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2018年7月29日 (日)

図書館に出たり入ったり・・・、本って読むもの?使うもの?

 

 夏休みに入って、地元の図書館は、子どもたちで大賑わいである。幼児連れの若いお母さんをみれば、娘と一緒に読んだ絵本や本をなつかしく思い出す。漫画の「日本の歴史」なんていうのは、どういうわけか、せがまれて買い込んだのか、いまでも家にある。

 

 この頃、本を「読む」ということがめったになくなってしまったのは寂しい。私の場合、多くは、調べるために“使う”本が断然多くなってしまった。調べものと言うとき、現在は、インターネットで、大方のことは、ある程度の情報を得ることができる。それが調べものの端緒になることはある。しかし、あるテーマで書いたりというときに、参考にするのは、やはり執筆者のはっきりしている資料、多くは活字になった資料ということになる。

 

  ある歌人について調べたいとき、その短歌を読んだり、引用したりしたいとき、その基本的な情報は、やはり、短歌関係の辞典・事典から入る。そして、作品をまとめて読みたいと思っても、「歌集」が手元にあることの方が珍しい。そこで、家にある、いくつかのアンソロジーや文庫本の個人の歌集(抄)を開いてみる。歌人の全集では、晶子と啄木が書棚の奥にあるくらいだが、あとは、購入したり、いただいたりした個人の一冊本の「全歌集」が幾冊かある。どれも重くて厚い。義姉から譲り受けたものを含めると20冊以上になるだろうか。調べたい歌人の全歌集があれば、ラッキーという感じでひと安心する。そこには、たいてい年譜というものが付いているので、重要な情報源になる。また、私自身が関心を持っている歌人については、評伝の類や作品鑑賞の類、所属の結社誌の記念号や追悼号を何とか手に入れていたが、大した数にはなっていない。

 

 

あとは、短歌総合雑誌のその歌人の特集記事と執筆の文章・作品を検索することになる。購読している短歌総合雑誌や新聞はわずかだし、空白もあり、保存しているわけでもない。地元の図書館で、短歌関係の図書は、あまり期待できない。雑誌も『短歌研究』と『短歌』の二誌しか置いていないし、保存期間も短い。そこで、まず、国立国会図書館のオンラインで、目当ての資料の所蔵とデジタル化されているか否かを確かめる。デジタル化されている図書でも、著作権の関係で、館内でないと閲覧できない場合もある。もっとも、館外貸し出し可能な「図書」であれば、地元の公共図書館を通じて館外貸し出しすることもできる。主な短歌雑誌については、2000年までは、デジタル化されているので、目次までは、ネット上で見ることができる。館内閲覧や遠隔地コピーを申し込む場合も、あらかじめ、その個所を特定できるのでありがたい。しかし、短歌作品の場合、目次には、すべての作者名が表示されないことが多いので、そこが厄介ではある。しかし、それとて、もともと国立国会図書館で、所蔵していなければ、デジタル化されない。復刻版やマイクロ化しているものは、このデジタル化は、後回しにされているようだ。

 

今回、ある女性歌人について調べていて、年譜や追悼号などで知った著作や関係文献で、国立国会図書館に所蔵していない場合、その歌人執筆の文章や作品を入手するのは、結構難儀であった。日本近代文学館、日本現代詩歌文学館などをまず探してみる。ネット上で各館の所蔵を確かめた上、私は、駒場の近代文学館には出向いたが、盛岡県北上市の詩歌文学館には、レファレンスの上、コピーを依頼した。しかし、それが、短歌雑誌の長期間にわたる場合は、泊りがけで出かけなければと苦慮していたが、地元の図書館を通じて、貸し出していただけることがわかった。さっそく、この制度を利用させてもらった。

 

なお、戦前は、女性歌人がいわゆる「婦人雑誌」に登場する機会も多く、短歌やエッセイをよく発表している。「婦人雑誌」に限られるが、お茶の水にある「石川武美記念図書館」(元主婦の友お茶の水図書館)では、現物を手にしながら、自分でコピーが取れるのでありがたかった。

 

また、国立情報学研究所の総合目録CiNiiBooksでは、書誌事項がくわしい上、どこの大学図書館で所蔵しているかが判明する。しかし、大学図書館の学外者の利用は、まだ、かなり難しいところが多い。立命館大学の小泉苳三白楊荘文庫は、明治・大正・昭和前期における短歌関係資料の貴重なコレクションで、私も、かつて学内の教員の紹介で利用させてもらったことがあるが、今はどうなっているだろう。全国、どこの公共図書館でもその所蔵が明らかであれば、地元の図書館を通じて、往復の送料負担で、館外貸し出しが可能な場合が多い。今回、遠隔地の県立図書館所蔵の資料もお借りすることができて、助かった。

 

