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2018年8月11日 (土)

ある一首をめぐって~パネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」

前記事の『現代短歌』8月号採録の那覇市で開催されたパネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)において、パネリスト、当日の会場の参加者の間で、話題になった作品につぎの一首があった。

・次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄

(佐藤モニカ『夏の領域』(2017年)

平敷武蕉:「沖縄の痛みのある現実を内面的に受け止めていて、感心した歌ですが、不満もあります」、「沖縄が強いられてきた歴史的現実」をあげて「これらをいじめの場面でたとえるのは認識として軽すぎるんじゃないか」



吉川宏志:「とてもいいな、と共感して読んだ歌なのですが、クラスのいじめにたとえるのは軽すぎるのではないか、という批判もよくわかるんです。ただ、読者に負荷をかけないで平明な歌い方によって、若い世代や県外の人たちにも広がっていく面もあります」


屋良健一郎:「歌の展開の上では、鞄を持たされている生徒がいて、そこからふいに『沖縄』が出てくることで世界が沖縄に広がったといいますか、歌の場が沖縄だとわかるわけですよ」

名嘉真恵美子:「たぶん、方法の問題なんですかね。外から見た感じで…外から見たという言い方もおかしいんだけど作者は外にいますよね。ちがいます?それでは沖縄は詠えないんじゃないかと・・・」

 会場からは、「遊びの延長で鞄を持たせている、そういう場面に作者は沖縄を見た」、「沖縄の現実を詠っているのではない。沖縄の現実を詠えば、もっと別の詠い方になる」、「沖縄を詠んだ歌として読んで、胸が痛くなった。本人がこの鞄を投げ出す以外に突破口はないと感じた。<沖縄>の結句の重さを考えると別の読み方をするには無理がある」・・・

ちなみに、この一首の作者は、沖縄出身の夫と結婚して、沖縄に暮らして数年になるということだ。

 

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2018年8月 9日 (木)

「分断を越えて」とは―そこに生れる「分断」はないか~ある短歌雑誌の特集に寄せて

地域での市民活動や住民運動に目を向けてみると、目指すところが一致しながらも、ちょっとでも異論を唱える、うるさそうな?グループや人間には声をかけないということもある。「共闘」というとき、「排除」の論理も働いていることを忘れてはならないだろう。さらに、最近は「分断をこえて」などとの掛け声も聞こえ、小異を捨てて大同につけ、ということも言われ、一見、度量の広さやなごやかさが強調される。けれども、少し立ち止まって考えてみたい。

組織の大小にかかわらず、異論を無視したり、少数意見に耳を傾けようとしなかったりすることが続くと、言いたいこともひっこめてしまう自主規制が当たり前になってしまわないかの不安がよぎる。無視されたり、口封じをされたり、「される側」の人間の立場にならないと気付かないことは多い。疑問や自由な議論を経ないままの決まりごとや活動は、長続きも、広がりにも限界があり、やがて、その活動はしぼんでしまい、いつの間にか、権力や武力を持つ体制側に与せざるを得なくなっていくのではないか・・・と。ボランティアで支えられている住民自治会などで「ボランティアなんだから、手を抜いたりしたって文句を言われる筋合いはない」みたいな風潮もめずらしくない。多数側が、反対勢力の「分断」をはかるのは、常套手段でもある。

折しも、短歌という世界においても、考えさせられる一件があった。那覇市で、パネルディスカッション「分断をどうえるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)が開かれたという。その記録の一部が『現代短歌』8月号<沖縄のうた>特集に掲載されていた。基調講演は、吉川宏志「沖縄の短歌 その可能性」、パネリストは、名嘉真恵美子、平敷武蕉、屋良健一郎、司会は、吉川の四氏が登壇している。俳人でもあり幅広く文芸評論も手掛ける平敷以外は、みな歌人である。

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8月号には、ディスカッションの記録とパネリストが提出した「沖縄のうた十首」と参加者7人の「印象記」が掲載されているが、講演録と当日会場で配布された資料の掲載はない。ほかに吉川「六月十八日、辺野古」と平敷「危機の時代・文学の現在」などの文章は掲載されていた。

