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2018年8月31日 (金)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(8)

(8)くすり屋の雑貨

 今回のシリーズを書くにあたって、本棚にあったつぎの2冊を取り出した。こうした懐古趣味は、結構、昔から私にはあったのだなと思う。

・串間努:図説・昭和レトロ商品博物館 河出書房新社 2001

・初美健一:まだある 今でも買える”懐かしの昭和“カタログ―生活雑貨篇 大空出版 2006

 著者の串間は1963年生まれ、初美は1967年生まれ、というから、私の子どもの世代と言ってもいい若さである。こうしたものを、記憶を残そう、ものを残そうという人がいるということは、頼もしい限り。私は、たまたま30年間近く、まちのくすり屋の娘として過ごしたときの記憶をたどりながら、当時の暮しや家族、商品、お客さんとのさまざまな思いを、後付けながら、できれば社会的背景も自分ながらの理解で綴っている。「自分史」というくくりはあまり好きではないけれど、これからも綴っていくことができればと思う。

 当時のくすり屋が扱っていた、さまざまな雑貨にも、さまざまな思い出がある。

「チリ紙」や「綿花」も大事な商品だった。チリ紙に関しては、厚い束で届いたものを小分けに、二つ折りにし、紙テープで束ね、それを積み重ねて店頭に出していた。「京花」という上質紙は、個別に袋に入っているものもあった。また、少し時代が下ると、色も灰色っぽく、しわしわの柔らかい紙質のものを平らに積み重ねたまま手洗いに置く「落とし紙」もあったと思う。いわゆるテイッシュ・ペーパーは、日本では、1953年にクリネックスから売り出されていたが、高価だったので、普及するのはかなりあとだったのでは。70年代の初めに私が生家を離れるころ、ロール式のトイレットペーパーは一つずつ包装されていたようにも思う。

「綿花」あるいは「脱脂綿」は、平たく折りたたんで「衛生綿」などと書かれた20センチ四方くらいの紙袋に入っていた。子どものころは、消毒用や傷あてに使用するものとばかり思っていたが、化粧用品でもあり、生理用品でもあったのである。アンネ・ナプキンが売り出されるのは1961年のことだった。いま、ドラッグ・ストアで見る、あの多様さは夢のようでもある。

 店は、銭湯「平和湯」の斜め向かいでもあったので、石鹸はよく売れた。石鹸の登録・クーポン制については前述したが、1950年統制解除になると、品物が多くなる。店さきの台の最上段に、何種類かの石鹸を半ダースの箱からばらして並べる仕事もあった。花王、ミツワ、牛乳、アデカ、ニッサン、資生堂(オリーブ)、ライオン、ミヨシ・・・。当時は、石鹸と言えば、固形の化粧石鹸、洗濯石鹸、粉石鹸・・・とあり、父などは、化粧石鹸を「シャボン」と呼んでいた。この頃の石鹸事情については、『暮しの手帖』(20号 1953年)で、「商品テスト」を実施していることがわかった。これを見ると、私の記憶では、化粧石鹸と洗濯石鹸の売れ筋がごっちゃになっていたようだ。『暮しの手帖』のテスト結果は、今でこそ商品名が明らかにされるのが特徴だが、まだABC・・・の匿名だったようだ。

 現在でも、「ワ、ワ、ワが三つ・・・」(1954)「…牛乳石鹸、よい石鹸」(1956)「あごのしゃくれたお月様~うぶゆのときから花王、花王石鹸、・・・」(1956)を思い出すが、なんと、このすべての作詞・作曲が、「日曜娯楽版」(NHKラジオ番組1947年10月12日~1952年6月8日)の三木鶏郎と知ったのが、今回だったのである。お中元やお歳暮の時期になると、半ダース入りの箱にのし紙をつけて、手軽な贈答品としても、売れていた時代があった。

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「暮しの手帖」20号(1953年)より。カラーでないのが残念なのだが、当時「「舶来」石鹸などとは縁がない店であり、暮らしだった。また、洗濯用の粉石鹸はどれほど普及していたのか。花王ビーズ、ライオン、ゲンブ、ニッサン・・・、思い出す。合成洗剤としては、モノゲン(1934発売、1964年モノゲンユニ、2006年販売終了)、エマールというのもあって、純毛や絹ものなどを洗うときは、ぬるま湯で溶いて、丁寧に洗っていた記憶もある。

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現在、我が家で使っている「化粧石鹸」は、ほぼ、上の二つ。一番下のは、娘が帰省したときに使う石鹸で、無添加、釜練りというが・・・

   番外編の方が、回を重ねることになってしまったのだが、ひとまず今回で終わりたい。「73年の意味」については、これからも、天皇の代替わりに向けて、オリンピックに向けて、自分のなかで、渦巻く思いを伝えていきたいと思う。

 

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2018年8月30日 (木)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(7)

街のくすり屋の経営改革?② 

 小太郎漢方薬(エキス剤)の販売を始める

 1960年代に入っての頃、私には突如のように思われたのだが、父が、小太郎漢方製薬の漢方薬を店に置くようになった。当時、漢方薬と言えば、中将湯(津村順天堂⇒1988年ツムラ)、実母散(喜谷実母散本舗⇒1950ヒサゴ薬品⇒1995年キタニ)、命の母(笹岡薬品⇒2005年小林製薬独占販売)などの女性向けの薬や浅井万金膏(1997年製造中止)とお灸のための百草などを思い浮かべていた。大きな流れとして、「生薬」の時代から、ティーパック化した「煎じ薬」「振り出し薬」になって、エキスの錠剤化、糖衣錠化が進むのが1950年代半ばから1960年代だったか。

  小太郎漢方がエキス剤、いわゆる錠剤の製造販売を開始したのが19574月であり、父は、漢方の研修会に何度か出かけているようだった。いわゆる、慢性化した症状を訴えるお客さんや売薬ではなかなか効かないというお客さんに、父は熱心に勧めていたようだ。と言っても即効というわけではないので、リピーターは少なかったと思われた。というのも、「ビスラット(スラっと痩せて美しくなる? 石原薬品⇒2008年小林製薬)ってやせられますか」などとやってきた、漢方志向のお客さんに、「奥さん、薬飲むより、まず、余分なものは食べないようにしなきゃ。奥さん、おやつなんか結構つまんでいませんか」などと応ずるものだから、お客は、怒って帰ってしまうなんていうこともあった。母がこぼしていたように、父の「バカ正直」な一面であったかもしれない。

 

 漢方薬のメーカーでは、津村順天堂が有名であったが、1967年に漢方薬の一部が保険適用になり、徐々に適用も拡大し、1988年社名を「ツムラ」と変えた頃には、医療用漢方薬のシェアを伸ばしていた。2009年、民主党政権下、事業仕分けで、漢方薬の適用外しが目論まれたが、医療用漢方薬はすでに定着して、多くの利用者の反対にあって終息したという経緯もあったらしい。保険適用が拡大して、街のくすり屋の漢方薬はどうなっていったのだろうか。父が目論んだ”多角経営“も功を奏さないうちに、しぼんでしまったのかもしれない。

 製薬会社と卸と薬局と  

 どうしても、曖昧な記憶に頼らざるを得ないのだが、つぎに述べるような、メーカーから直接届けられる医薬品は別として当時の店の仕入れはどうなっていたのだろう。仕入れは、主に兄の仕事になっていったらしい。「ナカダ」という卸問屋の社員が注文を取りに来ていた。父や兄に向って、「センセー、センセー」を連発しながら、新製品の説明や売れ筋商品の説明をし、ときには、世間話を交え、注文を取っていた。「センセー」というのは、学校の「先生」しか知らなかったので、何とも奇妙な気分だったのを覚えている。三共、武田、塩野義、山之内などの大手の品は「ナカダ」から仕入れていたのではないか。1950年代の後半、たどれば戦前から創業していた大正製薬と佐藤製薬だが、新しい大衆薬を開発して、特約店方式で販路を開拓しているようだった。卸を通さず、街の薬局に直接、営業社員を回らせ、注文を取っていた。この辺のことを調べようとして、会社のHPの沿革を見るのだが、どうもはっきりしない。会社史などの資料を見なければと思うが、23の文献が見つかった。前述の化粧品の資生堂と同じ方式である。卸を通さない分だけ、若干、利益も多いので、販売にも熱が入る。同じ風邪薬でも、佐藤製薬の「ストナ」や大正製薬の「パブロン」「ナロン」などを勧めていたのも確かであった。

  60年代に入ると、テレビが普及し、薬品・化粧品のコマーシャルが登場し、華やかな宣伝合戦が始まるのが、この頃だろう。当時、栄養ドリンク剤で、少し大きめのアンプル入りが大流行していた。店さきで、アンプルの突起の根元にハート形のヤスリを入れてから、中指で弾いたり、てのひらで抑え込むようにすれば、すぐに折れた。お客さんは、短いストローで一気に服んでいくという光景がよく見られた。最初、私も、アンプルを切るのに緊張したが、次第に慣れていった。ところが、カラスの粉が液剤に混じることもあるということで、今のようなびん入りになったという。大正製薬からはリポビタンD1962年)や佐藤製薬からはユンケル黄帝液(1967年)などが疲労回復、栄養剤としてよく売れた。多くのサラリーマンはよほど疲れていたのだろう。さて、その効き目のほどなのだが、わが家の家族は、誰ひとり、口にする者はいなかった。

 なお、私は、1972年にくすり屋の生家を離れ、76年には名古屋に転居しているので、その後の店の様子には疎くなっていった。 しかし、この度、医薬品卸の「ナカダ」を調べていると、約業界の流通は、激変しているのを知った。私の理解ではつぎのような流れがあったようなのだ。

