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2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」

として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

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『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

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