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2018年9月30日 (日)

校正の合間に~満身創痍の1949年の『短歌研究』前後

いま、新著の校正に奮闘中なのだが、確認のため敗戦直後の古い『短歌研究』『日本短歌』のコピーを引きずり出している。1949年分の『短歌研究』の原本だけは手元にあるので、助かっている。必要個所だけのコピーではなく、一冊丸ごと読めるはありがたい。しかし、不急不要な文章や作品に引き込まれることもしばしばなのだ。もっとも、国立国会図書館に行けば、デジタル資料で頁を繰ることはできるのだけれど、臨場感が違う?と思うのは、昔の図書館員の感傷か。

亡兄の職場の廃棄本にしていまここに在り役立ちており

仙花紙の雑誌はらはら崩れ落ちパソコンのキイボードをよごす

冷めやらぬ「第二芸術論争」読み差して雑誌の補修に手を初めにけり

 

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『短歌研究』1949年1月号、裏表紙が欠けている。満身創痍。亡き次兄が、初めての赴任先の都下の中学校で、図書館の先生が廃棄するのを頂戴してきたもの。1950年代後半だろうか。最終頁に蔵書印らしきものが見える。

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『短歌研究』1949年9月号。巻頭論文は、伊藤信吉「現代史における<美>意識」、土岐善麿、松村英一、柴生田稔が編輯部が選んだ坪野哲久、近藤芳美、山本友一、香川進の最近作5首を評する「作品合評」がきびしい。11・12合併号では、坪野・近藤・山本が7月号の土岐・松村・柴生田の作品を評して切り返すという企画が面白い。


ついでに、

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ゴミ類の整理に勝手口を出ると、キンモクセイすでに花をつけ始めていた

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庭のキンモクセイの下には、いまだ、主亡き犬小屋がそのままになっている。この間まで、辺りはヤマボウシの赤い実がいっぱい落ちていた。この犬小屋には、なつかしい思い出がある。連れ合いが、後から我が家にやってきた犬のため、玄関先で、二つ目の犬小屋を組み立てているのを、二匹はじっと見守っていた。そして、さあ、完成と、連れ合いが立ち上がったとたん、その新しい小屋に、前からの姉犬が、さっと入り込んで占拠した。あっけにとられてしまうという顛末があった。姉犬が新しい小屋を使い、妹犬は、相変わらず玄関先で過ごしていた。

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2018年9月19日 (水)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(2)

戦争画への評価

藤田の戦争画は、もちろん体験に基づくものでもなく、写実でもなく、「想像」と多様な「技法」の産物であったことはどの評者も認めるところだが、その思想と鑑賞者の受け取り方については、大きく意見が分かれるところである。

その典型的な一つは、今回の藤田展の公式ウェブサイトに岸恵子が寄せている、つぎのような考え方であろう。小難しい言い回しはなく、実に簡明で分かりやすいのは確かだ。

「アッツ島玉砕」を戦争賛歌とし、藤田嗣治さんを去らしめた戦後日本を私は悲しいと思う。戦争悪を描いた傑作なのに。晩年の藤田さんに私は寂しい翳を見た。瞳の奥には希代の才能が生んだ作品群、特に巨大壁画「秋田の行事」の躍動する煌めきも感じた。欧州画壇の寵児ではあっても、日本国籍を離脱するのは辛かったのではないかと、私は想像する。」(岸惠子/女優)

  また、今回の藤田展の監修者でもあり、「作戦記録画」全14点を収録した『藤田嗣治画集』全三巻(小学館 2014年)をまとめた林洋子は、少し前のインタビューで次のように語っている(「『藤田嗣治画集』刊行 作戦記録画全点を初収録」『毎日新聞』夕刊 2014414日)。

「(作戦記録画が)ようやく、『歴史化』が可能になってきたと思います。藤田の作戦記録画をめぐる批判は『森を見て木を見ていない』という印象がありました。一点一点、違うことを冷静に見ていただきたい」「(この10年)絵画技法においては、もっとも研究が進んだ画家になりました」

前述の『朝日新聞』における、いくつかの藤田展紹介記事では、1920年代の「乳白色の裸婦」や敗戦後日本を去り、アメリカを経て、1950年から晩年までのフランスでの作品に焦点が当てられているもので、「作戦記録画」について触れたものは、②「激動の生 絵筆と歩む」のつぎの一カ所だけであった。会場のパネルの「年譜」を見ても、前述のように、やや不明点があるものの簡単な記述であった。

「軍部の要請で、戦意高揚を図るための<作戦記録画>を盛んに描くようになる。終戦後、戦中の国策協力を糾弾される中、49年春に日本を去った。それから二度と祖国に戻ることはなかった」 