さらに、新聞記事については、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞は、それぞれ、聞蔵Ⅱ、ヨミダス歴史館、毎索のデータベースから、キーワード検索が可能で、コピーもでき、縮刷版やマイクロで苦労することが少なくて済む。しかし、地方紙になると、中日・東京新聞などは、時期によって検索ツールを異にしたりする。国立国会図書館では、地方紙のデータベース検索機能を持たない。横浜の新聞博物館は、リニューアルということで二年前に新聞ライブラリー機能を廃し、データベースも閲覧のみで、コピーは一切できなくなってしまったし、館外からの所蔵検索もできない状況である。この情報社会で、日本新聞協会は何をやっているの!の思いでもある。それだけに、国立国会図書館には、新聞記事データベース検索・閲覧・コピー機能を地方紙にも拡大して欲しいところだ。オスプレイ一機分200億! 陸上迎撃ミサイル、イージスア・ショア一基1000億以上!諸経費を合わせると二基で6000億!ともいう。防衛費を回せば、すぐにもできることだろうに。

 

 

資料というのは、調べれば調べるほど、際限なく、芋づる式に出て来るもので、その確認がなかなか終わらない先から、新しい文献に出会ったりするので、達成感というものがない。むしろ、大事なものを落としてはいまいかの不安の方が大きい・・・。

 

加齢とともにフットワークは悪くなるが、インターネットに助けられながら、いま少し、調べ、知り、考えるよろこびは失うまいと、パソコンに向かい、図書館に出かけたりして、猛暑に耐えている。

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2018年7月16日 (月)

目取真俊講演会に出かけました

 猛暑の土曜日714日、どうしても聴いておきたかった。目取真俊の小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」を読んだことから、天皇制への確固たる批判の姿勢を知り、他の作品からは、沖縄の抱える問題を鋭く分析、提示していることを知り、多くを考えさせられた。昭和、平成の天皇の沖縄との関係を調べるきっかけになった。私は、とくに、その短歌に着目しながら、いくつかの論稿をしたためた。そして、沖縄の歌人たちの短歌、本土の歌人たちの詠む沖縄、本土の歌人たちの沖縄の歌人たちへの対応についても、いささかながら言及してきたからでもある。

 そして何より、辺野古の海を守るため、基地建設に反対・抗議するカヌーチームの一人として発信する「海鳴りの島から」を読みながら、励まされ、座り込みにいけないのを嘆く日々を過ごしているので、目取真さんの声を聴きたかったのである。

 講演の前半は、目取真さん自身が、毎日、撮り続けている海上での抗議活動の様子を伝える映像を中心に進められた。前日713日の活動を撮ったものも映し出され、その速報性にも驚いた。ブログ「海鳴りの島から」をまず見ると生々しい写真が続く。すでに715日の記事には、この日の講演会の報告もなされていた。 

 

〇海鳴りの島から 沖縄・ヤンパルより…目取真俊

https://blog.goo.ne.jp/awamori777

 

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 工事の進行状況と海上の抗議行動とその弾圧の熾烈さ、まず海岸に工事用の道路ができ、両端から始まった護岸工事K-1N-3は繋がり、もはや完了間近いと思われる。しかし、カヌーは、幾重ものフロートやフェンスを越え、振り落とされながらも、工事船に接近してスクリューを回らないようにし、クレーンから降ろされる10トンの石が積まれたモッコの下で待ち受けるなどの抵抗によって、工事は一日でも一時間でも遅らせるという、過酷な戦いでもある。毎朝、7時には、海岸に着き、4時ごろまで活動は続き、家での入浴と食事、ブログ執筆などで、一日が終わるという。最近の工事現場では、カヌーが来ない朝6時から工事を始めることもあるという。もし、抗議をしなかったら工事は進む。踏みとどまって抵抗しないと、沖縄には逃げる場所がない、だからあきらめてはいけないと。
 後半は、沖縄の歴史、米軍基地の沿革―本土に散在していた米軍基地が地元の反対運動に遭って、次々と人口140万の沖縄に移され、そして、沖縄の中では、中南部から人口10万の北部に基地が集中していく現況に言及する。本土と沖縄の関係が沖縄県内でも基地のある所とない所の関係が生し、中南部にますます人口が集中するという現象がみられる。沖縄の経済を支えていた3K―基地・きび・公共事業から、観光の比重が高まり、平和の大事さも浸透している一方、本土には知られない、基地がもたらす犯罪多発、教育環境の悪化など目に余るのが実態である。

さらに、817日に、土砂投入工事を開始するとしている沖縄防衛局に対して、承認撤回などをめぐる翁長知事への評価をめぐっての言及もあった。沖縄の革新はすでに革新首長が十分の七の時代から十分のゼロへ衰退し、翁長知事にしても、稲嶺前名護市長にしても、もともと保守派であったのだが、現在に至っている。ともかく、いまは、闘病のなかの決断を迫られている知事を見守りたい、すべての元凶は政府、安倍政権にあるのだからとも。

 

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新基地建設が進むきょんぷシュワブ沿岸6月29日、名護市辺野古全景(小型無人機撮影)、
「沖縄タイムス」2018年7月13日