討論の中で、私が着目したのは、名嘉真は発言の冒頭に「沖縄の短歌における分断とは何というのがわからなかったので・・・」と『現代短歌』の編集・発行人に尋ねたとある。そして「沖縄の短歌の世界で分断はないというのが私の実感です」と明言していたことだ。「編集後記」では、特集の趣旨を「基地を容認するか反対するか。生活者としておのおの立場を異にするにしても、僕らの生命線である表現の自由を固守するには、立場を異にする者の歌をこそ受け容れねばなるまい。受け容れた上で批評する。・・・」と、しごく当然のことが述べられているが、ここには、越えるべき「分断」が何なのか見出しにくい。

現に、この特集のために寄せられた文章にも、執筆者が「分断」について、直接言及している部分は見当たらなかった。ただ、討論での平敷発言は「分断というとき、日本人あるいは本土人が沖縄人に比して当事者性を持たない、傍観しているということに加えて、沖縄人どうしのなかにも基地に賛成の人と反対の人がいる。誰がそうさせたかというと、時の権力者です。・・・」で始まり、その認識には共感を覚えるのだった。当日の資料ではない『南瞑』からの転載という「危機の時代・文学の現在」において、平敷は、全国の自治体やさまざまなメディアにも蔓延しつつある「自主規制・自粛」が、沖縄の短歌の世界にもあったことについて言及し、その危機を警告していた。また、参加者の久場勝治は「『分断』を越えることは『表現の自粛』に繋がらないか?」と題して、「本土と沖縄に分断があるとすれば、それは短歌を超えた問題で、沖縄の状況や歴史的文化的経緯に由来するものであろう。分断が越えがたいのは、それを生み出した沖縄社会の問題解決や日本における沖縄の役割再検討(今後も基地の島か)を必要とするからだと考える。」で始まり、「分断を越えることが『個性を薄めた全国規格への併合』でなければ良いのだが。」と結ぶ「印象記」を寄せていた。 


なお、『現代短歌』は、20183月号においても<分断はえられるか>という特集が組まれ、福島市で開催されたパネルディスカッション「分断をどうえるか~福島と短歌」(2018121日)が採録されている。このときの司会の太田美和が「分断と文学の可能性」、佐藤通雅が「リセットということ」、屋良健一郎が「分断をもたらすもの~沖縄の現在」を寄せている。この特集では、「越」と「超」が混在していて、特別意味がないのならば統一すべきではなかったか。仙台在住の佐藤の文章では、311体験から感得した二つの原点として、「生者と死者の境界の消滅」したこと、「つい先日まで人間の歴史と言われたもの、文化・倫理といわれたもの、それらすべてが一瞬にして解体され、リセット状態になった」ことを挙げていたが、「分断」の語やその認識は読み取れなかった。「編集後記」では、「佐藤通雅氏に『東北を分断するもの』をテーマに寄稿いただいた。津波に呑み込まれたあの地点に立ち戻れば、分断をリセットできる、とはなんとむごたらしく美しい認識だろう。僕はそう読んだがあなたはどう読むか」とあったが、やや、強引のような気もしたのだが。

ことさらに、「分断を越えて」ということを強調することは、あらたな「分断」や「自粛」を促しはしないか、の不安は去らない。

 

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「共闘」という幻想、から抜け出すために

これほどのマイナス要因がつぎつぎと暴かれる安倍政権、その弱者軽視政策、まるでアメリカ・ファーストであるかのような外交・防衛政策にあきれながらも、内閣支持率が劇的に下がることはない。この政府の犯罪的な行為やスキャンダルも、メディアは、たんなるスキャンダルとして、面白おかしく騒ぎたてるが、あくまでも一過性で、深く調査報道を試みることもなく、忘れ去ってしまったかのように、次のスキャンダルへと乗り換える。また、NHKのように、政治スキャンダルはそそくさと、国会報道は、与野党の争点を深めるのではなく常に<攻防>としかとらえず、災害やスポーツの専門チャンネルかと思うほどの時間を割いて、「政府広報」に徹するメディアもある。そして、政府は、不都合が生じれば、「大騒ぎすることもない」と、ひたすら嵐の過ぎるのを待って、いつまでも安泰なのである。もちろん、こうした政府にも無関心だったり、いや、このままの政権維持でもかまわないで、と深く考えなかったりする国民も、合わせれば三分の2くらいになることも確かなのだ。

 