藤田の戦争画をめぐっては、古くから、技法に優れ、描法の開拓を評価するが、芸術としての内容、内面的な深まりが見えない、表層的だとかいう指摘や「狂気」にのめり込んだとか、「狂気」を突き抜けたとか、鎮魂の宗教画だとか、さまざまな評価があるようだ。絵画を含め文芸において、技法はあくまでも手段であって、第一義的には、作品の主題、作者の思想の表出が問われるべきではないか。あの凄惨な戦争画が「鎮魂」とは言い難いのではないかと思っている。とくに、当時、藤田自身が新聞紙上で、つぎのようにも述べているところを見るとなおさらである(「戦争と絵画」『東京日日新聞』 1942122日)。

「かかる大戦争のときに現われものは現われ、自滅するものは自滅し、真に実力あり誠心誠意の人のみが活躍出来る。画家としてこの光栄ある時代にめぐりあった私は、しみじみ有難いと思う。(中略)今日の戦時美術はその技巧に於いて、諸種の材料に於いて正銘の日本美術であることは我々の喜びである」

 藤田は、陸軍省や海軍省から戦地へ派遣されるものの戦場に向かうわけではなく、絵具や画材は十分に与えられ、戦局の情報も知り得た制作環境のなかで、描きたいものを描く達成感が得られたのかもしれない。しかし、作品の多くが、現実に、戦意高揚、聖戦貫徹という役割を果たし、国民をミスリードしているという自覚は、なかったのだろうか。自分の戦争画が多くの鑑賞者を動員することを目の当たりにし、国家権力や大衆に迎合することによって、得られたものは、日本での名声であり、海外生活が長かった藤田にしては、「祖国愛」、「日本」への帰属意識だったのかもしれない。

そして、藤田は、敗戦後のGHQへの対応によって、多くの疑念を抱かせた。しかし、戦争画を描いたのは藤田ばかりではなかったのだが、日本の美術界は、画家たちと国家権力、戦時下の美術という基本的な問題を個人の「戦争責任」へと矮小化させ、曖昧なまま戦後を歩み始めたのであった。もちろん画家一人一人の戦争責任は、各人が、その後、戦時下の作品とどう向き合い、処理したのか、以後どんな作品を残したのか、どんな発言をし、どんな生き方をしたのかによって、問われなければならないと思っている。 

戦争画に対するマス・メディアの動向、過去そして現在

先の藤田研究の第一人者と言える林洋子は、作品一点一点の差異を冷静に見る必要を説き、「森を見て木を見ていない」という傾向を嘆くが、私には、藤田作品のテーマの推移、技法の変遷、その時代の言動というものをトータルに振り返る必要があるのではないかと思っている。むしろ「木を見て、森を見ない」、技法偏重の論評が多くなっていることがみてとれる。それが、大きな流れとなって「戦争画」評価の着地点をいささか緩慢に誤らせてしまっているような気がする。

さらに、敗戦後、73年を経て、戦争体験者、戦時下の暮しを知らない人々、戦後生まれがすでに83%を占めるに至り、美術史上、戦争画への評価は、大きく変わりつつあるのか、それとも、変わり得ない何かがあるのか。門外漢ながら、昨今の動きが、私には、とても気になっている。

今回の藤田展の主催者として、朝日新聞社とNHKが並んでいる。戦時下の朝日新聞社は、「戦争画」の展覧会を幾度となく主催している。この二つの事実は決して無関係なこととは思われないのだ。

<朝日新聞社主催の戦争画展>

19385月 東京朝日新聞創刊50周年戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19397月 第1回聖戦美術展(於東京府美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19417月 第2回聖戦美術展(於上野日本美術協会、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19419月 第1回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会主催)

19429月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194212月 第1回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19439月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194312月 第2回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19443月  陸軍美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19445 月 第8回海洋美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・大日本海洋美術協会・海洋協会主催)

19454月 戦争記録画展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会・日本美術報国会主催)

「戦争/美術 関連年表19361953」(長門佐季編)『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』( 於神奈川県立美術館葉山 1913年)より作成 

なお、このほかにも、さまざまな戦争画展は開催されているが、突出しているのは朝日新聞社で、他の東京日日新聞、読売新聞などとの激しい競争と陸軍・海軍同士の確執も加わっての結果らしい(河田明久「作戦記録画をめぐる思惑のあれこれ」『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』2013年)。さらに言えば、敗戦直後、藤田の戦争責任を糾弾する宮田重雄「美術家の節操」を掲載したのも『朝日新聞』(19451014日)であったのである。