 もっと、いろいろな話をされたと思うが、うまくまとまらない。しかし、基地の本土引取り論、沖縄独立論、県民投票の賛否など核心に迫る質疑応答もあって、目取真さんは丁寧に答え、私の理解も少しだけ深まったようにも思う。引き取り論については、安保を前提にしながら引き取ろうと言っても、いったいどこがどういう基地機能を担うのか、具体的な道筋とその可能性が見えない以上賛成できない、という。独立論も、研究者や評論家らによって長い間主張されてきていて、高まりつつも、その実現性に欠け、現在の反基地の闘い、新基地建設を止める運動にはなっていないという。県民投票については、若い人たちが中心になって進めている運動ながら、まず、県民投票をするための条例制定を目指して、有権者の50分の1、約24000名の署名を集めなければならない。723日が締め切りだが、その数のクリアも危うい。たとえ、クリアしたとしても、実際に県民投票にいたるまでの手続きに時間がかかりすぎ、タイミングが悪すぎ、新基地建設の歯止めにはならない。それに、目取真さんは、署名の集計状況を見て、基地を抱える伊江村、東村などが限りなくゼロに近い数字にも驚いたともいう。Photo_6

 

「『辺野古』県民投票の会」より発表

なお、会場の若い男性から、海上抗議行動を始めた動機を尋ねられ、始めて4年になるが、かつて生家のある今帰仁の海岸で、青い海にウミガメが泳ぎ、ウミガメの産卵も目の当たりにしていた少年の頃を思い出し、ウミガメが産卵の海岸を奪われ、赤土でサンゴが死滅してゆく現実を前に、始めたという。カヌーは自分の手で漕いで、海に出るので、五感で辺野古の海の美しさを感じることができるからだとも、語っていた。

さまざまな思いで、辺野古に座り込みをする人々、カヌーで抗議を続ける人々に対して、陸上では、機動隊員と多くの警備会社アルソックの人たちがごぼう抜きをする。海上では海上保安庁の隊員と警備会社セントラル警備が請け負い、カヌーの侵入を阻止し、突き落とそうともする実態にも触れた。海上の民間警備は、かつてマリン・セキュリティが請け負っていたが、予算の水増しが告発されて交代したという経緯もあったという。

私が最初に読んだ短編小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」のラストシーンは忘れがたい。次第に体が冷たくなっていく祖母を背負い、二人の大切な場所に向かう孫の少年の心の陰影、その優しさには、読むたびに、人に伝えるたびに涙してしまう。皇太子夫妻を沖縄に迎えるにあたって、かつて平和通りで魚を商い、一家を支えていた祖母が徘徊しないようにとの警察からの要請で、その当日、家族は祖母を部屋に閉じ込めた。だが、いつの間にか抜け出して、皇太子夫妻の乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手形をつけて、こと切れるという、いわば「不敬」小説なのである。難解にも思える、ミステリアスな、短編も多いのだが、そこには、いつもどこかに人間のやさしさが秘められているのが特徴に思われた。今回、話を聞いて少し納得したような気がしている。

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辺野古に新たな柵設置 ゲート前、抗議激化に備えてか、
米軍キャンプシュワブの工事用車両用ゲート前で進められる柵の設置作業、7月15日午前1時18分、名護市辺野古で。「東京新聞」18716 朝刊。深夜の突貫工事であることが分かる

<7月18日付記>

目取真さんの話の中で、大事なことを一つ書き忘れていた。大型船によるボーリング調査が始まったのは昨年2017年3月だったが、すでに、埋め立て予定地の一部の海底が軟弱なことがわかって、さらに調査を進めるためではなかったかという。工事予定が中止され、一部変更の理由は明らかにされていないが、海底は40mの厚さの泥状態の軟弱地盤で、45トンのコンクリートブロックは沈み込んでしまい、埋め立ては不可能だというのだ。今朝の東京新聞「こちら特報部」によれば、沖縄の市民団体の情報公開によって明らかになった、2014年から2年にわたってのボーリング調査の結果は、地盤の固さを示すN値がゼロであったというのである。国は詳細な調査を出さず、いずれ総合的な判断をするとしているが、海底地盤改良には巨額の費用が不可欠となる、という。

 

 

 

 

 

 

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2018年7月15日 (日)

ユーカリが丘駅北口、あたらしい街づくりというが 

 

6月の自治会の回覧資料のなかに、地元の開発業者山万発信の「平成30年度6月~開発計画について」(63日)があった。地域の複数の自治会で構成される自治会協議会で、報告されたようであった。営業所の移転、スタバの開店予定、シネマコンプレックスの運営会社の変更などの情報に混じって、「(仮称)佐倉市ユーカリが丘駅北再開発事業計画」という3頁の書類が入っていた。数年前から山万が業務代行となって「佐倉市ユーカリが丘北土地区画整理組合準備会」を立ち上げ、駅前の3000坪ほどの土地を順天堂大学に提供するので、一部のキャンパスを移転してはどうかの話が持ち上がっていて、大学生でにぎわう街、それに伴う経済効果をうたい、駅前の再開発計画を目論んでいた。佐倉市には、約25億円の補助金を要請していたが、市長は、大学から詳細な計画が提出されていないことと市財政の立場から、あくまでも消極的だった。 