では、この一強に抗議する市民たちは、「アベ政治を許さない」「9条を守れ」「原発再稼働反対」などと、いつも仲間内では盛り上がるが、その輪を広げることができない。後退する運動を「継続は力なり」とみずからを慰める。近年は、多弱の「共闘」が叫ばれ、その内実は、政党や会派間の攻防・調整に精力が注がれ、なかなか実を結ばない。というのも、みずからの政党・会派の議員当選、一票でも支持票をのばすことが目標になってしまうからだろう。特定の複数政党、政党色が濃いいくつかの「市民団体」などが主導する集会に参加してみると、「共闘」を目指す議員たちが入れ替わり、連帯の挨拶や報告はするけれども、自分の番が終わると、集会の成り行きを見守るわけでもなく、参加者の声に耳を傾けることもなく会場を後にする場合が多い。大きな集会だと壇上から各党代表がつないだ手を振り上げ、その後のデモ行進の先頭には立つが、いつの間にか姿を消していたりする。

私は、特定の政党に属したり、後援会というものにも入ったりしたことがないので、詳細は分からないのだが、共闘を目指した集会などに参加して思うのは、参加した市民の熱気に反して、招かれて講演をしたり、スピーチをしたりする著名な「文化人」「学者」「ジャーナリスト」たちが、どうして、こうもいつも同じような顔ぶれで、同じような内容の話になるのだろう、ということなのだ。さまざまな市民団体が、競うように、そうした「著名人」を招いて、人集めに腐心しているかのような印象を受ける。現に、新しい情報も提案もなく、新聞・テレビ情報を繰り返し、アジテーションに終わることが多く、「またか」の徒労感がつきまとう。あるいは、かつて保守政党の「重鎮」が安倍政権批判をしたり、かつて憲法改正論を主張していた学者が、改憲批判をしたりしたからと言って、過去の言動との整合性が問われないままに、すぐに飛びついて講演依頼をしたり、執筆させたりして重用する。それだけならまだしも、少しでも、疑問を呈したり、批判したりする人物に反論するわけではなく、無視したり、排除したりすることが当たり前になっている。

それに、首長選挙で、共闘のもとに立てた統一候補者や当選者のスキャンダルが浮上したり、公約を守らなくなったりしたとき、共闘を組んだ政党や組織の対応が、あまりにも無責任なのも、納得できないことの一つなのだ。たとえば、まだ記憶に新しい、都知事選での鳥越候補、米山前新潟県知事、三反田鹿児島県知事などなど・・・。統一候補選択にあたって、知名度や人気が優先され、政治的信条の確認などがおろそかになっていたのではないか、など裏切られた思いがする。

「共闘」の成果が上がらないのは、既成の党や会派の方針からすこしでも外れると、そうした意見や活動を無視したり、排除したりするからではないか、との思いにもいたる。市民の一人一人の思いが、塊になって動き出し、政党を動かすというのが、市民運動の本来の姿にも思えるからである。 

私がつねづね思うのは、そもそも、主体的な疑問や怒りがあってこそ、なんとかしなくてはという思いにかられ、抗議や抵抗の形が決まってくるのではないかと。「なんか少しおかしくない?」という素朴な疑問が「ことの始まり」になるのが、私の場合だ。たしかに、活字や映像の情報がきっかけになることもある。後で、自分で、少し丹念に、新聞を読んでみたり、ネットで調べてみたりしていると、さらに、知りたくなるし、疑問も増えたりする。自分取り込んだ情報や知識、そして機会があって、たとえば、市民運動の現場に足を運び、当事者との交流で得た体験は、身に刻まれる。自分からも発信したくなるし、行動の起点にもなることが多い。 

著名人を追いかけたり、ひたすら署名活動に奔走したりする人たちには、どうしてもついていけない自分がいる。せめて、野次馬根性を失わず、体力だけは維持して、ということだろうか。

 

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2018年8月 7日 (火)

オリンピックと天皇代替わり批判はタブーなのか

 