 また、NHKには、戦争画周辺をテーマにした番組や藤田をテーマにした番組も多い。最近だけでも、私自身がみた番組を中心に、ネットでも確認できたものを加えるが、もちろん網羅性はないので、もっとあるのかもしれない。

<最近のNHK藤田嗣治関係番組>(  )内は出演者
1999923日「空白の自伝・藤田嗣治」NHKスペシャル(藤田君代、夏堀全弘)
2003127日「さまよえる戦争画~従軍画家の遺族たちの証言」NHKハイビジョンスペシャル(藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎らの作品紹介と遺族たちと小川原脩の証言)
2006416日「藤田嗣治~ベールを脱いだ伝説の画家」NHK教育テレビ新日曜美術館(立花隆)
2012711日「極上美の饗宴 究極の戦争画 藤田嗣治」NHKBS(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、アッツ島生存者、サイパン島住民生存者、東京国立近代美術館美術課長蔵屋美香)
2012826日「藤田嗣治―玉砕の戦争画」NHK日曜美術館(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、野見山暁治)
20151217日「英雄たちの選択・アッツ島玉砕の真実」NHKBSプレミアム201898日「特集・よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」NHK総合
201899日「知られざる藤田嗣治―天才画家の遺言」NHK日曜美術館

 こうしてみるとこの20年間に、再放送を含めると、20本近い関連番組が流れていることになる。NHKは、一人の画家についての取材を続け、繰り返し放送していたことになる。1999年「空白の自伝・藤田嗣治」、ハイビジョンスペシャル「画家藤田嗣治の二十世紀」(未見、未確認)の制作を担当した近藤文人は、『藤田嗣治<異邦人>の生涯』(講談社 2002年、2008年文庫化)という本まで著している。近藤は、先行研究に加えて、当時未刊だった夏堀全弘「藤田嗣治論」(『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004年公刊)、藤田の日記などの未公開資料を読み込み、藤田君代夫人(19112009)へのインタビューを重ねた上で、書き進めている。藤田自身の日記や夫人のインタビューに拠るところが多い部分は、どうしても身内の証言だけに、客観性、信ぴょう性に欠ける部分が出てくるだろうし、当時は存命だった夫人への配慮がある執筆部分も散見できる。その後の関連番組は、そのタイトルからも推測できるように、藤田のさまざまな側面から、その作品や生涯にアプローチしていることがわかる。戦争画への言及は、そのゲストの選択から見ても分かる通り、むしろ薄まってゆき、というより、再評価への道筋をつけている。この間、2006年には、NHKは「パリを魅了した異邦人 生誕120年藤田嗣治展」を東京国立近代美術館、日本経済新聞社と主催している。グローバルに、華やかな活躍をした<伝説>の画家としての部分がクローズアップされ、今回の没後50年の藤田展に繋がる軌跡をたどることができる。もはや「戦争責任」はそれとなくスルーしてもよいというムードさえ漂わせる論評も多くなったのではないか。上記に見るような、朝日新聞やNHKの番組で繰り返されるメッセージが、その手助けをしてはいないか、いささか恐ろしくなってくるのである。しかも、『朝日新聞』、NHKに限らないのだ。 

 網羅性はないが、私の「戦争と美術」のスクラップブックを繰り始めて、気が付いたことがある。2006年の生誕120年の藤田展に関して、北野輝「藤田嗣二と戦争責任」上下(『赤旗』2006912日・13日)において、この藤田展が藤田芸術の全貌に触れる機会になったことは歓迎するが、「藤田の再評価」「手放しの賛美」や戦争画の「意味を欠いた迫真的描写」の凄惨嗜好が玉砕美化への同調となり、現実の人間の命や死への無関心を助長しないかという問いかけがなされていた。それが、同じ『赤旗』における、今回の藤田展評は、「没後50年藤田嗣治展 多面的な画作の軌跡 漂泊の個人主義的コスモポリタン」(武居利史、201894日)と題して、作品の成り立ち、創意工夫に着目する。作戦記録画の出品は二点のみで「代わりに展示で充実するのは、戦後米国経由で渡仏して20年間の仕事だ」とした上で、「藤田の生き方は、国粋主義的ナショナリストというより、個人主義的コスモポリタンに近い。美術のグローバル化を先取りした画家といえよう」と締めくくる。 二人の執筆者は、ともに敗戦後設立された「日本美術会」に属し、美術の自立、美術界の民主化活動に励んでいる人たちである。執筆者の世代の相違なのか、その基調の変化にいささか驚いたが、共産党の昨今の動向からいえば、不思議はない。しかし、追悼50年の「大回顧展」なのだから、その作品を、生涯を、トータルに検証すべきではなかったのか。

