が高まるのだった。多くの記録や手記の抜粋が壁から語り掛けてくるようだった。閉館時刻も迫り、先を急ぎ、撮った写真は、ボケたり、手振れがあったりで、使用できないものばかりになってしまって。Dscn1917
この石畳が、疲れた足には、結構きつかった

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ワルシャワ蜂起とは、1944年夏、ナチスドイツ軍の占領下のワルシャワで、複雑な国際情勢の中、ポ―ランド独立のために戦った市民たちの運動をいう。短期間で敗退するが、戦後は、ソ連の支配下の共産主義政権下においても、ポーランドへの抑圧は続く


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館内には、市民の抵抗組織の居場所にもなった地下水道が、きれいに再現されていた

ここから、館作成の映像が見られます
⇒Learn more about Warsaw Rising 1944
(館のウェブサイトから)

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