1961年に国民皆保険制度が発足すると、それまで、薬はくすり屋で売るもの、くすり屋で買うものであったのが、薬は、医者からもらうものになっていったのである。 

しかし、薬事法の改正で、前述のように、販売規制が緩和されるなかで、医薬品の部外品化が進み、1999年には、ドリンク剤は「指定医薬部外品」になってコンビニにも並ぶようになったのだ。2006年、薬剤師養成は6年制となって、専門性が要請された。その一方で、2009年には、薬剤師でなくとも登録販売者が一部医薬品を販売できるようになった。同時に、独禁法により、再販制度が緩和される過程において、医薬品も化粧品もすべて指定からはずれることになり、現在は、書籍・新聞・雑誌・音楽ソフトに限られている。 

 こうした規制緩和の進むなかで、医薬品卸の「ナカダ(中田薬品)」は、1983年に丹平商事と合併、2008年には、200410月に発足したアルフレッサホールディングスと資本提携、2010年には、完全な子会社となっている、ことも分かった。そして、かつて1600もあった医薬品卸は100となり、いまは全国4つのグループに統合され、その4グループには大手製薬会社が大株主になっているのが現状らしい。  

 (参考)
・澤野孝一朗:日本の薬事法制と医薬品の販売規制―薬局・薬剤師・商業組合及び規制緩和 オイコノミカ(名古屋市立大学) 442号(2007年)file:///C:/Users/Owner/Desktop/B41-20071101-121沢野医薬品9規制緩和.pdf
・丹野忠晋・林 行成:日本の医療用医薬品の卸売企業の 
現状とその経済学的分析
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号 (2013315
日)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/contentscinii_20180827165910卸と製薬会社
.pdf
・角田博道:医薬品流通経済研究  流通再編
http://www.pharma-biz.org/Column_ryutu/ryutu01.html 

 

   週刊誌の販売  

  これも、うちの店で、いつ始まったのかが、明確ではない。ともかく、1960年代は週刊誌ブームといわれた時代であった。私が大学に入った直後くらいだろうか。安保闘争の最中で、創刊まもない「朝日ジャーナル」などを小脇に抱える学生も多かった。店先の端っこに、雑誌を差し込む台が置かれ、発売日ごとに週刊誌は届けられるのだが、それと交換するため、前週の雑誌、売れ残った雑誌は、束ねて何部返品かの伝票を添えて用意しておく、その作業はかなり厄介なものだったが、すべて兄の仕事のようだった。売り切れる雑誌もあるが、残る雑誌も多い。このコーナーでどのくらいの利益を上げていたのだろうか。通常は二割程度とのことではあったが、それに加えて、週刊誌の販売は、我が家への「カルチャーショック」が大きかった。新聞は、隣が読売の専売店だったこともあって、読売・朝日・毎日のうちの23紙はいつも購読していたが、それまで縁のなかった週刊誌がどっと押し寄せてきた感じだった。買ってくださるお客さんには申し訳なかったが、汚さぬように丁寧に読ませてもらうことになったのである。私などは、歴史ある?週刊朝日、サンデー毎日(共に1922年創刊)はじめ、週刊女性(1957)、女性自身(1958)、女性セブン(1963)はもちろん、週刊新潮(1956)、週刊文春(1959)などは、発売日の夜にでも読まないと、売り切れてしまうので、読み切るには、いささか過密スケジュールでもあった。週刊明星(195891)、週刊平凡(195987)、平凡パンチ(196488)などにも目を通していたから、自慢ではないが雑学?やスキャンダル・ゴシップ類は、結構、身に着けていたかもしれない。長兄は、店番をしながら、あるいは寝室にまで持ち込んで、アサヒ芸能(1956)、週刊実話(1957)、週刊大衆(1958)、週刊現代(1959)、週刊ポスト(1969)などにも手を広げていたかもしれない。隔週に刊行される、表紙もグラビアも過激な男性向けの雑誌もあった。

 

 こうしてみると1960年代前後に創刊された週刊誌が多いのが分かる。週刊誌販売も、くすり屋が、薬・雑貨・化粧品の他に、商売になる品は何でも置かねばという不安の表れだったのではないか。
 生家を離れて、一人暮らしをすることになった時は、しばらく「週刊誌ロス」に見舞われたが、購入することはまずなかった。新聞に出る広告の見出しを見て、楽しむことを覚えた。これは今でも変わっていないかもしれない。

 

 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(6)

街のくすり屋の経営改革?➀

  今回、薬や化粧品のことを、ひとまずメーカーだけは確認しておきたいと思って、ネットで調べていると、会社にはそれぞれ「今昔物語」があった。発展を続ける会社、身売りをする会社、合併や統合をする会社、廃業した会社といろいろであった。さまざまな商品の現代にいたる来し方を探ると、さらに興味深い事実に出会うこともある。その才があるならば、朝ドラの脚本が何本もかけそうな物語がいっぱい潜んでいるのではないか。経済高度成長期、激動の日本の近現代史を垣間見る思いがする。

 

ここでは、街の小さなくすり屋にも、私の知る限りながら、さまざまな時代の波をかぶらざるを得なかった。父が池袋で薬局を開いたのが1925年か24年、それまでは、十代にして両親を亡くし、薬剤師の資格を持って、朝鮮に渡り、兵役をはさんで、仁川の薬局、ジョホールのゴム園の診療所、日本に帰国後の病院、ずっと雇われ薬剤師だったはずだ。結婚を機に開業しているが、やはり、1945年の空襲による住居兼店舗の焼出は、痛手だったと思う。もともと正直ではあっても、決して商売上手とは言えなかった。それに蓄えるということも苦手だったらしく、母は、よく嘆いていた。お父さんは、一人暮らしが長かったから、自分勝手なところもあって困ることも多いと。店の経理のようなことも苦手だったのだろうか。

 

 

企業組合に加入

 

1950年、たぶん設立まもない「東優企業組合」という東京の薬局が加入する企業組合に加入したのである。売り上げや帳簿類をすべて組合に提出して、父も兄も母も組合の従業員として給与をもらうというシステムで、税金対応などを組合に任せるという趣旨であったと思う。今でも、中小企業協同組合の一つとして、街の薬局や調剤薬局、ドラッグストアが加入する組合として健在のようである。当時の母は、なぜ、せっかくの売り上げをすべて組合に納入しなければならないのか、どんな利点があるのかと、いつも不満げだったのを覚えている。父は、月に何度か、組合に足を運んでいた。「トーユー」に行ってくると、店を留守にすると、そんな愚痴が、私にも聞こえてきた。

 

薬局の開業には、「調剤室」の確保が義務付けられていたが、この調剤室が、どの店でもお飾りのような状態であったことは否めない。うちの店も、事務室のような、もの置きのような様相を呈していた。父たちは、迷った上、改築を機に「調剤室」を造らず、薬局から「薬店」に衣替えをした。

 

敗戦後のくすり屋にとって、1951年、GHQの指示による薬事法改正が掲げる医薬分業は、医師には特例があって、既得権が維持され、処方も販売も可能であったため、分業は定着しなかった。1961年に国民皆保険制度発足すると、それまで、くすり屋で買うものであった薬の多くは、医者からもらうものになっていった。1974年には、医療報酬費の改定がなされ、処方箋料が大幅にアップしたこともあったが、大きな進展は見られなかった。1992年段階での分業率は14%台だった。院外薬局、門前薬局が目につくようになり、調剤薬局大手の医師へのリベート問題も発覚するなか、院外処方箋は増加を続け、2003年で51%となり、その後の2016年には70%を超えた。

(参考)

・早瀬幸俊:医薬分業の問題点 薬業雑誌 1233号(2003年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/123/3/123_3_121/_pdf/-char/ja

 

たばこの販売許可をとる

 

ほぼ同じころ、たばこの小売販売の許可を取ったのだった。さまざまな条件をクリアしなければならないことがあったらしく、販売できるようになってほっとしたようだった。喫煙の健康上被害は、いま厳しく問われ、喫煙できる場所も制限される時代になった。しかし、販売店の数は、明らかに増加しているが、販売の規制はどうなっているのだろうか。うちの店では、まだ、外国たばこを扱うことができなかった。私が店番をしていた頃は、ピース(1946年発売)、ホープ(1957年~)、ハイライト(1960年~)が全盛、しんせい(1949年~)、ゴールデンバット(1906年~)、わかば(1966年~)というのもあった。我が家はだれも煙草を喫まずに、売っていたことになる。利益は一割程度だったとも。やはり、発注・納品事務に、自動販売機への補充など楽ではなかったと思う。

 

 

ドラッグストアの進出に対抗して

 

さらに、1960年代、大学に入ってまもない頃、池袋のくすり屋が騒然としたことがある。いわゆる安売りのドラッグストアが池袋西口に進出して来たことがある。父や兄の存命中に、きちんと聞いておくべきだったのだが、どこの経営のどんな店だったのか、確かな記憶も情報もない。池袋一帯のくすり屋が潰されるのではないかとの危機感から、池袋の同業者が集まって、その安売り店の近くに、仮店舗を建てて対抗して安売りを始めたのである。そして、各店から一名づつ交代で人を派遣し、常時、数人が店員となって詰めていて、かなりの賑わいだった。私も何度か、二つの店の前を通ったことがある。いったい、いつまで続いてどんな決着を見たのか、思い出せない。相手は進出をあきらめたのか、あきらめさせたのか。

 

それにしても、当時は1954年以来定価が決められ、値下げできないという再販制度があって、医薬品45品目が指定されていたはずなので、それ以外の商品の値下げ競争だったのか。この再販制度は、消費者の利益を損なうとして、73年に26品目、93年に14品目と縮小され、1997年に撤廃された。1974年には、薬局を開店するには一定の距離を要する薬事法が職業の自由に反するという違憲判決により改正され、撤廃された。街のくすり屋の安売り競争は激化、さらに大型ドラッグストアやスーパー内の薬局進出が盛んとなり、197080年代は街の小さなくすり屋にとっては厳しい時代であったにちがいない。

 

現在の池袋西口近辺には、かつて私も回覧板や書類などを届けに行ったような個人経営の薬局が何店か、たしかに営業を続けている。しかしその何倍もの、チェーン店のドラッグストアが乱立しているようなのだ。池袋の兄の店は、存命中に閉業して、すでに久しい。

 

 

 

 

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2018年8月26日 (日)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(5)