こうした傾向については、何も美術界の傾向に限らず、他の文芸の世界でも、私が、その端っこに身を置く短歌の世界でも、同様なことが言える。いまさら「戦争責任」を持ち出すことは、まるで野暮なことのように、戦時下に活躍した著名歌人たち、自らの師匠筋にあたる歌人たちが、時代や時局に寄り添うことには寛容なのである。ということは、そうした歌人たち自身の国家や社会とのかかわりにおいても、抵抗というよりは、少しでも心地よい場所を探っていくことにもつながっているのではないか、と思うようになった。

なお、藤田に関わる資料をひっくり返しているなかで、ある写真集というか、訪問記を思い出した。それは、毎日新聞のカメラマンであった阿部徹雄の1952年のマティス ヴラマンクそしてフジタ』(阿部力編刊 2016年)であった。これは、ご子息がまとめ、解説も書いている。1952年の三人の画家の訪問記であった。精選された写真は、アトリエだったり、家族との団らんであったり、これまで、あまり見たことがなく、その日常が興味深く思えた。とくに、モンパルナスの藤田の住居兼アトリエ(カンパニュ・プルミエール通り23)、1952年と言えば日本を離れて間もない藤田65歳のころである。19521011日・14日・20日の三回訪問している。その取材ノートの部分には、藤田夫妻の日常と実に率直な感想が記されていた。日常の買い物などは藤田がこなしていることや夫人は「家の中ばかりいて、外の空気に触れない人らしい。藤田さんという人は本当に奥さん運のない人だ。気の毒な位芸術の面がそのことでスポイルされているように見えた。この人の芸術的センスに良妻を与えたいものだ」とのメモもある。 

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写真集の表紙(右)と裏表紙。チラシより

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チラシの裏

 

 藤田の没後、君代夫人については、藤田作品の公表・著作権、伝記、取材などをめぐる各方面とのトラブルが伝えられているが、当時も、その一端をのぞかせていたようで、かなり起伏の激しいことが伺われた。藤田夫妻のツーショット写真もあるが、「19521014日談笑する藤田さんと君代夫人。君代夫人は化粧をして、機嫌よい姿を見せてくれた。」との添え書きもある。

なお、カメラマンの阿部徹雄(1914‐2007)が、私がポトナム短歌会で師事した阿部静枝の夫阿部温知の甥にあたる人であることを知ったのは、ごく最近である。それというのも、静枝の遠縁にあたる仙台の方とブログを通じて知り合い、ご教示いただいた。この写真集も、彼女を通じて頂戴したものである。

なお、阿部徹雄の作品の一部は、毎日新聞社のフォト・バンクの「阿部徹雄コレクション」(戦時下を含め約900)に収められている。

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

 

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2018年9月16日 (日)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(1)

今回の藤田展のコンセプト

今回の展覧会(2018731日~108日、都美術館)は、東京都美術館・朝日新聞・NHKの三者が主催であったためか、『朝日新聞』での広報が熱かった。NHKの特別番組(「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」201898() 17:10 18:00 総合テレビ)は、見損なってしまったが、主催者としての、都美術館の公式サイトによると、「藤田の画業の全貌を解き明かす大回顧展」と題して、つぎのように記している。

 「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。」 

http://foujita2018.jp/highlight.html

 一方、私が読んだ、朝日の記事は五つほどで、①「動から静へ 重なる人生の軌跡」(夕刊714日)、②「激動の生 絵筆と歩む」(伊藤綾記者 816日)③「藤田嗣治 魂の跡形をたどる」(大西若人編集委員 821日)④「溢れる自信 どこから<自画像>」(828日夕刊)、⑤多文化な人生と絵画世界」(記念号外、大西若人編集委員)で、⑤は、展覧会場に置かれていた全紙別刷り特集の裏表であった。どれも、「見出し」に見るように、代表作を通じて、藤田の全貌が捉えられる画期的な展覧会であることが語られている。三者の紹介の論調は、チラシにもあった、藤田のエッセイ集の中の言葉「私は世界に日本人としていきたいと願う」(『随筆集地を泳ぐ』1942年)に集約されるのだろう。

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<参照> 過去の当ブログ記事
今回もカタログは買っていないので、これまで当ブログに書いてきた何回かの関連記事に示した情報と合わせてのレポートに過ぎない。その主なものは以下の通りである。

・上野の森美術館「没後40年 レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08 /12/ 13

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

・ようやくの葉山、「戦争/美術19401950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について~

「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」(211日、テレビ朝日、1030分~1125分)を見て(14/2/18)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

・ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

15/11/01

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/11/14-962c.html

 

