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2018年8月23日 (木)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(1)

重曹とサッカリンと
   

敗戦の翌年、疎開先で小学校に入り、夏には、父が奔走して、池袋の焼け跡に薬局を再建した。両親と兄2人、5人家族が一緒に暮らせることになった。当時は「バラック」と呼ばれ、ベニヤ板で囲った小屋のようなものだった。横長の3坪もない店と6畳一間と手洗い・台所だった。停電は、毎晩と言っていいほど続いた。「バラック」は、ヨーロッパ旅行で、訪ねたナチスによる収容所の宿舎や兵舎の意味もあることを知った。周りは、まだ焼け野原で、バラックがちらほらと建ちはじめ、通りを挟んで、2軒の土蔵だけが焼け残っているのを覚えている。

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  日付が分からないのだがバラックを建てて、まもなくで、長兄が、まだ明治薬専に通い、次兄が中学生だった1947年の冬頃か。右と中央が、店を背景に兄二人が直立不動で写っている。左は、長兄の薬専の同級生のIさん、その間に白衣の父が顔をのぞかせている。父は、マメにポスターまがいのものをよく描いた。左のガラスの格子には、「氷嚢」「絆創膏」の文字が見える。残念ながら店のカウンターなどにはさまざまな商品名が書かれているのだが、その文字が判読できない

  最寄りの池袋駅西口のヤミ市は駅前から立教通りの手前まで続き、豊島師範の塀にぶつかるまであったような気がする。次兄は、立教中学に通い、私は、母の意向で、豊島師範の付属小学校の編入試験を受けさせられた記憶があるが、結局、池袋第二小と近くにできた池五小学校に通った。我が家の隣は、キリスト教系の病院跡で、コンクリートのたたきやタイルの壁が一部残っていた。両親からは、ガラスの破片や体温計の水銀が残っているかも知れないからと、たたき以外のところでは遊ばないようにとも注意されていた。とはいっても、敷地の一角には、おそらく無断だったと思うが、さやえんどうやニンジンを育て、ジャガイモの種イモまで植えて、収穫を楽しみ、食糧不足を補っていたのではないか。

  薬局といっても、何を商っていたかというと、こども心に覚えているのは、重曹とサッカリンだった。重曹は、「ふくらまし粉」として、サッカリンは人工甘味料として、我が家でも使用していたが、父は主に、飲食店に自転車で納めて回っていたようだ。店では、重曹やサッカリンは小さな薬用袋に小分けしていたような気がする。「ズルチン」という人口甘味料もあったが、体に良くないと言われつつも、サッカリンよりも安価だったため、「あの店はズルチンを使っているらしい」などと父たちが話しているのを聞いたことがある。

  そして、つぎに思い出す薬は、「虫下し」。当時は、農作物の肥料は人糞が当たり前だったから、回虫の寄生率は高く、野菜などはよく洗って食べるようにしなきゃ、というのが母の口癖だった。小学校でも「検便」があって、回虫が居るかいないか、その結果にはいつもびくびくしていたが、「サントニン」(日本新薬)が、いわば特効薬だったらしく、よく売れていた。さらに、やや後発の「マクニン」という薬は、父がお客さんに「マクニンは海藻からできているので、穏やかに効くので体には良い」と勧めているのを聞いていた。蟯虫やサナダムシなどの寄生もマレではなかったらしいが、どんな薬があったのか、思い出せない。いまは、化学肥料の普及や衛生環境が整い、寄生率は1%にも満たないとのことだが、当時は80%を超える「国民病」であったとのこと。 

  つぎに、思い出すのが、薬ではない「みやこ染め」(桂屋)である。布地の染粉で、当時は染め直し、仕立て直しては、着まわし、衣類は大事なものだった。私はけっこう店番が好きで、小学校4年ころから、一人前?に応対することもあった。

 「みやこ染めありますか」というお客には「木綿ですか人絹ですか、絹ですか羊毛ですか」とまず尋ね、それぞれ用向きによって、別々の色見本を広げて見せて、「どの色にしますか」ということになる。この色見本というのは、見開きの台紙に色名とその下には染めた布や毛糸が、ほんのわずかずつ、張り付けられているのだ。その色見本を見ているだけでも楽しかった。聞いたことのない色の名前、その華やかさが好きだったのだろう。時間が経って色褪せてくると、新しいものが届き、その鮮やかさが、何となくうれしい気分にしてくれるのだった。そして、染め粉の媒染として、酢酸かお酢を媒染として使うのは、木綿やスフではなかったか、化学的にはどうだったのか、これまた記憶の彼方である。

 こんな形で、食や衣料にまでかかわっていたのが、当時のくすり屋であった。(つづく)

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ネット検索したら、こんな写真が出てきた。壜の高さが、もっと低いようにも思えたが、「国防色」とあるので戦時中のものだろう。私が見ていた色見本は、中央の「染色標本」だったのだろうか

 

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