ポマードとコールドクリームの時代から

 それでも、世の中は、少しずつ変わりつつあったのか、庶民の暮らしにもいささかのゆとりができたのか、男性は身だしなみ、女性はおしゃれにも気が回るようになった。くすり屋では、女性化粧品や男性の整髪料などが売れ筋になったのである。
 

 例のテカテカに塗り付けて、独特の匂いを放っていたポマード、その商品名が、今でも口をついて出てくるから不思議である。メヌマ(井田京栄堂)、ケンシ(ケンシ精香)、柳屋(柳屋本店)、エーワン(エーワン本舗)などなど・・・、製造元は、さすがにネットで調べたのだが、店のカウンターのガラスケースに並べていたような気がする。それにチックもポマードのメーカーが作っていたと思うが、思い出すのは「丹頂チック」(金鶴香水⇒1959 年丹頂KK1971年マンダム)、細長い筒状だから、ケースの中でよく倒れてしまっていた。ポマードもチックも戦前から製造されていたものだが、ワセリンを主原料とした鉱物性と植物性があるなどといった説明を聞くともなく聞いていた。男性整髪料は、やがてヘアリキッドの時代に移行していくのである。そういえば、敗戦直後、歌手の岡晴夫が、当時売れっ子ながら、今でいうサイドビジネスでポマード工場を持っていたことも聞いていたが、その商品名が分からない。薬剤師になりたての長兄が、彼の「東京の花売り娘」(佐々詩生作詞 上原げんと作曲1946年)、「憧れのハワイ航路」(石本美由起作詞 江口夜詩作曲1948年)、「啼くな小鳩よ」(高橋掬太郎作詞 飯田三郎作曲1947年)など、裸電球の下で、拳をマイクに見立てて唄っていた姿を思い出す。当時の私と言えば、銭湯「平和湯」横に来る紙芝居と夕方のラジオ放送劇「鐘の鳴る丘」(194775日~19501229日、当初は土日だけだったが、のち月~金放送)に釘付けになった時代である。巌金四郎の語りとパイプオルガンの音楽は重々しかったが、「とんがり帽子」(菊田一夫作詞 古関裕而作曲)は、いまでも一番は歌える。
 

話はややそれるが、数十年ほど前、池袋の生家を解体、建て直すとき、物置からこんなものも拾っていた。もうぼろぼろの崩壊寸前なので、スキャンするのも気が気ではなかったが、当時の雰囲気が伝えられればと思う。

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崩壊寸前の「全音歌謡傑作集」(全音楽譜出版社 1948年11月 61頁 45円)「懐かしのメロデイ」として「別れのブルース」「影を慕いて」などもふくめて48曲収録。どういうわけか。「ブンガワンソロ」と「東京ブギウギ」の間に「とんがり帽子」が紛れた込んでいた。上段の表紙絵、岩田専太郎の挿絵をもっと俗っぽくしたような、こんな絵が、人気があったのだろうか

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『全音流行歌集』(全音楽譜出版社 1950年5月 64頁 40円)表紙は高峰秀子。見開きで一曲、必ず上記のように挿絵が付く。30曲収録。挿絵の作者名はどこにもないが、上の「傑作集」の表紙絵とも共通する雰囲気がただよう

そして女性の化粧品はといえば、脈絡なく、浮かんでくる商品名、化粧水では、ヘチマコロン(近源商店⇒ヘチマコロン社)明色アストリンゼン(桃谷順天館)、クリームでは、明色クリンシンクリーム、クラブ(美身)クリーム(中山太陽堂⇒1971年クラブコスメチック)、ウテナバニシングクリーム(ウテナ)、マダムジュジュ(寿化学⇒1961年ジュジュ化粧品⇒2013年小林製薬)、キスミー(伊勢半⇒1965年キスミーコスメチックス⇒2005年伊勢半)の口紅などで、寿化学を除いては、いずれも歴史の古い化粧品メーカ―で、いわば大衆的な化粧品だったかもしれない。口紅は、「変色」といって、塗る前はオレンジ色なのに塗ると紅色に変色し、色落ちしにくいという実用性もあって、売れ筋だった。なお、子ども心の印象では、資生堂やパピリオは、どこかこだわりのある、やや高級品めいた雰囲気があった。コールドクリームと呼ばれるものがあったが、「栄養」が強調されたイメージで、やがて、脂分の少ないバニシングクリームが好まれたようだった。50年代になると、女性化粧品はますます多様化し、細分化していった。
 

父たちの店も改築を機会に、資生堂の特約店となって、少し様子が変わった。私が高校生のころだったか、贅沢なホネケーキという洗顔石鹸や四角い壜の真っ赤な化粧水オイデルミンなどが珍しかった。しかし特約店というかチェーン店になると、注文にはノルマが課せられ、高額な商品がセットで届けられ、返品なしであった。容器のフタがゴールドとシルバーで価格が異なり、差別化していたようだ。また、お客さんを花椿会の会員に入会させ、買い上げ額によって景品も異なった。売り上げが多いと、会社から美容部員がやってきて、一日近く張り付いて、宣伝・販売・実演などをしていた。わが店の成績は良くないので、たまにやってきた美容部員が暇そうにしていたのを覚えている。兄の奥さんは、子育てに忙しいこともあって、大学生の頃、資生堂の美容研修講座に参加したことも何度かあった。新商品の使い方、基礎的化粧品の説明、果ては、化粧のフルコースを実演で見せられ、実技まで課せられる。ふだんは、化粧をしない私だが、講習を受けた日は、バリバリのファンデーションの上にさまざまな商品をフルに使った厚化粧で帰宅したものだった。それでも、化粧っけなしで、資生堂コーナーでは、受け売りの商品説明をしたのだった。
 卒業後の職場では、朗読見合いの婦人部の催しで、「ちふれ」の出張販売の手伝いをしたこともある。私が使う化粧品と言えば、店のケースから失敬する化粧水、乳液、クリームくらいなものだったが。
 

 
 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(4)

  

 配給通帳と取引高税 

 

二つの配給通帳

  敗戦直後から食糧事情が劇的に改善されたわけではなく、私の手元に残っているいわば配給通帳なる「家庭用主要食糧購入通帳」(農林省発行)と「家庭用品購入通帳」(東京都発行)の数年分を見てみると、記入された数字などは乱数表にも見え、解読がむずかしいし、通帳についている引換券のようなもの意味も分からない。ただ、興味深かったのは、さまざまな広告が掲載されていることで、農林省も東京都も、印刷物や配給の諸経費を賄っていたのだろうと思う。広告からは、当時の暮しの一部が見えてくる。池袋駅付近は、まだ、白衣の傷痍軍人たちが募金箱を携え、何人も立っていたし、ガード内や駅構内には、浮浪者や浮浪児たちも多かった時期である。

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昭和23年(1948年)の「家庭用主要食糧購入通帳」農林省発行、西暦の表示がない。右肩に「砂糖通帳5枚交付済み」、左肩に「衣料切符5枚交付済」の判がおされている。下段は家族名簿となっていて、割当定量の瓦数が手書きされている

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表紙を開くとまるで乱数表にも思えるのだが、左の「世帯一日当たり配給割当量及び月別人員確認欄」には、6-10歳 1 320/16-25歳 2 810/26-60歳 2 770、とあり、我が家の家族と配給量が分かる。116-25歳2人というのは兄二人で、食べ盛りということで量が多い。この単位は瓦で、表紙の割当定量の人数分が記されている

 右の「配給明細表書」には、月日・品名・配給量実量・米換算・金額・配給済み月日・備考・印の欄がある。品名のところには、米・馬・甘・押などが並ぶ。馬は馬鈴薯、甘は甘薯、押は押し麦。サは砂糖、ミは味噌、正は醤油か。換算表の脇には、砂糖5、味噌醤油5枚交付済みとなっているので、この通帳で配給を受けていたのだろう。  価格を見ると、米5キロ133円と読めるのだが・・

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昭和23年「家庭用主要食糧購入手通帳」の裏表紙の上段の「代替え食糧の米換算表」
押し麦・丸大豆・小麦粉・脱脂大豆・高粱は、米と同量だが、食パン1斤(こっぺ3個)は米360瓦、馬鈴薯10瓩は2222瓦、甘薯10瓩は2857瓦などと細かい

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1949年の「家庭用品購入通帳」で、元号が小さく併記されている、東京都発行。左の引換券のようなものが、無秩序に切り抜かれ、虫食いのように白く写っている

石鹸のクーポン制
  配給で思い起こすのは、うちの店から石鹸を買ってくれるお客さんに登録してもらい、ある程度の登録者を確保しないと石鹸が売れない、という時期があったと思う。まだ調べ切れていないのだが、その登録者を確保するために、近くの知り合いや共同住宅の人たちを、母に連れられて、一軒一軒お願いして回わったことを断片的に思い出すのだ。なかには、学校の同級生の家もあったりして、どこか恥ずかしい思いをしたこともあった。 石鹸は、生活の必需品であったが、戦時中は配給も止まっていたらしい。19465月に3年ぶりに配給開始と、年表などには記されている。2年ほどは、年間一人45gのものが3個とかの程度だったらしく、標準価格10銭の石鹸が20円の闇値がついていた。GHQの指示で19494月石鹸配給規則により、小売りや卸売りの段階で「予約注文制(クーポン制)」が実施されることになり、上記のような予約注文のクーポン券を集めることが必至とされたのだろう。メーカーは、クーポン獲得実績により原料の量が決まるので、過剰な競争をもたらしたらしい。それも、19507月には、配給撤廃、同年12月には油脂製品価格統制が撤廃されている

(参考)
・宝子山嘉一:石鹸業界における流通の変遷12
「経営学紀要(亜細亜大学)」92号、101(2002)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825211702.pdf?id=ART0000946483
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825213018.pdf?id=ART0000946358

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花王石鹸のHPより。配給当時の石鹸たち、花王、ゲンブ、ADK(アデカ)の文字、ミツワのマークなどが見える

取引高税
「石鹸配給規則」は一年半ほどで廃止したのだが、この時期、子ども心にも記憶に残っているのが、印紙騒動だった。後でわかることなのだが、消費税の一種の「取引高税」がなせるところだったのだ。これは、1948年に導入されて一年で廃止された税制だったことになる。

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こんなポスターが作られていた! 国税庁のHPより

  我が家の店先での騒動というのは、お客さんごとの売り上げ額の1%にあたる印紙に消印を押して、お客に手渡せ、というものだった。レジスターというものなどなかったので、売り上げやつり銭は、カウンター下の仕切られた箱に金額の違いごとに納め、それとは別に、あらかじめ購入しておいた印紙も金額ごとに仕切って入れて置かれた。間違いなくお客さんに印紙を手渡すのはかなり煩雑なことのようだった。それに、ちゃんと印紙を渡しているかどうか、「脱税」していないかどうか、税務署員が客を装って、店頭に現れるというのである。いつ頃まわってきそうだとか、どの店には来たらしいとか、同業同士の情報交換などもしていたらしいことも、大人たちの話から伝わってくるのだった。厄介さに加えて、何かと緊張が重なるのがわかった。

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税務署員だけでなく、お客さんからの通報制度まであった? 国税庁のHPより

 

 消費税の一種で、この時の取引高税は39業種にわたり、主食・みそ・醤油・家賃・入浴料はのぞくとなっていたという。しかし店頭での煩雑さは、予想可能であったろうに、その完全実施の困難さもあったのだろう、一年で廃止になった。シャウプ勧告がなされたのは、翌年の1949年であった。

 現代の消費税もややこしいことになっているが、非課税や軽減税率の制度もないまま、10%まで引き上げたらどうなるのだろうか。そしてその使い道も問題である。それ以前に、所得税での総合課税や累進課税の実施、法人税の税率を高くする方が先なのではないか。現在のような高所得者、法人優遇税制では、景気が良くなるはずがない、とも思えるのだ。いったい、政府と日銀は何をやっているのだろう?!

 

 

 

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2018年8月25日 (土)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(3)

ヒロポンからハイミナールへ 

 「ヒロポンあるかい?」という常連の客をよく見かけたことを覚えている。オールバックの中年の男性で、マンドリンの演奏者だって、と聞いていた。お金周りがよく、お得意さんだったらしい。ヒロポン(大日本製薬)は疲労回復、眠気覚ましに効くとして、くすり屋でも普通に売られていた。これはあとから知ったのだが、特攻隊員が出撃の時にも服用していた覚せい剤の一種で、米軍でも使用されていたという。中枢神経を冒されて中毒になり、敗戦後の日本にかなりの中毒者が蔓延していたらしい。1951年の覚せい剤取締法で「劇薬」に指定されている。平たい箱にアンプルが交互に並んでいた包装でなかったか。また、同じころ、麻黄を原料とする「エフェドリン」が風邪薬や喘息薬として売られていたが、興奮剤としても使用されていたことは、父や兄たちから聞いていた。現在では、スポーツ選手のドーピング検査の対象であり、ダイエットの薬にもなっていて、20146月からは、一人ひと箱しか買えないことになっているという。 

 それにしても、風邪薬や催眠剤ブロバリン(日本新薬)、グレラン(グレラン製薬⇒あすか製薬)など、精神安定剤アトラキシン(第一製薬)などの市販薬が、口コミで合法ドラッグのように使用される時代がやってきたのだ。

 

 なお、強烈な印象として残っているのは、1950年代後半の「ハイミナール」(エーザイ)である。催眠剤として市販されていて、よく売れる薬の一つだったのだが、しばらくすると、若者たちの間で合法ドラッグとして流行しだしてしまったのだ。店では、青少年には売ることはしなかったようだが、一人サラリーマンらしい青年が、眠れないと言って、よく買いに来ていたのは知っていた。あまりに度重なるので、ほかの薬に変えた方がよいと言って売らなかったり、品切れと言ったりして断ると、しばらく姿を見せなくなった。ところが、私の通学路でもあった、池袋のガード近くの山手線のフェンスにしがみついて、ふらふらしている彼に出会って驚いた。朝から、あんな状態では、仕事もできないだろう。中毒症状というのか禁断症状というのか、目の当たりにして恐ろしかったのを覚えている。うちの店に来なくなってからは、他所のあちこちの店で、買いあさっていたのだろう。薬の恐ろしさ、くすり屋の責任みたいなものを感じたのだった。手軽なシンナーが若者の間で横行するのは、さらに、時代は下っての1960年代後半のことで、19728月「毒物及び劇物取締法」の改正で、使用、販売等が規制されることになる。

 

 なお、このシリーズ執筆中に、以下、二つのホームページを知った。北多摩薬剤師会によるホームページの「昔こんなくすりがありました」「今は昔 売薬歴史シリーズ」は、私の記憶を呼び覚ましてくれ、内藤記念くすり博物館では、「人と薬のあゆみ」が楽しませてくれる。

 

・おくすり博物館 

http://www.tpa-kitatama.jp/museum/index.html

 

・内藤記念くすり博物館 

http://www.eisai.co.jp/museum/index.html

・日本家庭薬協会・家庭薬ロングセラー物語
 http://www.hmaj.com/long-seller.html

 

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元号が変わるというけれど、73年の意味(4)<侍従日記>公開記事と1946年元旦詔書

 

このシリーズ記事の小休止として、思い出話に少々のめり込んでしまった。敗戦直後の池袋の小さな薬屋で育った子どもとして、なんとか記憶を呼び起こし、ネットの力も借りながら、記録にとどめておこうと思ったからだ。調べていくと、なかなか興味深い事実も知ることになり、なんだか楽しみが増えたような気持だった。 

ところが、823日の『東京』『毎日』新聞を見て、この時期に、「またか」と唖然とした思いに駆られたのである。というのは、「共同通信」が入手したという「小林忍侍従日記」の一部が公表されたのだった。共同通信が入手したということもあって、『東京新聞』が張り切っているのだが・・・。 

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2018年8月23日『東京新聞』
 
『東京新聞』
(823):一面トップ/「昭和天皇85歳、大戦苦悩」「長く生きても戦争責任いわれる」 

三面トップ「昭和天皇 戦争への思い、深く」「訪米後、世評に涙」 

二八面「昭和天皇 生身の姿赤裸々に」「沖縄訪問 終生望む」 

『東京新聞』(824日):三面「平成即位礼政府対応を批判」 

六面 共同通信社内での昭和史に詳しい二人の対談を、ほぼ全面に掲載 

半藤一利(作家)「宮中の日常 リアルに記録」 

保坂正康(ノンフィクション作家)「人前で涙 帝王学からの解放」

 『毎日新聞』(823日):一面「戦争責任言われつらい」「侍従日記 晩年の昭和天皇吐露」
 二八面「昭和天皇の苦悩克明に」「侍従日記『細く長く生きても』」保坂・半藤二人のコメント
 
 ちなみに『朝日新聞』夕刊(8月23日)一面「昭和天皇『戦争責任を言われる』の見出しで、古川隆久日大教授の「昭和史研究に貴重な資料」というコメントが付せられている。

 

 『東京』23日の一面の「解説(共同・三井潔)」は、「心奥触れる<昭和後半史>」という見出しで「昭和天皇の侍従だった日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩を克明につづられている」と、その意義を語っていて、多くの記事の論調は、ほぼこれに沿うものだった。 

私も、これらの新聞報道やコメントに接して思うのは、「何をいまさら」という思いでしかない。天皇の晩年の繰り言のようなつぶやきが記されていたと言って、驚くことなのだろうか。昭和天皇が、身近な人間に何を語ったとか、胸の内を明かしていたとか、こんな短歌を残していたとかの情報は、幾度となく読み、聞いてきた。しかし、私のつたない体験から、歴史として、その人について、まず、残されるべきは、そのとき、その時期の発言や行動、「何を語り」「何を書き」「何をしたか」だと思うようになった。後年、当事者が自ら語ったこと、身内や身近な人が語ったことなどは、どこまでが事実なのかについての検証が、重要な作業として付いて回るはずである。一般論として、私は、自伝や評伝、「実録」「日記」と称されるものは、参考にはするが、できる限り、その信ぴょう性を検証しなければと思っている。昭和天皇の場合にしても、30代後半から40代前半に、周辺の人物からの進言や密接な組織からの圧力によって、時には利用されているという認識のもとに、それが軍部であったり、GHQであったりしたこともあるのだろうが、自らの判断の結果としてされた行動が、史実として残るのではないか。密室での言動の検証はかなり難しいと言わねばならない。

 冒頭にあるように、いま自分のブログでの敗戦直後の思い出の裏付けをと思って、たまたま手元にあった『元旦号で見る朝日新聞8018791958』(朝日新聞社 1958年)を開いていたら、194611日の広告欄が目に入った。ほとんどが薬品や化粧品メーカーのもので、なつかしい商品名がずらりと並んでいるのに目を奪われた。しかし、この年の元旦には、天皇の「人間宣言」が掲載されていたのだが、活字がつぶれていて、慣れない漢文調で読みにくい。見出しだけは読むことができるだろう。「官報」から引用してみると、以下のようで「人間」「宣言」の文字はなく、太字の部分がこれにあたるが、冒頭には「五箇条ノ御誓文」が登場していたのである。さらに、昭和天皇自身がのちの記者会見で、この「詔書」の一番の目的は「五箇条ノ御誓文」を引用することで、「神格とかいうことは二の問題であって、民主主義は輸入のものではないこと」を強調するためだったと語っている(1977823日)。

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記事中に「人間宣言」の文字はない。この「詔書」の一部分を「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」との見出しで紹介。「現御神」は「あきつみかみ」と読む。「現人神(あらひとがみ)」ではなかった

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官報 号外 昭和二十一年一月一日

 詔書

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

(中略)

然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

(後略)

 御名 御璽

 昭和二十一年一月一日

(以下内閣総理大臣ほか大臣名)

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 1946年1月1日『朝日新聞』

そして、なんと、この同じ元旦の『朝日新聞』には、高松宮のインタビュー記事も掲載されていて、その見出し「御兄君天皇陛下―高松宮殿下のお話し」「曲がった事がお嫌い 御食慾にも響く御心勞」を見て、「?」となったのである。今回の「小林侍従日記」紹介の記事と見まがうようなトーンであったからだ。インタビューで高松宮は天皇が「曲がった事が嫌い、慈悲深い」という性格であること、趣味は「野草お手植え」であり、食糧問題については心配していることなどを語っている。「人間性」を強調することで「天皇制の維持を図ろう」とし、さらに、「天皇に近い皇族の肉声によって、これまで遠い存在であった天皇の姿が明確化されるという効果を有し」、「人間宣言」と同じ日に掲載されることによって「人間宣言」を補完する役目を担っていた、との指摘もある(河西秀哉「戦後皇族論―象徴天皇の補完者としての弟宮」『戦後史の中の象徴天皇制』 吉田書店 2013年)。高松宮のインタビュー記事では、天皇の「平和」への思いにも言及している。となると、今回の一連の「小林侍従日記」紹介記事が、横並びで「昭和天皇が自らの戦争責任について苦悩していた」ことを強調すること、メディアが一斉に、この代替わりが一年足らずに迫った、この時期に発信することの意味は大きいと言える。

「昭和天皇は、晩年まで戦争責任を気にかけて、悩んでいたのだ。平成も終わるこの時期に、もう問い続けるのをやめてはどうか」のメッセージのような気がしてならないのである。ということは、2015815日の「安倍談話」にも通ずることになりはしまいか、の思いがつのる。<19462018>この間、いったい何が変わった、と言えるのだろうか 

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2018年8月24日 (金)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(2)

ヨーチンかマーキロか、医者嫌い

 現在でも、テレビのコマーシャルに登場する、養命酒、救心、龍角散、太田胃散、エビオス、わかもと、正露丸、浅田飴、仁丹、メンソレータム、イチジク浣腸、・・・などは、ただひたすらなつかしいばかりだ。こうした売薬は、お客さんが名指しで買いにやってくることが多い。私は、店の棚での位置はすぐに覚え、カウンターに差し出すことができた。値段のシールを見て応対することもあったが、薬剤師の父や長兄の手があけば、応対は代わった。「キズ薬ください」といえば、「ヨーチンにしますか、赤チン(マーキロ)にしますか、ヨーチンの方が沁みて痛いですけど、良く効きます。それとも、色がつかないオキシフルにしますか」なんて、父の口移しで応えていた。お客さんは、小学生相手で、さぞ頼りなかったことだろうな。父が衛生兵だったころ、行軍での怪我は、ヨーチンが一番、後で化膿することが少ない」というのが持論だった。

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 1946年1月1日『朝日新聞』3面の広告欄で、薬と化粧品会社の広告がほとんどで、山ノ内製薬、藤沢薬品、森永、武田薬品、田辺製薬、塩野義、三共…の名がみえる。ナショナルとテイチクレコードくらいが、異業界である。なおこの日の新聞の一面は、天皇の「人間宣言」がなされていて「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」の見出しが見える

 目薬と言えば、大学目薬(参天堂製薬)かロート目薬(信天堂山田安民薬房⇒1949年ロート製薬)、スマイル(玉置製薬⇒1972年ライオン歯磨)というのもあったし、トラホームや結膜炎らしいといえば、たしか「オプト」?いう軟膏状の目薬もあった。私も、目が赤くなったり、「ものもらい」ができたりすると、母に教わりながら、ホウ酸を熱湯で溶かして、新しい割りばしを使って、脱脂綿で、悪い方の眼を湯気で蒸すようにした後で、少し冷めたら、ホウ酸水がしみている脱脂綿で拭い、軟膏状の目薬をつけた。しばらくの間、べたつく眼では何もできなかったことが何度かあった。小学校6年の夏のプールの時間に、結膜炎がうつったらしく、その時から、視力が急に落ちてきてびっくりしたことがある。

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細長い箱に入っていた目薬、上は「ロート目薬」の点眼器で、下のゴムの栓を開け、上部の丸いゴムのフタを押すと、一滴が落ちる仕組みだった

  風邪をひいたときは、父が調合してくれた粉薬を服み、それでも熱が下がらないときは、アスピリン、ダイヤジン?テラマイシンなどを服んでいたと思う。さらに、新薬のペニシリンは、病院に行かねばもらえない薬だったが、父たちは、しょっちゅう服用すると、肝心な時に薬は効かなくなり、人によってはショック死の危険もあるとかで、敬遠していた。ペニシリン軟膏などは気軽に売っていたのではないか。

 たいていの病気は、そんな風にして治してしまって、我が家では、商売柄、医者に行くということはほとんどなく、薬で解決していた。行くのは歯医者さんくらいだった。そんな悪い習慣が、母の病気の発見をおくらせてしまったのではないかと、今になって思う。それがトラウマになっているのか、私は、医者通いが嫌いではなく、すぐに、クリニックや病院に駆け込むことが多い。せめてと、せっせと保険料のモトを取っていることになるのかもしれない。(つづく)

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 1948年1月1日『朝日新聞』4面の広告欄。この広告の上には、「今年ぼくはこうする」と古橋広之進選手が抱負を語っている記事が写真入りで掲載されている

 

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2018年8月23日 (木)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(1)

重曹とサッカリンと
   

敗戦の翌年、疎開先で小学校に入り、夏には、父が奔走して、池袋の焼け跡に薬局を再建した。両親と兄2人、5人家族が一緒に暮らせることになった。当時は「バラック」と呼ばれ、ベニヤ板で囲った小屋のようなものだった。横長の3坪もない店と6畳一間と手洗い・台所だった。停電は、毎晩と言っていいほど続いた。「バラック」は、ヨーロッパ旅行で、訪ねたナチスによる収容所の宿舎や兵舎の意味もあることを知った。周りは、まだ焼け野原で、バラックがちらほらと建ちはじめ、通りを挟んで、2軒の土蔵だけが焼け残っているのを覚えている。

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  日付が分からないのだがバラックを建てて、まもなくで、長兄が、まだ明治薬専に通い、次兄が中学生だった1947年の冬頃か。右と中央が、店を背景に兄二人が直立不動で写っている。左は、長兄の薬専の同級生のIさん、その間に白衣の父が顔をのぞかせている。父は、マメにポスターまがいのものをよく描いた。左のガラスの格子には、「氷嚢」「絆創膏」の文字が見える。残念ながら店のカウンターなどにはさまざまな商品名が書かれているのだが、その文字が判読できない

  最寄りの池袋駅西口のヤミ市は駅前から立教通りの手前まで続き、豊島師範の塀にぶつかるまであったような気がする。次兄は、立教中学に通い、私は、母の意向で、豊島師範の付属小学校の編入試験を受けさせられた記憶があるが、結局、池袋第二小と近くにできた池五小学校に通った。我が家の隣は、キリスト教系の病院跡で、コンクリートのたたきやタイルの壁が一部残っていた。両親からは、ガラスの破片や体温計の水銀が残っているかも知れないからと、たたき以外のところでは遊ばないようにとも注意されていた。とはいっても、敷地の一角には、おそらく無断だったと思うが、さやえんどうやニンジンを育て、ジャガイモの種イモまで植えて、収穫を楽しみ、食糧不足を補っていたのではないか。

  薬局といっても、何を商っていたかというと、こども心に覚えているのは、重曹とサッカリンだった。重曹は、「ふくらまし粉」として、サッカリンは人工甘味料として、我が家でも使用していたが、父は主に、飲食店に自転車で納めて回っていたようだ。店では、重曹やサッカリンは小さな薬用袋に小分けしていたような気がする。「ズルチン」という人口甘味料もあったが、体に良くないと言われつつも、サッカリンよりも安価だったため、「あの店はズルチンを使っているらしい」などと父たちが話しているのを聞いたことがある。

  そして、つぎに思い出す薬は、「虫下し」。当時は、農作物の肥料は人糞が当たり前だったから、回虫の寄生率は高く、野菜などはよく洗って食べるようにしなきゃ、というのが母の口癖だった。小学校でも「検便」があって、回虫が居るかいないか、その結果にはいつもびくびくしていたが、「サントニン」(日本新薬)が、いわば特効薬だったらしく、よく売れていた。さらに、やや後発の「マクニン」という薬は、父がお客さんに「マクニンは海藻からできているので、穏やかに効くので体には良い」と勧めているのを聞いていた。蟯虫やサナダムシなどの寄生もマレではなかったらしいが、どんな薬があったのか、思い出せない。いまは、化学肥料の普及や衛生環境が整い、寄生率は1%にも満たないとのことだが、当時は80%を超える「国民病」であったとのこと。 

  つぎに、思い出すのが、薬ではない「みやこ染め」(桂屋)である。布地の染粉で、当時は染め直し、仕立て直しては、着まわし、衣類は大事なものだった。私はけっこう店番が好きで、小学校4年ころから、一人前?に応対することもあった。

 「みやこ染めありますか」というお客には「木綿ですか人絹ですか、絹ですか羊毛ですか」とまず尋ね、それぞれ用向きによって、別々の色見本を広げて見せて、「どの色にしますか」ということになる。この色見本というのは、見開きの台紙に色名とその下には染めた布や毛糸が、ほんのわずかずつ、張り付けられているのだ。その色見本を見ているだけでも楽しかった。聞いたことのない色の名前、その華やかさが好きだったのだろう。時間が経って色褪せてくると、新しいものが届き、その鮮やかさが、何となくうれしい気分にしてくれるのだった。そして、染め粉の媒染として、酢酸かお酢を媒染として使うのは、木綿やスフではなかったか、化学的にはどうだったのか、これまた記憶の彼方である。

 こんな形で、食や衣料にまでかかわっていたのが、当時のくすり屋であった。(つづく)

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ネット検索したら、こんな写真が出てきた。壜の高さが、もっと低いようにも思えたが、「国防色」とあるので戦時中のものだろう。私が見ていた色見本は、中央の「染色標本」だったのだろうか