今回の藤田展での「戦争画」の位置

 会場での展示は、次の八つの時代に分かれていた。主催者側の意図とは異なるのだが、私が関心を持ったのは、むしろ、初期の「Ⅰ原風景―家族と風景」「Ⅱはじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで」と「Ⅳ‐2<歴史>に直面する―作戦記録画」の時代であった。 

Ⅰ原風景―家族と風景  

 はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで 

1920 年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿 

 「乳白色の裸婦」の時代 

1930 年代・旅する画家―北米・中南米・アジア 

-1 「歴史」に直面する―二度の「大戦」との遭遇 

-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ 

 戦後の20 年―東京・ニューヨーク・パリ
 
 カトリックへの道行き

 

 []には、藤田(18861968)が、渡仏前に朝鮮総督府医院長だった軍医の父親を訪ねたときの作品「朝鮮風景」(1913年)があった。[Ⅱ]には、パリの“何気ない”と思わせる街角の風景を描いた作品に、私は惹かれた。「雪のパリの街並み」(1917年)「ドランブル街の中庭、雪の印象」(1918年)「パリ風景」(1918年)などである。1929年一度帰国するが、一年で戻り、1933年の帰国以降、日本での製作が始まるが、私が、もっとも着目したのは[Ⅵ-2]の時代であった。藤田の「作戦記録画」(以下「戦争画」と記す)は、東京国立近代美術館にアメリカから返還(1970年無期限貸与)された中の14点から2点だけが、今回は展示されている。

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「雪のパリの街並み」(1917)

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「パリ風景」(1918)、真ん中あたりの歩道を登って行く小さな人影、手前の手押し車を押す老女が坂を下ってくる姿がとてもわびしい。その後の藤田の華やかな技法の転換を見るなかで、こうした初期の作品には虚飾がないように思えた

その二作とは、「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)の大作である。この部屋の解説には、西洋美術史上の戦争をテーマにした絵画の研究に励んだとして「戦争を見ずとも、これまでの経験と古今東西の戦争図像の参照によって空前絶後の人体の肉弾戦を中心とした茶褐色の<玉砕画>への陶酔を深めていきました」とあった。藤田の戦争画については、これまでも何度か触れているが、今回の、の展覧会の「年表」には、これらの戦争画を制作した時代がどのように記されているかが、私の眼目でもあった。「年譜」は、[Ⅲ]と[Ⅳ]の間の通路に展示されていた。ちょうど10年前に上野の森美術館での「没後40年」の展覧会のときのような、年表の「空白」はなく、全時代にわたって記されていた。簡単なものだが、太平洋戦争前後から拾ってみよう。 

 

1940523日 パリを発ち、526日マルセイユより伏見丸乗船、77日に神戸着。丸刈りとなる。9月~10月 ノモンハン取材。 

194110月~12月 仏領インドシナへ帝国芸術院と国際文化振興会の文化使節として渡り、途上真珠湾攻撃を知り、1218日帰国。 

194212 第1回大東亜戦争美術展覧会「十二月八日の真珠湾」出品 

19431月「シンガポール最後の日」などにより朝日賞受賞、9月 国民総力戦美術展「アッツ島玉砕」出品。 

19449月 神奈川県、藤野に疎開
19454月 陸軍美術展「サイパン島同胞臣節を全うす」出品、415日麹町の自宅焼出、12月戦争画説明などのため、GHQの嘱託となる。 

19464 日本美術会による戦争責任問題起こる。 GHQ収集の戦争画は、一時東京都美術館に保管、1951年にアメリカへ送付。 

19472月 GHQ作成の戦争犯罪人名簿に藤田の名前はなく、戦犯の疑いが晴れる。 

1949310 離日、アメリカへ。 

19502月 フランス入国。

   若干補えば、193810月、海軍省嘱託として、藤島武二、石井白亭、中村研一らあわせて6人が上海、九江を経て漢口攻略戦に派遣される。394月、陸軍美術協会に藤島らと参加直後、突然の渡仏、その意味が問われながら、一年足らずで、ヨーロッパの戦局が急を告げる中、帰国の途に就く。417月帝国芸術院会員となり、同月第2回聖戦美術展に出品したのが「哈爾哈(はるは)河畔之戦闘」1941年)だが、もう一枚のノモンハン日本軍敗退の残酷図を描いた作品の存在を語る証言もある。424月陸軍省からシンガポールへ、5月海軍省から東南アジア各地へ、7月満州国へと派遣される。194312月の第2回大東亜戦争美術展覧会には、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」が出品されている。 

