« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »

2018年10月29日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)

 プランゲ文庫の検閲文書から見えてくる<短歌と天皇制>

 なお、同じころのGHQの検閲過程で『アララギ』1947年新年号において、興味深い一件を垣間見ることができる。

Img526

プランゲ文庫に残る『アララギ』1947年1年号の表紙。47年2月4日の日付とY.Sakaiのサインがある。「20000」というのは、発行部数のようである。当時、『人民短歌』12000部の記録もあった。

  雑誌などの検閲は、まずExaminerによって、目次がすべて英訳された上で、全頁、点検の上、「注視すべき」作品や文章と作者名が英訳され、その理由が<note>として記される。タイプの場合もあるし、手書きの場合もある。『アララギ』新年号においては、ExaminerM.Ohta のサインのもと8カ所が対象となっていた。さらに、おそらく、別人によるチェックが入り、結論がタイプ打ちされ、結果的には、二首が削除され発行されていた。一つは、13頁の五味保義の八首中の一首で、乱暴に墨塗りで消されているので、「棒立ちて日本人を入◇◇◇◇疎林◇ホテルボーイ下り◇◇」しか読み取れない。穴埋めのクイズのようでもあるが、つぎのように英訳されている。削除の理由は、<causes resentment>となっていた。

 There stand a notice-board of “No admittance to Japanese “ in a grove , and page is seen coming down out the hotel.) causes resentment

  もう一カ所は、37頁の丸田良次の一首が削除されて発行されている。実は、37頁には、つぎのもう一首、天皇に触れている作品が対象となっていたのだが、最終的には削除を免れている。<note>をみると、その削除理由が、一首目が、「国家主義的」で、二首目が「超国家主義的」と記されているが、もはや検閲者のサジ加減一つということにも思える。その検閲者の日本人が、英語が堪能なだけだったのか、文学や短歌の基礎知識を持ち合わせていたのか、などにもよるのだろう。
・天皇のために死なむと汝(なれ)がいまは打倒をとなふるかなし(大分 菅沢弘子)

How pitiful is it to hear that you, who once revealed to gladly die for the Emperor, are now advancing up knocking down.)<nationalistic>

 ・戦死せざりし事が悔しく熱の如時たまにして吾を襲ふなり(佐賀 丸田良次)
The chagrin for my not having died in the battle often assail me like  a fever.ultra-nationalistic

Img525_2
『アララギ』1947年1月号、「一月集 其二」は、結城哀草果、高田浪吉、鹿児島寿蔵、廣野三郎、五味保義、吉田正俊・・・と続く。ちなみに「一月集 其一」は、岡麓、斎藤茂吉、土屋文明であった。五味作品の削除は、見せしめ的な要素もあったのかもしれない。

Img528
『アララギ』1947年1月号、土屋文明選「一月集 其三」、一人一首の選歌欄なので、作者にしては、その大事な1首が削除されてしまっている。

Img524

Img529
上は、最終の報告文書のようであり、下は、<note>の一部で、まるで、殴り書きのようだ。

プランゲ文庫に残された検閲文書を見ていくと、戦勝国による検閲と日本の近代における、とくに、戦時下の国家による検閲とには、一見、明らかな違いがあるようにも見えた。GHQには、被占領下の国民には検閲の事実が知られないように、検閲の痕跡を残さないようにというのが原則であった。日本では、天皇や政府、軍部に対する批判は、見せしめのような、発禁や伏字という形で許さず、その上、出版社や執筆者は、治安維持法による編集者・執筆者の拘束、用紙配給の停止などにより、国策に加担すべく「懇談」「指導」を繰り返した。