 

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2018年8月21日 (火)

元号が変わるというけれど、73年の意味(3)皇室とマス・メデイアとソーシャル・メディアと

 201688日、午後3時、天皇のビデオ・メッセージが、一斉に各テレビ局から流された。その内容も大きな問題を抱えているが、どのテレビ局を回しても同じ画像と声が流れている事態に、驚いたのである。まさにメディア・ジャックではないかと。713日夜7時のNHKテレビ、ニュース7のスクープなのか、リークなのか、いまだ判然とはしないのだけれど、「天皇の生前退位の意向」が報じられ、ことは、ここから始まったことになる。

 

 天皇のビデオ・メッセージは、「平成の玉音放送」ともいわれたそうだが、これが初めてではなかったことを知った。2011316日、午後435分から6分弱のビデオによる「おことば」が、在京テレビのどの局も、それぞれ組んでいた特別報道番組の中で流していたという。不覚にも、私にはその記憶がない。316日当時は、地震の被害、津波の被害、原発事故による被害の全貌がまだわらず、その惨状、広がり、死者の増加が刻々と報道されるなか、その衝撃の大きさもあって、天皇のビデオ・メッセージは、聞いていたかもしれないが、記憶にない。その内容は、下記の資料で見ていただくとわかるが、「見舞いと励まし」の域を出ず、印象が薄く、埋没してしまったのかもしれない。しかし、このときは、テレビ東京を除き、すべての在京テレビ局が放映したという。

 

・東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(2011316日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html

 (参考のため) 

・象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 

 

  天皇のビデオ・メッセージが、このような形で、いわば非常時の「心構え」や天皇みずからの「個人的な意向」が国民に発せられるということは、憲法上、法律上可能なのだろうか。2011年の場合は、被災地や慰霊の旅、さまざまな行事での「おことば」の延長としての「公的行為」、実質的な効用を持たない「挨拶」のような役割しか果たさなかったと思うが、2016年の場合は、憲法第4条の内閣の助言と承認を必要とする「国事行為」の規定にも当てはまらないし、「摂政を拒む」という皇室典範を明らかに逸脱する意思表示でもあった。その「お気持ちがにじむメッセージ」は、通例の「おことば」でもない「記者会見」でもない方法で発信された。あのメッセージは、もちろん公文書となるわけだから、天皇一人で作成したとも考えられない。となると、宮内庁と官邸が関与して、違憲・違法行為をしていることになりはしないか。その不透明な点を厳しく指摘する論者は少ないが、以下はその一つだろう。
 

・「天皇ビデオメッセージ」15『アリの一言』(20168915) 

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/ffac8315cb4322d232b9dc869befa2a6

 

 私も、当時、手探りながら若干言及しているので、下記のブログをご覧いただきたい。
 
・天皇の「生前退位」の行方~「天皇制」の本質については語られない12 

『内野光子のブログ』(2016112930) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html

 内容的にも、疑義があるわけだが、その伝達方法が、ビデオ・メッセージによる全テレビ局一斉放映という形、いったい、どこの誰が決めたことなのだろうか。 あの11分の間、テレビ局が他の情報を排除し、一斉放映することになった過程を知りたいと思った。各局、その指示を受け入れる判断をしたのは誰だったのか、どのテレビ局も一斉に放映したということが、私には恐ろしく思えたのである。その過程が曖昧なまま、国民は、有無を言わせず、ビデオだけを視聴させられたことになる。

 

一斉放映後のマス・メディアは、少しの戸惑いを見せながらも、高齢化した天皇の任務の重さを理解した心情的な記事が溢れ、国民の多くも同調するという流れができ、世論調査などにもその傾向は色濃く反映された。

 

この一連の流れを見ていると、かつての旧憲法下には「勅令」という法形式があった。今回のメッセージは、個人的な「お気持ち」というソフトな表現が使われた。しかし、その内実は、丁寧で、やさしい言葉と映像につつまれた超法規的な言説ではなかったのか。しかも、その伝達力の速さと広さは、かつての官報や新聞、ラジオ放送などとは比較にならないほどのものとなった。さらに、いつでもどこでもインターネット上では繰り返し視聴できる。それに加えて、多くのマス・メディアは、記事や番組において、法律家や歴史家、さまざまな論者が入れ替わり立ち代わり、慣れない敬語をもって、解説やコメントをしていたことは、記憶に新しい。その一方で、政府や国会は、メッセージに応えるべく「静かな環境」でという建前で、立法の準備を進め、結果的に、論者や政治家による検証や議論をけん制した。

 

現憲法下での天皇の在り方について活発な議論がなされるべき、絶好のチャンスのはずだった。野党もマス・メディアも、有識者会議での論点の限りの整理のみにとどまり、あるべきアジェンダの設定を怠ったと言わねばならない。

ただ、玉石混交、フェイク情報が前提とされるインターネット情報や週刊誌情報ではありながら、私が、かすかに期待をするのは、節度を持った情報交換や意見交換が活発になることであり、皇室・天皇への国民の関心が高まり、そこから課題が生まれることである。(つづく)

 

 

 

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2018年8月16日 (木)

元号が変わるというけれど、73年の意味(2)象徴としての天皇の仕事とは

天皇という一人の人間の死去によって、あるいは退位の意思表示によって、元号、時代表示が変わるということが、この現代の日本で、当たり前のように受け入れられようとしている。これは、いったい何を意味するのだろうか。

 

201688日、天皇は、象徴としての任務を全うすることが難しくなったとして生前退位の意思を固め、象徴天皇としての役割をきちんと受け継いで欲しいという「お気持ち」を発信した。あの日の午後3時、どのテレビ局も一斉に、11分弱のビデオ・メッセージを流したのである。これを聴いたとき、天皇も、身体的に限界を感じて「仕事」を辞めたいということであれば、だれも止めることはできないだろうし、私も、個人の尊厳にもかかわる問題という認識で、当然のことと受け流していた。

 

 
  しかし、よくよく考えてみると、憲法上の国事行為は、限りなく形式的な行為であって、天皇自らの意思に基づいてなされる行為ではない。そのルーティンワークも、考えてみれば、精神的には過酷な任務であろうと思う。しかし、それに加えて、法律上は何ら規定のない「公的行為」、宮内庁のホームページには、「ご公務など」とあえて曖昧な表現をとる「仕事」として、前記事で述べたように列挙されている。これらの中には、明治天皇以来、昭和天皇以来という伝統的、慣例的な行事も多い。その上、平成期の天皇は、「象徴としての天皇の仕事」には、積極的に取り組んできた自負を、あのメッセージに滲ませていた。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁)

 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

 

たしかに、私たち国民の目に触れる天皇の言動は、純然たる国事行為や私的な活動に比べて、「象徴天皇としての仕事」が大部分ではなかったか。戦没者慰霊、国会開会式、被災地お見舞い、戦跡慰霊の旅、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会、園遊会、外国の要人接待などの国際親善の場での姿や「おことば」であった。国民に寄り添いたい、国民に理解してほしいという天皇個人の気持ちや天皇夫妻のパーソナリティが表出されるのかもしれないが、そこには、それらのイベントには、膨大な政府の力、自治体の力、市民の力が拠出されていること、過剰なほどの労力や時間、予算がかけられていることはぬぐいようもない事実である。そして、その見返りとしての政治的利用を否定するわけにはいかないだろう。というより、天皇の政治利用を目論む権力が登場しても不思議はない。私たちは、歴史からそれを学んだはずである。

 

 
  実は、時の政府・省庁の選択による褒章制度、息のかかった選考委員による様々な顕彰制度、園遊会への招待にいたるまで、政治家や官僚、研究者や文芸に携わる人たち、ジャーナリストやスポーツ選手・芸人・タレントにいたるまで、政府批判はしない、明確な物言いや主張は避ける、政治的な発言はしない・・・、まさに権力は「刃物」を持たずして、メディアや職場や地域で、あるいは、それぞれの分野の「業界」で、自粛や自己規制の雰囲気を作り出すことができてしまっている。失うものがない、一般市民が頑張るしかないではないか。

 

これまで、私は、短歌という狭い世界から、皇室と現代歌人たちとの関係を「<選者>になりたい歌人たち」「祝歌を寄せたい歌人たち」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)、「勲章が欲しい歌人たち」「芸術選奨はどのように選ばれたのか」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年)などにおいて、検証してきたつもりである。天皇の代替わりを前に、元号が変わる前後に、現代歌人たちは、どんな短歌を詠み、何を語るのか、短歌メディアは、何を発信するのかを見届けたい。

 

 

 

 

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元号が変わるというけれど、73年の意味(1)全国戦没者追悼式と天皇

  きのう、815日、日本武道館において「全国戦没者追悼式」が行われた。安倍首相の式辞、天皇の「おことば」の中では「平成最後の」という表現は登場しなかったが、中継やニュースのテロップでは「平成最後の」を冠するものがほとんどだった。

 

たしかに、現憲法上、「象徴」とされる天皇の在位が、昭和天皇は死去により終り、平成の天皇は、自らの意思表示に端を発し、生前退位の特例法で、来年、平成30年余で終わることになる。 

 

今年に入って、天皇として、皇后として、あるいは夫妻としての“最後の仕事”は続き、そのたびに、メディアによって回顧され、語られる機会も多くなり、「平成最後の」を冠した新聞記事や番組が氾濫するようになった。 



  追悼式の中継を見ていて感じたいくつかの中で、気になったのは、まず、参列者の高齢化を言うならば、安倍首相はじめ、衆参議長、最高裁判所長官、三権の長の挨拶が長かったことと、いずれも「天皇のご臨席を賜り」といった言葉で始まったことであり、天皇夫妻のみが祭壇と同じ壇上に座し、その他の参列者は客席である。見慣れた光景ではあるが、よく考えると、追悼式にしてはおかしくないだろうかと。 

 そもそも、この戦没者追悼式は、1952年、独立後直後、政府主催の式典として開催されたが、開催日は年々異なり、815日に定着したのは、1963年、10年も経ってからだった。そして日本武道館が会場になったのも、開館翌年の1965年からで、その前は、新宿御苑や日比谷公会堂、靖国神社であったこともある。天皇の参列は、もちろん憲法上の国事行為ではないし、法律上の規定に基づくものではない。宮内庁のホームページでは、「ご公務など」の項目に、「宮中のご公務など」「行幸啓など(国内のお出まし)」「国際親善」の三つをあげて、戦没者慰霊は、国会開会式、被災地お見舞い、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会などと並んだ「行幸啓など(国内のお出まし)」の一つという位置づけである。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/gokomu.html

 

また、同じく宮内庁ホームページの「皇室のご活動」の中に、「天皇皇后両陛下のご活動」として、国事行為などのご公務、 行幸啓、 外国ご訪問、 ご即位10年関連行事、 ご即位20年関連行事、 伝統文化の継承、 宮中祭祀、 御所でのご生活、の項目が挙げられ、「行幸啓」の中の「両陛下の東京都内でのお出ましは,毎年のものだけでも,全国戦没者追悼式,日本学士院授賞式,日本芸術院授賞式,日本国際賞授賞式,国際生物学賞授賞式などがあります」と説明されている。 

http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/activity01.html

 

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1952年 5月2日、新宿御苑にて



 全国戦没者追悼式は、当初、
195248日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」によれば、「(同年428日の)平和条約の発効による独立(主権回復)に際し、国をあげて戦没者を追悼するため」に実施するとされた。 1982413日の閣議決定「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』について」によれば「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』を設け」て、その期日を815日とする、とされている。

 

そういえば、毎年、気にも留めていなかったのだが、きょうの天皇の「おことば」の冒頭でも「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」とあり、閣議決定の通り「平和を祈念する日」の文言がきちんと入っていたのである。首相の式辞では、この文言が語られたことはない。

 

これまでも、首相の式辞と天皇の「おことば」を比較した記事や論評はよく目にした。私自身も2015年に試みたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』 677号 20151112月号)。首相と天皇の言説を比較し、歴史認識の相違などを検証してみた。首相にはない、天皇の「さきの戦争への深い反省」や「平和への国民の努力」などに言及し、天皇を称賛する人々も多い。しかし、そんなことを繰り返してみても、いったい何が変わったのだろうかと思うと、あまり生産的ではない論議に思える。

 

 武道館での追悼式が、仰々しく、お金もかかりそうな祭壇、遺族の代表者選び、招待などにかかる諸費用・労力を思い、最早、形骸化してしまっているのを見るにつけ、もっと素朴な形での追悼ができないものかと思ってしまう。そして、それよりも、政府として、遺骨収集、空襲犠牲者への補償、原爆症認定、慰安婦への謝罪・補償、沖縄の基地問題など、いまだに戦後処理が放置されたたり、解決を見ないまま、日米安全保障強化、防衛費増強、憲法9条改正などを進めているのだから、「追悼」の意思は、微塵も感じられない。いや、そのうち、未来志向とやらで、追悼式自体が無くなる日が来るかもしれない、そんな思いすらしたのだった。

 

 

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2018年8月11日 (土)

ある一首をめぐって~パネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」

前記事の『現代短歌』8月号採録の那覇市で開催されたパネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)において、パネリスト、当日の会場の参加者の間で、話題になった作品につぎの一首があった。

・次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄

(佐藤モニカ『夏の領域』(2017年)

平敷武蕉:「沖縄の痛みのある現実を内面的に受け止めていて、感心した歌ですが、不満もあります」、「沖縄が強いられてきた歴史的現実」をあげて「これらをいじめの場面でたとえるのは認識として軽すぎるんじゃないか」



吉川宏志:「とてもいいな、と共感して読んだ歌なのですが、クラスのいじめにたとえるのは軽すぎるのではないか、という批判もよくわかるんです。ただ、読者に負荷をかけないで平明な歌い方によって、若い世代や県外の人たちにも広がっていく面もあります」


屋良健一郎:「歌の展開の上では、鞄を持たされている生徒がいて、そこからふいに『沖縄』が出てくることで世界が沖縄に広がったといいますか、歌の場が沖縄だとわかるわけですよ」

名嘉真恵美子:「たぶん、方法の問題なんですかね。外から見た感じで…外から見たという言い方もおかしいんだけど作者は外にいますよね。ちがいます?それでは沖縄は詠えないんじゃないかと・・・」

 会場からは、「遊びの延長で鞄を持たせている、そういう場面に作者は沖縄を見た」、「沖縄の現実を詠っているのではない。沖縄の現実を詠えば、もっと別の詠い方になる」、「沖縄を詠んだ歌として読んで、胸が痛くなった。本人がこの鞄を投げ出す以外に突破口はないと感じた。<沖縄>の結句の重さを考えると別の読み方をするには無理がある」・・・

ちなみに、この一首の作者は、沖縄出身の夫と結婚して、沖縄に暮らして数年になるということだ。

 

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2018年8月 9日 (木)

「分断を越えて」とは―そこに生れる「分断」はないか~ある短歌雑誌の特集に寄せて

地域での市民活動や住民運動に目を向けてみると、目指すところが一致しながらも、ちょっとでも異論を唱える、うるさそうな?グループや人間には声をかけないということもある。「共闘」というとき、「排除」の論理も働いていることを忘れてはならないだろう。さらに、最近は「分断をこえて」などとの掛け声も聞こえ、小異を捨てて大同につけ、ということも言われ、一見、度量の広さやなごやかさが強調される。けれども、少し立ち止まって考えてみたい。

組織の大小にかかわらず、異論を無視したり、少数意見に耳を傾けようとしなかったりすることが続くと、言いたいこともひっこめてしまう自主規制が当たり前になってしまわないかの不安がよぎる。無視されたり、口封じをされたり、「される側」の人間の立場にならないと気付かないことは多い。疑問や自由な議論を経ないままの決まりごとや活動は、長続きも、広がりにも限界があり、やがて、その活動はしぼんでしまい、いつの間にか、権力や武力を持つ体制側に与せざるを得なくなっていくのではないか・・・と。ボランティアで支えられている住民自治会などで「ボランティアなんだから、手を抜いたりしたって文句を言われる筋合いはない」みたいな風潮もめずらしくない。多数側が、反対勢力の「分断」をはかるのは、常套手段でもある。

折しも、短歌という世界においても、考えさせられる一件があった。那覇市で、パネルディスカッション「分断をどうえるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)が開かれたという。その記録の一部が『現代短歌』8月号<沖縄のうた>特集に掲載されていた。基調講演は、吉川宏志「沖縄の短歌 その可能性」、パネリストは、名嘉真恵美子、平敷武蕉、屋良健一郎、司会は、吉川の四氏が登壇している。俳人でもあり幅広く文芸評論も手掛ける平敷以外は、みな歌人である。

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8月号には、ディスカッションの記録とパネリストが提出した「沖縄のうた十首」と参加者7人の「印象記」が掲載されているが、講演録と当日会場で配布された資料の掲載はない。ほかに吉川「六月十八日、辺野古」と平敷「危機の時代・文学の現在」などの文章は掲載されていた。

討論の中で、私が着目したのは、名嘉真は発言の冒頭に「沖縄の短歌における分断とは何というのがわからなかったので・・・」と『現代短歌』の編集・発行人に尋ねたとある。そして「沖縄の短歌の世界で分断はないというのが私の実感です」と明言していたことだ。「編集後記」では、特集の趣旨を「基地を容認するか反対するか。生活者としておのおの立場を異にするにしても、僕らの生命線である表現の自由を固守するには、立場を異にする者の歌をこそ受け容れねばなるまい。受け容れた上で批評する。・・・」と、しごく当然のことが述べられているが、ここには、越えるべき「分断」が何なのか見出しにくい。

現に、この特集のために寄せられた文章にも、執筆者が「分断」について、直接言及している部分は見当たらなかった。ただ、討論での平敷発言は「分断というとき、日本人あるいは本土人が沖縄人に比して当事者性を持たない、傍観しているということに加えて、沖縄人どうしのなかにも基地に賛成の人と反対の人がいる。誰がそうさせたかというと、時の権力者です。・・・」で始まり、その認識には共感を覚えるのだった。当日の資料ではない『南瞑』からの転載という「危機の時代・文学の現在」において、平敷は、全国の自治体やさまざまなメディアにも蔓延しつつある「自主規制・自粛」が、沖縄の短歌の世界にもあったことについて言及し、その危機を警告していた。また、参加者の久場勝治は「『分断』を越えることは『表現の自粛』に繋がらないか?」と題して、「本土と沖縄に分断があるとすれば、それは短歌を超えた問題で、沖縄の状況や歴史的文化的経緯に由来するものであろう。分断が越えがたいのは、それを生み出した沖縄社会の問題解決や日本における沖縄の役割再検討(今後も基地の島か)を必要とするからだと考える。」で始まり、「分断を越えることが『個性を薄めた全国規格への併合』でなければ良いのだが。」と結ぶ「印象記」を寄せていた。 


なお、『現代短歌』は、20183月号においても<分断はえられるか>という特集が組まれ、福島市で開催されたパネルディスカッション「分断をどうえるか~福島と短歌」(2018121日)が採録されている。このときの司会の太田美和が「分断と文学の可能性」、佐藤通雅が「リセットということ」、屋良健一郎が「分断をもたらすもの~沖縄の現在」を寄せている。この特集では、「越」と「超」が混在していて、特別意味がないのならば統一すべきではなかったか。仙台在住の佐藤の文章では、311体験から感得した二つの原点として、「生者と死者の境界の消滅」したこと、「つい先日まで人間の歴史と言われたもの、文化・倫理といわれたもの、それらすべてが一瞬にして解体され、リセット状態になった」ことを挙げていたが、「分断」の語やその認識は読み取れなかった。「編集後記」では、「佐藤通雅氏に『東北を分断するもの』をテーマに寄稿いただいた。津波に呑み込まれたあの地点に立ち戻れば、分断をリセットできる、とはなんとむごたらしく美しい認識だろう。僕はそう読んだがあなたはどう読むか」とあったが、やや、強引のような気もしたのだが。

ことさらに、「分断を越えて」ということを強調することは、あらたな「分断」や「自粛」を促しはしないか、の不安は去らない。

 

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「共闘」という幻想、から抜け出すために

これほどのマイナス要因がつぎつぎと暴かれる安倍政権、その弱者軽視政策、まるでアメリカ・ファーストであるかのような外交・防衛政策にあきれながらも、内閣支持率が劇的に下がることはない。この政府の犯罪的な行為やスキャンダルも、メディアは、たんなるスキャンダルとして、面白おかしく騒ぎたてるが、あくまでも一過性で、深く調査報道を試みることもなく、忘れ去ってしまったかのように、次のスキャンダルへと乗り換える。また、NHKのように、政治スキャンダルはそそくさと、国会報道は、与野党の争点を深めるのではなく常に<攻防>としかとらえず、災害やスポーツの専門チャンネルかと思うほどの時間を割いて、「政府広報」に徹するメディアもある。そして、政府は、不都合が生じれば、「大騒ぎすることもない」と、ひたすら嵐の過ぎるのを待って、いつまでも安泰なのである。もちろん、こうした政府にも無関心だったり、いや、このままの政権維持でもかまわないで、と深く考えなかったりする国民も、合わせれば三分の2くらいになることも確かなのだ。

 

では、この一強に抗議する市民たちは、「アベ政治を許さない」「9条を守れ」「原発再稼働反対」などと、いつも仲間内では盛り上がるが、その輪を広げることができない。後退する運動を「継続は力なり」とみずからを慰める。近年は、多弱の「共闘」が叫ばれ、その内実は、政党や会派間の攻防・調整に精力が注がれ、なかなか実を結ばない。というのも、みずからの政党・会派の議員当選、一票でも支持票をのばすことが目標になってしまうからだろう。特定の複数政党、政党色が濃いいくつかの「市民団体」などが主導する集会に参加してみると、「共闘」を目指す議員たちが入れ替わり、連帯の挨拶や報告はするけれども、自分の番が終わると、集会の成り行きを見守るわけでもなく、参加者の声に耳を傾けることもなく会場を後にする場合が多い。大きな集会だと壇上から各党代表がつないだ手を振り上げ、その後のデモ行進の先頭には立つが、いつの間にか姿を消していたりする。

私は、特定の政党に属したり、後援会というものにも入ったりしたことがない。詳細は分からないのだが、共闘を目指した集会などに参加して思うのは、参加した市民の熱気に反して、招かれて講演をしたり、スピーチをしたりする著名な「文化人」「学者」「ジャーナリスト」たちが、どうして、こうもいつも同じような顔ぶれで、同じような内容の話になるのだろう、ということなのだ。さまざまな市民団体が、競うように、そうした「著名人」を招いて、人集めに腐心しているかのような印象を受ける。現に、新しい情報も提案もなく、新聞・テレビ情報を繰り返し、アジテーションに終わることが多く、「またか」の徒労感がつきまとう。あるいは、かつて保守政党の「重鎮」が安倍政権批判をしたり、かつて憲法改正論を主張していた学者が、改憲批判をしたりしたからと言って、過去の言動との整合性が問われないままに、すぐに飛びついて講演依頼をしたり、執筆させたりして重用する。それだけならまだしも、少しでも、疑問を呈したり、批判したりする人物に反論するわけではなく、無視したり、排除したりすることが当たり前になっている。

それに、首長選挙で、共闘のもとに立てた統一候補者や当選者のスキャンダルが浮上したり、公約を守らなくなったりしたとき、共闘を組んだ政党や組織の対応が、あまりにも無責任なのも、納得できないことの一つなのだ。たとえば、まだ記憶に新しい、都知事選での鳥越候補、米山前新潟県知事、三反田鹿児島県知事などなど・・・。統一候補選択にあたって、知名度や人気が優先され、政治的信条の確認などがおろそかになっていたのではないか、など裏切られた思いがする。

「共闘」の成果が上がらないのは、既成の党や会派の方針からすこしでも外れると、そうした意見や活動を無視したり、排除したりするからではないか、との思いにもいたる。市民の一人一人の思いが、塊になって動き出し、政党を動かすというのが、市民運動の本来の姿にも思えるからである。 

私がつねづね思うのは、そもそも、主体的な疑問や怒りがあってこそ、なんとかしなくてはという思いにかられ、抗議や抵抗の形が決まってくるのではないかと。「なんか少しおかしくない?」という素朴な疑問が「ことの始まり」になるのが、私の場合だ。たしかに、活字や映像の情報がきっかけになることもある。後で、自分で、少し丹念に、新聞を読んでみたり、ネットで調べてみたりしていると、さらに、知りたくなるし、疑問も増えたりする。自分取り込んだ情報や知識、そして機会があって、たとえば、市民運動の現場に足を運び、当事者との交流で得た体験は、身に刻まれる。自分からも発信したくなるし、行動の起点にもなることが多い。 

著名人を追いかけたり、ひたすら署名活動に奔走したりする人たちには、どうしてもついていけない自分がいる。せめて、野次馬根性を失わず、体力だけは維持して、ということだろうか。

 

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2018年8月 7日 (火)

オリンピックと天皇代替わり批判はタブーなのか

 

この夏は、図書館通いとパソコンに向かう時間が多かった。新聞をじっくり読めず、いつも見ているテレビのニュースも見逃すこともたびたびだった。スポーツ界――相撲、アメフト、レスリング、ボクシング・・・選手たちを抱える各競技団体、大学スポーツなどの旧態然とした一強体制には、あらためておどろくとともに、その体制が選手たちをいかに苦しめてきたかも知ることができた。今更ながら、さまざまな報道がされるたびに、安倍一強体制のいまの政治と同じ構図だなと、つくづく思う。メデイアも、いまでこそ勢いに乗って、スポーツ界のスキャンダルを連日報道するけれども、今までは、いったい何をやっていたの、とも言いたくなる。それに、「情報番組」の大半は、このスポーツネタと、いまは災害報道に終始する。災害報道にしても、災害救助、身内を失った人々の悲痛、避難遅れや地域の助け合いやボランテイア活動には言及するが、肝心の災害の要因や災害対策に割かれる情報は極端に少ない。政治ネタを扱うとなれば、政治家や官僚の放言・失言やスキャンダルと自民党総裁選の攻防とやらに焦点があてられる。それに、直近の国会で強行採決に近い形で成立してしまった働き方改革やIR法など、さらに中国・ロシア・韓国・北朝鮮とアメリカとの間で右往左往するだけの「外交」、沖縄の新基地建設、オスプレイ、イージス・アショア導入などを決めた防衛予算に見るアメリカ・ファーストの実態などは、もはや素通りに近い。そして、来年の天皇代替わり、二年後に迫ったオリンピック関連の報道が過熱の一途をたどっている。

 

そもそも、現天皇が、「象徴天皇制」の存続のために、生前の代替わりという方法で「強制終了」に踏み切ったことを受けて、「特例」づくめの半端な形で、乗り切ろうとした政府に、国会では、全政党・会派、「リベラルな」政党も、異議を唱えなかった。そして、すでに、なにやら「恩赦」による特典にだけには浴したいという露骨な動きさえもあるという。

 

東京オリンピック開催にも、政府・議会あげて、盛り上げに懸命なのである。IOCにおける東京招致、関連施設建設、建設費高騰、暑さ対策、聖火のコース、選手強化補助金、広報費用・演出、治安対策・・・。当然のことながら「想定内」の問題であって、いずれも大きな疑問符がつけられ、これらにまつわる不祥事やスキャンダルは後を絶たないだろう。不祥事まみれの「オリンピック」で得をするのは誰なのだろう。

 

直接は聴いたわけではないが、久米宏のラジオ番組でのオリンピック批判に、少し勇気づけられて。

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2018年8月 1日 (水)

スポーツ界のこの無様な姿は何だ!

 連日の災害・猛暑報道に続いて、スポーツ界のスキャンダルが後を絶たない。

 スポーツとは、もともと縁がない私は、プロのスポーツというのが、理解できない。そして、いまのような、国を背負って、勝敗を賭けるオリンピック競技というものにも、そもそも関心がない。それどころか、むしろ、害悪だと思っている。IOCのスキャンダルは、後を絶たないし、2年後の東京オリンピック・パラオリンピックを控えて、JOCの怪しげな動向にも、みな口をつぐみ始めている。

近頃、明るみに出ている日本のスポーツ界のスキャンダルを見るにつけ、何十年間にも及ぶ、しがらみ、悪弊、いや犯罪すらをも、黙認してきた監督官庁やスポーツ団体、それに、スポーツ報道の関係者は、いったい何をやっていたのかと不思議なのだ。今頃になって、どんなコメントをされようと、これまでの勝敗至上報道、情報源としての団体や関係者、選手とのパイプばかりが大事にされ、おそらく、知り得た不祥事情報も不問に付して来たにちがいない、と思われるのだ。ベテランのスポーツジャーナリスト、スポーツ評論家という存在も、あてには出来ない。多くのスポーツ団体も、たたけば何か出るところが多く、限りなく怪しい。アマ・プロを問わず、強いチームの陰には、何かありそうなのだ、というのが素人の直観でもある。

そして、さまざまな誘惑に負けるのも選手であり、そこから、立ち上がるのも、事情を一番よく知った選手たちなのである。メディアが垂れ流す、選手やチームの根性物語やファミリー・ヒストリーは、もうたくさんだ。老若男女を問わず、健康のために、勝敗を楽しみながら、本来のスポーツに興じることができる日を待ちたい。

それには、いまのような国単位で勝敗を競うオリンピックは不要でしかない。少なくとも、引き受ける国や都市が無くなり、4年毎も難しくなるかもしれない。各競技の国際大会があれば、十分ではないか。それとて、健全な運営は、複雑な国際情勢を背景に、むずかしい局面があるにちがいない。

 

 

 

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