   なお、会場の2点の「戦争記録図」のキャプションにおいては、「アッツ島玉砕」については「軍からの委嘱ではなく自らの意思で写真と想像に基いて制作したのち、陸軍に献納し、[陸軍作戦記録図]となった」と記され、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」には、19453月に疎開先の藤野で制作、ユージンスミスの「ライフ」の写真を連想させるものであり、藤田も軍を通じてアメリカ側の報道に接していた可能性がある旨、記されていた。これらの解説の意味するところが、明確ではないのだが、前者は、軍からの命令や強制がなかったことを強調し、また両者とも、過去の写真や当時の国民には知り得なかった、新しいアメリカのカメラマン、ユージン・スミス(19181978)の作品を参考にしていて、自らの発想だけによるもので無いことを説いているのだろうか。

<参照> 東京国立近代美術館所蔵戦争画一覧

南昌飛行場の焼打 1938-39
武漢進撃 1938-40

哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
十二月八日の真珠湾 1942
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
アッツ島玉砕 1943
血戦ガダルカナル 1944
神兵の救出到る 1944
ブキテマの夜戦 1944
大柿部隊の奮戦 1944
○○部隊の死闘ニューギニア戦線 1943
(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
サイパン島同胞臣節を全うす 1945

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2018年9月 3日 (月)

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(2)

 

 手元の「サザエさん」の八巻分の後半をたどりたい。

第五巻19508月刊。第1頁から、チリンチリンと鐘を鳴らす納豆屋さんから買うのが、110円のわらづとの納豆だ。2頁目が、郵便屋さんが「年賀はがき」を売りに来る。1949121日、お年玉付き年賀はがきが売り出されている。ちなみに1円の寄付づきの年賀はがきが3円、普通の葉書が2円なので、寄付の割合が3分の1というのも、今では考えられないが、はがき代の5倍が納豆1本という時代だったのだ。

 タラちゃんのノドの具合が悪いらしく、ルゴール液を綿棒の先の脱脂綿につけている場面もあったが、一般家庭でもされていたことだったのだろう。私は、水銀体温計で、かっちり5分間かけて計るという場面が興味深かった。いまでこそ、額に触れもしない電子体温計でたちどころに計測されるが、かつては、1分計、3分計、5分計、7分計などというのがあった。そのメーカーも、仁丹(森下仁丹⇒1974年デルモ)、マツダ(マツダランプ⇒武田薬品)、柏木というのがあり、平たいのと三角形の棒状のものがあったはずだ。私も、たしかに、「何分計にしますか」などと売っていた覚えがある。父は、どういうわけか、お客さんには、必ず「1分計や3分計でも、10分は計らないと、正確には出ませんよ」と、念を押すのが常だった。少々高額な体温計を買ったお客さんにしては何となく腑に落ちなかったのではないか。

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第5巻、水銀体温計は、計り終わって、水銀を下げるときに、手首を何度も振って、近くの何かにぶつけて壊してしまうということが一度ならずあった。ころころと玉になって転がる水銀を息をつめて?集めたことが思い出される。テルモが家庭用電子体温計を発売したのが1983年という

第六巻:1951年2月刊。サザエは、大阪のマスオの父親の法事に二人で出かける。大阪までの東海道線の列車内の光景や親戚との出会いや大阪、京都観光もなかなか面白い。まだ、回虫の寄生率は高かったらしく、「怖い話」として登場している
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 また、なんと「サンマータイム」が題材となって何度か登場しているのも興味深い。現在、安倍首相やJOCが、2年後のオリンピックの猛暑が不安になったのか、思いつきのように「サマータイム」の検討を言い出した。ヨーロッパでは廃止や廃止の方向にあるなか、何をいまさらと思う。GHQの指導で、19484月「夏時刻法」公布、52日から911日まで実施、以降、51年の夏まで実施され、1952年、独立を機に廃止した。実施中は、混乱も多く、残業の増加、寝不足など、すこぶる評判が悪かった。日本列島の日の出・日の入りの時間差や夏の湿気の多さは、夜になっても変わらないことから、サマータイムは不向きとされているし、第一、付随する機器の切り替え費用が半端ではないらしい。

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第六巻、何度目かのサマータイムに関わらず、混乱している様子が分かる。一家に時計なるものが、一つしかない時代であった。現在、家の中の時計をサマータイムに合わせろと言ったら大変ことになるはずだ