 

三年前、大学誘致をめぐる市長選挙は何だったのか

 

ところが、三年前の市長選挙のとき、山万が、大学誘致を全面的に推進する候補者を突如立てて、悪辣とも言ってよい選挙戦を展開した。その実態は、年表にまとめてあり、このブログでも10数回にわたって、記事にしているので、関心のある方は、一読いただけれと思う。周辺住民への説明会も、おざなりのもので、道路計画などには大きな不安が募っていた。現職の市長も誘致推進派の対抗馬に引きずられて、本来の公約そっちのけで応戦してもいた。選挙民は怪文書や違法ポスター、ネット情報に翻弄された。山万が、あの醜悪な選挙戦をリードしたのを目の当たりにすると、どんなきれいごとを並べられても、私には信用しがたいものがある。

 

その上、私には、私の住む街区に隣接する「井野東土地区画整理組合」による約50ヘクタールの開発事業(200279日都市計画決定~2012217日組合解散)で、組合の業務代行だった山万が見せた開発の手法への疑問があった。その開発過程で、私たち周辺住民になされた、環境保全、周辺住民無視にも等しい数々の対応を忘れることができない。土地造成に伴う産廃・残土処理・盛り土の高さ、法面の処理、道路計画、建造物の高さ、工事に伴う騒音・振動・交通対策などについて、自治会を中心とする住民組織との数年にわたる会議や質疑・折衝に見せる不誠実で、強硬な姿勢に、気を緩めることができなかったからである。さらに加えて言えば、そのときの千葉県や佐倉市の開発優先の対応にも疑義が深まったのだった。この辺り経緯は、本ブログ開設当時2006年以降の記事や地域のミニコミ誌「すてきなあなたへ」の当時の各号に詳しい(本ブログのマイリストからも閲覧できます)。

 

“狂乱”の市長選挙の結果は、現職に落ち着いたが、一部市議会議員と山万は、引き続き大学誘致を進めようとしていた。佐倉市側からの経過説明は以下のサイトで読むことができる。


佐倉市HP:順天堂大学の誘致について(2015716)

http://www.city.sakura.lg.jp/0000011401.html

 

〇佐倉市における順天堂大学誘致問題の動向2015~市長選を中心に(告示日:2015419日、投票日:426日)20155月作成、同年6月、20187月補、内野光子作成)
 http://dmituko.cocolog-nifty.com/yukarinenpyou.pdf

 

大学側も、佐倉市からの補助金引き出しを困難と見て、キャンパスの都心回帰志向が高まる中、補助金がないままの進出は、どうでもよくなったのか、201610月、大学と山万は協議の上、「佐倉市ユーカリが丘北土地区画整理」事業による都市計画提案は取り下げるに至ったのである。 加計問題の二の舞になるところではなかったか。

 

取り下げから、一年半余り

 

そして、取り下げから一年半余り、佐倉市との事前協議を重ねていたのだろう、2018320日、今回の「都市計画」提案になったのである。大学に提供すると言っていた1ヘクタール弱の敷地を含めた4.3ヘクタールに、「内外の企業誘致をするためのビジネス街、子育て世代からシニアのための多機能住宅構想を柱に、就業人口、昼間人口、定住人口の増加を目指す」とした都市計画提案を、613日付で、佐倉市は採用・決定した。下のホームページでも明らかなように、計画書、審議結果の双方とも、大学誘致についての経緯や評価にはいっさい触れていない。その提案者は区画整理事業組合(準備会)ではなく、山万からのものであるが、実質的には、大きな変わりはない。

 

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2018年3月20日、山万から提出された「都市計画提案」

上記の決定内容の詳細は、以下を参照ください。

〇佐倉市HP:都市計画提案(仮称)佐倉市ユーカリが丘駅北再開発地区及び周辺地区2018613日)
http://www.city.sakura.lg.jp/0000019052.html


あらたに決定した計画書と開発実績とは

 

「職住近接下コンパクトな街づくり」「国際色豊かで多彩な都市的機能の享受機会に恵まれた駅前拠点」として再構築を目標とし、「賑わいと活力のある商業・業務機能と利便性に富んだ都市型住宅機能の整備をはかり回遊性と界隈性を備えた街づくり」を実現する、とある。また、佐倉市の審査結果には、都市計画法や千葉県、佐倉市の都市計画との整合性、地権者・周辺住民との調整、環境への配慮、地元での開発実績からの実現性を評価し決定したと記されている。

 

 <用途地域のの新旧対照図> 

 

 

 

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右が用途地域変更後の見取り図になる。現在、みずほ銀行の角裏の空色の台形部分の第1種低層住宅専用地域と黄色い296沿いの第1種住宅地域の一部がピンク色の近隣商業地域に取り込まれ、変更となる

  <予想建築物計画図>

 

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みかん色が三か所の高層住宅で、合わせて432戸。灰色の立体の専用駐車場639台とビルに併設が221台で、あわせて860台。ピンク色の2か所の1階部分が商業施設となる。中央の青色部分が1500人収容の多目的ホールになるという。各建造物の事務所スペースが多い

 

上記二つの図面の詳細は、以下を参照ください。

 

佐倉市HP:都市計画提案(仮称)佐倉市ユーカリが丘駅北再開発地区及び周辺地区2018613日)

http://www.city.sakura.lg.jp/0000019052.html

 

こうした、夢のような構想が語られても、その実現性は、これまでの、「井野東」「井野南」などの土地区画整理事業による開発経過と結果・実態をみれば明らかになるのではないか。それにしても、7月21日に予定されていた、公聴会は、公述人なしで、中止になったという。

 

これまでの開発で、多くの緑地と雑木林を失い、都市計画道路と宅地になり、高層集合住宅も建った。戸建て住宅の小規模化により子育て世代を呼び込んだり、集合住宅は、企業などの借り上げなどにも助けられたり、この地区の人口は確かに増加した。しかし、計画道路沿いの商業ゾーンは、当初、大型スーパーや葬祭場などができて、渋滞などが予想されたが、いまだ空き地が続いている。また、さらに、駅寄りに巨大なイオン・タウンが開業したが、どうだろう。それよりもユーカリが丘駅に近かった、二つの商業施設(ユーカリプラザ、旧サティ)のスーパーや専門店の撤退が相次ぎ、いまは、昨秋、開店のオーケーだけがにぎわっているのが現状である。駅の南側にあった電気店コジマや北側でもツタヤをはじめ、パン屋さん、いくつかの個人商店が閉業している。イオン・タウンへは、オープン以来、私は数回しか出かけていないが、連れ合いは、自転車で、ノジマや生鮮食品売り場、クリーニング店などにはよく通っている。私も出かければ、レストラン街など歩いてみるが、魅力的な店が見つからない。一流とか、有名とかにはこだわらないつもりだが、テナントとして入る店が、どうもこれという特色がない店が多く、リピーターがつかめないのではないか。同じようなことを、よく買い物に出かけるという友人も話していた。お客が多いのは生鮮食品売り場くらいで、閑散としている店が多いのだ。なかには、冷房も暖房も効いているので、もっぱらウォーキングのために出かけ、ところどころにベンチもあるので助かるという友人もいる。

 

それに、テナントの出入りもはげしく、定着しない。オープン当初、しっかりした眼鏡屋さんが入ったと思い、眼鏡を新調したら、なんと一年余で撤退してしまったという個人的な体験もある。

 

この街に、あんな大きな商業施設が必要だったのだろうか。呼び込んだ山万とイオンのコンセプトがわかりにくい。遠隔地からの集客は、近隣に同様の商業施設が乱立しているから、まず無理なのではないか、というのは素人でもわかる。私たち住民にとっては、地元の商店やコンパクトなスーパーが充実していれば十分にも思える。私は、コピーや公共料金納入・送金などで利用する程度のコンビニながら、この街にはコンビニが多く、内情はわからないが、共存しているらしいのだ。ということは、大型スーパーより、コンビニの利便性が評価されているのかもしれない。若者、シニア、単身者の利用が多いというのもうなづける。さらに、いくつかの生協の宅配、食材・弁当の宅配業者の車もよく見かける街となった。また、モノレールとて、運行距離が短く、限定的で、駅やホームへのアクセスが悪く、運賃が高い。結局は、小回りの利く、シャトルバスやコミュニティバスを運行する事態に到っている。

 

今回の開発で、さらに商業施設が増強され、事務所スペースが多く、ビジネス街を目指すという所以でもある。ほんとうに、ビジネスを誘致できるのか。この街はどうなるのだろう。近い将来、当地域の人口増加も、いずれ期待できなくなり、利用者激減の商業施設やモノレールはどうなっているのだろうか、を目の当たりにするのが恐ろしいのだが、そのころ、私などは・・・。 

 

それでも、企業や自治体、議員や研究者などの視察が盛んなのは

 

 そんな状況の街ながら、山万の街づくりが、モデルケースとして、国や自治体、地方議員、企業関係者、研究者らの来訪・視察の対象となっている。レポート類も数多く出されていて、業界紙やテレビでも紹介されることが多い。テレビの「カンブリア」にも登場していた。しかし、その大方は、山万が提供する資料や山万の社長や幹部のインタビュー取材にもとづくもので、いわば企業の広報べったりのレポートであることが多く、その裏付け取材や検証がなされないまま、独り歩きしているのだ。将来の人口構成まで見据えた年間200戸以上売り出さない「成長管理」、分譲したら、その地を撤退する開発ではなく、地域に密着した企業であり、社員を地域に住まわせ、関連会社による子育てから介護、環境整備まで支援し、環境に優しい新交通システム(モノレール)の導入、電気自動車のシェア、コミュニティバスなどの運行、住民へのアンケート実施などが高く評価されたことが、HPや広報誌「わがまち」、「夢百科」などで繰り返される。

 

 ともかく、地元の市役所や住民・自治会・地元のNPOなどに取材したり、関係資料を収集したりする努力、形跡が見えないものがほとんどである。

 実態を見ない机上の開発手法であることが多く、地域密着と称して自治会や管理組合在籍の社員による情報収集・情報操作がなされた場面にも遭遇している。

役人や議員、学者や実務家ら専門家・有識者と称する者やメディアの言は、まず疑ってみよ、が、私にとって、どんな問題にも共通する鉄則にも、思えてくるのだ。

 

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2018年7月10日 (火)

8年ぶりの佐原、なつかしい、そして思いがけない出会いも

 疎開地佐原については、たびたび、このブログでも触れているが、78日、訪ねる機会があった。連れ合いが、佐原でのある集会で話す予定があると聞いて、ついてゆくことにした。


新しい佐原駅


 前回、家族
3人で出かけたのは、201010月、神幸祭の翌日だった。8年ぶりということになる。駅と駅前の様子はがらりと変貌を遂げていた。駅前広場には、伊能忠敬らしい銅像が立っていた。

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正面の右手、今は瀟洒な平屋だが、私の記憶では、2階建ての、1階は駅前食堂「八代商店」があった・・・

 私の脳裏にある佐原駅は、疎開中の敗戦前後の「停車場(テイシャバ)」で、当時の駅舎は、ネットで見つけた、まさに、下の写真の通りである。駅の南側になる。私たち家族が疎開して、まず身を寄せたのは、岩ケ崎の母の生家であり、そこから転居した仁井宿の馬市場の旧管理人さんの家であった。駅前には、食堂をやっていた親戚の家があって、場所柄もあり、親戚中の人たちがよく立ち寄っていた。私たち家族も2階の部屋に泊まらせた貰った記憶がある。列車が駅に着くたびに、2階はびっくりするほどよく揺れて、そのたびに目を覚ましていたらしい。1階の食堂の調理場の真ん中に井戸があって、土間だったのか、タタキだったのか、立ち働いていた人たちの姿も覚えている。「停車場」の駅員さんや交番の駐在さんも食堂のお得意さんだったらしかった。当時を知る人たちはもういない。

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正面は旧佐原駅舎、右は駐在所

新しい駅舎は、20113月開業とのこと、私たちが前回訪ねた翌年、東日本大震災直後だったことになる。南口広場の整備は2015年というから、まだ間もないことがわかった。その日の集会の会場は、駅の北口、佐原中央公民館だった。この建物も、跨線橋もあたらしい。

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数十年ぶりに従姉と会って

昨年から、ヒヨンなことから電話でのやり取りが始まったのであるが、数十年ぶりに従姉のMさんと会うことになっていた。見つけることができるだろうかとの不安もあったが、すぐにわかった。彼女は、住まいの東京から今は誰も住んでいない佐原の生家にときどき通っているとのことであった。その間に、亡くなったお連れ合いの仕事場でもあったアメリカにもよく出かけるという。数日前に帰国、成田から佐原に直行したという。そのエネルギーに脱帽しつつ、短い時間だったが、話すことができた。私の母の妹である、彼女の母親も、1950年代後半、母と一緒に作歌に励んでいたのは知っていた。そしてなんと、その叔母の歌が、毎日新聞に載っていたのを、Mさんは、今回の佐原滞在の折に、生家の引き出しから見つけたというのである。そのコピーには、

・いつになき夕焼のして厨映え菜刻むわれの指先あかし


とあった。

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 昨年、やはり偶然見つけた、母の短歌については、以下のブログにも書いたところだが、叔母の短歌も見つかったとは・・・。

2017115

晩年の母の一首、見つけました

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/11/post-3edd.html

 母は、女流短歌連盟主催第1回「女人短歌大会」のに入選、第2回に叔母が入選していたことがわかったのである。子育てから手が離れた、母と叔母の姉妹が、切磋琢磨していたことが、よくわかるエピソードであった。ともに『ポトナム』の阿部静枝先生の指導を受けていたのである。私がまだ短歌を詠み始める前のことでもあった。


そして佐倉からも

今回の集会には、なんと、佐倉からもお一人駆けつけてくださった。当日78日の午前中は、地元の9条の会の世話人会だった。私は欠席して、連れ合いに同行したのだが、その会の代表のTさんは、午前中の世話人会を終えて、高速を走ってこられたという。事前に伺っていなかったので驚いてしまった。ご実家が牛堀なので、帰りにはそちらに立ち寄られるとのことであったが、思いがけず、うれしいことだった。佐原は、東京の大学に行くまでは、水郷大橋を越えて、本や画材を求めにやってきた町だったという。