GHQも、原爆への言及や報道、作品と占領軍・米兵の犯罪報道への検閲は、とくに厳しかったが、永井隆『長崎の鐘』(1949年)の出版などは、アメリカの占領軍の露骨な戦略の一つでもあった。長崎への原爆投下は「神の摂理」であったとするその内容とともに、7割近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に30000部の用紙が調達されたのである。日本軍のマニラのキリスト教徒殺害行為を公にすることによって浦上カトリック教徒への原爆投下を正当化しようとする意図は明白だった。「用紙」を管理することによって、プロパガンダに加担させ、公職追放によって言動を封じる手段は共通であったと思う。

 占領軍は、内務省下の発禁図書も、収集させた戦争記録画、占領下の検閲関係文書もアメリカに接収、運ばれた。そして、それらは、保管され、時間は要したが、結果的に、返却・無償貸与・公開という形で、日本でも知り得る情報となった。日本国内では、敗戦直後、軍部や官庁、企業などでは、戦時下の書類など焼却され続けたという。そして、多くの事実の隠滅、隠ぺいが図られた。

 そして、この体質こそが、今日の自衛隊や省庁、企業での隠蔽や改ざんが後を絶たず、政治が自国民の命と財産すら、守り切れていない現況を作り出しているのではないかと思う。そして、個人レベルでも、多くの表現者たちが、この占領期の検閲について語ろうとしないで現在に至っている。歌人も決して例外ではなかったことも知らねばならない。

| | コメント (0)

2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(7)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

Img517
『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

| | コメント (0)

2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

 

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

 

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

 

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

 

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

 

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

Img521
『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2018年10月 7日 (日)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(5)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)

 

大地のブロック縦横にかさなり

断層數知れず 絶えずうごき 絶えず震ひ

都會はたちまち灰燼となり

湖はふくれ津波(よだ)となる。

決してゆるさぬ天然の気魄は

ここに住むものをたたきあげ

危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である。
(高村光太郎「地理の書」より) 

 

 高村光太郎「地理の書」の一節である。1938年の作であるという。敗戦直後の19459月号の『短歌研究』の巻頭論文、中村武羅夫「我が國體と國土」に全編引用されていた。

懲りない面々の「どうしようもナイカク」第4次安倍内閣はスタートしたが、天皇の代替わりは来年に迫った。日本国憲法のもとでは、元号が変わっても、この区切りは、政治的には何の意味もない。しかし、政府は、国民の反応をみながら、その「代替わり」の利用価値を探っているように見える。国民にとっては、憲法上の<象徴>が代わるわけだが、実質的に暮らしには影響がない。ただ、日常的には、年号表示がややこしくなるのが予想できる。なんとしても西暦に統一しないと、すべての事務的処理も、少なくとも日本の近現代史は西暦でないと何年前の出来事かわからくなる。研究・教育に携わる人は、役所の人は、声を上げて欲しい。個人としては、元号が実働しないように身近なところから実践したい。

 

平成の天皇自身(サイド)は、平成最後の名のもとに、いわば駆け込み的に、いま、さまざまな行事をこなしている。被災地見舞いもその一つだが、私などは、夫妻の姿を見るにつけ、健康第一で、静養されるよう願うばかりなのだ。マス・メディアでは、「平成最後の~」「平成~」などの特集や記事を展開中であり、今後は、ますます拡散するだろう。短歌総合雑誌でもそんな記事をみかけるようになった。それで読者が増えるようには思わないのだが。

 

 最近、必要があって、敗戦直後の1945年~50年あたりまでの短歌総合雑誌のコピー類やプランゲ文庫のコピーを引っ張り出しては、読み直している。現在進めている作業とは直接関係のない記事や短歌作品にも、ついのめり込んで、立ち往生ということが何回もあった。占領期とも重なるこの時代、「新憲法」が少しづつ定着して行く過程で、「歌壇」や歌人たちは、「短歌と天皇制」をどのように考えていたのかが、気になりだした。これまで、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著でも、「歌会始」に関連して触れていることはあったのだが、文献を中心にもう一度、少し立ち止まって、考えるチャンスではないかと思ったのである。