この夏は、図書館通いとパソコンに向かう時間が多かった。新聞をじっくり読めず、いつも見ているテレビのニュースも見逃すこともたびたびだった。スポーツ界――相撲、アメフト、レスリング、ボクシング・・・選手たちを抱える各競技団体、大学スポーツなどの旧態然とした一強体制には、あらためておどろくとともに、その体制が選手たちをいかに苦しめてきたかも知ることができた。今更ながら、さまざまな報道がされるたびに、安倍一強体制のいまの政治と同じ構図だなと、つくづく思う。メデイアも、いまでこそ勢いに乗って、スポーツ界のスキャンダルを連日報道するけれども、今までは、いったい何をやっていたの、とも言いたくなる。それに、「情報番組」の大半は、このスポーツネタと、いまは災害報道に終始する。災害報道にしても、災害救助、身内を失った人々の悲痛、避難遅れや地域の助け合いやボランテイア活動には言及するが、肝心の災害の要因や災害対策に割かれる情報は極端に少ない。政治ネタを扱うとなれば、政治家や官僚の放言・失言やスキャンダルと自民党総裁選の攻防とやらに焦点があてられる。それに、直近の国会で強行採決に近い形で成立してしまった働き方改革やIR法など、さらに中国・ロシア・韓国・北朝鮮とアメリカとの間で右往左往するだけの「外交」、沖縄の新基地建設、オスプレイ、イージス・アショア導入などを決めた防衛予算に見るアメリカ・ファーストの実態などは、もはや素通りに近い。そして、来年の天皇代替わり、二年後に迫ったオリンピック関連の報道が過熱の一途をたどっている。

 

そもそも、現天皇が、「象徴天皇制」の存続のために、生前の代替わりという方法で「強制終了」に踏み切ったことを受けて、「特例」づくめの半端な形で、乗り切ろうとした政府に、国会では、全政党・会派、「リベラルな」政党も、異議を唱えなかった。そして、すでに、なにやら「恩赦」による特典にだけには浴したいという露骨な動きさえもあるという。

 

東京オリンピック開催にも、政府・議会あげて、盛り上げに懸命なのである。IOCにおける東京招致、関連施設建設、建設費高騰、暑さ対策、聖火のコース、選手強化補助金、広報費用・演出、治安対策・・・。当然のことながら「想定内」の問題であって、いずれも大きな疑問符がつけられ、これらにまつわる不祥事やスキャンダルは後を絶たないだろう。不祥事まみれの「オリンピック」で得をするのは誰なのだろう。

 

直接は聴いたわけではないが、久米宏のラジオ番組でのオリンピック批判に、少し勇気づけられて。

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2018年8月 1日 (水)

スポーツ界のこの無様な姿は何だ!

 連日の災害・猛暑報道に続いて、スポーツ界のスキャンダルが後を絶たない。

 スポーツとは、もともと縁がない私は、プロのスポーツというのが、理解できない。そして、いまのような、国を背負って、勝敗を賭けるオリンピック競技というものにも、そもそも関心がない。それどころか、むしろ、害悪だと思っている。IOCのスキャンダルは、後を絶たないし、2年後の東京オリンピック・パラオリンピックを控えて、JOCの怪しげな動向にも、みな口をつぐみ始めている。

近頃、明るみに出ている日本のスポーツ界のスキャンダルを見るにつけ、何十年間にも及ぶ、しがらみ、悪弊、いや犯罪すらをも、黙認してきた監督官庁やスポーツ団体、それに、スポーツ報道の関係者は、いったい何をやっていたのかと不思議なのだ。今頃になって、どんなコメントをされようと、これまでの勝敗至上報道、情報源としての団体や関係者、選手とのパイプばかりが大事にされ、おそらく、知り得た不祥事情報も不問に付して来たにちがいない、と思われるのだ。ベテランのスポーツジャーナリスト、スポーツ評論家という存在も、あてには出来ない。多くのスポーツ団体も、たたけば何か出るところが多く、限りなく怪しい。アマ・プロを問わず、強いチームの陰には、何かありそうなのだ、というのが素人の直観でもある。

そして、さまざまな誘惑に負けるのも選手であり、そこから、立ち上がるのも、事情を一番よく知った選手たちなのである。メディアが垂れ流す、選手やチームの根性物語やファミリー・ヒストリーは、もうたくさんだ。老若男女を問わず、健康のために、勝敗を楽しみながら、本来のスポーツに興じることができる日を待ちたい。

それには、いまのような国単位で勝敗を競うオリンピックは不要でしかない。少なくとも、引き受ける国や都市が無くなり、4年毎も難しくなるかもしれない。各競技の国際大会があれば、十分ではないか。それとて、健全な運営は、複雑な国際情勢を背景に、むずかしい局面があるにちがいない。

 

 

 

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