第七巻19518月刊。この巻あたりから、「朝日新聞」の夕刊での連載を経て、1951年4月16日から「朝日新聞」の朝刊での連載分だろうか。
 2018年の猛暑は、当方の加齢もあってか、きびしいものだった。アセモこそできなかったが、冷房をかなりの時間かけていたし、少し動くとどっと汗が出て下着を替えたりした。「サザエさん」で、涼をとると言えば、うちわ・扇子か扇風機であった。また、ワカメが泣いておねだりするのを、母親に「アセモできますよ」と言われて、鏡台の前で、しきりに「天花粉」をパタパタとパフではたく場面があった。そういえば、シッカロール(和光堂)、あせ知らず(徳田商店)は、銭湯に持参する人もいて、よく売れた。丸い缶入り、ボール紙の容器もあった。大人も子どもも、赤ちゃんもアセモをよくつくっていたような気がする。

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第7巻、こんな鏡台もなつかしい

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箱に入った布袋の「あせ知らず」は、粉が飛び散らず、携帯用にもなっていた

 一方、物価は上昇を続け、サザエは編み物の内職までするようになる。ご近所には喜ばれていた様子もうかがえる。当時は、つぎあて、染め直し、洗い張り、仕立て直しなどは、主婦の日常の仕事だった。わが家でも、母は、みやこ染めを使って、大きな鍋で染め直しをやっていたのを思い出すし、近くで洋裁をしている方に、何かとお願いしているようだった。
 なお、相変わらず、衛生状態は悪く、1948年と50年には、蚊を媒体とする日本脳炎の大流行があって、1950年、患者は約5000人に達したが、54年からは法定伝染病に指定され、予防ワクチン接種が勧められるようになって、いまでは発症はまれである。脳炎ではないけれど、私には、ご近所の同学年の男子Yちゃんが狂犬病で亡くなったという出来事があった。狂犬病は、戦時下の1944年から流行し始め、1947年伝染予防法で患者届け出制ができ、1950年に狂犬病予防法が成立している。Yちゃんは、映画大好きで、夏の夕涼みの折など、「鞍馬天狗」の話や嵐寛寿郎の真似が得意で、みなを和ませていた。狂犬病にやられ、10日ほどで亡くなってしまったのだ。我が家で20年以上前から犬を飼うようになって、毎年4月の予防注射の時期になると、Yちゃんのことを思い出しては悔やまれるのだったが、いまはその二匹も亡くなって数年経ち、予防注射とも縁が無くなってしまった。

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第7巻、ちょうど続き頁でこんな2本があった。ワカメならずとも、ピー・ティーエー、ビーシージーもD・D・Tの略語は分りにくかったはずだ。保健所からの強制散布が日常的だったことが分かる一コマだ

第八巻1952年1月刊。サザエの父親が、庭に花の種を蒔いたつもりが、「仁丹」とわかる一コマは、微笑ましい。第三巻には、ワカメが、ご近所からサツマイモ1本をもらったと、息せき切って、庭いじりをしていた父親に届けると、なんとダリヤの球根だったという一本もあったことと比べると、暮らしにもややゆとりが感じられるようになったことが分かる。さらに、父親は、サザエに婦人雑誌の新年号を土産に買ってきて喜ばれるが、サザエが寝入ると、そっと「抜け毛を防ぐ方法」という記事を見ながら、鏡台の前で試している1本もあり、そんな余裕も若干感じられるのだった。

 

 

 

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2018年9月 2日 (日)

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(1)

いま私の手元には姉妹社発行の長谷川町子『サザエさん』が第一~八巻まである。19491952年に発行されていたものである。たぶん、中学生だった次兄か私が、購入したものではないかと思う。当時、次兄は、私のことを「サザエさんやワカメみたいだ、まるでオッチョコチョイなんだから・・・」なんていわれていたことを思い出すからだ。

現在、『朝日新聞』では「サザエさんをさがして」というシリーズで、サザエさんの4コマ漫画一本を選んで、その背景を探るもので、サザエさんで見る194574年の歴史と言っていいのかもしれない。

手元の八巻分のサザエさんは、当ブログでの「73年の意味」シリーズの本篇・番外篇の時代と重なるので、続きのような内容になるかもしれない。巻数を追って、上シリーズと重なり合うテーマを中心に、たどってみたい。

第一巻19502月刊。「はしがき」も「あとがき」もない。第1頁は、母親が、両脇にかしこまるワカメとカツオを紹介、呼ばれたサザエが、湯気の上っている蒸しパンのようなものを頬張って登場、「どうもあんなふうでこまります」と母親のセリフで終わる。これが、サザエさん1号の4コマ。なお、第四巻の巻頭には、「サザエさんと私」という4頁にわたって、漫画付きの文章が載っている。サザエさん誕生のこと、疎開先の福岡の新聞「夕刊フクニチ」に連載を始めたこと(1946422日)、東京に引っ越し、姉が出版社の姉妹社を起したことなどの経緯が綴られている。