冒頭の詩を引用した「我が國體と國土」は、「日本の國體が比類なく神聖にして、尊嚴極まりないことは、わが國の歴史がこれを證明してゐるし、古来幾多の詩歌に依つて歌はれ、文章に綴られ、國民等しく知悉してゐるところである」で始まり、後半は「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と記された後に、上記、高村光太郎「地理の書」を引用し、この詩こそ「わが本土に對する絶対的の愛敬と國體欽讃の聖なる所以を喝破してゐると言つてよからう」と結ぶ。GHQは検閲の痕跡を残さないのが原則だから、それを明記した文言を入れたまま発売に到っているのは、めずらしい例といえる。

ちなみに、9月号は、だいぶ遅れての発行であったらしい(国立国会図書館の受入印では「昭和201119日購入」となっている。10月号に、編集発行人木村捨録による記事によれば、30日遅れとある。また、その記事には、『日本短歌』9月号は発禁とあるが、16頁立てのものが国立国会図書館に納本されている)。

高村の「地理の書」の上記のような一節は、三陸の大津波や関東大震災を踏まえてのことで、80年前の地学には素人の詩人でも「日本列島」の成り立ちを知っていたのだから、東日本大震災の時に、「想定外の」とか「千年に一度の」などという言い訳は成り立たないはずであった。にもかかわらず、この日本列島は、50基以上の原発を擁していたのである。「ここに住むものをたたきあげ/危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である」というフレーズは、無策に近い、後追いのいまの政府の災害への姿勢であり、防災政策、対策の担当者や一部のマス・メデイアの謂いを代弁しているかのようでもある。

 

19459月以降、復刊、創刊されたさまざまな短歌雑誌には、疎開生活や空襲による自宅焼失、食糧難などを嘆く短歌とともに、占領軍(進駐軍)への批判や敗戦後の解放感などが歌われた短歌であふれる。GHQによる検閲は、とくに、占領軍の横暴に触れた作品・文章には神経をとがらせ、米兵の性風俗や「植民地化」という文言には、強く反応を示している。一字、あるいは上句、下句がそっくり削除され、空白にしたままの検閲の痕跡を残した短歌が、いろんな雑誌で、散見できる。検閲の対象は、地方のミニコミ誌にまで及ぶが、「痕跡を残さない」検閲がどれほど徹底していたか、は今後の課題かもしれない。

そんな中で、天皇を詠んだ短歌、天皇制に触れる論評は、決して多くはないが、見受けられるようになる。(つづく) 

Img518_2

Img520
『短歌研究』1945年9月号の、中村武羅夫「わが國體と國土」から。上は、GHQの検閲で削除が命じられた箇所は黒塗りになっている。下が、実際に印刷・発売された雑誌の該当部分だが「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と明記されている。
ちなみに削除された文章は以下の通り。「既に今度の戦争に至って、われわれは二十歳になるやならずの多くの若き武人たちが、天皇の御為に、皇国護持のために□□きながら神となつてゆく姿を、眼の当たり見てゐるのである。日本ならずして何處にこのやうな尊い事実を□□すべき國柄の國家があるであらうか。」とまで読める。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (1)

2018年10月 2日 (火)

沖縄県、新知事誕生、私たちがやらなければいけないこと

  沖縄の県知事選挙では運動の在り方とその結果に、いろいろと考えさせられている。

佐喜真候補は、政権与党の政党色を前面に押し出しながら、肝心の辺野古新基地建設への対応を回避した、というより隠ぺいした。公明党を佐喜真支持へ引き入れるための方策だったのだろう。その代わりなのか、突如、スマホ料金4割値下げなど、自治体マターでない公約が飛び出したりした。対立より対話をと経済振興を強調したものの、菅官房長官の3度の沖縄入りも、普段の、あの面倒くさそうな記者会見を見せられているので、演壇でいかに愛想を振りまこうとも、むしろマイナスだったろう。同じく、小泉進次郎の総裁選での優柔不断さとタレントのような振る舞いには、いささかげんなりした県民も多かったのではと思う。

