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2018年8月24日 (金)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(2)

ヨーチンかマーキロか、医者嫌い

 現在でも、テレビのコマーシャルに登場する、養命酒、救心、龍角散、太田胃散、エビオス、わかもと、正露丸、浅田飴、仁丹、メンソレータム、イチジク浣腸、・・・などは、ただひたすらなつかしいばかりだ。こうした売薬は、お客さんが名指しで買いにやってくることが多い。私は、店の棚での位置はすぐに覚え、カウンターに差し出すことができた。値段のシールを見て応対することもあったが、薬剤師の父や長兄の手があけば、応対は代わった。「キズ薬ください」といえば、「ヨーチンにしますか、赤チン(マーキロ)にしますか、ヨーチンの方が沁みて痛いですけど、良く効きます。それとも、色がつかないオキシフルにしますか」なんて、父の口移しで応えていた。お客さんは、小学生相手で、さぞ頼りなかったことだろうな。父が衛生兵だったころ、行軍での怪我は、ヨーチンが一番、後で化膿することが少ない」というのが持論だった。

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 1946年1月1日『朝日新聞』3面の広告欄で、薬と化粧品会社の広告がほとんどで、山ノ内製薬、藤沢薬品、森永、武田薬品、田辺製薬、塩野義、三共…の名がみえる。ナショナルとテイチクレコードくらいが、異業界である。なおこの日の新聞の一面は、天皇の「人間宣言」がなされていて「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」の見出しが見える

 目薬と言えば、大学目薬(参天堂製薬)かロート目薬(信天堂山田安民薬房⇒1949年ロート製薬)、スマイル(玉置製薬⇒1972年ライオン歯磨)というのもあったし、トラホームや結膜炎らしいといえば、たしか「オプト」?いう軟膏状の目薬もあった。私も、目が赤くなったり、「ものもらい」ができたりすると、母に教わりながら、ホウ酸を熱湯で溶かして、新しい割りばしを使って、脱脂綿で、悪い方の眼を湯気で蒸すようにした後で、少し冷めたら、ホウ酸水がしみている脱脂綿で拭い、軟膏状の目薬をつけた。しばらくの間、べたつく眼では何もできなかったことが何度かあった。小学校6年の夏のプールの時間に、結膜炎がうつったらしく、その時から、視力が急に落ちてきてびっくりしたことがある。

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細長い箱に入っていた目薬、上は「ロート目薬」の点眼器で、下のゴムの栓を開け、上部の丸いゴムのフタを押すと、一滴が落ちる仕組みだった

  風邪をひいたときは、父が調合してくれた粉薬を服み、それでも熱が下がらないときは、アスピリン、ダイヤジン?テラマイシンなどを服んでいたと思う。さらに、新薬のペニシリンは、病院に行かねばもらえない薬だったが、父たちは、しょっちゅう服用すると、肝心な時に薬は効かなくなり、人によってはショック死の危険もあるとかで、敬遠していた。ペニシリン軟膏などは気軽に売っていたのではないか。

 たいていの病気は、そんな風にして治してしまって、我が家では、商売柄、医者に行くということはほとんどなく、薬で解決していた。行くのは歯医者さんくらいだった。そんな悪い習慣が、母の病気の発見をおくらせてしまったのではないかと、今になって思う。それがトラウマになっているのか、私は、医者通いが嫌いではなく、すぐに、クリニックや病院に駆け込むことが多い。せめてと、せっせと保険料のモトを取っていることになるのかもしれない。(つづく)

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 1948年1月1日『朝日新聞』4面の広告欄。この広告の上には、「今年ぼくはこうする」と古橋広之進選手が抱負を語っている記事が写真入りで掲載されている

 

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