第一巻での薬の登場は何度かあるが、その一つ、寝床で「ゴホンゴホン」とやっている父親にたのまれたサザエが持ってきた「せきどめ」を服んで、「ピタッとやんだよ」と喜ぶ傍らで、薬瓶をよく見たサザエの「これはげざいグスリだ」にのけぞる父親。もう一つは、私が「熱さまし」としてよく服まされたのが、父の調合による粉薬を思い起こさせる。確か「フェナスチン」という薬が入っているので、よく効く、という話をしているのを覚えている。薬包紙を開いて、三角になったところで、薬を口にすべり落として、水と一緒に一気にのみこむ。後はひたすら布団をかぶって汗をかくまで我慢する。直りかけると、母親は、大事にしていたみかんの缶詰を開けてくれたのは敗戦からだいぶ時が経てからだろう。その「フェナセチン」を、いま調べると、長期服用の副作用は、前から指摘されていたようで、2003年には「日本薬局方」から外されていた。かなりアブナイ?薬を服まされていたことになる。

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第一巻の表紙。最初の書籍化は、横長の装丁だったらしい


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第1巻。やや不鮮明だが、4コマ目の父親の手元には薬瓶と薬袋、右手には今、服まんとして薬包紙を持っているのに、バケツの水を運んできたサザエさんだ

第二巻19502月刊。東京への引っ越しの際の疎開地の人々との別れ、東京の住まいのご近所との出会いが描かれ、はんぺん、果物などの配給の場面と物価の実情も分かる場面も面白い。タクアン百目5円50銭、ガラス一枚80円、シャケ一切れ8円などと。サザエは「新円かせぎ」に友人の働いている出版社ハロー社に勤め始め、これまでにない経験をする。婦人警官に<密着取材>した折の、発疹チフス予防注射の場面で、思い出す。発疹チフスが大流行したのは1946年、3300人以上の死者を出したという。シラミやダニ駆除のため、殺虫剤として、GHQが持ち込んだDDTが大量にあちこちで散布されたという。私は、夏に疎開地から池袋に帰ってきているが、学校で頭から散布されたという記憶がない。戦時下は、マラリヤ予防には威力を発揮したという。日本での製造は、1949年に「味の素」が製造開始したとある。BHCという殺虫剤もあった。私の記憶では、ボール紙の平たい丸い容器に入ったコナのDDTを、箱の上部をぺこぺこ押して、小さな穴から噴霧していたこともある。ボール紙の筒状の容器から、畳のヘリなどに落とし、大掃除で畳を上げたときは、新聞紙の上に、やたら撒いたこともある。日本では、環境ホルモンへの影響や発がん性のため1971年には販売禁止された。

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第2巻。筒状の容器にいれて、後ろから押し出して噴霧させていた液体の殺虫剤もあった。金属製の「噴霧器は別売りです」とお客さんに言ったのを覚えている。エアゾール式は、1952年のキンチョール、1953年のアースまで待たねばならない


第三巻19502月刊。サザエはフグ田マスオと結婚して、タラも生まれる。当初実家を離れていたが、すぐに、両親たちの家に引っ越し、同居する。NHKのど自慢が人気だったらしいが、私には、あまり記憶がない。忙しい予選申し込みができないので、係に電話して、サザエが電話口に唄っているのは「啼くな小鳩よ」であった。学生がアルバイトで、南京豆ふた袋15円、ノート2冊で30円で売ってたり、米一升一40円の夢を見たりする。

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第三巻の冒頭、サザエよりの挨拶の「ことば」が載り、結婚・出産の報告がなされている

第四巻19496月刊。巻頭には前述の「サザエさんと私」を掲載、出版社勤めはどうなったのか不明だが、洋裁の仕立ての内職を始めたりする。取引高税が出て来るので1948年発表の作品か。相変わらず、もち米、魚などの配給、停電の場面などが何度か登場する。

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第4巻。4コマ目になんと吸入器が登場する。サザエさんの家にもあったんだ。たしかに、我が家にもあったし、売ってもいた。これはアルコールらんぷで、水を温めて、その蒸気を吸入する装置。メーカーなどは覚えていないのだが、どこか仰々しい箱に入っていて、父や兄も、お客さんに説明するときは、実に慎重に扱っていた。一時期、私はのどの具合が悪いとき、と言っても40歳前後のころ、クリニックに行くと、水ではない薬剤の入った吸入をやらせられることがあった。最近ではあまり見かけなくなった光景だ

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こんな感じだったのかな。ネットから拝借した

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購入先から受け取った、使用済みの印紙が、各家庭のあちこちに置かれていたのだろう

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