一方、玉城候補は、政党色を極力出さず、支援政党の幹部と並ぶことなく、翁長知事の遺志を引き継ぎ、辺野古の新基地建設を阻止すべく働きたい、通学のバス料金を無料にしたいなどの公約を訴えた。ゆいレール以外に鉄道がない沖縄では、バスは大事な基幹交通機関なのだから、県民にとっては切実であったに違いない。そんなことも、無党派層の7割を引き寄せ、自民党・公明党の支持者の一部も玉城候補に投票したのではないか。これからは、専門家?の選挙分析情報が流れるに違いない。それにしても、翁長知事の「遺言」で、玉城候補の名前があったという情報が流れたときは、ハラハラした。「遺言」で候補者が決まるなんて、あってはならないと思ったからだ。結果的ではあるが、政党色を前面に掲げず、プロのタレントとしての経験による親しみやすさが、当選に繋がったのではないかと思った。

玉城新知事の行く先は、課題も多く、政府やアメリカ政府との交渉にも難題は待ち構えている。「野党共闘」「オール沖縄」の勝利というわけにもいかないのが現実である。しかし、安倍政権への打撃になったことは確かなので、これを機会に、本土の私たちは、自分たちの問題として考えなければならない。私は、かねてより、一刻も早く、日米安保体制、日米地位協定、日本の防衛政策の見直し、自衛隊法改正に踏み込むべきだと思い、野党にはそういう攻め方をしてほしい、と思っている。米軍オスプレイの横田基地への正式配備が決まり、自衛隊のオスプレイの佐賀空港配備も決定した。山口県と秋田県では、自衛隊のイージス・アショア設置の候補地の反対運動が展開中である。どこに、ではなく、一基1000億以上、その他の備品・経費を入れると2基で6000億にも及ぶという、迎撃ミサイルシステムの必要性が問われている。いまの安保環境の中では、いわば無用の長物ともいえ、その効用すら、専門家からも危ぶまれながら、<専守防衛><抑止力>という名のもとに導入が強行されようとしている。私の住む千葉県でも、木更津駐屯地は、米軍のオスプレイの整備基地になってしまったし、自衛隊のオスプレイも飛んでくる日は近い。あの得体のしれないトランプ大統領に、そこまでひれ伏する安倍政権には、外交や、防衛政策への見識が見出せない。<土台>はそのままに、続行するという安倍政権だが、わが身には遠いことではなくて、私たちの町にも、日本の福祉の貧困や防衛費ばかりの肥大化の影響が迫ってきている。

やや旧聞に属するが9月の半ばの休日、最寄りの駅前で、地元の9条の会でビラまきをした。 2006年、会の発足以来37号を数えるニュースを配ったのだが、反応は、決して良いとは言えなかった。「憲法9条を守りましょう」、「憲法9条への自衛隊明記を阻止しましょう」、「戦争のできる国にしてはいけません」と訴えても、スマホから目を離さない人、まっすぐ前を向いて私たちを避けるように通り過ぎる人、両手に手荷物一杯の暮しが第一という買い物帰りの人、手を払って、怒りをあらわにする人・・・。私自身も無党派層の一人ではあるが、なかなか沁み込んではいかない私たちの声。少しでも一緒に考えるのには、いったいどうしたらいいのだろう。

それでも、会の代表のTさんが、急きょ作ってくれた、色とりどりのお手製のサンバイザーをかぶって、マイクを握り、ニュースを配ったのだが。

20181002145821





| | コメント (0)