集会での話の内容は・・・

なお集会のオープニングは、南条忠夫さんの演歌「利根の佐太郎」「祝い船」「夫婦春秋」であったのは、なかなかの趣向で、年期の入った見事な唄いぶりであった。その日の集会は「市民連合ちば10区1周年記念」とのことで、連れ合いの話は「安倍政権を退陣させる攻めどころ」と題して、森友・加計問題で追いつめる二つのルートと安倍政権への経済政策への代案―消費税に代わる財源構想、についてであった。とくに、後者については、普段聞かされる話しながら、聞くほどに、腹立たしさが募るのだった。

発行された国債の大部分は銀行が買い取り、それを日銀がまとめて預かっている367兆円、私たちの銀行預金の十倍もの利子をつけているのだから、お金が出回るわけがない、というのだ。さらに、法人税の減税分で労働者の給料を上げ、工場の海外進出を抑えるなどの目的が果たせるどころか、逆行し、非正規は増えるし、社会保障負担分をも抑え、内部留保が増えるばかりだという。この無益な法人税減税を中止し、内部留保課税に踏み込むべきだ、と強調する。内部留保税を二重課税とする論は、法人税減税の無益さと消費税こそ二重課税ではないかの論を破ることができないはず、と。

途中、雲行きも怪しかったが、夕方には、車窓から、遠くの筑波山を眺めながらの帰途となった。乗り換えの成田駅界隈は、新勝寺の祇園祭の最終日の由、大変な人出であった。


8年前の佐原紀行については、以下をご覧いただければと~。 

2010年10月14日~15日
祭のあとの佐原をゆく(1)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-7fec.html

祭のあとの佐原をゆく(2)
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2018年7月 3日 (火)

日本の空にオスプレイいらない、どこにもいらない、オスプレイ落とすな~7月1日、「オスプレイ暫定配備反対7・1県民大集会in木更津」に参加しました

  関東は、観測史上初めての6月の梅雨明けの由、71日は、朝からもう暑い。「3000万人署名佐倉市民アクション」のチャーターしたバスは、地元の4つの鉄道の駅をめぐって満席となった。一行には、ふだんお目にかかっている人、久しぶりにお会いした方に加えて、初めての方も多かった。 

市原のサービスエリアで、トイレも買い物も最後ですよとの15分休憩だったが、会場の吾妻公園には、予定よりも早く着いた。木更津駐屯地の南の角にあたり、カンカン照りなので、公園内の木陰を選んで、座り込む。こんな時は、シートと小さい携帯用イスがあればと、遠ざかってしまったアウト・ドアの必需品、物置にあったのを思い出す。それでも、風があるので、だいぶ助かるが、地元の9条の会の旗「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」をわずかばかり持ったものの、支えるのに苦労する。

 少し早めに始まったオープニング・アトラクション、木更津の方の和太鼓演奏、合唱団とシンガーソングライター大熊啓さんが歌う歌は、正直ほとんど知らないのだが、「沖縄を返せ」を懐かしく聞いた次第。地元4団体の集会実行委員会、代表の木更津の「オスプレイ来るな いらない住民の会」の吉田勇悟さんの挨拶は切実である。普天間基地海兵隊のオスプレイMV22 24機の整備拠点として、千葉県知事も木更津市長も了承し、昨年2月には1機が飛来、その整備が終わらないのか音沙汰がない中、今年の625日突如2機目が飛来した。24機が代わる代わるに整備にやってきて、試験飛行が繰り返される。加えて、自衛隊のオスプレイMV22の、暫定配備が決まってしまったのである。オスプレイ自体の危険性は、本ブログでも何度か記事にしているが、重大事故のいわゆる事故率は324と高く、それに到らない「予防着陸」や部品落下などの事故は、沖縄では数知れず確認されている。原因究明が曖昧なまま、飛行が再開しているのが実態で、防衛省は米軍の言いなりである。

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木陰を求めて、三々五々。右側に交通公園、その奥が駐屯地である

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和太鼓演奏の皆さん

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千葉九区市民連合の人たち

集会は、政党代表6人の「連帯」のあいさつが続いたが、この炎天下、一刻でも早く終わってほしい、というのが正直なところだった。続いて、各地で活動を続けている会の方からの報告と訴えがあった。とくに印象に残ったのは「横田基地撤去を求める西多摩の会」の方が、突然米空軍のオスプレイCV225機、4月横須賀から横田基地に飛来し、6月4日、離陸したのは確認しているのだが、そのうち2機は、奄美大島に緊急着陸、そのうちの1機と合せて計4機は、横田に戻ったのを確認している。もう1機は、行方知らずの疑問を呈していた。どこかの民間の格納庫に隠されてしまったのかとも。報道によれば、奄美空港からは、日を異にして、2機は離陸しているというのだから、ミステリーでもある。CV22は、MV22よりも低空飛行(地形追随)、夜間飛行が強化され、電子妨害機能をももつ特殊作戦機であるという。そんなおそろしい巨大機が一体どこに?という疑惑が深まる話であった。*



* 7月5日付記:その後の報道によると、6月4日に横田を発ち嘉手納に向かう途中、奄美空港に緊急着陸した2機のうち1機が、長期の整備を経て、一カ月ぶりに7月4日に横田に「帰還」した、とある。(『東京新聞』7月5日)1機は、ずっと奄美空港にとどまっていたことになるのだが・・・。

* 羽村市のホームページよりhttp://www.city.hamura.tokyo.jp/0000011168.html

 

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あまりの暑さに、「千葉土建」テント下の空いた椅子をしばらく占拠、一息つく


 また、「パトリオットミサイル入らない習志野基地行動実行委員会」の方からは、習志野駐屯地航空自衛隊第一高射隊に
200711月、ミサイル、パトリオットが突然配備されることになって以来の活動を踏まえての報告であった。編成替えがあって、習志野駐屯地の陸上自衛隊「第1空挺団」と木更津駐屯地陸上自衛隊「第1ヘリコプター団」が連携した飛行訓練がいっそう強化されるとの不安が語られた。

 徒歩で17分ほど、木更津駅まで行進するとのことだったが、駐屯地沿いにしばらく歩いた後、富士見通りに出ての一直線が長く感じられた。解散地点の光明寺前まで、45分近くは歩いたことになるのだろうか。沿道の民家の木戸からお辞儀をし続けている年配の女性もいらしたし、歩道から手を振ってくださる方も何人かいらした。参加者2200人、お疲れ様でした。

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出発まもなく、駐屯地の格納庫、ここに、いま2機のオスプレイがおさまっているのか

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これは何の装備だろう、目にするのは、隊員の住まいの宿舎ばかりだったが・・・

 

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だいぶ大げさな・・・、張り切った千葉県警?


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風があったので、旗持ちも、楽ではなかったようだ

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懐かしい、昭和の銭湯の風景に思わず、シャッターを切る。調べてみると「宮の湯」さん?行商の女性のかごには「マンゴーアイスクリーム」ともあった。風呂上がりのお客さんを待つのか。一人振り返っている男性は千葉県警のようで、その視線が鋭い

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正面に木更津駅、左手に光明寺、「切られの与三郎」の墓があるという。DJポリスの女性は、「ここが解散地点です。早く解散するように」と繰り返す。右翼の車がかなり結集していたとのことだったが、何事もなく無事解散、帰りのバスは、彼らの車と並走することもあり、かなり遠くの他府県のナンバーもあった。相当な渋滞もあって、予定より遅れた 

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光明寺、広い境内のようだったが・・・


 習志野の方の訴えにあった、第1空挺団と第1ヘリコプター団との連携について、調べてみると、2007年、第1空挺団及び特殊作戦群が中央即応集団隷下に編成替えになったが、今年の3月には中央即応集団廃止に伴い第1空挺団・特殊作戦群が陸上総隊隷下に隷属替えになっていた。いまどき、「隷下」「隷属」なんていう公用語があるんですね。

 ついでに、以下の防衛省のそれぞれのホームページを読むだけでも、日本の防衛政策の過剰なことと広報活動の活発さと米軍との関係では、いかに「隷属」的な関係、まさに言いなり、植民地化していることが分かる。私たちの税金が、これほどまでの防衛費、日米の軍需産業に費消されていることが明確にもなるだろう。たとえば、次のような文言を読むと、日本政府の危うさが浮き彫りになるだろう。

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北関東防衛局「CV22オスプレイ横田飛行場配備について」(2018531日)より

 CV-22の配備先については、米側から、CV-22の任務や役割を踏まえた上で、
 運用や訓練上のニーズ
 機体整備のための施設が活用できること
 10機のCV-22及びその要員を受け入れるためのスペースを有していることなど、様々な点を総合的に勘案した結果、横田飛行場を選定したとの説明を受けています。
 我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増す中、高い性能を有するCV-22が我が国に配備されることは、米国のアジア太平洋地域へのコミットメント及び即応態勢整備の観点から、日米同盟の抑止力・対処力を向上させ、日本の防衛及びアジア太平洋地域の安定に資すると考えています。

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陸上自衛隊第一ヘリコプター団http://www.mod.go.jp/gsdf/crf/heridan/topics170911/index.html#wrap


陸上自衛隊第一空挺団

http://www.mod.go.jp/gsdf/1abnb/index.html

北関東防衛局>オスプレイ関連
http://www.mod.go.jp/rdb/n-kanto/kichi-syuhen/ospray.htm

防衛省・自衛隊>CV22オスプレイについてhttp://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/osprey/yokota/cv22.html

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