わたしはだまされない~特殊詐欺のさまざま

 市の防災無線放送は、このところの災害情報伝達で忙しかった。一方、毎日のように、行方不明者の捜索協力と特殊詐欺の新手への警告を呼び掛けも続いている。同じ高齢者でも自分より若い年齢の方の「体型は・・・、頭髪は・・・、着衣は、・・・」などとくわしい容貌を知らされると、気が滅入る。さらに「オレオレ詐欺」に始まるさまざまな方法による詐欺は後を絶たないようなのだが、私自身は「私は大丈夫」みたいな無関心さがあった。 

 ところが、妙な電話やはがきが続いて、正直、一瞬戸惑ったのである。これまでも、短歌などに関わっていると、その関係の名簿からの情報なのか、「先生のお作品に感動しました。作品を集めて、ご本にされたらいかがでしょう。お手伝いさせて下さい」みたいな電話は何度か受けている。「そんなつもりはない」と直ちに切るが、「この電話番号はどこで知ったか」と尋ねると「名簿屋から買った」と開き直られたこともある。

 

その1)デパートで、あなたのカードが使用されようとしている 

 しかし、今回の1件は、少し手が込んで?いた。電話は、私の名前を確認した後、 

■こちらは、船橋の東武デパートですが、いま、あなた名義のクレジットカードで、6万円ほどのコートをお買い上げのお客様がいらっしゃいますので、確認の電話です。 

①はあ?どんな人ですか。 

40歳代の女性の方です。 

②全く心当たりありません。私はふだん東武で買い物することもないし、カードで支払う習慣もありませんし、失くしたこともないです。 

■おかしいですね。 

③どういうカードなんですか 

■今から3週間前ほどに発行されています。 

④そんな事実はないので、断ってください。こういう時は、どうしたらいいのですか。 

■銀行協会に問い合わせてください。電話は××・・・・。 

➄調べてみます。そちらの連絡先は 

■東武デパートの総務課の○○で、××・・・・。
 

電話番号は、いずれもデタラメだった。それにしても、後から考えると、私の②の応対はいただけない。余分なことなのだ。すぐにでも電話は切るべきであった。ちなみに、東武デパートに電話をすると、何件か同様の電話が入っていますとのことだった。念のため、銀行や郵貯の係に電話を入れると、通帳上の異常はなかったとの回答や、時間外でいまは調べられないので、明日一番で確かめられては、などの対応であった。係の方は、いずれも「そんなに簡単に、カードは作れるものではありませんから、ご心配なく」ともいわれた。これが、いわゆる詐欺の予兆、前触れ電話であったのだ。家族からは、「結構、本気で、動転していたよね」とか、「個人情報は一切漏らしてはいないだろうね」とか、念を押されたりした。アブナイ!恥を忍んでの報告ではある。そして、あれから3カ月もたっているというのに、いまだに、同じ手口の電話が、この街に横行しているらしく、いまも以下の無線放送が流れていた。

「本日、佐倉市内において、デパート等を騙り、 貴方名義のカードが使われている。 全国銀行協会へ確認して下さい。といった電話de詐欺の予兆電話が相次いでいます。 この様な電話がありましたら、直ぐに佐倉警察署もしくは110番通報をして下さい。」

その2)「法務省管轄支局 国民訴訟お客様管理センター」から

 続いてのもう1件は、例の「架空請求はがき」というものらしく、はじめて目にした。これは、よく話にも聞いていたので、怪しいことがすぐ分かった。「消費料金に関する訴訟最終告知のお知らせ」の見出しの以下のようなハガキが届いたのだ。「利用の契約会社から契約不履行の民事訴訟として訴状が・・・、期日までに連絡がないと差し押さえが執行される・・・」として、相談窓口の電話番号が書かれているものだ。その差出人?は「法務省管轄支局 国民訴訟お客様管理センター」となっていて、「板橋西」の消印であった。ちなみに、差出人名をネット検索してみると、特殊詐欺の情報満載であった。インターネトと縁のない人向けの手口なのか。これも一切無視が最大の防御である。

 正真正銘の高齢者になった証のように、だまそうとする人は、続くのか。

Img516

| | コメント (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »